車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

延明院・西念寺の鏝絵 in 島根県大田市温泉津町

2018年04月30日 08時00分00秒 | 日本の伝統・芸能・技の美

大田市温泉津町小浜、後方に広がる山肌に抱かれるようにひっそりと門を構える真言宗醍醐派寺院延明院」『大日如来』を本尊とします。

この本堂の妻壁に、作者は不明ですが明治時代に作られという「龍」の鏝絵があります。 残念ながら、風雨を直接受ける場所にあるため、鏝絵の下部は欠損、荒壁が剥き出しとなっていました。

それでも、鋭い爪や波間に見え隠れする体、見上げればまっすぐ見返す目など、迫力は満点。 この龍を見たのは2011年5月のこと・・・・龍は今も無事でしょうか。

------------------------00----------------------

続いて大田市温泉津町温泉津、細い路地を抜けた先に門を構える浄土宗寺院「龍燈山 接揚院 西念寺」。石見霊場 第30番札所 。『阿弥陀如来』を本尊とします。

西念寺:妻壁の鏝絵。 立つ場所に余裕が無く写せたのは妻壁の部分のみ。意識して見なければ鏝絵の存在に気付かなかったかも知れません。

白漆喰の塗籠で蟇股(かえるまた)の模様を表し、その下に流れるような蓮華唐草。作者は、国会議事堂の鏝絵なども手がけた人物という事で、製作は明治十六年(1883)。そこまで判明していながら、左官の名は不明。

本堂の画像が無いので貫彫刻の獏と獅子。目に嵌めこまれた玉の所為か、いずれも非常に優しい顔立ちです。

境内の一画に建立されていた「流芳千古(りゅうほうせんこ)」碑。「美名を後世に残す」という意味のようです。

訪問日:2011年5月15日15日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安楽寺の鏝絵 in 島根県大田市温泉津町

2018年04月29日 08時00分00秒 | 日本の伝統・芸能・技の美

大田市温泉津町小浜に門を構える、浄土真宗本願寺派寺院「安楽寺」『阿弥陀如来』を本尊とします。こちらには、石見の鏝絵を尋ねる人なら誰もが知っていると言う、とても有名な龍の鏝絵があります。

妻壁の部分一杯に描かれた龍。「石州左官:山本庄吉』明治22年の作で、島根を代表する鏝絵と云われています。

薄水色を背景に、金色の彩雲、逆巻く白波。その中に浮かび上がる白龍の口中は火のような赤。 

で、更に近づけると・・・物凄い形相のはずが、意外とかわいらしい顔立ち(^^;)

龍と言えば「宝珠」「宝玉」は必須アイテムですが、安楽寺の龍は、尾の先に宝剣を巻きつけています。 宝剣といえば、八岐大蛇の尾から出てきた「草薙の剣」が有名ですが、大蛇でないのは一目瞭然。してみるとこの龍は不動明王の化身「倶利伽羅竜王」?? そうなると剣が小さすぎるかも・・

さて、鏝絵はこれで終わりですが、安楽寺には「昭和の妙好人・才市」の石碑があります。 と言っても、そもそも「妙好人(みょうこうにん)」って何?という話で(-_-;) ブリタニカさんによれば、「人間のなかで最もすぐれた最上至高の人を意味し、特に真宗の篤信者をさす。」と、分かったような、分からないような・・まぁ、その妙好人である彼の言葉が刻まれた碑。

「かぜをひけば せきがでる さいちがごほうぎのかぜをひいた ねんぶつのせきがでるでる」
・・・・・・ごめんなさい!私、風邪をひいて咳が出ると言うことしか、わかりませんでした(^^;) 
浄土真宗本願寺のHPで調べた所「本願念仏に出遇って、意図しなくても風邪をひいた時の咳のように、お念仏があふれ出ることを喜ばれた。」という事のようです。

『才市さん』の肖像画には頭に二本の角が生えています。これは角の生えた鬼のような姿そのままでも、阿弥陀如来の功徳によって救われるという「ご信心」の姿を表したものといわれています。

訪問日:2011年5月15日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

厳島神社 in 島根県大田市温泉津町

2018年04月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

大田市温泉津町に鎮座される「厳島神社」。御祭神は『宗像三女神(市杵島姫命・田心姫命・瑞津姫命)』

一の鳥居から石段を登って奥に二の鳥居、その先にも更に急な石段が続いています。

由緒に「毛利元就が、氏神である宮島の厳島神社を分社したものと伝えられる。永禄十一年(1568)の建立とされ、神社創建の当時より、船の守り神として信仰を集めてきた。」
拝殿をつなぐ渡り殿の覆屋に隠れて、御本殿は屋根の一部分が僅かに見えるだけ。

