車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホールとマンホールカード in 大阪府羽曳野市

2023年02月28日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

羽曳野(はびきのし)は大阪府の南河内地域に位置し、羽曳野丘陵と呼ばれる洪積台地が市の中央を縦断。東部は石川と支流の飛鳥川や大乗川などが北流し、ぶどうとイチジクの栽培が盛んに行われています。

また古墳などの古代史跡の多い地としても知られ、古代の官道といわれる竹内街道が市を東西に貫いています。市内には「日本武尊白鳥陵」を始め、「誉田八幡宮」や中の太子と飛ばれる「野中寺」等々、多くの観光資源を有しています。「市の花:桃」「市の木:橘」を制定。

キャッチフレーズは「人・時をつなぐ 安心・健康・躍動都市 はびきの」

明治22年(1889)、町村制の施行により、古市郡古市村・西浦村・駒ヶ谷村、丹南郡高鷲村・埴生村・丹比村が発足。

1896年、所属郡が南河内郡に変更。

1916年、古市村が町制を施行、南河内郡古市町となる。

1955年、高鷲村が町制を施行、南河内郡高鷲町となる。

1956年、南河内郡古市町・高鷲町・埴生村・西浦村・駒ヶ谷村・丹比村が合併、南河内郡南大阪町が発足。

1957年、南大阪町大字多治井を美原町に編入。

1959年、南河内郡南大阪町が市制を施行、南大阪市となるが、即日改称。羽曳野市となる。

マンホールカード配布に際して新たに市のキャラクター『つぶたん』がデザインされたマンホールが設置されたそうですが・・・未収集です(^^;)。

昭和34年1月15日制定の市章は「羽曳野の〃羽〃の文字を抽象的に図案化し、市にふさわしく単純で近代風な形にまとめ、又鳥のはばたきの如く市の雄飛と発展性とを示したものである。」公式HPより 

鴻池水未来センター展示マンホール

仕切弁

空気弁

消火栓

止水栓・量水器

羽曳野市マスコットキャラクター『つぶたん』。駒ヶ谷地区の特産品であるぶどうから産まれました。特技はぶどうのお世話。きれいな水と空気が大好きで、雨と熱帯夜が苦手です。

「道の駅:しらとりの郷・羽曳野」のタケル館で出迎えてくれるのは、羽曳野青年会議所マスコットキャラクターの『白鳥王子タケルくん・たちばな姫』。日本武尊がその姿を白鳥に変えて舞い降りたとされる伝説の地で生まれた二人です。

羽曳野市埴生野にある「道の駅 しらとりの郷・羽曳野」。こちらの第一駐車場では、大阪方面の車泊旅で二度車中泊をさせて頂きました。新鮮なお野菜は、明日自宅に帰る私には最高のお土産(*^^*) 車で旅をする者にとってこうした施設は本当に有難く大切な場所です。改めてその節は有難うございました。

撮影日:2008年4月26日&2015年10月10日

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20219年12月17日、第13弾として全国50自治体で50種類(累計557自治体717種類)の マンホールカードの配布が開始されました。「羽曳野市」のマンホールカードは、「羽曳野市下水道部」でいただけます。

2020年に設置開始されたマンホールには「つぶたん」と「葡萄」がデザインされています。

「「竹内街道」が日本の遺産の認定を受け、「古市古墳群」が世界遺産の登録を受けたことを契機にデザインマンホール蓋を製作しました。 羽曳野市ご当地キャラクター「つぶたん」が両手で「竹内街道」「古市古墳群」をしるした旗を持ち、羽曳野市を訪れた人達を歓迎し、下水道の広報に活躍しています。 また、蓋の周囲には羽曳野市の特産であるブドウを配して親しみのあるデザインになっています。 「つぶたん」の特技はブドウのお世話で、将来の夢はみんなを笑顔にさせる甘くておいしいブドウになることです。 普段は、ワインなどの羽曳野市の名所・特産物のPRに走り回っています。」

 

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アイセルシュラホールと仲哀天皇陵 in 大阪府藤井寺市

2023年02月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

藤井寺市藤井寺、1994年に考古学・歴史系博物館施設をメインとする生涯学習センターとして開館した「アイセルシュラホール」

館名の「アイセル」とは、Activity、Information、Consultation、Exchange、Learningの頭文字を並べたもので、「シュラ」は三ツ塚古墳で出土した古墳時代の巨石運搬用ソリ「修羅」を意味します。

歴史展示室には「倭の五王と巨大古墳」をテーマとした古墳築造技術の紹介や、西墓山古墳、津堂城山古墳の出土品等が展示されており、「ふじいてらの大昔」をテーマにした「藤井寺の古代史」が紹介されています。

岡古墳より出土した日本最大級の「船型埴輪」。「アイセルシュラホール」の外観はこの岡古墳から出土した「舟形埴輪」と、三ツ塚から出土した「修羅」をモチーフとしてデザインされました。

こちらは、津堂城山古墳より出土した「水鳥形埴輪」三点。いずれも国の重要文化財に指定されているものです。

ホール展示物、もう一つの目玉は「陵石碑」と呼ばれる「井真成墓誌 蓋部(複製)」『井 真成(いの まなり)』。文武天皇3年(699)~天平6年(734)の人とされ、日本名は不明。唐代の日本人の留学生か官吏であったと推定。中国西安市内の工事現場で彼の墓誌(墓)が発見されました。

蓋の部分に刻まれた文字の拓本。

墓誌 身部 には、日本人留学生の井真成が開元二十四年(736)に36歳で亡くなり、同年2月4日に「万年県」(長安南郊)に埋葬。「尚衣奉御(しょういほうぎょ)」の官職を追贈された旨が記されています。これは考古学的に、中国で発見された最初の日本人の墓誌であり、他国も含めた唐国への留学生の墓誌の唯一の発見例とされています。また、現存の石刻資料のなかで日本の国号を「日本」と記述した最古の例です。

藤井寺市内のいずれかの地の出身とされる『井 真成』。その身は遠く異国の土になりましたが、彼の心は祖国に帰り、こうして再び脚光を浴びる事になりました。今は藤井寺市のキャラクターとして、市内各所のPRに勤しんでいます。

藤井寺市・羽曳野市にまたがる「古市古墳群」には、わが国の古墳文化を代表する、巨大な前方後円墳7基を含む総数130基以上の古墳が築かれています。藤井寺市のそこかしこに見られる天皇御陵の碑。

アイセルシュラホールの東に隣接する「恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)」。全国では第16位の規模の古墳で、5世紀末葉頃の築造と推定。

宮内庁により『第十四代:仲哀天皇』の陵に治定。さて『仲哀天皇』とはどのような方なのか? まずは『日本武尊』の第二子で、三韓征伐を行った『神功皇后』の夫で、さらに八幡神として有名な『応神天皇』の父君で・・・一応、どのような人物かを紹介している筈なのですが、本人以外の名前の方が有名すぎて・・(^^;)

ともあれ、仲哀天皇陵を含む古市古墳群は、堺市の百舌鳥古墳群とともに2019年7月6日、世界文化遺産に登録されました。

訪問日:2015年10月10日

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辛國(からくに)神社と御例祭 in 大阪府藤井寺市

2023年02月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

藤井寺市藤井寺に鎮座される「辛國(からくに)神社」。御祭神は『饒速日命(にぎはやひのみこと)・天児屋根命(あまのこやねのみこと)・素盞嗚命(すさのおのみこと)』。配祀『品陀別命(ほんだわけのみこと)・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)』

由緒「日本書紀の雄略天皇十三春三月条「餌香長野邑を物部大連に賜う」とあり、この地方を治める事になった物部氏が祖先である饒速日命を祀ったのが当社の始まりであり、同族の辛国連が祭祀の中心となり「辛国神社」と称するようになった。明治41年、長野神社の祭神・素盞嗚命を合祀し現在に至る」公式HPより

一の鳥居の内より神域を守護されるのは扁平頭の狛犬さん一対。明治30年(1897)5月吉日建立。控えめな注連縄が、柔和な顔立ちにとてもよく似合っています。

参道から真っ直ぐ正面に見える銅板葺に入母屋造千鳥破風付の拝殿。神幕には御神紋の「上り藤」。

拝殿前より神域を守護されるのは少々メタボが気になりはじめた狛犬さん一対。弘化3年(1846)11月吉日建立。強面の顔が頑固おやじを想像させて、妙な親しみを感じさせてくれます(笑)

境内の一段高い位置に「伊勢神宮遥拝所」

「末社:春日天満宮」、御祭神『菅原道真公』

1989年に「大阪みどりの百選」に選ばれた長い参道。深い緑に囲まれた参道の途中には「長野神社」の鳥居が移設されています。

生憎と言うかラッキーと言うべきか、丁度この日は秋祭りと言う事で「だんじり」宮入の為、車の移動は出来ないとの事。大勢の人の中に埋もれるのは苦手な二人。よほどの事でなければお祭りに縁がない事を思えば、これはきっと神様が呼んでくださったのかも(〃∇〃)

賑やかな人の気配が近づき、やがて小気味の良い掛け声と共に「だんじり」が曳かれて来ました。どんな原理で曳いているのか分かりませんが・・重そう・・でも、それよりも何よりも「みなさん、すっごく!!かっこ良い~~~~!!」

続いてやってきたのは「ふとん太鼓」。見ている私たちにも熱気が伝染して何故か力こぶが(笑)。基本的には「祭り」は大好き!な二人。ただ人混みが苦手で、ついつい敬遠してしまうのです。でもたまたま行き会ったりした時は別。しかもそんな時は、ほぼ間違いなく間近で見られます。と言う事で、この時もご亭主殿は「ふとん太鼓」を追っかけて走ってました。

木々が生い茂る参道。決して狭いわけではないのですが、布団太鼓が大きくて、男衆たちの額には汗の粒が・・見守る私たちの手にも汗が・・

拝殿前に到着。先のだんじりもすでに拝殿前に到着しています。

実は秋の例祭は10月17日で、実際にはもっと沢山のだんじりや布団太鼓が勢揃いするらしいのですが・・この時は秋祭りと言う事で二基のみが拝殿前でお祓いを受けていました。お祓いの後、折角なのでと勧めて頂き「だんじり」を背景に記念写真(⌒∇⌒) とりあえず、なんか物凄く得した気分(笑)

参拝日:2015年10月10日

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御神名一口メモ

饒速日命(にぎはやひのみこと)』、神武東征より前、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国哮ケ峯(いかるがみね)(現在の大阪府交野市磐船神社周辺の一帯)に降臨し、その後大和国(奈良県)に移ったとされる。

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道明寺天満宮 in  大阪府藤井寺市道明寺

2023年02月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

大阪府藤井寺市道明寺に鎮座される「道明寺天満宮」。御祭神は『菅原道真公、天穂日命、覚寿尼(かくじゅに)公』

「垂仁天皇の32年(西暦3)、相撲の祖といわれる 野見宿祢 が、「はにわ」を創って殉死に代えた功績で「 土師 」の姓とこの辺り一帯を所領地として賜わった。以来、遠祖天穂日命をお祀りしたのが土師神社の始まりとされる。明治5年(1872)神仏分離により、道明寺の五坊のうち二之室が神職家となり、天満宮は土師神社に改称。翌:明治6年9月に道明寺は分離し、道を隔てた西隣の地に移転。昭和27年に土師神社から道明寺天満宮と改称する。」公式HPより

檜皮葺の拝殿は延享2年(1745)再建。この後ろに同じく延享2年再建の幣殿と、安土桃山時代再建の本殿が続きます。

拝殿前より神域を守護されるのは、元文3年(1738)正月吉日建立のブロンズ製の神殿狛犬さん一対。流れるたてがみと吽形さんの長い角は一見の価値あり。

それでは改めて神門からのスタート。石段を上がった先、神門の左側には「土師窯跡(はじかまあと)」の碑。我が国の「陶業発祥の地」を記念して昭和17年12月に大阪陶磁同業組合によって建碑。

神門の屋根には、道明寺の留蓋獅子と良く似た獅子がいます。もしかしたら同じ鬼師の作品ではないかと思うのですが、むろん確証はありません。

神門の先、真っ直ぐな参道は注連柱にいたり、その先の鳥居、社殿へと続きます。明治45年に奉納された注連石には、通天閣を命名した漢学者『藤澤南岳(なんがく)』『菅原道真公』を讃えた碑文【神化粛雍百世長斯仰敬】・【玄徳明美万邦咸致尊親】が刻まれています。(単語のみを拾い読めば、意味はほぼ理解)

鳥居には、「正一位太政大威徳天神」と書かれた扁額。「西国紀行」には、この扁額の前で『小林一茶』が句を読んだと記録されているそうです。

【 青梅や 餓鬼大将が 肌ぬいで 一茶文字は『榊莫山』

鳥居の前より神域を守護されるのは、阿吽ともに前足に願掛け紐が結ばれた、天保13年(1842)6月建立の狛犬さん一対。口中に玉を含む阿形さんの顔が子供みたいに嬉しそう。

句碑の後方に明治39年に建立された「日露戦役記念碑」。道明寺村より出征し、我が国を護るために戦われた方々の記念碑。

さて、天満宮と言えば撫で牛さん・神牛さん。こちらにはかなりの年代を経たと思われる純白の神牛さんが、大切に祠におさまっておられます。

嘉永七甲寅年 二月吉辰に、神詠講によって奉納された神牛像。

慶応三丁卯年 九月に、高栄講によって奉納された神牛像。

文政十三年(1830)庚寅九月、大鹿金兵衛が奉納した神牛像。当宮の神牛像では最古参。

こちらは現役の撫で牛さん。どうですか?このピカピカのお鼻(笑)一体どれほどの手がこの鼻の上を往復したのでしょう。

ブルーシートに覆われた台座の上においでの撫で牛さん。これからお部屋を貰うのでしょうか?

学問の神様として知られる道真公は、また書聖と称され、書の神としても信仰を集めています。使用された筆に感謝する「筆塚」は、天満宮には必ず見られるもの。

天満宮境内には80種800本の梅の木があり、梅の名所としても知られ「大阪みどりの百選」に選定されています。

梅園入口の歌碑は【 梅の花  親し 官公  びいきゆゑ 】 山下美典

梅園内の歌碑は今村泗水【 早梅の  片はなびらを  立つるあり 】

天寿殿の前には、明治10年(1877)2月12日の前日の紀元節に畝傍御陵に参拝された明治天皇が、宿泊されたことを記念した「明治天皇行在所(あんざいしょ)」碑。翌13日には西南戦争勃発の知らせが届けられています

境内に奉納された「さざれ石」は白亜紀後期(約七千年前)の和泉層礫岩。悠久の歳月の間に多くの小石が寄り集まってできた目出度き巌は、和歌山県との境に近い河内長野市滝畑から。

大阪府下最古の能楽殿や寛政8年再建の絵馬堂。興味深い狛犬さんに守護されている境内社の数々・・タイムアウトだったのか、予想外の団体観光客の多さに圧倒されてだったのか・・いずれも参拝が叶わずに終了。

神門から100mほど先の境外に鎮座される「西宮」。元慶八年(884)の夏、五部の大乗経を書写された道真公に、埋納する地を示された「伊勢・春日・八幡三神の化身」をお祀りしたのが当社で「三社 神祠」ともいいます。その経塚から生えた木を「木槵樹(もくげんじゅ)」といい、「謡曲:道明寺」にはこの種で数珠を作り念仏を唱えると極楽往生できると謡われています。

最後に、「道明寺天満宮」の社号に隠された数多くのエピソード。調べれば調べるほど面白い事実に行き当たります。が、恥ずかしながら、それを語るだけの才を持ち合わせていません。一つだけ、私が最も興味を惹かれたのは、日本各地に「天満宮」「天神社」の数は約12000社と言われていますが、「道明寺天満宮」のように「寺号」を冠した天満宮は全国でも五指に足りると言う事実です。明治の神仏分離令もむろん関係していますが、興味を惹かれた方は是非、漢字が表す意味も含めて、歴史を散策してみてください(*^^*)

参拝日:2015年10月10日(「西宮」のみ2008年4月26日)

 

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道明寺(どうみょうじ) in 大阪府藤井寺市道明寺

2023年02月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

藤井寺市道明寺にある真言宗御室派寺院:尼寺「蓮土山・道明寺(どうみょうじ)」。国宝『十一面観音菩薩』を本尊とします。

寺伝に「当寺の開創は、土師八嶋が氏神である天穂日命を祀り、聖徳太子が開基となり、八嶋が協力して自身の屋敷を提供して、東西一二〇歩、南北二二〇歩の地に、南大門、三門、五重塔、金堂、講堂等の伽藍を建立し、土師氏が檀越となった(現天満宮南側の平地)。のちに白山権現、稲荷大明神二社を造営した。時代が下り、土師氏の子孫である菅原是善の妹である覚寿尼が入寺し、甥の菅丞相(菅原道真)の帰依深く、しばしば当寺を訪れた。菅丞相三十六歳の時に十一面観音を彫刻し、四十歳の時には五部大乗経を書写した。延喜三年、菅丞相が太宰府で薨去。その後、講堂の後方に神祠を建て、自刻の像を安置し御神体とした。そして土師寺を道明寺と改めた。同時に、土師神社内に天満宮を創建。この後土師神社は天満宮が中心となっていった。」公式HPより

明治6年(1873)9月、道明寺は天満宮と分離し、道を隔てた西隣の現在地に移転。楼門は、神仏分離令以前の旧境内にあった鐘楼を移築・改築したものです。

秘仏「十一面観音立像」を擁する大正8年(1919)再建の本堂。延喜元年(901)、道真公は大宰府に左遷される途中に寺に立ち寄り、『覚寿尼公』との別れを惜しんで歌を詠みました。
【 鳴けばこそ 別れも憂けれ 鶏の音の なからん里の 暁もかな 】

本堂の前に置かれた香炉台。屋根を支える4本の柱には木彫りの獅子がしがみついています。こうした細かい部分の装飾を見られるのも由緒ある寺院ならでは。狛犬とはまた一味違った、何とも愛着のわく獅子たちです。

獅子と言えば、屋根の上にも丸っとした可愛いお尻の獅子たちが、参拝される善男善女を見守っています。

本堂横で参拝者を迎える「十一面観音石像」。後方に聳えるのは、道真公:写経の経典を収めた経塚より芽吹いたと云う「木槵樹(もくげんじゅ)」

境内入ってすぐの左手、英文の石碑が添えられた「第一次世界大戦犠牲者供養塔」は、藤沢薬品の創業者『藤沢友吉』が平和への願いを込めて大正7年(1948)に建立。石碑の下には、激戦地となった「フランス:ヴェルダンの土」が埋められているそうです。

社務所に人の気配はなくウロウロと探して中門に。チャイムが有ったので思い切って押すと、本坊までお出で下さいとご返事いただき、無事、御朱印を戴く事ができました。

待っている間にとても気になっていた「道明寺糒(ほしい)」の古い看板。その昔、菅原道真公の伯母上が、築紫に左遷された道真公の無事を祈ってお供へされたご飯のお下がりを望む人に分かち与へた所、これをいただくと病気が治ると評判になり、希望者が多くなった事から、あらかじめ乾燥、貯蔵するようになったのが糒(ほしい)のはじまりと言われています。

以前は外に展示していたそうですが、装飾部分が盗難にあった為、室内に移したとか。珍しいものに心惹かれる気持ちは分かりますが、目に、記憶に焼き付けて、もしくは画像に残して楽しむだけで充分じゃないですか?・・・盗んだ人、今もそれは手元にありますか?!

【 国宝を 守る御寺の 虫しきり 】 高浜虚子の孫・『坊城中子』作。
【 大安で 吉日梅の 道明寺 】 虚子の弟子『伊藤柏翠』作。

東高野街道に面して建つ「東門」

道明寺天満宮の石段から南へ80mほど、玉垣の内に五重塔の礎石群が保存されています。「古代道明寺五重塔礎石」の碑は、昭和40年(1965)10月に金婚式の記念として建立。

参拝2015年10月10日(五重塔礎石碑のみ2008年4月26日)

「大師堂」「護摩堂」等々。まだまだ見るべき場所がたくさん残っているのに、又しても聞こえてきた威勢の良い掛け声(^^;) 足が・・足が勝手に回れ右(笑)

癖になりそうな、いなせでカッコいい男衆たちの姿です(⌒∇⌒)

 

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ご当地マンホール in 大阪府藤井寺市

2023年02月23日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

藤井寺市(ふじいでらし)は大阪府の南河内地域北部に位置し、全国の市の中では5番目、大阪府では最も面積が小さい市です。大小の古墳が密集する古市古墳群や、西国三十三所第5番札所の葛井寺の門前町として知られており、市名はその「葛井寺(ふじいでら)」に由来します。また市内にある「道明寺天満宮」は梅の名所として、季節には多くの人で賑わいます。「市の花:菊」「市の木:梅」を制定。

キャッチフレーズは「小さくてもキラリと光るまち」

明治22年(1889)、町村制の施行により、丹南郡長野村・小山村、志紀郡道明寺村・沢田村が発足。

1890年、志紀郡道明寺村と沢田村と合併し、改めて道明寺村が発足。

1896年、郡の統廃合により、丹南郡・志紀郡が南河内郡に変更。

1896年、長野村が旧錦部郡長野村との区別のため改称して藤井寺村となる。

1915年、藤井寺村と小山村が合併し、改めて藤井寺村が発足。

1929年、藤井寺村が町制を施行し、南河内郡藤井寺町となる。

1951年、道明寺村が町制を施行し、南河内郡道明寺町となる。

1959年、南河内郡藤井寺町・道明寺町が合併して藤井寺道明寺町が発足。

1960年、藤井寺道明寺町が改称し、南河内郡美陵町となる。

1966年、南河内郡美陵町が市制を施行、美陵市となり、即日改称して藤井寺市となる。

マンホールには市章を中心に「市の木:梅」、周囲に市内に点在している「古墳(前方後円墳)」がデザインされています。(藤井寺駅近くの商店街舗道に設置)

池田市マンホールサミット展示蓋

鴻池水未来センター展示蓋

小型マンホールには、市章を中心に、図案化された古市古墳群が描かれています。

昭和40年6月25日制定の市章は、美陵町章として制定されたものを美陵市制時に継承し、かつ藤井寺市章として継承。「市内に数多く存在する巨大な前方後円墳と、国府遺跡から出土した、縄文時代の耳飾りをモチーフにして、市民が一つの輪になって、躍進する藤井寺市をイメージしたものです。」公式HPより

外周は図案化された古市古墳群、中は歩道のタイルで目立たなくしています。

外周に図案化された古市古墳群を配した「空気弁」「消火栓」

藤井寺市公式キャラクター『まなりくん』。西暦717年に、19歳の若さで遣唐使とともに唐へ渡り、現地にて36歳の若さで亡くなったと伝えられている遣唐留学生「井真成(いのまなり)」が、現代の藤井寺市に甦えりました。

藤井寺市民祭りのマスコットキャラクター『しゅらちゃん』。「修羅(しゅら)」とは、重い石材などを運搬するために用いられた木製の大型そり。1978年に藤井寺市の三ツ塚古墳周濠から大小2つの修羅が出土し、国重要文化財として、大阪府立近つ飛鳥博物館に展示されています。

 

撮影日:2008年4月26日&2015年10月10日&2017年10月11日

 

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大阪府藤井寺市A&Bのマンホールカード

2023年02月22日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

2017年8月1日、第5弾として全国50自治体で52種類(計191自治体222種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。

「藤井寺市A」のマンホールカードは、「平日:藤井寺市 都市整備部 下水道総務課 」「休日:藤井寺市立生涯学習センター」でいただけます。

1986年に設置開始されたマンホールには「市章」を中心に「市の木:梅」、「前方後円墳」がデザインされています。

「藤井寺市の市章を中央に据え、その周囲に市の木「梅」、さらに外周を「古墳(前方後円墳)」でデザインしたマンホール蓋です。 市章は、市内に数多く存在する巨大な前方後円墳と、遺跡から出土した縄文時代の耳飾りをモチーフに、市民がひとつの輪になって躍進する藤井寺市をイメージして図案化しました。 梅は、万葉集に詠まれるほど日本人の暮らしに馴染みが深く、市内の道明寺・道明寺天満宮ゆかりの菅原道真公が愛したことから、「知性豊かな木」として親しまれています。 古墳は市内に様々な形や大きさで点在し、藤井寺が世界に誇る文化遺産となっています。」

座標軸マンホール

配布先展示マンホール

訪問日:2018年8月29日

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2020年6月1日、第12弾として全国53自治体で62種類(累計535自治体667種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。
「藤井寺市B」のマンホールカードは、「藤井寺市観光案内所「ゆめぷらざ」」でいただけます。

2020年に設置開始されたマンホールには「市章」と「市の木:梅」と、「古墳」がデザインされています。

「古墳と縄文時代の首飾りをモチーフにした藤井寺市の市章の周りに、市の木「梅」と、鍵穴のような形をした「古墳(前方後円墳)」をあしらったマンホール蓋です。 2019年7月、藤井寺市・羽曳野市・堺市にまたがる「百舌鳥・古市古墳群」が、大阪初となる世界文化遺産に登録されたことを記念し、従来のデザインから古墳モチーフをより強調した配色の記念蓋を公募により作成しました。 藤井寺市は、まちを歩くと住宅街の中に大小さまざまな形の古墳を見ることができ、人々の憩いの場となっています。 デザインマンホールを見ながら世界遺産の古墳巡りはいかがですか?」

 

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熊取交流センター:煉瓦館 in 熊取町五門西

2023年02月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

昨日報道された「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」などの作品で知られる漫画家『松本零士氏』の訃報に驚いています。数ある魅力的な作品の中でも、特に「999の車掌さん」と「アルカディア号のハーロック」が大好きでした。謹んでご冥福をお祈りします。2009年6月5日に訪問した福井県敦賀市の「”銀河鉄道999・宇宙戦艦ヤマト”シンボルロード」。 よろしかったら一緒に懐かしんでください。 tibineko拝

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熊取町五門西、昨日紹介した中井家住宅に隣接する「熊取交流センター 煉瓦館」。2005年11月に開館した施設は、昭和初期に建設された綿布工場を保存再生。レンガ壁は建設当時のものをそのまま活かし、のこぎり屋根を再現するなど工場の雰囲気を残しながら、近代化遺産として後世へ継承するべく、煉瓦館として新しく生まれ変わったものです。

明治期に建てられた旧工場は取り壊されましたが、煉瓦館となっている新工場は、木造の事務所棟、煉瓦造の倉庫棟、汽かん室、東側と西側に分かれる本体工場部分から構成された大工場群を形成。これら建物の内、旧汽かん室、旧事務所棟、旧受電室の3棟は町指定文化財となっています。

敷地内に足を踏み入れて真っ先に目にするのが、住吉川の北側に独立して建つ「旧受電室(電気室、変電室)」。旧工場(紺屋工場)に併設されていたもので、オランダ積み煉瓦造の平屋建。屋根は切妻造、桟瓦葺で、この煉瓦館で一番古いもの。現在は入口のモニュメント的存在として、来館者を出迎えてくれます。

旧受電室の後方に小さく見える白壁の建物は「旧事務所棟」。木造平屋建、寄棟造、桟瓦葺。外壁は桧見板張りの大壁形式とし、上部両端を円形に繰った弧形アーチ上の窓が特徴的。この建物は一度全て解体、調査を行ったうえで、当時の部材も使いながら創建当時に近い形に復元されました。

事務室・玄関ロビーのある「旧汽かん室」は、元々工場の汽かん(ボイラ)室だったもの。現在、中庭に展示している「ランカシャボイラ」が設置されていました。

「ランカシャボイラー」

オランダ積み煉瓦造の平屋建で、屋根は切妻造、桟瓦葺。中央部分に煙出しと採光・換気を兼ねた切妻造の越屋根が付いています。煉瓦の外壁は当時のままですが、柱・屋根部分は新しく建替えられています。

交流ホールは、熊取の歴史や文化を体験し、学ぶことができる展示ホールとなっており、綿布工場で使われていた織機・プーリーが展示されています。当時としては最新鋭であった「坂本式広幅綿織機」。目を閉じれば、蒸気の湯気の中に、工場内を埋め尽くすような織機の音が聞こえる気がします。

プーリーと向かい合う位置には、元小垣内区の「だんじり」が常設展示されています。「熊取だんじり祭り」は、毎年体育の日の前々日、前日の土・日の2日間に渡って開催される事。曳行される町内のだんじりは、すべて岸和田型の「下だんじり」である事。全部、係りの方が熱心に話してくださいました。で「下だんじり」が何なのか皆目????(^^;)

簡単に言ってしまうと、担い棒や、肩背などと呼ばれる枠が付いておらず、下地車だけで操作するもの・・と書いていても、やっぱりよく分かりません(笑)。なんにせよ、だんじりに施された彫刻はとにかく精緻で見事!できればもっと細かく撮影したかったのですが、自主規制(^^;)

多分、何かの物語に沿って彫られたものだと思うのですが、それが分かればさらに面白さも増すでしょうね。

訪問日:2015年10月8日

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この日は岸和田市三ケ山町にある「道の駅・愛彩ランド」で車中泊をさせて頂く予定でしたが・・。お買い物は、新鮮なお野菜や果物を購入できて良かったのですが、道の駅の営業が終わると、建物に付属した諸々はすべて使用不可となります。そんな事情など知る由もなく、真夜中に急遽、下の「修景池広場」駐車場まで移動。同じ状況の車が、やはり真夜中に何台も移動してきました。我儘なお願いとは思いつつ、出来ればそういった情報はどこかに記載して頂ければと切に願います。ともあれ、その節には「修景池広場」の駐車場をお借りさせて頂けました事、ありがとうございました。m(_ _ )m 

 

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中家住宅 in 熊取町五門西

2023年02月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

熊取町五門西、熊取歴史公園から水路を隔てた先に、平安時代より続く豪農の「中家住宅」が一般公開されています。熊取町の公式HPによれば「中家は平安時代、後白河法皇が熊野行幸の時に立ち寄り、行宮とした由緒ある泉南地方の旧家であり、「中」の家名は、前九年の役(1051~62)に源頼義と共に奥州へ下向した高瀬清原武盛の跡を継いだ嫡男盛晴が、中と改めたことに始まる。室町・戦国時代には紀伊国根来寺の氏人となり、その勢力を背景にこの地方における政治・経済の担い手として活躍。江戸時代には岸和田藩の郷士代官や七人庄屋の筆頭を勤め、谷内には四百石を越える持高を有し、三十軒前後の「家中」と四十軒余りの「内衆」を抱えていたと言う。」公式HPより

中家住宅に南面する「三間薬医門」を入ると、正面に主屋が建っているのですが・・残念ながら時間切れ(^^;)

関係者らしき方から、外観のみの見学なら出来ると言っていただき、二度とない機会かもしれないと有難く拝見させて頂くことにしました。

表門を背にして見上げれば、入母屋造り・茅葺き・妻入りで、周囲に本瓦葺きの庇をめぐらせた主屋が妻面をみせて建っています。錆び朱色の漆喰壁が独特の風情を見せる主屋。

住宅正面の家紋は、後白河法皇が熊野山行幸の折、当家にて作った甘瓜を献上し、それを喜ばれてこれを家紋とするようにお言葉があったことにちなみ、「三つ巴」と定めたもの・・と、これも公式HPに記載されています。

西面し組物をもつ向唐門(重文)や、独特の構造を持ち、近畿地方でも最大規模のものと言われる土間など・・見たい場所は一杯あるのに・・重要文化財指定の建築物を目の前にして、すごすごと引き返す無念さは・・・後を引きます(笑)

屋根の上から、しょげ返る私を見て苦笑いの鬼瓦さん(^^;)。絶対に再訪すると言いながら、結局マンホールカード収集の折さえ時間に追われて果たせなかったと・・積み重ねた小さな後悔がまた一つ増えていくのです。

訪問日:2010年10月8日

 

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円覚山:来迎寺(らいごうじ) in 熊取町和田

2023年02月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

熊取町和田にある曹洞宗寺院「円覚山:来迎寺(らいごうじ)」『阿弥陀如来』を本尊とします。

創建等は不明ですが、かつては熊取町南部の雨山城にあったと伝えられます。後醍醐天皇と足利尊氏との間に起こった延元の乱、南朝方であった雨山城主『橋本正高』は八大竜王を祀り、武運長久、繁栄安泰の祈願堂としていたと云います。当初は天台宗に属し、後に真言宗寺院となり『快山傳秀』を開山とし、元禄2年(1689)に曹洞宗となったと伝えられています。

本堂は、寄棟造、四方三間の小堂で、嘉暦4年(1329)の建立。特に瓦の端部を細くし、1枚ずつずらすように葺き上げる行基葺が特徴。修理棟札に嘉暦(1326~1329)の記があり、様式上もその頃の建築と推定。鎌倉時代の建築様式を持つ小堂で、昭和24年に国重要文化財に指定されました。

本堂駒札の説明に添えられていた「応永31年(1424)銘の鬼瓦」

こちらはそんなに古いものではないと思われますが、それでも独特の風貌は個性的で、他にあまり類を見ません。

留め蓋の獅子さんも、独特の大きな鼻と、たらこ口が得も言われぬ味わいを醸しており、中々に楽しい一対(⌒∇⌒)

境内の一画に鎮座されていた阿弥陀如来坐像

本堂の右手に細くて短い坂道があり、その突き当たりに小さな祠が祀られています。中にはおだやかな笑みを浮かべて静かに佇まれる石のお地蔵様。

祠の前より仏域を守護されるのは文政2年建立の狛犬さん一対。河童を思わせる独特の風貌は、京都市内の神社でよく目にします。

甍の波を照らすお日様、ほんのりとピンク色に見える光に日々の平穏を願って手を合わせます。

参拝日:2015年10月8日

 

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