車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

津島神社門前町の街並み~其の二 in 愛知県津島市

2018年08月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

昨日に続いて津島神社門前町歩きは、2011年の訪問時のみの画像。まずは津島市南門前町1丁目に建つ国重要文化財「堀田家住宅」。心惹かれますが時間配分の都合で外観のみ。

細い路地を抜けた先に、津島市上河原町に鎮座される「清正公社」。加藤清正が幼少の頃に母と共に身を寄せた縁の地だそうで、その縁から叔父の家があったと伝わる地に加藤清正の徳を偲んで、明治18年に社と碑が建立されました。

津島市本町1丁目まで歩いて、津島市観光交流センターに隣接する「麹屋」。昔懐かしい町家の風情をそのまま残した建物に思わず足が止まります。

津島市本町3丁目に店を構える「長珍酒造株式会社」。「末長く、美味しく珍重される酒でありたい」という願いから名付けられた社名。このあたりの建物はどれを見ても心惹かれる佇まいが多く中々先に勧めません(-_-;)

何だかんだで引っ張りまくった「津島神社」のブログ、何とか最終章まで来ました(笑)。ラストは2011年に訪ねた津島天王川公園で開催中の「尾張津島藤まつり」から。

「かつて津島市は「藤浪の里」といわれたほどの藤の名所。その名残を今に伝えるのが、毎年4月中旬から5月上旬にかけて行われる「尾張津島藤まつり」です。会場となる天王川公園には、長さ275m、面積約5,034平方メートルの見事な藤棚があります。」公式HPより

昭和53年から造成され昭和58年に完成した「日本最大の藤棚」。残念ながら、まだ「空から花が降ってくる」ほど満開でありませんが、それでも盛りの時期には見事な眺めであることは容易に想像できます。

藤棚はまだこれからですが、園内には見事な藤の巨木が、それこそ花の雨を降らせています。 藤色という名前を考案するほど、古来より日本人に愛された藤の花、本当に可憐でたおやか。

予想外に低い位置に枝があり、こんな風に接写も出来ます。

山藤から改良された「白甲比丹藤」。 花房は小ぶりですが、形よくまとまった花の姿は、まだあどけない童の風情。

公園内に建立されていた「片岡春吉顕著碑」。毛織物の父と言われた人物で、セル織物の生産に成功。明治43年実業功労者として『豊田佐吉』らと共に『明治天皇』よりお褒めの言葉をいただきました。

藤棚見物の途中から生憎の雨になり、ゆっくりと美しい花をめでる事は出来ませんでしたが、それも風情と想えばまた良し。雨に濡れた天王川の景色を三年後にもう一度見る事になろうとは・・この時にはまだ想像もしていませんでした

訪問日:2011年4月25日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

津島神社門前町~其の一 in 愛知県津島市

2018年08月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

津島の町歩き、まずは津島市観光交流センター「まつりの館 津島屋」から。 登録文化財の建物は『復興式』と呼ばれる様式で、昭和4年に名古屋銀行として建築。その後「東海銀行津島支店」「津島信用金庫本店」を経て、津島市観光交流センターとして活躍しています

館内には「津島天王祭」の薪藁舟に使われる提灯の、原寸大の模型が飾られています。 提灯の灯りは、記念写真を撮る私たちの為に、係りの方がわざわざ点灯して下さったもの。本物の炎の揺らめきには及びませんが、それでも充分に美しい景色です。

では改めて門前町の町歩き、大正9年(1920)に開設された「津島神社」とは切っても切れない「天王川公園」の根元「車河戸」から。

津島天王祭の宵祭では薪藁舟が池の水面に幽玄の炎を映し、朝祭りでは車楽船が華麗な能人形の影を落として通り過ぎた水路。

公園中央の丸池は、かつて町の中を流れていた天王川の名残りとして知られ、津島天王祭の朝祭では鉾持がこの池を泳ぎ渡ります。

津島市津島市舟戸町、瑞泉寺の土塀の途中に見かけた「車屋の稚児門」。「津島天王祭」の稚児が祭りに出立する際に使われます。

津島市本町1丁目の一画にある「上切の井戸」。案内に【古書によれば、津島天王祭の船や屋台を連結するのに使用するわら縄を編む際の打ち水に使用したとの記録もある。】

門前町で見かけた道標「左 津島神社参宮道」

2017年に参拝した津島神社の元神宮寺、真言宗智山派「牛頭山・宝寿院(ほうじゅいん)」『薬師如来像』を本尊とします。「海東西新四国八十八ヶ所 62番」「尾西七福神 毘沙門天」札所。

