楠公史跡番外編:始の章では、楠木正成は登場しませんが、この「笠置山の戦い」のさ中に、後醍醐天皇は楠木正成なる人物の存在を知る事となります。
鎌倉時代後期の元弘元年(1331)、鎌倉幕府打倒を企てる後醍醐天皇側と、鎌倉幕府側との間で行われた「笠置山の戦い」の舞台となった山城国笠置山。玄関口でもある笠置駅前では、「笠置山の戦い」を再現した人形が訪問者を出迎えてくれます。
巨岩を敵に投げつけようとしているのは般若寺の僧『本性房』
弓で戦う武将は『足助重範(あすけ しげのり)』。愛知県豊田市足助に鎮座される「足助神社」の御祭神として祀られています。
『足助重範』の後方には後醍醐天皇の姿も見えます。
幕府方75,000の兵に対し、笠置山に立てこもった天皇側3000余の兵力。天然の要塞を地の利として善戦はしたものの、幕府側による山への放火で天皇側は総崩れとなり、笠置山はついに陥落。
側近達と共に幕府側に捕えられた天皇は、隠岐の島へ配流となります。しかしこの頃、後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村(円心)ら反幕勢力は、後醍醐天皇の呼びかけに答え、各地で討幕の活動をしていました。翌元弘3年、天皇は隠岐の島を脱出。楠木正成や、その後幕府から離反した足利尊氏、新田義貞らとともに幕府を滅亡させることに成功します。その後の経過は、楠公史跡で紹介したように、尊氏の再びの離反により、建武の新政はわずか三年で幕を閉じることとなりました。
「笠置元弘の乱絵巻」
「後醍醐帝笠置山皇居霊夢之圖:尾形月耕」
「後醍醐天皇は笠置寺に行在所を設けたが、自身の周りに名のある武将が少ない事に不安に感じていた。ある夜、思い悩んで寝ているとき、不思議な夢を見た。庭に南向きに枝が伸びた大きな木があり、その下には官人が位の順に座っている。南に設けられた上座にはまだ誰も座っておらず、その席は誰のために設けられたものなのかと疑問に思っていた。すると童子が来てその席はあなたのために設けられたものだと言って空に上って行ってしまった。夢から覚めて、天皇は夢の意味を考えながら「木」に「南」と書くと「楠」という字になることに気付き、寺の衆徒にこの近辺に楠という武士はいるかと尋ねたところ、河内国石川郡金剛山に楠正成という者がいるというので、急遽正成を笠置山に呼び寄せたという。」太平記3巻より
ここまで来たのだから後醍醐天皇の行在所遺址まで行きたかったのですが、笠置山山上と言う事であっさりと断念(^^;) 脛に傷はありませんが(笑)足に悩みを持つ身・・笠置駅前に鎮座されていた「栗栖天満宮」も、見上げた石段にため息をつきつつ、鳥居前からの参拝です。
訪問日:2015年9月5日