マンホール撮影だけで時間切れとなった2010年の山形村。2016年の信州車泊旅では村内に残る「道祖神」や石碑などを主目的に訪ねてみました。
山形村小坂・本殿上に「筒井筒小坂」と名付けられた「握手肩抱き双体道祖神」一基。「庚申塔」「文字碑」等4基。
「 寛政八丙辰(1796)二月吉日 殿村中」の刻。「男神は衣冠束帯の姿で太い表袴をつけて浅沓をはいています。女神は桂袴で、垂髪を真後ろに垂らし、冠を戴いた美装。道祖神の左側には神々を見守るように1本の御柱が建てられております。」
「山形村の道祖神には呼称が付いているが、建立当初 のものでない。と言うのは、昭和38年に芦田英一発 行の写真集『道祖の神々』で当像が表紙を飾り、彫 刻された双神の初々しい面立ちから幼なじみと見立 て、伊勢物語にある筒井筒の一説が彷彿されたゆえ にこの呼称が付いた。他の道祖神はこれに倣い、太 田義一らによって名が付けられた。この拓本がフランス、カナダ、アメリカにも渡り国内外でも高く評価されています。山形村や信州はもちろん日本を代表する道祖神と言えるでしょう。」山形村道祖神巡り
「百体観音像」
山形村下竹田唐沢、上水道配水池横の一段高くなった草の上に「車屋美人」と名付けられた「双体道祖神」。他一基。
「酒器祝言双体道祖神」・「弘化二巳年(1845) 竹田村 車屋中 」の刻。
ひざまずく女神の差し出す手を優しく握る男神。白く浮き出た岩斑は、見つめ合う二人を祝福する桜の花びらにも見えて、この上なく優しく美しい姿です。
「石観音の石仏群」元は猪土手上の桜木の根元にあったと云われていますが、道路拡張に伴ってこの地に移されました。観音様のお姿を探してみましたが、この状態では探しきれそうにありません。
位置的な関係で画像に残せたのは数枚のみ。お地蔵様の前を遮る庇の支えが・・・少々残念です。
下竹田公会堂前に、大小様々な石碑が60基以上並んでいます。中央奥の大きな碑は「黒川開田記念碑」。明治26年に幾多の苦難を乗り越え通水した黒川堰の偉業を伝えるため、昭和28年に建立されました。
山形村下竹田・中通り四つ角に「路傍の情熱(一)」と名付けられた「双体道祖神」一基。
「男神が向かって左側、女神が右側です。右側が(つまり向かって左側)主座を占めるのが仏教系の特徴です。加えて蓮の花が添い彫りされていることから明らかに仏教系道祖神です。仏教系の道祖神は村内には他に二体(小人のささやき、路傍の情熱の二)見受けられます。蓮の上の極楽浄土で何百年も昔から、これからも永遠に好いて好かれた双神が愛し合っている幸せな道祖神でしょうか。男神は女神の肩をぐっと抱き寄せた上、右足を法衣の裾を広げて待つ女神の両足の間に差し入れ、両神共、情熱のほとばしらんばかりの姿態です。足の指もあらわな裸足の道祖神です。」山形村道祖神巡り
山形村下竹田中通・建部神社前に「路傍の情熱(二)」「童唄」と名付けられた「双体道祖神」「庚申仏塔」各一基。
「像の下には蓮の花の添え彫りがしてあることから仏教系の道祖神です。男神が女神の肩をぐっと引き寄せ、女神は法衣の裾を広げて、男神の情熱がぐっと迫ってくるような姿態でありながら、双神は互いに頬をすり寄せて正面をじっと見ています。」山形村道祖神巡り
「他の道祖神と違い、いかにも子供らしさを感じさせる、珍しく変わった道祖神です。この道祖神は、波田村の若沢寺に祀られていましたが、明治初年の廃仏毀釈により同村の盛泉寺に移され、同寺から上竹田・中耕地の山中松二(力士・岩の松)が友達と力比べで担いで、竹田の氏神様境内へ持ち込んだと言われております。」山形村道祖神巡り
山形村の「道祖神」~Ⅱ~に続きます。
撮影日:2016年4月22日