寺伝によれば、弘仁9年(818)にこの地を訪れた空海が、蔓延する疫病に苦しむ人々のために「津島牛頭天王社」の隣に堂を設けて『薬師如来像』を奉って祈祷したものが始まりとされています。

津島市天王通3丁目、津島神社とは無縁ですが、津島市指定有形民俗文化財「円空作・木造彫刻千体仏」が収められている「地蔵堂」。該当する千体仏像は、旧暦地蔵盆の日にだけ開帳されるそうで、津島文化遺産のページに仔細と写真を添えて紹介されています。 

お堂の中に祀られていた木彫りの仏たち。円空さんの全作品を見たわけではないのでハッキリ違うとは言い切れないのですが、でもやっぱり別の場所に居られた地蔵様たちだろうと思います。

訪問日:2011年4月25日&2014年7月27日&2017年3月28日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

津島(つしま)神社~其の三 in 愛知県津島市神明町

2018年08月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

津島神社紹介三日目に入りました(^^;) 南門の向かって左手には「照魂社(てるたましゃ)」。戦没者の御魂1,170柱が祀られています。

昭和26年、御垣内に津島出身の英霊を祀る祖霊社を建立。昭和29年に現地に移されました。 

境内には忠魂碑なども建立されており、濃い緑の葉陰が、英霊の御魂を涼やかにお護りしています。

忠魂碑と荒鷲の碑

「照魂社」に並んで鎮座される元、神主『氷室家』の邸内社三社。鳥居の奥に「菅原神社」。御祭神は『菅原道真公』

京都北野天満宮より勧請。正保年間に創立されたと伝えられます。

脇障子は片面だけですが、梅の木の下で物思う道真公の彫刻。

迫力があり過ぎる貫の獏と獅子

「菅原神社」の側には「三つ石(市指定文化財)」が囲いの中で巴状に配置されています。案内板に【この石についての伝承は特に無いが、欽明天王元年(540)に居森の地に鎮座と伝えられており、三つ石が居森の一角にあることから、古代の祭礼の場である「磐座(いわくら)」と関係があるかもしれない。】

「祖霊社(それいしゃ)」、御祭神は『氷室家の祖霊』

「祖霊社」の近くに鎮座される「稲荷社」。御祭神は『宇迦之御魂神』

向背彫刻は三宝の玉を見守る神狐さん。

脇障子には収穫された稲穂を寿ぎ、日月を見守る阿吽の神狐さん。

御神木「大銀杏」の左手に建立されていた『与謝野晶子』歌碑。

【 二もとの 銀杏を於きて自らは 紅き津しまの 神の楼門 】

参拝日:2011年4月25日&2014年7月27日&2017年3月28日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

津島(つしま)神社~其の二 in 愛知県津島市神明町

2018年08月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

二日目の今日は、「楼門(国重要文化財)」に面した鳥居から、境内のあれこれを紹介します。

鳥居を潜り、神橋を渡って・・・と書くと、一般的にはこちらが神社正面のように感じますね。明治以前、天王川が川であった時、現在の馬場町の大銀杏付近に御旅所があり、江戸時代まではこの門より神輿御幸が行われていた為、神橋を構えて正門の如く設えたようです。

三間一戸・入母屋造・檜皮葺の「楼門」は、天正19年(1591)『豊臣秀吉』の寄進。 佇まいの華麗さに惹かれてか、私たちも含め、この場所で記念写真を撮る人がひっきりなしに入れ替わっていきます。

楼門をくぐり、境内に鎮座される『須佐之男命』に関わり深い境内社の紹介。 一間流造・銅板葺で、寛文13年(1673)再建の「摂社:弥五郎殿社(やごろうでんしゃ)(県重要文化財)」。「津島神社の社家『紀姓(きうじ)』の姓祖:『武内宿祢』を祀る。南北朝時代、南朝の忠臣楠正行と共に四条畷の戦(正平三年(1348))にて戦死した社家堀田一族の堀田弥五郎正泰が、生前当社を造替し、大原真守作の佩刀(津島神社社宝、国重要文化財)を寄進したことから弥五郎殿社と呼称されている。」