一の鳥居前より神域を守護されるのは「1990年庚午10月吉日建立」、私たちよりずっと年若い出雲型の狛犬さん一対。 黒いどんぐり目が愛嬌一杯で、思わずつられ笑いしそうな表情。

境内の一画に鎮座される摂社。台座上には、後期石見系構え型の狛犬さんが神域を守護されています。顔の一つ一つの造作が大きく、妙なアンバランスさですが、それがまた何とも言い難い味わい深さ。

極太の注連縄に飾りの様に下げられた大きな垂(たれ)。石見の神社で稀に目にしますが、実に豪快な形状(^▽^)/ 。・・と、問題はそこじゃなく、この拝殿内には「石州左官:三島健治』が奉納した「波うさぎ」の鏝絵額があると言う事でとても楽しみにしていたのに・・・実はお祭りの日にしか見る事が出来ませんって・・(ノ_-。)

とはいえ、こればかりはどうしようもない事。きっと下調べが不十分だった私たちの責任。 鏝絵は拝見できませんでしたが、拝殿額は見事な龍の彫刻。それをもって良しとしなければ。

御本殿向かって右隣に鎮座される「衣替神社」。御祭神は『素戔男尊』。社殿の横に見える岩は「衣掛け岩」と呼ばれ、「蜷(にな=巻貝)・蛭(ヒル)」にまつわる何やら怪しげな(笑)伝説が残されているそうです。

今回は空振りとなりましたが、温泉津地区にはまだ素晴らし鏝絵が残されており、明日から暫く「温泉津の鏝絵」巡りです。

参拝日:2011年5月15日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

敬願寺の鏝絵 in 島根県大田市温泉津町

2018年04月27日 08時00分00秒 | 日本の伝統・芸能・技の美

技術と研究熱心さに秀でていた石見出身の左官職人、彼らは「石州左官」と呼ばれ、 明治、大正、昭和の時代をまたぎ、出稼ぎのため全国に散らばり活躍してきました。石州左官が手掛けた代表的なものとして、国会議事堂や皇居の東宮御所などが有ります。その卓越した技術で日本近代建築の多くに携わり、100年を越えた今も多くの人を魅了し続けています。そんな石州左官の鏝絵が、故郷・温泉津に何点か残されていると聞き、訪ねる事に。

大田市温泉津町吉浦に門を構える、浄土真宗・本願寺派寺院「敬願寺」『阿弥陀如来』を本尊とします。

お目当ての鏝絵は境内を入ってすぐ、右手に建つ経蔵扉の上。昭和初期の製作と云われ、作者は石州左官『槙坂治義』。経蔵正面には炎を吐く龍の姿が鮮やかに再現されています。

鏝絵を守るためと思われますが、全体に極薄の網が掛けられている為、しっかり近づかないとよく見えません。その代わり剥落もなく、室外と言う条件にも拘らず非常に良好な状態で保存されています。

龍の顔の部分をズームで・・・鋭い眼光の中には歓喜の光が満ち、真っ赤な炎を吐く龍の口元には、確かに高らかな勝利の笑いが。

龍の胴体の部分をズームしていくと、その歓喜の意味が理解できました。鋭い爪を食い込ませるようにして龍が掴んでいるのは「碧玉(へきぎょく)」。それは龍王が天翔ける為に必要とする最大の宝「宝珠」なのです。

もう一度、歓喜の龍の顔をUPで(*´꒳`*ノノ゙

本堂の貫から私たちを見守るように見下ろす、穏やかなお顔の獅子と獏。

こちらのお寺は道路とほぼ平行に走る線路の向こうに位置しており、たどり着くまでに二度も迷ってしまいました。それでも諦めず、しつこくウロウロした甲斐あって無事に到着。ご亭主殿、大満足でポーズ(笑)

明日は、温泉津湾の最も深い入海に面した、温泉津小浜の町並に残るいくつかの鏝絵を紹介します。

訪問日:2011年5月15日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール in 島根県旧温泉津町(大田市)

2018年04月26日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・島根県

旧邇摩郡温泉津町(ゆのつちょう)島根県の中央部に位置し、日本海に面した町です。町名は温泉のある港という意味で難読地名の一つ。石見銀山の積み出し港として栄え、また北前船の風待ち港としての重要な拠点であった温泉津沖泊。今も温泉津沖泊の集落には、当時の繁栄を物語るさまざまなモノたちが静かに歴史を伝えています。「町の木:ケヤキ」「町の花:水仙」を制定。

「温泉津:元湯温泉」

明治22年(1889)、町村制の施行により邇摩郡温泉津村・井田村・福波村・湯里村が発足。

1903年、温泉津村が町制を施行、邇摩郡温泉津町となる。

1954年、邇摩郡井田村、福波村、湯里村と合併、改めて温泉津町が発足。

2005年、大田市・仁摩町と合併、大田市温泉津となりました。

マンホールには、日本海の荒波をわけて進む「北前舟」が描かれています。

昭和29年年(1954)7月3日制定の町章は「「ゆ」を輪上にして図案化したもの」

温泉津湾の岸壁には、寄港した船の艫綱を結ぶために、岩礁に穴をあけた鼻ぐり岩が多く見られたと伝えられる。

撮影日:2011年5月15日&2013年5月23日

明日は旧温泉津町域に残された、石州左官の「鏝絵」を紹介します。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羅漢寺・観世音寺・勝源寺 in 島根県大田市大森

2018年04月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

国指定登録文化財「羅漢寺・五百羅漢」。高野山真言宗寺院「石室山 羅漢寺」『阿弥陀如来』を本尊とします。大森町三百水の地、眼前に広がる山肌にこの石窟が出来上がったのは明和3年(1766)3月。

福光石で作られた反り橋の先、中央の石窟には『釈迦三尊』。左の石窟には『阿難尊者(あーなんだそんじゃ)』を中心に251体の羅漢像。右の石窟には『木蓮尊者(もくれんそんじゃ)』を中心に、250体の羅漢像が安置されます。

厳しい環境の銀山で働く人たちの寿命は短く、30歳まで生存できれば祝いの膳が供されたと云うほどに・・

これらの羅漢像は、銀山で亡くなった人々を供養する為、石見銀山御料内の福光村石工「坪内平七一門」が二十余年の歳月を費やし完成させました。250年近くの歳月を超えて、今もなお様々な表情、思い思いの仕草で羅漢に会いに来る者を優しく迎えてくれます。

五百体の羅漢像が安置される石窟・・・羅漢寺はこの五百羅漢を護るために建立されました。 石窟の前を流れる銀山川の支流、そこに架かる返り橋、すべてが当時のまま、今に至っています。

日本を代表する鉱山遺跡として、昭和44年に国によって史跡に指定された「石見銀山遺跡」。2007年7月2日には、ユネスコの世界遺産にも登録されました。個人的にはユネスコの世界遺産は全くどうでもよいと思っているのですが(笑)、それによって大森の町は一躍有名になり、世界各国から多くの人が訪れるようになりました。大森の町を貫く通り沿いの岩盤の上に、世界遺産の町並みを一望できる「観世音寺」があります。

創建は不詳、寛政12年(1800)の大火で類焼し、その後再建され今に至っているとか。 江戸時代には石見銀山の大盛を祈願する寺とされていたそうで、上段には本堂、山門、鐘楼が残されています。

石段の上り口には、鉱山で目を傷めた人の祈願所でもあった一畑薬師を安置。石段の急な高さに躊躇しましたが、ここまで来て引き返すのは何とも悔しいではないですか(笑)

と言うことで、お薬師様への参拝をすませ、ご亭主殿の手を借りて上まで。石州瓦の赤が五月の空の下で輝くさまは、まさに日本人の美意識を目覚めさせるに十分。

町歩きの途中で見かけた立派な山門は、石見銀山史跡「勝源寺」大久保石見守長安と、竹村丹後守道清が大旦那となって、1601年に建立。当時、石見銀山は「天領」と呼ばれ、幕府から任ぜられた奉行・代官の下、一大産業都市として栄えていました。勝源寺は、そんな奉行・代官の菩提寺として、また石見銀山の天領の象徴として、長く親しまれてきました。

この寺の四脚門に龍の彫刻があり、それ自体は特に珍しいことでも何でもありません。ところがこの龍、毎夜水を飲みに抜け出すと言うのですから、何とも奇怪至極。

困り果てた村人たちは、龍の目に竹釘を打ちつけて、動けないようにしたと伝えられています。目に竹釘って・・・せめて足とか(-"-)

阿吽の獅子はビックリするほど現代的な顔立ち。カードゲームにでも出てきそうな親しみやすいキャラ顔(^^♪

それにしても四脚門の貫から境内を見下ろす獅子の、何とも人相・・否、獅子相の悪いこと(^^;) むき出した歯はガチガチと歯噛みの音を立て、今にも何かに襲い掛かろうとしているみたい。

苦虫をかみつぶしたような・・とは、まさにこんな表情を言うんですね。

境内には、勝源寺の大旦那となった「石見銀山奉行・竹村丹後守道清の墓所」があります。家康の信任も厚く、世界の銀産出量三分の一を占めていた石見銀山で二十二年も奉行を務め、江戸幕府の財源を守ってきた竹村丹後守。今、五月の緑の中に眠るかの人は何を想うのでしょうか。

訪問日:2013年5月23日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

重伝建地区:大森の町並み~Ⅱ~ in 島根県大田市

2018年04月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

銀山の町として栄えた大森地区を歩いていると、思わず足を止めさせる佇まいを見つけ、ついつい先に進むことを忘れそうになります。まぁ、これは大森に限った事ではないのですが(-_-;)

「史跡:豊栄(とよさか)神社境内跡地」

跡地ですがちゃんと鳥居も建立され、『毛利元就公』が御祭神として祀られています。

元々は元就公によって開基された「曹洞宗寺院:長安寺」でしたが、明治初期に廃寺となり、「豊栄神社」となりました。

当然ですが、境内を守護される狛犬さんもおいでになります(*´꒳`*ノノ゙

参拝を終えて歩き始めた矢先、偶然見かけた「安養寺」の経蔵。何と!ここにも鏝絵の龍が(〃∇〃)。

彩色された龍は、手中の宝珠の感触が嬉しくて極上の笑顔・・って、龍って笑うの??

石見銀山に来て「龍源寺間歩」に行かないなんて、東京見物で東京タワーを見ないようなもの(例えが古っ!!)。でもそこまで行くにはかなりの距離だし、行ったとしても私の足では入坑は無理。折角ここまで来て、銀山・鉱山関連の遺跡を一つも見ないと言うのも如何なものか・・(笑)と言う事で駐車所への帰り道にある「清水谷精錬所跡」に寄ってみる事に。

「清水谷精錬所」が作られたのは明治19年。それから僅か10年後の明治29年に操業停止。 鉱石の品質が予想より悪かった事、また設備の銀の製錬能力が無かった事などが理由だったそうです。

夏草の生い茂るに任せた石組みの精錬所跡・・・沢山の観光客で賑わう大森の町並みも、ここに足を運ぶ人は少なく、在りし日に思いを馳せるには充分すぎる一時を過ごせました。

柔らかな日差しが差し込む林、かって「龍昌寺」があった道の傍らには「銀山大盛祈願道場碑」。碑は、銀山採掘の実が上がる1年になるように祈願した三つの寺社の一つがあった事を示すものです。

銀山川の歩道から石段を登った先にある「大安寺跡」「史跡:石見銀山遺跡:大久保石見守墓」

大安寺は、初代の石見銀山奉行であった大久保長安によって浄土宗の菩提寺として1605年に建てられたお寺です。昭和18年(1943)まで現存していましたが、大洪水や度重なる山崩れによって建物は破壊。今では長安の墓を含む墓地の一部だけが残されています。

大森の町歩きは、石見銀山公園駐車場のモニュメントで終了。この後一足伸ばして・・

「石見銀山世界遺産センター」では、石見銀山の歴史や、当時の暮らし、鉱山技術などを目で見て学ぶコーナーがあり、興味深く石見の歴史を知る場となっています。見学を終えたら、巨大な大判を手に記念写真!(^^)!

訪問日:2013年5月23日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西性寺(さいしょうじ)の鏝絵 in 島根県大田市

2018年04月24日 08時00分00秒 | 日本の伝統・芸能・技の美

大森の風情ある町並みから銀山川沿いに入ってしばらく先、大田市大森町イに門を構える「浄土真宗寺院:西性寺(さいしょうじ)」。寛正六年(1465)の創建と伝えられる古刹で、大永四年(1524)に天台宗から浄土真宗に改宗。現在の本堂は元文四年(1739)に再建されたもので、この境内最古の建物です。

山号額の上、屋根天井を支える梁の部分には雌雄の・・これは何でしょうか?長い角を持つ霊獣は鹿に似ているけれど牙を持つ・・ああ、麒麟獅子かもしれない。対となる雌には角が無く顔立ちも穏やか。

西性寺への参拝を済ませたら・・・二年越しの願いを叶えるべく「経蔵」へ。

経蔵には、鏝絵の名人といわれた「左官の神様」『松浦栄吉』が大正七年(1918)60歳の時に制作した「鳳凰(ほうおう)・大輪の牡丹・菊」の花が描かれています。

県下随一の作品と言われる「鳳凰」。その羽の一枚一枚に不死の煌きと強さが溢れ、今にも壁の中から舞い上がるのではないかと思える程、それは何時間見ても見飽きない凄さ。

とかく「鳳凰」だけがクローズアップされがちですが、側面の「牡丹」も見事で、百花の王と讃えられる艶やかさで咲き誇っています。

古来より日本を代表する花の一つとされる菊花

持ち送りにも牡丹と菊花

満開に咲き誇る牡丹、もしかしたら夜毎にその馥郁たる香りを運んでいるのかもしれません。誰の元へ運んでいるのかって?・・・ここは『松浦栄吉』の菩提寺なのですよ(*^^*)

二年の歳月を経てやっと望みが叶い、直にこの目で見る事が出来た『松浦栄吉』の鏝絵。気持ちに納得出来たのか、それ以外の場所にも目を向ける余裕が生まれました(^^;) 本堂蟇股に見つけた「経典を房つきの組紐で束ねた彫刻」、個人的にはとても好みです。

訪問日:2013年5月23日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

城上(きがみ)神社 in 島根県大田市大森

2018年04月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

大田市大森町に鎮座される「城上(きがみ)神社」。御祭神は『大物主命』。『武甕槌命(たけいかづちのみこと)・齋主命(いわいぬしのみこと)・天兒屋根命(あまのこやねのみこと)を合祀。石見銀山の栄山を願う大森の氏神として崇敬を集めています。

境内案内に【永享6年(1434)、大内氏によって仁摩町馬路の高山から大森町愛宕山に遷座され、天正5年(1577)に毛利氏により現在の位置に遷座されました。その後に起こった寛政の大火により社殿は類焼、文化9年(1812)4月に現在の拝殿が再建されました。】

拝殿は、江戸の「亀井戸天満宮」を手本とした入母屋造り重層式で、島根県指定有形文化財。 二重になった屋根の造りは神社の拝殿としては珍しく、またそれ以上に凛として美しい佇まい。

拝殿前左右より神域を守護されるのは「文久二年(1862)壬戌三月吉日建立」。幼い子供のような、やんちゃな顔立ちの狛犬さん一対。 太ましく短い四肢が親近感を抱かせることは置いといて(笑)、阿吽ともに愛すべき顔立ち。

さて、こちらの神社の拝殿内では、ある素晴らしい「もの」が見聞きできると言うのです。前回は時間的な事もあって諦めましたが、今回は真昼の日差しが拝殿内に差し込んで心地よく気分も上々。まずは拝殿内の指定位置に座して天井を見上げると極彩色の「鳴き龍」!!龍を描いたのは、三瓶山麓の絵師で『梶谷円林斉守休(かじたにえんりんさいもりやす)』。寛政の大火後の文化15 年(1818)、社殿再建の際に火防と更なる栄山を願ってと言われています。

この龍の真下で手を叩くと、文字にし難い、透き通ったような、不思議な音が聞こえます。力のない私の柏手では今ひとつ頼りない音でしたが、ご亭主殿の柏手に応えたのは、ああ・・・それはまさしく龍の声

龍の左右の格天井には、升目の一つずつに色鮮やかな家紋。これらの家紋は神社の建築に寄与した家々の紋だそうです。

境内には、市指定文化財で、樹齢約300年と伝えられる「御神木・相生の松」があります。 黒松と赤松の根元が一体となった珍しい松で、相和す「相生の松」と尊ばれてきました。が、いつしか一方は枯れてしまい、残った一方だけが、消えてしまった相手を探すように長く背伸びして・・・

境内の何箇所かにはいくつかの摂社や境内社が奉られていましたが、画像は二社のみ。朱塗りの鳥居は「稲荷社」。柔和な顔立ちの一対の神狐が神域を守護されています。

「境内社」2社。

最後は、由来書がなければ単なる「大きな石」ですが、不思議な伝説に包まれた「城上神社の亀石」。その不思議な伝説は「亀石の伝説・城上神社」で検索いただければ、詳細な内容が見つけられます(*^^*)

訪問日:2011年5月15日&2013年5月23日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

重伝建地区:大森の町並み~Ⅰ~ in 島根県大田市

2018年04月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎え、日本最大の銀山として世界に知られた「石見銀山」。「大森銀山」「佐摩銀山」とも呼ばれ、その最盛期には、世界の銀の三分の一を産出したと言います。

銀山川沿いの通りには、当時の面影を残す武家屋敷や代官所跡、豪商の住宅などが残されており、昭和62年に重要伝統的建造物群保存地区( 鉱山町)として選定。この美しい町を歩いてみたく、2011年&2013年の二度に渡っての来訪です、

大森代官所前」の駐車場、最初に目にしたのは高さ2mの岩盤の上にある「西南之役戦死者紀念碑」。紀念碑は当時の島根県知事籠手田安定の提唱によって明治十年に建立。

きっと明るい時間帯なら沢山の人で賑わう筈の「食事処おおもり会館」もひっそりと静まり返り、「天領のうた」の碑だけが私たちに愛想を振りまいてくれます。

最初の訪問は、もうすぐ日が暮れようという時間。通りには観光客の姿も無く、家々も表戸を閉ざしています。 人気のない通りは、迫り来る夕闇に自ら溶け込むようにひっそりと、ただ優しく、ただ静か。それはそれで風情がありますが、街歩きを楽しむにはあまりにも不適切な時間帯だったと反省(-_-;)

二度目に再びこの地を訪ねたのは、前の訪問で行けなかった幾つかの場所に行く為もありましたが、何よりも人の気配のする町の空気を味わいたかったから・・・いくら人混みが苦手と言っても、モノには限度と言うものが有ります(-_-;)

大森の町並みの中で、いつも多くの観光客の撮影スポットになっている橋の写真、二枚並べてみました。 一枚はもうすぐ夕闇に包まれる直前の僅かな日差しの下。

もう一枚は、真昼の陽光の下。橋の下がこんな石造りのアーチになっていたこと、二度目で初めて知りました (゚o゚*)

微妙なカーブを描いて伸びる道の両脇にたたずむ家々、その佇まいは2年の歳月を経ても変わりません。 人が多すぎるのは苦手ですが、それでも賑やかに活気付く観光地の風景はやっぱり良い!・・と言いつつ、何故か人気の少ない場所を選んでいる私たち、こんなに素敵な町並みなのに・・人の姿がありません(笑)

二年の歳月を飛び越え、ごちゃ混ぜの画像で紹介する大森の町歩き。白漆喰の建物は「旧大森区裁判所」。現在は「町並み交流センター」として活用されています。

「大森代官所跡」には文化12年(1815)に再建された門長屋があり、内側には門番詰所や仮牢などが残されています。19時前にも関わらず門が開いていたので、門の内側と建物の外観を見ることが出来ました。

古い道標・・文字が読み取れない(-_-;)

敷地中央の建物は明治35年に建てられた「旧邇摩郡役所」。今は「石見銀山資料館」として、鉱山道具や、鉱山に関する古文書、奉行や代官の遺品などが展示されているそうです。

我が家の画像には珍しく(笑)、観光客の姿がある重要文化財「熊谷家住宅」。 この大森の地において鉱山業の他、酒造業、金融業、代官所の御用商人などを務めた熊谷家。その広大な建物は、石見銀山御料における有力商人の、生活の変遷を如実に伝えています。

街歩きの途中で、かなり珍しい建物を発見。今では博物館くらいでしかお目にかかれない理容室の風景が整然と残された店内。何とこちらのお店、現役の理容室なんですよ。

お店の入り口横に設置された碑には「理容遺産認定第一号-四 石見銀山理容館 アラタ 全国理容連合会」と刻まれています。

道路上に設置されたちょっと渋い観光マップは「代官所跡」から「龍源寺間歩」までのコースと、現在地を示しています。 町歩きの観光ポイントごとに姿を現し、今どこにいるのか、目指す場所は何処なのかを教えてくれます。

訪問日:2011年5月15日&2013年5月23日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする