車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

出石酒造酒蔵 in 兵庫県豊岡市出石

2023年08月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

出石の見所を紹介するパンフレットやインターネットのお勧めサイトに必ずと言って 良い程登場するのが、「出石酒造」の酒蔵。

築270年以上とも言われている赤い土壁造りの酒蔵を初めて見た時の、あの何とも言えない感動。初めて見た風景の筈なのに、どこか懐かしく、温かくなるような不思議な心持ち・・

すでにひと昔と言って良い歳月が流れているにも関わらず、今も鮮明に思い出す事が出来ます。閉ざされた土壁の扉の向こうには、何か目に見えない不思議な命が息づいているように思えた・・その感覚は三年後の再訪でも変わりませんでした。

こうしてじっと待っていたら、それはこの重い扉を潜り抜けて、何か優しく語りかけてくるのでは・・と、三年前と同じ有り得ない期待を抱いてしまうのです。

大人のためのお伽噺の時間を紡ぎだしてくれるような、妙にくすぐったい感覚に、何度も行ったり来たりを繰り返した私。三年後の今もやっぱり同じように行ったり来たりを繰り返す二人😊。

三年後に再開した土蔵に一つだけ違いを見つけました。角にあてがわれた金属は・・もしかしたら疲れてしまった土蔵に施された手当てなのかもしれないね。

三度目にもう一度来ることができたなら、その時にもここにあって欲しいから達者でいて欲しいと、まるで生きているものに語り掛ける如く見上げて、二度目の名残を惜しんだ私たち。

宝永5年(1708)、出石藩主仙石公の命によりお城に酒を献上し、以来三百十三年続く造り酒屋「出石酒造」。こちらでは地酒「楽々鶴(ささづる)」の試飲もできるとの事でしたが、運転担当の御亭主殿には金輪際!縁の無い話。あまりにもしょげ返った姿を見かねて、二度目の来訪の際に、お土産用に純米酒をプレゼント(笑)

何処に行くにも文句ひとつ言わず、入念な下調べをし、どんな辺鄙な場所でも迷う事もなく無駄足も踏まさず、楽しい車中泊の旅を一緒に楽しんでくれるご亭主殿のささやかな贅沢、たまには叶えてあげないとね😊

江戸中期に作られ、屋根以外はすべて土壁造。明治の大火も乗り越えてきた酒蔵ですが、経年による傷みがひどく、2017年に修復工事が行なわれ、生まれ変わったように綺麗な外観になったとか。綺麗になった土蔵に会いに行きたいな・・・

訪問日:2011年3月31日&2014年11月21日

 

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辰鼓楼(しんころう)界隈と出石皿そば in 兵庫県豊岡市出石

2023年08月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

明治時代の廃城令で取り壊されてしまった出石城。現存するのは堀、石垣などごく僅か・・と、これはなにも出石城に限った事ではありませんが・・もちろん、城址以外にも見所は沢山あります。

まずは出石のシンボルともいわれる「辰鼓楼(しんころう)」。城の石垣などの廃材を利用して明治4年(1871)に建てられた明治時代初期の時計台。

高さは本体が木造4層で13メートル、支える石垣が5メートル。建造当初は太鼓で時を告げていましたが、明治14年(1881)に旧藩医で蘭方医の『池口忠恕』が機械式大時計を寄贈。同年9月8日から時計台として稼働し、日本国内では北海道の札幌時計台に次ぐ、二番目に古い時計台として登録されています。

「大時計と池口忠恕」

「弘道小学校跡」

まるで洋風庭園にでも置かれていそうな休憩ポイントですが、実はこれ、旧出石町役場の車寄せ

「旧役場は昭和13年に当町宵田出身の実業家竹内慶吉氏の寄贈により完成した建築です。~中略~ 更にその重厚な様式は昭和初期の洋風建築として高く評価されてきました。ここに旧役場車寄せを保存 ~後略~ 」碑文よりの抜粋ですが、高く評価されてきた建物は残せなかったんですね。

車寄せから見る、出石城復元東隅櫓

再び「辰鼓楼」の側まで戻って・・できればこの美しい建造物を見ながらお弁当などというシチュエーションに物凄く憧れるのですが、多分ここではそういった行為はダメだと思うので、素直に諦める事にします(笑)

「三の丸跡」の碑と「辰鼓楼」

「辰鼓楼」「出石城大手門跡」の碑。昼食は「但馬出石:本陣」にて

ちなみに最初にオーダーした二人分😲 、本来は一人五皿が定番ですが、折よく二皿のサービス券を貰ったので、お一人様七皿!

更にもう一人前(五皿)追加で、ご亭主殿は十四皿、私も五皿頂きました。

j🐣さんが一緒の二度目の出石皿そばは「湖月堂」さん。

テーブルの上は三人分、j🐣さんは皿が多くて邪魔だからと追加注文の蕎麦を移している最中😄 。今回ご亭主殿とJさんは八皿、私は五皿いただきました。

合計21皿の注文でお皿の絵文字は5種類、本当は何種類あるんだろう?

本陣も湖月堂も、どちらもお食事をしながら「辰鼓楼」が見えます。出石そばのマスコットキャラクターそば丸』もあちこちで見られます 😊

実は私・・今だから告白しますが、この玄さん通行手形がとっても欲しかったのです😓。でも湖月堂は、秋篠宮紀子妃殿下が「こうのとり未来・国際かいぎ」ご出席の折に、皿そばをお召し上がりになられたお店。流石にこの事実には玄さんとて太刀打ちできませんでした😊

訪問日:2011年3月31日&2014年11月21日

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石部(いそべ)神社 in 兵庫県豊岡市出石

2023年08月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

豊岡市出石町下谷に鎮座される「石部(いそべ)神社」。式内社で、旧社格は郷社。御祭神は 石部氏の祖神とされる『天日方奇日方命(あめのひかたくしひかたのみこと)』『大山積神・大巳貴神・大物主神・事代主神・健御名方命・高彦根命・瀧津彦命』を合祀。

「創建は不詳。社伝では、当初は坪井村に鎮座したといい、のち文禄4年(1595)には毘沙門町の丘上に遷座、さらに寛永3年(1705)11月に現在地に遷座したと伝える。天明年中(1781~1788)、谷山で大火が発生した際、いかなる御神威か、社殿屋上より大雨が降り注ぎ、あたり一帯の火は消滅したと伝えられる。出石藩藩主の小出家・仙石家から崇敬を受けたという。」

入母屋造、瓦葺の拝殿は昭和10年(1935)の造営。

拝殿後方、覆い屋の中でお姿は見えませんが、昭和9年(1934)に一瀬粂吉氏により建立された二間社流造、銅板葺の本殿が鎮座します。

拝殿前玉垣の内より神域を守護されるのは、明治41年(1908)9月建立の出雲丹後系の狛犬さん一対。剝離も傷もなく美しい姿。

画像が少ないので(笑)斜め後ろから

「摂社:皇大神宮」。御祭神は『天照大御神・品陀和気命・太田命』配祀『豊受皇大神』合祀『玉依比売命』。 右手に小さく「摂社:天満神社」が鎮座されています。

樹齢1,000年と伝えられる御神木「幸の大けや木」。「ひょうごの巨樹・巨木100選」で、市の天然記念物にも指定されています。

参拝日:2011年3月31日

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御神名一口メモ

『天日方奇日方命(あめのひかたくしひかたのみこと)』、大神(おおみわ)氏の祖。父は「事代主神」。母は「活玉依媛」。妹の「媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)」は神武天皇の皇后。

 

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諸杉(もろすぎ)神社 in 兵庫県豊岡市出石

2023年08月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

豊岡市出石町内町、有子山北麓・出石城東部に鎮座される「諸杉(もろすぎ)神社」。御祭神は『多遅摩母呂須玖神(たじまもろすくのかみ)』

2011年3月、2014年11月と二度に渡っての参拝です。

「創建は不詳。社伝では、当初は出石神社近くの水上村に鎮座したといい、現在地に遷座したのは天正2年(1574)とされる。社名の「諸杉」に関わる多遲摩母呂須玖(但馬諸助)は「古事記」「日本書紀」で見え、かつ天日槍の嫡子にも位置づけられることから、諸杉神社も古くから鎮座したものと推測されている。なお、創建地とされる水上地域は現在も諸杉神社の氏子の関係にあり、祭礼では水上までの神輿渡御が行われる。」

現在の社殿は明治17年(1884)に竣工されたものですが、各所に素晴らしい彫刻が施されています。作者は丹波柏原藩の宮大工:中井権次一統(なかいごんじいっとう)、八代目『中井権次橘正胤』30歳頃の作品と言われます。

本殿扉に施された彫刻は、馬上の『神功皇后』と、その皇子『応神天皇』を抱く『武内宿禰』

向拝彫刻は巨大な鷹を退治する若き『応神天皇』

その上には梁を支える力神の姿

木鼻彫刻は迫力満点の阿吽の獅子。玉が入れられた目。目じりに入れられた鮮やかな朱が、獅子の表情を更に生き生きと見せています。

丸く掌に収めた爪は、敵意を持たない者には柔らかく優しく、けれど悪意を持つ者の目には、いつ鋭い爪を立てられるのかと怯えさせるに十分の迫力。

手挟みには、波の上を飛翔する鶴の姿。

二の鳥居正面に建つ、入母屋造り千鳥破風付きの拝殿

拝殿前参道より神域を守護されるのは、明治38年(1905)11月建立の出雲丹後系の狛犬さん一対。阿形さんにこっぴどくお小言を貰って意気消沈している吽形さん・・一度そう思うとどうしても想像がそこから離れなくてちょっとツボ(笑)

拝殿前より神域を守護されるのは、明治27年(1894)6月吉日建立の浪花系の狛犬さん一対。吽形さんの表情は読めませんが、阿形さんはどこかで見かけたようなオヤジ顔(^^;) こんな顔の人、身近にいますよね。

参道真っ直ぐに「神輿庫」、横に「境内社:川下神社」

神輿庫の褄部分には鏝絵の鳳凰、それを守るかのような瓦細工の翼竜

神池と太鼓橋

境内社:三柱神社・八幡神社・・・他

奥に碑が建立されていますが詳細は不明

紅葉に彩られた境内

今回の一番の収穫は社殿彫刻を手掛けた中井権次一統八代目『中井権次橘正胤』の存在を知った事。一統が代々手掛けた龍や麒麟、獅子、獏といった霊獣など、現存する寺社彫刻は北近畿(旧丹波国・丹後・但馬)を中心に旧播磨・摂津を含め300カ所程度と推測されています。雲蝶波の伊八を訪ねたように、立川流彫刻井波彫刻を訪ねたように・・いつか彼の残した霊獣たちに会いに行けたらと・・無理と分かってしまっても、それでも願わずにはいられません。

参拝日:2011年3月31日&2014年11月21日

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御神名一口メモ

『多遅摩母呂須玖神(たじまもろすくのかみ)』、父は渡来神『天之日矛神』。母は但馬の豪族の娘『前津見』。『田道間守』の祖。

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有子山(ありこやま)稲荷神社 in 兵庫県豊岡市出石

2023年08月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

豊岡市出石町内町、出石城跡・稲荷郭に鎮座される「有子山(ありこやま)稲荷神社」。御祭神は『稲荷神』

谷山川に架かる「有子橋」正面、一の鳥居。

「出石城最上段の本丸のさらに一段高い場所にある曲輪稲荷郭に、慶長9年(1604)の築城時より、城の鎮守として現在地に鎮座。城山稲荷とも呼ばれる。」

一の鳥居を潜り、朱の千本鳥居が立ち並ぶ石段をひたすら登ります。

右手に本丸西隅櫓の建物が見えていますが、観光は後回し(^^;) 。黙々と鳥居を潜り、石段を登ります。

石段の数は157段、朱塗りの鳥居は37基だそうですが、気持ち的にはもっと多く感じます。

神橋を渡った先、境内入り口の鳥居前より神域を守護されるのは、明治40年(1907)3月吉日建立の端正な神狐さん一対。

入母屋造り唐破風付きの拝殿

拝殿前左右より神域を守護されるのは、大正元年(1912)9月22日建立の神狐さん一対。口元の修復の後、欠損してしまった耳・・なのに、何と穏やかで優しい表情。

末社:恵方稲荷大明神

本丸跡から見た稲荷郭の石垣。稲荷の境内に立てば、まさに城そのものを見下ろす位置となります。

城内に一般人が立ち入れば、即斬首とされた時代にもかかわらず、一年に一度だけ、誰もがこの高い位置に立つ事を許された日がありました。それが旧暦2月の最初の午の日。この日だけは大手門が開放され、一般町民の参詣が許可されたのです。遠方からも多くの町民が訪れたとか・・当日の賑わいは如何ばかりだったか。

稲荷の美しい社を守護される神殿狐さん一対

社殿屋根替え修復竣工記念の絵馬

日の本を表す「金泥に日輪」の拝殿額

稲荷神社境内出口近くに「史跡 有子山城跡」の碑。出石城の築城以前に山名氏によって築かれ、わずか6年にして落城したといいます。少し下った有子山登山道案内の横に祀られていた小さなお社。詳細は不明です。

参道途中の石仏

参道入り口近くの神輿庫

初午の宵宮に、氏子さんたちが御神輿を担いで町内を練り歩きます。

神輿を守護されるのは巻物と宝珠を咥えた神狐さん一対。

参拝日:2011年3月31日&2014年11月21日

 

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出石城址 in 兵庫県豊岡市出石

2023年08月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

一か所でこんなに沢山の見所がある町歩きというのも、実はかなり珍しいのではないか・・そんな事を思わせる出石の町並み。今日は、昨日紹介した有子山稲荷とは切っても切れない関係にある出石城址の紹介です。

稲荷郭から望む出石城址と出石の町並み、真下に見えるのは「感応殿」

復元された本丸西隅櫓、右手の木陰に見える朱は、稲荷の鳥居。

慶長9年(1604)、『小出吉英』により有子山城の山上の丸および天守部分が廃され、有子山城山麓の郭および館のみを出石城と命名し幕府に居城として届けたのが出石城の始まり。それにともない、平地に、堀で囲まれた三の丸が築かれ、下郭、二の丸、本丸、稲荷丸が階段状に築かれると共に、城下町も整備され出石の町並みが出来上がりました。当時の一国一城令によって但馬国唯一の城として小出氏・松平氏・仙石氏の居城となり、やがて迎えた明治の廃城令で城は取り壊され、わずかに堀や石垣を残すのみとなりました。

2011年の春、2014年の秋はお馴染みのJさんが一緒でと、出石には二度訪問。その都度、城址や町歩きを楽しみました。二つの季節を織り交ぜての出石城址の紹介、まずは谷山川に架かる「登城橋」からスタート。

鮮やかな紅葉に彩られた谷山川

登城門を潜っていよいよ本丸に

内側より見る登城門

軒丸瓦には、最後の出石藩主・仙石家の家紋「永楽通宝」が刻まれています。これは、『仙石秀久』が織田の家臣であった時代に『織田信長』から拝領した家紋であると伝えられています。

野面積みの見事な二の丸石垣

「本丸西隅櫓」

二の丸から見上げる「本丸西隅櫓」。桜にはまだ少し時期が早かったようです。

紅葉に彩られた「本丸西隅櫓」。

二の丸跡

二の丸跡にあった池、いつの時代の造営かは不明

有子山稲荷の参道側に設けられた本丸跡入り口

昭和43年に復元された「東隅櫓」

東隅櫓の軒丸瓦には有子山城主でもあった小出氏の家紋「亀甲に小の字」。実際の定紋は「額に二八文字」だったようで、こちらはいわゆる「替紋」と呼ばれる紋です。

本丸跡に建つ「感応殿」には、出石藩仙石氏の祖『権兵衛秀久公』が祀られています。豊臣秀吉の最古参の家臣で少年の頃より仕え、家臣団では最も早く大名に出世した人物。伏見城で『石川五右衛門』を捕らえたとの伝説が残されています。

この画像は2014年の有子山稲荷参拝の帰路に見かけた光景ですが、何らかの工事現場なのか、それとも遺構の発掘現場なのか・・結局分からずじまいでした。

2006年、本丸跡に建立された「出石そば発祥の由来」碑より抜粋

「政明公は大変そば好きで宝永三年(1706)出石の松平忠徳公(のち忠周=老中)とお国替えで出石に入部の際、信州一の蕎麦打ち名人を伴われ入国しそばを当地に広められました。後永年に亘り改良と技術研鑽を重ね、出石焼の小皿に盛り付ける独特の「出石皿そば」を創出し今日に受け継いできました。本年そばは伝来三百年を迎え、科野大宮社三柱の御祭神の依代として、大欅の一部を譲り請け「出石皿そば」の守護神とし、政明公への報恩の念を込め、当祠に奉齋しました。」

出石には、約50軒もの蕎麦屋が建ち並んでいて、関西屈指のそば処として有名。「挽きたて」「打ちたて」「茹がきたて」の“三たて”が、伝統的な信条とされ、出石焼の小皿に小分けした独特のスタイルでいただく「出石皿そば」。御亭主殿の抑えていたお腹の虫が騒ぎ始めたようですが、もう暫く辛抱してもらいましょう(⌒∇⌒)

訪問日:2011年3月31日&2014年11月21日

 

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ご当地マンホール in 兵庫県旧出石町(豊岡市)

2023年08月25日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・兵庫県

旧出石郡出石町(いずしちょう)は兵庫県北東部に位置した町です。豊岡市、養父市、日高町、但東町、和田山町に、さらに県を跨いで京都府京丹後市に隣接。町名は但馬開発の祖神とされる『天日槍命』の宝物、「出石小刀」に起因したといわれています。江戸時代以降、小出、松平、仙石氏が相次いで居城、五万八千石の城下町として栄えてきました。現在も残る風情のある町並みは「但馬の小京都」と呼ばれ、出石城址などと共に、多くの観光客に人気のスポットです。「町の木:もみじ」「町の花:テッセン」「町の日:6月4日」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、出石郡出石町・室埴村・小坂村・神美村が発足。

1957年、出石郡出石町が、室埴村、小坂村、神美村大字宮内・坪井・袴狭・口小野・奥小野・安良・田多地と合併、改めて出石町が発足。

2005年、豊岡市、但東町、城崎郡城崎町・竹野町・日高町と合併、豊岡市出石町となりました。

マンホールには、出石町のシンボル「辰鼓楼」と、「町の花:テッセン」が描かれています。

出石伝統的建造物群保存地区に設置された「辰鼓櫓」と「町の木:モミジ」がデザインされた「仕切弁」&「消火栓」。

出石伝統的建造物群保存地区に設置された「電気」&「電話」のマンホール。「辰鼓櫓」を背景に美しい町並みがデザインされています。

明治時代初期に時計台として建てられた「辰鼓櫓」

昭和33年2月14日制定の町章は「出石町の頭文字「い」を図案化したもの。」

旧出石藩主:仙石氏の「無の字紋」の側溝蓋

「いなり」と刻まれた、有子山稲荷の鉄蓋

撮影日:2011年3月31日&2014年11月21日

 

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玄武洞(げんぶどう)~其の二 in 兵庫県豊岡市赤石

2023年08月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

玄武洞公園で「玄武洞」に次いで・・と言うか、それ以上に人気があるのが「青龍洞」。玄武洞と同様、こちらも国の天然記念物に指定されており、とても美しい節理の絶壁が見られます。

上から下へと、まるで流れるようなうねりが、龍の昇る姿に似ていることから命名された「青龍洞」。洞の高さは33mに及び、玄武洞公園の中では最も長い、15mにも及ぶ柱状節理が見られます。

いずれも同じアングルからなのですが、この場に立つと他のものが目に入らない・・と言うのが正直な感想。岩の連なりを見て美しいという言葉がこれほど当てはまる光景は、中々お目にかかれるものではありません。

流れるような岩の連なりはそのまま水辺に落ちて、その姿を映し出し、更に水の奥深くに続く錯覚を感じさせます。それは何とも形容しがたい、まさに人知を超えた神の造形と言っても過言ではありません。

青龍は、中国の伝説上の四神獣、東方を守護するものとされ、蒼竜とも呼ばれます。水面に映る柱状節理の壁は、蒼き竜が天を目指して駆け上がる姿にも似て神秘的です。中央に置かれた石灯籠は、水神である龍への供物でしょうか。

空の青さを写しだす池に舞い落ちる紅葉の赤、黄、橙・・

「青龍洞と人々の暮らし」と題した案内看板には、大正時代頃の絵葉書が紹介されています。池の上には橋があり、流れ落ちる龍の姿をもっと間近に見る事が出来たようです。橋の上から見る水面の中の世界は・・きっとこの世とあの世の狭間を思わせるような不思議な光景だった事でしょう。

玄武洞最期の立ち寄りは、南方を守護する「朱雀」に例えられた「南朱雀洞」

少し奥まった中央部分が、天に向かって羽ばたく鳳凰の姿を想像させるのも、ある意味神の造形に近いのかもしれません。柵に遮られて良く見えませんが、下にある小さな池に摂理の壁が映りこむ様は、きっと圧巻だろうと思います。

「北朱雀洞」も、「南朱雀洞」同様に羽を広げた朱雀をイメージして命名されたと思われます。ですが柵の向こうで距離も遠すぎる事もあり、この状態で朱雀を想像するには、かなりの想像力が必要かも(^^;)

玄武洞公園から見えた山陰本線の赤い車体。旧城崎町にある玄武洞駅からここまでは、渡し舟で川を渡るんだそうです。そういう非日常的な時間・・すごく贅沢な感じがして、ちょっと憧れます。

訪問日:2014年11月21日

🌸🍀明日からは旧出石町の紹介です

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玄武洞(げんぶどう)~其の一 in 兵庫県豊岡市赤石

2023年08月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

豊岡市赤石、円山川東岸にある国指定の天然記念物「玄武洞(げんぶどう)」

大体において、植物、地質・鉱物で国の天然記念物と言うのは、無知な私たちには「なんちゃ~良うわからん~???」な代物なのですが😅、流石にこれは一目見て「わ~~~~ぁ!!!」。足も目も釘付けになる光景。

160万年前に行われた火山の噴火によって山頂から流れ出したマグマが冷却され、冷えて固まる時に作り出された玄武岩溶岩の厚い層が形成。その後、河川による侵食によって玄武岩塊がむき出しとなり、その割れ目(節理)が顕著で切り出しやすかった事から人々が採掘し、その採掘跡が洞窟として残されました。それが今日、目にする玄武洞です。

ここで切り出された玄武岩は周辺地域で漬物石や石材として使われており、現在でも城崎温泉の大谿川護岸や豊岡の石積みなどで見ることができるとか。確かにれ程綺麗に整った岩石が採取できるのは、魅力だったかもしれません。

もちろん公園内の敷石にも使われていますが、それは天然記念物指定の前に整備されたものなので、今はそういった事には厳しい規則があるようです。

ちなみに私が歩いている踏み石には、ハートの形の玄武岩もあったらしいのですが見つけられませんでした。っていうか・・柱状節理の玄武岩でハート型って無理があるように思うのですが😅。

ちなみに、現在こんな風に玄武岩を採取していいのは、日本広しと言えども「玄武岩の玄さん」だけ。良い子は絶対に真似しないように😆

一番の見所である玄武洞の洞窟内では、柱状節理によって亀甲状の天井や、5~8角の石柱がみられるそうですが、もちろん現在は立ち入り禁止の為、遠目で見るのみ。

六角形の無数の玄武岩が積み上げられた不思議な美しさ・・江戸時代後期の文化4年(1807)、幕府の儒学者『柴野栗山』がここを訪れた時、その様が伝説上の動物「玄武」の姿に見えることから「玄武洞」と命名。

明治17年に岩石の日本名を定める際、東京大学の『小藤文次郎博士』が「玄武洞」の名から、この岩を玄武岩と命名したそうで、洞窟が岩の名前の由来だったとは、初めて知りました。

昭和6年(1931)2月20日、「玄武洞」は国の天然記念物に指定され、周辺地域一帯は、昭和38年(1963)に山陰海岸国立公園となり、現在に至っています。

玄武は中国の想像上の動物で、四方を守護する「四神獣」の一つ。北方を守護する水神は、長い脚と蛇の尾を持つ亀に似た「玄武」。名付けた人物が目にした景色は、私たちが目にしている景色と同じものだったのか・・興味は尽きません。

四神獣の一つで五行説における西方の白虎から名づけられた「白虎洞」。既に命名されていた「玄武・青龍」に因んで採用された命名でしょうか?

とはいえ、白虎洞の中央部分、あの縦に伸びる節理の部分が、ちょうど虎の背のように見えるのが凄いです。

🌸同じく四神獣は水を司り天翔ける東の青龍。鳳凰とも呼ばれる南の朱雀。明日は青龍洞・南朱雀洞、北朱雀洞の紹介です。

訪問日:2014年11月21日

 

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豊岡市内~あちこちウォッチ in 兵庫県豊岡市

2023年08月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

2011年の豊岡市への車中泊では、狛犬目当てのご亭主殿の希望で、多くの神社参拝をしました。まるで豊岡市にはコウノトリと神社しか無いような印象ですが、そんな事はありません(笑)。たとえば日本一の「かばんの町」として知られる豊岡市、公用車にも豊岡杞柳細工の柳カゴがラッピングされています。

兵庫県北部(但馬国)をエリアとする全但バスも、ごらんの通り😆

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12月14日は忠臣蔵のクライマックス、 四十七士が吉良邸に討ち入りした日です。実はここ豊岡は、その忠臣蔵の立役者『大石内蔵助』の妻『理玖(りく)』の生誕地なのです。

但馬国豊岡藩京極家の家老『石束毎公』の長女として誕生し、赤穂藩浅野家の筆頭家老『大石良雄』と結婚。その後の主君の刃傷、藩の取り潰し、主君の仇討、本懐・そして全員の切腹。長男の主税ちから)はまだ16歳の若さでした。理玖は残された遺児を育て上げた後、落飾し『香林院』と称し広島で没します。その彼女の遺髪塚が、豊岡市日撫(ひなど)の「正福寺」にあります。

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豊岡駅通商店街には、私の大好きな近代歴史的建築が残されています。ヨーロッパ風の建物は、1925年の北但大震災の2年後に旧豊岡町役場として、復興建築のシンボルとして建設。

その後、旧豊岡市役所本庁舎となり、2011年の新本庁舎建設に伴い、現在は「豊岡市議会議場」や「豊岡稽古堂」として使用されているそうです。

かつての銀行建築の面影を残す重厚なルネッサンス建築の建物は、旧兵庫県農工銀行豊岡支店として昭和9年(1934)に建設。「山陰合同銀行豊岡支店」を経て、2005年に豊岡市役所南庁舎別館として改造されました。

役目を終えた建物は、2014年4月に「豊岡1925」というお菓子を中心テーマとした複合施設となったそうです。

先述の建物と向かい合う位置にあり「中央街路(大開通り)の偉観」といわれた「旧豊岡郵便局」。昭和2年の建築で旧南庁舎として使われていましたが、新本庁舎竣工に伴って解体されたとか・・・利便性を考えるとやむを得ない事ですが、何とか残して欲しかったと今も思います。

これらの建物が有った大開通りの商店街、愛称は「サンストークアベニュー」と言います。疲れてふと腰を下ろしたベンチには「コウノトリ放鳥記念ベンチ」の文字。あれ・・やっぱりコウノトリに戻ってしまった😅

という事で「コウノトリ悠然と舞う豊岡市」でした。

訪問日:2011年3月30日

 

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