また一説には、『大穴牟遅命』を御祭神とする「式内社:國玉神社」とも伝えられます。拝殿横に「戸隠社(手力雄命)」が鎮座。

拝殿内には、鉄さび色の「神殿狛犬」さんが神域を守護されており、ご亭主殿、思いがけない出会いに小さくガッツポーズ(笑)改めて見ても不思議な味わいのある表情。

南門の参道の西脇に鎮座される「摂社:居森社」。御祭神は『須佐之男命幸御魂(さきみたま)』。社伝に「欽明天皇元年(540)に大神がこの地に始めて来臨され、神船を高津の湊の森に寄せて奉ると、蘇民将来の裔孫と云う老女が、霊鳩の託によって森の中に居え奉った事により「居森社」と云われる。」

木陰に隠れて目立ちませんが、鳥居の内側より神域を守護されるのは浪花タイプの狛犬さん一対。 吽形さんは右前足に子狛をつかまらせ、阿形さんは玉が転がらないように足で抑えながら参拝者を見つめています。

親狛に一生懸命しがみつきながら、それでも好奇心には勝てない仔狛さん。

一間流造・銅板葺の本殿は、『豊臣秀吉』の母『大政所』によって天正十九年(1591)に寄進されたものと云われています。
「居森社」の右には『須佐之男命和御魂(にぎみたま)』が祀られる「末社:疹社(はしかのやしろ)」。 左には『大日霎貴命(おおひるめむちのみこと)=(天照大神)』を祀る「大日霎(おおひるめ)社」

一間流造・銅板葺の「摂社:荒御魂社(あらみたまのやしろ)」『須佐之男命荒御魂(あらみたま)』を祀ります。 元和5年(1619)の建立とされており、元は八岐大蛇の霊を祀る「蛇毒神社」と称されていましが、もしかして八岐大蛇さん、ここでも須佐之男さんに負けましたか?(笑)

「摂社:柏樹社(かしわぎのやしろ)」には、『須佐之男命奇御魂(くしみたま)』が祀られます。神託により天平元年(757)に此処に移したと伝えられています。社の後に古柏樹一株が生えていた事から「柏宮」・「柏社」と称されていました。
    

向かって右側に鎮座される「摂社:和魂社(にぎみたまのやしろ)」、『須佐之男命和御魂』を祀ります。 元は蘇民将来を祀る「蘇民社」と称され、姥が森に鎮座されていたのを瑞垣内に移したと伝えます。

「津島神社」の境内には、『建速須佐之男命』を祀る「本社」、荒御霊を祀る「荒御霊社」、和御魂を祀る「和魂社」、奇御霊を祀る「柏樹社」、幸御霊を祀る「居森社」、和御霊を祀る「疹社」の六社が鎮座されています。これは「津島神社」の創建以来、御祭神である建速須佐之男命を祀った社をすべて残しているためで、こうした例は非常に珍しく、島根県でも数多くの神社に参拝しましたが、このような例は知りません。
続いて『須佐之男命』とは非常にゆかりの深い、二つの摂社・末社の紹介。一間流造・銅板葺の「摂社:八柱社」、本殿は寛文12年(1672)頃の建立とされ、『須佐之男命』の五男三女神が祀られます。寛文年間までは本殿相殿に祀られていました。

「境内末社・稲田社」には、『須佐之男命』の妻『櫛名田比売命(くしいなだひめのみこと)』が祀られます。

 ひろ~~~い「津島神社」の境内、摂社:末社の紹介はまだまだ終わりそうに無いので、続きは明日。

参拝日:2011年4月25日&2014年7月27日&2017年3月28日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

津島(つしま)神社~其の一 in 愛知県津島市

2018年07月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

津島市神明町に鎮座される「津島(つしま)神社」。社格は国幣小社で、全国に約3千社ある津島神社・天王社の総本社。その信仰は津島信仰と呼ばれます。 御祭神は『建速須佐之男命』、相殿に『大穴牟遅命(大国主)』を配祀。

社伝に【建速須佐之男命が半島から日本に渡ったときに、荒魂は出雲国に鎮まったが、和魂は孝霊天皇45年(紀元前245年)に一旦対馬(旧称 津島)に鎮まった後、欽明天皇元年(540年)旧暦6月1日、現在地近くに移り鎮まったと伝える。】

中世・近世を通じ「牛頭天王」を御祭神とした「津島牛頭天王社(津島天王社)」。境内にある建物の殆どが、国・県の重要文化財指定を受けています。

一の鳥居から真っ直ぐ進み、見上げる石段の先に建つのは檜皮葺・四脚門の「南門(県重要文化財)」。『豊臣秀頼』が父『秀吉』の病気平癒の為に、慶長3年(1598)に寄進と伝えられます。

「南門」の正面、境内を隠す位置には、切妻造・檜皮葺の「蕃塀(県重要文化財)」。「蕃塀」は「尾張造」の特色とされ、正面から大神様に邪気が当らないように造られたものです。

広い境内の正面には、切妻造妻入・檜皮葺の優美な姿を見せる「拝殿(県重要文化財)」。 建立年は不詳ですが、元和5年(1619)、寛永3年(1626)の修理記録の棟札などが残されています。

切妻造・檜皮葺の「回廊(県重要文化財)」は、文政8年(1825)の再建。

透かし塀越しには朱の色も鮮やかな三間社流造・檜皮葺の「本殿(国重要文化財)」。慶長10年(1605)に清州城主『松平忠吉公』の健康を祈願して、妻:政子の方が寄進。

 拝殿と本殿の間に、文政6年(1823)に再建された「祭文殿(県重要文化財)」が僅かに見えます。

このように「本殿(後)、祭文殿(中)、拝殿(前)」を回廊で繋いだ左右対称の建築様式を「尾張造(おわりづくり)」と呼び、尾張地方独特の様式とされています。 私が参拝した神社では、稲沢市に鎮座される「尾張大国霊神社」が、同じく「尾張造」の様式でした。


明日は国重要文化財の楼門と、境内にあまた鎮座される境内社の数々を紹介します。

参拝日:2011年4月25日&2014年7月27日&2017年3月28日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甘強(かんきょう)酒造株式会社 in 愛知県蟹江町

2018年04月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県蟹江町城4丁目、蟹江川沿いに本社を置く「甘強(かんきょう)酒造株式会社」。創業は文久2年(1862)、みりんや日本酒、焼酎の製造・販売を行う酒造会社です。

「初代『山田平八』が濃尾平野で収穫される豊富なもち米を原料とし、縦横にはしるクリークによる便利な舟運を利用してみりんの製造を始めたのが最初です。昭和29年(1954)には、清酒四天王の醸造を開始。現在でも、地元濃尾平野や国内産のお米を原料に、本物と呼ばれるみりんや日本酒を醸造しております。」公式HPより

屋号である甘強みりんに名称変更したのは、昭和10年(1935)。甘みや旨みの強い本物のみりんを造り続けるという想いから「甘強みりん」と命名されました。

道路側向かって右に昭和13年(1938)建設の、スクラッチタイル貼りの「事務所」。愛知県西部に残る数少ないRC造の建物です。堤防敷き(いわゆる土手)の斜面に建っており、住宅側から見ると3階建てで地下部分は倉庫。1階は事務所、2階は会議室と和室で、渡り廊下で住宅の2階につながっています。

住宅母屋は大正11年(1922)ごろに柱などの構造材、材料を蟹江川から運びこみ、数年かかって建設されたものです。突き当りの建物は明治38年(1905)ごろ新築された土蔵造の「味醂蔵」。右に工場の建物が見えます。

明治から昭和初期に建てられた同社の建物のうち、2005年に登録有形文化財に登録された「旧本社事務所・工場・住宅主屋・住宅土蔵」。生憎とこの事実を知ったのは車泊旅から帰宅して調べた結果。知っていれば車をどこかに置いて、もう少し丁寧に画像に残したのに・・。

訪問日:2017年3月27日

------------------------00----------------------

一言メモ

登録有形文化財とは・・ 貴重な建造物をより多く残すための制度。建築後50年を経過したもので1. 国の歴史的景観に寄与している。 2. 造形の規範となっている。 3. 再現することが容易でない 。この3つの基準を満たす建造物を国が指定するものを指す。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銭洗(ぜにあらい)尾張弁財天 富吉(とみよし)神社in蟹江町

2018年04月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県蟹江町城に鎮座される「銭洗(ぜにあらい)尾張弁財天 富吉(とみよし)神社」。御祭神は『富吉龍大神』。御側神『大松大神』

御神紋は龍の化身とも言われる弁才天に相応しく「波に三つ鱗紋」

由緒では「室町時代、永享年間北条平八郎時満が蟹江城を築くにあたり神のご加護を頂くため、鎌倉より銭洗弁天を勧請し、黄金の井戸銭洗いを造り、その浄水で軍資金を粗い、この福銭をもって蟹江城を築城したと伝えられています。昭和39年、海門寺大池を埋め立てることとなり、約400年ぶりに尾張弁財天富吉神社として祀られました。」蟹江町公式HPより

決して大きな規模の拝殿では有りませんが、日差しを受ける黄金の井戸、何本もの柄杓が並べられた銭洗い場。室町時代からの言い伝えで、この境内の銭洗いの池にて財宝を洗えば、福徳が授かり、また洗った小銭で商売をすると何倍にもなるとの言い伝えがあるとか。小市民の私たちもそれに倣ってみました。

神秘の中に鎮まられる祠の左右より神域を守護されるのは瀬戸焼きの狛犬さん一対。傍らの黄金の井戸には「瀬戸市 龍山窯 電光師 作」の札があるのですが、この狛犬さんが同じ方の作品で有るか否かは不明。それにしても良い意味で個性的で素晴らしい狛犬さんです。

  

銭洗いの水場近くに祀られている祠には、一抱えの石のようなものが鎮座されています。 どのような姿で鎮座されておいでなのか・・むやみに覗き込むのもはばかられて確認はしていません。

更に境内の一角には、信長亡き後の天正12年(1584)に、徳川家康と豊臣秀吉軍が戦った蟹江合戦の犠牲者を祀る「蟹江城主、先祖代々供養塔」が建立されています。

由緒碑の末尾に書かれた言葉です。「もうかるとは 信ずる者と掛けてもうかる   神を信じ 佛を信ずる者に授かった物が 儲かったである。」

参拝日:17年3月27日

------------------------00----------------------

御神名・他一口メモ

『大松大神』、京都伏見稲荷では、参道の一角に「お酒の神様」として祀られていますが、それ以上の詳細は不明。

「波に三つ鱗紋」、龍神の霊力という魔除けの力を表す。北条時政が江ノ島弁財天に子孫繁栄を祈願したとき、大蛇が神託を告げ、三枚の鱗を残して消えたことに由来するともいわれる。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白山神社 in 愛知県稲沢市奥田町

2018年03月30日 08時30分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県稲沢市奥田町に鎮座される「白山神社」。御祭神は『白山比咩神・伊弉諾尊・伊弉冉尊』

鳥居の奥に建つのは、木造銅板葺き連子窓型で両側に控え柱を持つ蕃塀。

境内に由緒は無く、創建年代などの詳細は不明。「寛文村々覚書」によれば、奥田村には「白山2社」「三拾番神」「社宮神」が有りとの記述があり、当社は、この白山2社のうちの1社と思われます。

拝殿前左右より神域を守護されるのは明治三十八年十月建立の狛犬さん一対。珍しく阿形さんの足元に落っこちかけてしがみ付く子狛がいます。

石工『荒木 弥助』 明治・大正・昭和の戦前まで、名古屋近郊に多くの狛犬を残した名工と伝えられている人物。特にここでは独特の尾の形状がに目が離せません。

摂社「忠霊社」。この地域の御英霊が鎮まられるお社です。

境内社「尾張子安社」。安産・虫封じ祈願の社とされ、春の大祭には子供獅子が繰り出されるそうです。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、岡崎現代型狛犬さん一対。

社殿前で大きく枝を広げる「御神木:楠」。昭和61年4月1日に保存樹に選定されました。

白山社に隣接する「奥田山:安楽寺」

留蓋から境内を見下ろす飾り瓦の獅子ですが・・・まるで固い甲羅に覆われたような体にクシャっと横長の顔。時々見かけるようになりましたが、個人的にはチョット(^^;)

おだやかなお地蔵様の笑顔に癒されて。

参拝日:2011年4月25日



 

 

 

 

 

 

です。明治十年五月建之の社号碑

 

参拝日:2011年4月25日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富士社 in 愛知県稲沢市片原一色町

2018年03月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県稲沢市片原一色町道上に鎮座される「村社:富士社」。御祭神は四神のいずれかと思われますが不明。

創建は不詳。建仁年間(1201~1203)、神社に隣接する「善應寺」が創建される際、寺の四方に四神を勧請したと伝えられ、この「富士社」もその一つと云う。

開放的な拝殿の近くに置かれていた鬼瓦には日本政府の紋章として使われている「五七桐紋」が刻まれています。もしかしてこれが御神紋でしょうか?

拝殿前左右より神域を守護されるのは大正十一年七月建立の岡崎型狛犬さん一対。吽形さんは子狛を、阿形さんは足の下に鞠を持ちます。

背伸びして吽形さんの手にしがみ付く仔狛。ぺたんと地面にくっつけたお尻がとにかく可愛い。子猫や子犬を家族にした方なら、この可愛さは絶対に伝わる筈(〃∇〃)

拝殿向拝の彫刻は、怒涛逆巻くを海原を翔る龍。

玉垣の内、御本殿前左右より神域を守護されるのは大正十四年十月建立の扁平頭の狛犬さん一対。小柄ですが中々に迫力ある顔立ち。

富士社に隣接して門を構える、浄土宗鎮西派寺院「旭照山:相頓院善應寺」『大日如来坐像』を御本尊とします。

「富士社」参拝の際、隣接していた寺院とのご縁で参拝させて頂いたお寺さん。その為、御本堂等の建築物は殆ど画像に残していません。

本堂の彫刻や、留め蓋の獅子はご亭主殿の興味をかなりそそったようで、何枚か残されています。確実とは断言できませんがおそらくは「羅漢様」かと・・

貫の獅子彫刻、目には玉が嵌めこまれています。

すっとぼけた表情が何とも言えない親しみを感じさせてくれる、飾り瓦の獅子さん。この「可愛らしさ」は確かに見過ごせませんね。

穏やかに優しいお顔のお地蔵様。

参拝日:2011年4月25日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善光寺東海別院 in 愛知県稲沢市祖父江町

2018年03月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県稲沢市祖父江町祖父江南川原に門を構える「善光寺東海別院」、正式には「双蓮山・善光寺」と称します。信州善光寺をはじめとする各地の善光寺との区別のため「祖父江善光寺」「尾張善光寺」とも呼ばれます。

縁起に【天正十年(1582)織田信長・信雄によって善光寺ご本尊如来さまが岐阜より尾張甚目寺へ御遷座の途中、祖父江付近に立ち寄られたとあり、その場所に明治四十二年・四十三年と蓮田であった境内地に1本の茎から二つの花が咲くという奇瑞を縁として、開基旭住上人が信州善光寺本坊大勧進より善光寺如来さまを勧請して善光寺東海別院を創立】

本堂は善光寺特有の撞木(しゅもく)造りで、間口14間・奥行20間の総欅造り。 信州善光寺の本堂の約3分の2の大きさだとか、という事は、長野の善光寺さんはこの建物より更に一回り大きいんですよね。いつかは果したい善光寺参り。その時は牛に曳かれてではなく、ご亭主殿に手を曳かれて(笑)

それから二年と五か月後の2013年9月22日、私たちは仲良く揃って「信州信濃の善光寺参り」を果たしました。そのお話は、いつかまた。

それはさて置き、観光バスの到着と共に「お戒壇巡り」のツアー客で一気に境内は人で溢れ、本堂周辺はかなりの混雑。人混みが大の苦手なご亭主殿、速攻で本堂から離れて「不動堂」へと移動。

こちらでは時々に応じて厄除けの祈祷なども行われるとか。堂内には「病気平癒」「無病息災」と墨書された蝋燭が用意されています。

戒壇巡りが終わるまでの時間を利用して境内を・・と思ったのですが、次の予定も押しているし、とりあえずは目についた処々にお参りをすることに。「忠魂碑」の前で・・尊い命の購いによって得られた今の日々に、心から感謝を。

何とも不思議な印象の「寝釈迦様」・・・なんだろう? これまで拝観したどの涅槃仏とも一線を画すお釈迦様。限りなくオリエント風味(笑)の原因は、多分とってもスマートで仏様らしからぬお顔のせいかも知れません。

「寄り添って おぼこ夫婦 船旅立ちへ」、いつか私たちもこうして彼岸に行ければと願い・・

「「おぼこさん」は信者さんがお墓の代わりや、水子さんの供養の為にご安置されたものです。参道の脇にたたずみ、参拝客の皆さんを暖かく出迎えます。」公式HPより

参拝日:2011年4月25日

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする