車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 千葉県旭市・旧旭市

2019年07月31日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

旭市(あさひし)は千葉県の北東部、海匝地域に位置する市です。2005年7月1日、旧旭市、海上郡海上町・飯岡町、香取郡干潟町が合併して誕生しました。銚子市、匝瑳市、香取市、香取郡:東庄町に隣接。市の南部は美しい弓状の九十九里浜に面し、北部には干潟八万石といわれる房総半島屈指の穀倉地帯となだらかな丘陵地帯である北総台地が広がっています。市の中央部を東西に、JR総武本線と国道126号が通り、周辺は市街地として発展。豊かな自然を生かした近郊農業が盛んで、千葉県内第1位・全国第5位の農業産出額を誇っています。「市の木:黒松」「市の花:紫陽花・椿」を制定。

キャッチフレーズは「ひとが輝き海とみどりがつくる健康都市“旭” ~日本一住みよいまちを目指して~」

マンホールには「太平洋から昇る朝日」と「市の花・木:黒松、紫陽花」が描かれています。(カラー展示蓋は、旭市浄化センター内に展示しています)

2005年10月29日制定の市章は【新旭市の将来都市像「ひとが輝き海とみどりがつくる健康都市“旭”」をイメージし、旭(asahi)の頭文字「a」をモチーフに、青色は海を、緑色は豊かな自然を、そして全体のシルエットは、それらの自然と大地の恵みの中で、健康で元気はつらつと躍動する旭市民と、未来へと飛躍する活力ある旭市の姿を表しています。】公式HPより

独自マンホールはまだ無く、見つけられたのは市章付きの上水道関連の蓋が数種。 消火栓、量水器の二種ですが、それでも何も無いよりは・・・

旭市イメージキャラクター『あさピー』。真っ赤なトマトの帽子に緑の野菜の羽。しっぽにイワシの尾びれを持つ、ひよこの男の子。地元旭市の特産品を全身でPRしています。

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旧旭市(あさひし)は千葉県の北東部に位置した市です。八日市場市、海上郡飯岡町、海上町、香取郡干潟町に隣接。市名は「旭日昇天のような勢いをもって発展することを願った」ことが由来とされます。旭市鎌数に鎮座される「鎌数伊勢大神宮」には、砂地という悪条件を逆手に取った「落花生」栽培の成功を記念した碑が、また椎名内海岸にはイワシやアジなどの魚群を網に追い込む「あぐり漁発祥の地」記念碑が建立され、先人の功績を今に伝えています。「市の木:黒松」「市の花:紫陽花」を制定。

旧キャッチフレーズは「人と地域が輝くまち」

明治22年(1889)、町村制の施行により海上郡網戸村・成田村・十日市場村と、匝瑳郡太田村が合併、海上郡旭町が発足。

1954年、海上郡旭町が市制を施行、旭市となります。

旧旭市の集排マンホールには、旧市章の下に「蛍」と「へら鮒」が描かれています。

 
 

旭市鎌数にある袋公園内の溜池は「へら鮒」の釣り場としても有名で、毎年春と秋に釣り大会が行われるそうです。

昭和39年(1964)2月17日制定の市章は「旭日昇天を図案化したもので、日の丸は太陽を、「ア」は波頭と躍進する旭市を象徴しています。」旧公式HPより

上水道関連、市章付き仕切弁

消火栓

防火水槽

撮影日:2014年5月18日&2019年3月11日

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「旭」の名前の由来について、室町幕府滅亡後、当地を治めていた戦国武将・「木曽義昌」(朝日将軍・木曽義仲の19代子孫)は善政をしき、領民に慕われました。時は過ぎ文政7年(1852)、京都の歌人・野々口隆正が当地を訪れ【信濃より いづる旭をしたひ来て 東のくにに 跡とどめけむ】と、義昌公を偲んだ歌を詠み、これにちなんだとされています。

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ご当地マンホール in 千葉県匝瑳市&旧八日市場市&旧野栄町

2019年07月30日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

匝瑳市(そうさし)は千葉県北東部、成田空港からは約 20km の距離に位置する市です。2006年1月23日に八日市場市と匝瑳郡野栄町が合併して誕生しました。北は香取市と香取郡多古町、東は旭市、西は山武郡横芝光町に隣接。「匝瑳」という市名は難読漢字の一つで、市の前身が匝瑳郡一帯であったことに由来します。市域の南部には九十九里海岸があり、市の主要部分は平坦地で土地改良により整地された広大な田園地帯。北部は下総台地の緩やかな丘陵地帯となっています。「市の木:イヌマキ」「市の花:チューリップ」「市の鳥:ウグイス」を制定。

キャッチフレーズは「海・みどり・ひとがはぐくむ 活力あるまち 匝瑳市」

2019年3月時点では匝瑳市の新旧どの自治体にも、独自のデザインマンホールは有りません。

2006年5月14日制定の市章は「海の波と緑の葉を表すデザインで匝瑳市の「匝」の字と、いきいきした匝瑳市民を表し、匝瑳市がシンボライズされています。橙色は「活力」、緑色は「成長」、青色は「未来」を表しています。」公式HPより

消火栓の知章は「八匝(はっそう)水道企業団章」。匝瑳市と横芝光町に水を供給する企業です。

市役所敷地の一角に「基本水準点(水準測量に用いる際の標高の基準)」

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八日市場市 (ようかいちばし) は、千葉県の北東部に位置した市です。旭市、匝瑳郡野栄町、光町、香取郡山田町、多古町に隣接。北部の丘陵地と南部の平坦地から構成され、その南端は九十九里海岸に面しています。植木・苗木の産地として知られており、市名は、毎月八日に市が開かれ、市場町として発展したことに由来。「市の木:イヌマキ」「市の花:ツバキ」「市の鳥:ウグイス」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、匝瑳郡福岡町・平和村・椿海村・匝瑳村・豊栄村・須賀村・共興村・吉田村・飯高村・豊和村が発足。

1915年、福岡町が町名を改称、匝瑳郡八日市場町となる。

1954年、八日市場町が匝瑳郡平和村、椿海村、匝瑳村、豊栄村、須賀村、共興村、吉田村、飯高村、豊和村と合併、八日市場町が発足。同年、市制を施行、八日市場市となります。

2006年、匝瑳郡野栄町と合併、匝瑳市となりました。

マンホールは市章のある規格蓋が、旧市役所前(現匝瑳市役所)に一枚だけ設置されていました。

昭和29年7月1日制定の町章は「「八日一バ」の文字を円形に図案化したものです。」

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匝瑳郡野栄町(のさかまち)は千葉県の北東部、九十九里浜沿いの太平洋に面した町です。八日市場市、光町に隣接。町域には「野手浜海水浴場・堀川浜海水浴場」があり、シーズンには多くの海水浴客が訪れます。「町の木:クロマツ」「町の花:サザンカ」「町の色:グリーン」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、匝瑳郡野田村、栄村が発足。

1954年、栄村、野田村が合併、匝瑳郡野栄町が発足。

2006年、八日市場市と合併、匝瑳市となりました。

昭和52年(1977)9月6日制定の町章は「円の上半分は「の」・円の上二本の線は「サ」・円の下半分は「サ」を表したものです。」

町章のある蓋類は無く、見つけられたのは「八匝水道企業団章」の仕切弁と消火栓のみ。

撮影日:2019年3月11日

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ご当地マンホール in 千葉県多古町

2019年07月29日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

香取郡多古町(たこまち)は千葉県北東部、北総大地の東側に位置する町です。匝瑳市、香取市、成田市、山武郡:芝山町、横芝光町に隣接。町中央部を南北に流れる栗山川の流域は、低地で水田地帯が広がり多古米の産地に。北部及び東部は台地が広がり畑地帯を囲むように山林が緩傾斜面となっています。弥生時代から稲作が盛んに行われ、現在でも多古米はブランド米として知られ、また特産の「やまといも」は、全国2位の生産量を誇り、その生産額は全国1位と言われています。「町の木:サザンカ」「町の花:アジサイ」を制定。

キャッチフレーズは「人・文化・自然 みんなでつくる 潤いのまち 多古」

明治22年(1889)、町村制の施行により、多古村、東条村、久賀村、中村、香取郡常磐村が発足。

1891年、多古村が町制を施行、香取郡多古町(初代)となる。

1951年、多古町、東条村が合併、香取郡多古町(2代目)を新設。

1954年、多古町、久賀村、中村、常磐村が合併、現在の多古町となりました。

集排マンホールには町章を中心に「多古米の稲」と町の花「アジサイ」が描かれています。

昭和50年6月18日制定の町章は「緑豊かな田園都市として発展する多古町の姿をデザイン化したものです。円を支える三本の柱は、農業、工業、商業を象徴し、これらが調和したまちづくりへの決意と願いがこめられています。」町HPより

上水道関連の蓋は、町章付きの消火栓・仕切弁・制水年・量水器。

多古町マスコットキャラクター『ふっくらたまこ』。多古町で生まれ育ち、米づくり農家の夫と子どもがいる新米かあさん。みんなに愛されるお米の妖精です。

町内には、昭和17年(1942)に建てられた「旧多古郵便局舎」が当時のままに残されています。外壁腰壁部分には昭和初期に流行したスクラッチタイルが張られており、建物に堅牢な印象を与えています。

正面入口脇に残された特注の陶板には、郵便局章に桜:葉があしらわれ、今も往時を忍ばせます。

撮影日:2014年5月19日&2019年3月11日

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2014年5月の千葉県への車泊旅では「道の駅・多古」にて車中泊をさせていただきました。「あした葉のジョー」「あじさいだー」等々、ユニークなサイダーの名称は今も語り草😄

そして翌朝一番に買った搗き立ての白餅の美味しさ、今も懐かしく思い出されます。
車で旅をする私達にとって、こうした施設は、本当にありがたく大切な場所です。

改めて、その折は有難うございました🙏🙏

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芝山仁王尊:華麗なる宮彫刻 in 千葉県芝山町

2019年07月28日 08時00分00秒 | 日本の伝統・芸能・技の美

昨日で「芝山仁王尊 観音教寺」の境内紹介は終わりましたが、もう一つ、どうしても外せない「仁王門」

「仁王門」の紹介は一通り終わっているのにと思われそうですが、残したものは、実は彫刻の数々。 寺社彫刻が大好きな私にとって、この「仁王門」は、いつまで見ても見飽きない彫刻の宝庫。 「懸魚」に踊る龍にはどうやら翼があるようで、とすればこれは伝説の霊獣「翼竜」。四龍を率いる龍の王たる存在。

「斗栱(ときょう)」の隙間部分にさり気なく掘り込まれているのは「木菟(ミミズク)」の彫刻。

古来より木菟は魔除けと幸福をもたらす鳥とされており、壁にその所在場所が記されていました。 それにしても何と言う素敵な遊び心でしょうか😄 彫り上げた時の職人の顔が目に浮かびます。

畳敷きの内陣の奥に収められている「お仁王様」。早朝ゆえか内陣の扉は固く閉ざされています。 残念ながら「お仁王様」は拝観できませんでしたが、代わりに扉に彫刻された龍は全部見ることができました。

一見同じように見えて、実は全ての龍がそれぞれ異なった姿を見せて、小さな升目に収まっています。高みを見上げるもの、飛翔せんと身構えるもの、固くわが身を丸めたまま息を潜め何かを待つもの。おそらく全ての龍にそれぞれの物語があるのでしょう。

寺社彫刻の大スター的存在とも言える「龍」は、通常だと左右の門にあたる場所の上にもいます。 その行く手にあるものの確かな存在を見知っているかのように、ひたすらに前を向いて進む「龍」。

一方、何度も何度も後ろを振り返る「龍」。その目線の先にはひたすらに着いてくる小さな「龍」の姿があります。 伝説の霊獣とされる龍ですが、こうして彫刻に現された姿には万物共通の親子の慈愛が感じられます。

「龍」に負けない寺社彫刻の花形は、貫から下界の四方を見下ろす獅子たち。こちらも流石の迫力。

古来より「獅子」は守護に長けた霊獣として、神社仏閣の様々な場所で活躍しています。 ついでに書いちゃうと、神社に良く見られる狛犬では、角が無いものだけを「獅子」と呼びます。

木組みの僅かな隙間に掘り込まれた唐獅子と牡丹、獅子は神威ある霊獣、牡丹は百花の王で、この取り合わせは最強とされています。

大切な建築物に「水」に関わるものを彫刻するのは、火災除けのまじない的意味合いからとされます。 「波間に遊ぶ千鳥」は、そうした意味も含めながら、なおかつ装飾性を失わない美しい構図。

これも同じ意味合いを持ちますが、特に玄武は四神獣の一つ。守護と火防を併せ持っています。

実際にはもっと多彩な彫刻があるのですが、それを収めるには私達の腕とカメラでは役不足😔 それでもファイルに保存したアルバムを見返すたびに、その時の記憶は鮮明に蘇ってきます。

参拝日:2014年5月19日&2019年3月11日

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芝山仁王尊 観音教寺~其の三 in 千葉県芝山町

2019年07月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

境内「三重塔」に向かって進むと、小高い丘状の地に、寛政8年(1796)造立の「山王社」があります。 古来より天台宗寺院において『山王大権現』は「比叡山・天台宗」の鎮守神とされているそうです。

山王とは、比叡山に鎮まる神を指したもので、比叡山麓の日吉大社より生じた神道の信仰。 比叡山に延暦寺が創建された時、『最澄』によって地主神を「比叡社」に祀ったのが始めとします。

文化年間、かって天神山と呼ばれる山上に、当地の名主が建立したと伝えられる「芝山天神」。 昭和57年(1982)に、当寺境内に遷座されました。成人の日に行われる天神祭には合格祈願を願う親子連れで賑わうそうです。

「天神様」というと神様というイメージですが、ここではよい意味で神仏が混在しています。 神も仏も共に人の心の内にある・・宗教の名の下、神の名の下に争い、命を奪うことを聖なると叫ぶ・・他を排する一神教には存在しない、そのおおらかさが好きです。

「観音堂」が、神の依り代とされる鳥居の向こうに祀られているのも、ここでは当たり前の光景に見えてきます。

扉の格子から拝観させていただいた内側には、幼い赤子を抱く「慈母観音」のお姿がありました。

芝山天神社と絵馬架けの間に祀られているお堂には扁額が無く、したがってお堂の名は不明。

堂内には、右手に「金剛杵(こんごうしょ)」を持つ僧の姿があります。思い当たる御方はいますが、実際にどなたを現されているのかわかりません。

ともすれば見落としそうな小さな祠の中に佇むのは、多分「魚籃(ぎょらん)観音」。 そう思った理由は単純に「観音様が魚を持たれているから」ですが、意外と当たっていそうです。

「杉家歴代句碑」、杉家始祖から四代飛鳥園までの七つの句が刻まれています。【散りしあと さかぬさきこそ花恋し:杉家始祖採茶庵杉風】【人知らぬ 杉ももみじも年の坂:杉家二祖白兎園宗瑞】【なかぬ日は 啼かぬでさびし閑古鳥:初代飛鳥園一叟】【空の事 いはぬ日はなし子規:五世飛鳥園(天老坊)貞哉】【夕立や 雨にあめうつ石の上:二代飛鳥園南無坊寂阿】【はるの雪 昨日は雨の降りにけり:三代飛鳥園天随坊貞翁】【名月や 月ともいはず一しきり:四代飛鳥園再生坊天堂】

境内には、奉納時期も奉納の趣旨も判読できない多くの碑や石仏が、整然と建立されています。 その一基ごとに、当時を物語る人の想いが籠められている気がして、つい立ち止まってしまいます。

明治維新以降、幾度かの戦争や事変に出征し戦死された方たちの為に建立された「忠魂碑」。 その前に立った時、きまって胸をよぎるのは鎮魂と感謝の想いと・・ある種の申し訳なさです。私たちはただ頭を垂れ「今日の日を有難うございます」と伝えます。

参拝日:2014年5月19日&2019年3月11日

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芝山仁王尊 観音教寺~其の二 in 千葉県芝山町

2019年07月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

「芝山仁王尊」、昨日は主だった境内の様子を紹介しましたが、今日はそれ以外のお堂などを。 駐車場から続く急な石段を上がった先に、一瞬受付かな?と見間違えた「大黒堂」があります。

願い事をする際に、「大黒様」がにっこり微笑んでくれると、願いが叶うんだそうですが、さてこのしかめっ面を笑わせるななんて、できるんでしょうか?。

「大護摩堂」は、大正13年(1924)にもと客殿として建立されたお堂。現在は護摩をたき、修法を行うための仏堂として、慈悲の観音様、力の権化の仁王様の浄火によって「行」が行われます。

石段を登りきると広い境内が見えて来ました。まずは手水舎で心身を清めます。 手水鉢に刻まれた文字は「洗應揖」。意味は「洗って応に揖(ゆう)すべし」。 「揖(ゆう)す」とは、上体をかがめて会釈をすると言った意味ですが、でも難しい言葉ですね。

手水舎のすぐ近くには、芭蕉翁の句碑 【観音の 甍みやりつ 花の雲】

そこから境内の左手を奥に進むと、小雨の中でしっとりと佇む桧皮葺の「不動堂」に至ります。 ここに祀られているのは、岐阜在住・安田家の守り本尊であった『不動明王』です。

安置に至るには、守り本尊であった『不動明王』とそれを持った人との不思議な縁がありました。公式のページに詳細に語られているので、興味ある方はそちらを一読ください。

「黒龍大王神」のお堂に祀られるのは『己巳尊(つちのとみ)』。大蛇の本地で、観音の使いとされます。 その昔、当山にかかった見世物小屋の大蛇が死んだ時、龍神様が夢枕に立たれ、「大蛇はこの地に安置せよ」とのお告げを受けた興行師が奉納。ここに奉安されたと伝えられています。

不動堂の近くにあった「名馬 吾妻之塚」碑。大正11年(1922)に下総御料牧場内に建立されたものですが、成田空港建設に伴い当寺に移されました。

享保4年(1719)建立の「芝山稲荷」は、昭和54年(1979)の本堂の曳き上げに伴い現在地に移転されました。今も多くの善男善女に大切にお守りされています。

本堂左手に併設された「芝山はにわ博物館・芝山ミューゼアム」。館内には千葉県内から出土した埴輪や、古墳時代の考古遺物が展示されているそうです。

はにわ博物館前に、万葉歌人の大家として知られる『窪田空穂(くぼたうつぼ)』自筆の歌碑。【くだら佛師 いまだ来ぬ日をあづまなる 總に住みける この埴師はよ】

「シベリア乃・・」で始まる歌碑は、裏に「平成15年歌会始の儀詠進歌 お題:町」とあります。 全文が知りたくて探しましたが、該当する年の詠進歌には見当たりませんでした。

「芝山仁王尊 観音教寺」の拝観散策、長くなるので続きは明日😊

参拝日:2014年5月19日&2019年3月11日

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芝山仁王尊 観音教寺~其の一 in 千葉県芝山町

2019年07月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

芝山町芝山にある天台宗寺院「天応山 観音教寺 福聚院」。上総国薬師如来霊場第28番、新上総国三十三観音霊場第33番の結願寺としても知られ、『十一面観世音菩薩』を本尊とします。

2014年に続いて二度目の参拝となった今回、実はお目当ては「仁王尊」が座す「仁王門」。この寺の別称でもある「芝山仁王尊」は、こちらの仁王様が由来。明治2年(1869)起工、明治15年に完成した総欅造り・お堂形式の建物で、仁王門と呼ぶよりも「仁王堂」の方がしっくりくる外見。

通常「仁王像」は仁王門より仏を守護するとされますが、ここでは「仁王尊」が主役。「お仁王様」と呼ばれる仁王尊は、そのあまりの霊験ゆえに、観音様の化身と考えられるに至りました。 その為、畳敷きの内陣の奥深く、須弥壇の上に安置され、お祀りされるようになったと云います。 この日は早朝だったためか、内陣の扉はしっかりと閉ざされており、拝観は叶いませんでした。この為の再参拝だったのに・・縁が無かったのでしょう。

江戸時代までは、成田山新勝寺と信者を二分するほどの隆盛を誇っていたと云う「芝山仁王尊」。仁王門の内側に奉納されたたくさんの奉納額や周囲の碑が、その隆盛を物語っているようです。

火事・泥棒除けの仁王尊天として、江戸の町火消が纏を先頭に競って参詣したと伝えられる芝山仁王尊。時代劇や小説等に登場する、有名な『新門辰五郎』率いる「を組」の記念碑が、境内に建っています。

厄除け観音として信仰を集める御本尊をお祀りする本堂は、享保6年(1721)建立の優美な建物。 寺歴には【天応元年(781)、征東大使『藤原継縄』がこの地を訪れ『十一面観世音菩薩』を安置したのが始まりとされ、その後は『千葉氏』の帰依を受け、隆盛を誇ったと伝えられます。】

堂内には『狩野常光』筆の天井画、夏枯れの松の伝説を表わす欄間等、多くの文化財が有ります。 撮影禁止ゆえ、その美しい彫刻や天井画は紹介できませんが、懸魚や貫にも一見の価値ありです。

本堂から続く細い通路には、道なりに沢山の石仏が並び、その向こうに優美な「三重塔」が見えます。

軒廻りは、初重・二重共並行垂木。三重は扇垂木で、屋根を大きく見せる工夫が為されているとありました。

寛政9年(1797)、四十二世秀暁代に再建を発願し、天保7年(1836)四十六世湛定代に九輪完成。 五代の住職の四十年に亘る大事業で完成した「三重塔」は、千葉県の有形文化財に指定されています。

境内にはまだ多くの堂宇や碑等があり、また仁王門には目を見張る彫刻も残されています。それはまた明日のブログで画像を添えて、できるだけ詳細に紹介したいと思います。

参拝日:2014年5月19日&2019年3月11日

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ご当地マンホール in 千葉県芝山町

2019年07月24日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

山武郡芝山町(しばやままち)は千葉県の北東部、山武郡の最北端に位置する町です。成田市、富里市、山武市、山武郡横芝光町、香取郡多古町に隣接。都市雇用圏における成田都市圏に含まれており、北総台地のほぼ中央、成田国際空港の南側に位置し、町域の殆どが航路の真下にあります。町内には、5世紀から7世紀ごろまで作られた古墳群があり、埴輪などが多数出土。現存する古墳だけでも99基あり、消滅したものを含めると計280基の古墳が存在したことが確認されています。

「芝山」の由来は町の南部にある観音教寺の別称「芝山仁王尊」によります。「町の木:山桜」を制定。

キャッチフレーズは「活力ある 緑の大地と空がふれあうまち・芝山」

明治22年(1889)、町村制の施行により、武射郡二川村と武射郡千代田村が発足。

1897年、郡制の施行により、山辺郡・武射郡の区域をもって山武郡が発足。

1955年、二川村と千代田村が合併、山武郡芝山町が発足。

マンホールには、「成田空港の飛行機・埴輪・町の木:山桜」が三つの輪の中に描かれています。

もう一種には「町内の古墳から出土した馬型埴輪」と、周囲に「町の木:山桜」が描かれています。

下の「馬型埴輪」はわかるけど、上に重ねた顔は何だろう?埴輪トーテムポール??

昭和41年2月17日制定の町章は「円型は合併の和と結束とを示し、4枚の翼は町の飛躍を表しています。 」公式HPより

道の駅「風和里しばやま」でお客様をお迎えするのは、芝山町キャラクター『しばっこくん』。町内で出土した「人物埴輪」が、ある日下界に飛び出し、翼をもったの男の子になりました。翼についているサンダーソニア風ロケットエンジン「ソニアジェット」と、芝山町章を逆さまにしたような顔がチャームポイントです。

撮影日:2014年5月19日&2019年3月11日

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2014年5月、2019年3月と二度の千葉の旅では、「道の駅:風和里しばやま」で車中泊をさせていただきました。真夜中の白子海岸の波の音が強烈だっただけに、飛行機の音はとても素敵な子守唄代わり。 はじめて食べた「いちじくベーグル」はとても不思議な味わいで食べ応え十分でした😊

そうそう、イチゴは本当に甘くて美味しくて、口の中一杯に春を堪能したのも素敵な思い出です。車で旅をする私達にとって、こうした施設は、本当にありがたく大切な場所です。

改めて、その折は有難うございました🙏🙏

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『伊藤左千夫』を訪ねる in 千葉県山武市

2019年07月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

小説「野菊の墓」で知られるアララギ派の歌人『伊藤左千夫』。山武市役所の横にある「伊藤左千夫記念公園」には、彼の代表作と言われる「野菊の墓」発行時の挿し絵を基にした、主人公、政夫と民子の像があります。

野菊をつむ民子に「民さんは野菊のような人だね」と話しかける政夫・・映画などでお馴染みの、有名な一場面。『木下惠介』監督脚本により「野菊の如き君なりき」のタイトルで、最初に映画化されたのは昭和30年(1955)。 明治という時代背景の中で、身分の違いを超えた恋は叶う筈も無く結末は悲恋で終わります。

記念公園の一画には、「伊藤左千夫を歌う」と題して、アララギ派八歌人の歌碑があります。

まるで円形ステージを思わせるスペースに並ぶ歌碑は、一二度は見聞きした歌人の名。たて川の 茅場の庵を訪ひ来れば 留守の門辺に柳垂れたり:正岡子規」「立川の 茅場の庵は青田風 時じくに吹く椎の若葉に:島木赤彦」「この庭の 槐(えんじゅ)わか葉のにひみどり にほへる蔭にわれ立ちにけり:古泉千樫」「千葉の野を 越えてしくれば蜀黍の 高穂の上に海あらはれぬ:長塚節」

一応『伊藤左千夫』と題したブログなので、彼の歌碑は別枠で😊

【九十九里の 波の遠音や降り立てば 寒き庭にも 梅咲きにけり】

こちらは記念公園入り口に建立されていた、「野菊の歌」五首と「ほろびの光」五首の歌碑。

訪問日:2019年3月10日

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『伊藤左千夫 (本名:孝次郎)』は、元治元年(1864)8月18日、上総国武射郡殿台村(山武市松尾町)の比較的裕福な自作農の四男として生まれました。

生家である藁葺きの母屋は、約200年前の建築で、この地域のごく一般的な中農の家構えだと言います。『左千夫』はここで多感な少年時代を過ごし、やがて明治法律学校(現・明治大学)に進学するも眼病を患い挫折。失意の内に帰郷します。

その後、牛乳搾りをするかたわら短歌を学び、三十七才の時に正岡子規に感化され彼に師事。 子規の没後は、短歌雑誌『馬酔木』『アララギ』の中心となって、多くの著名歌人を育成。 自らを牛飼と呼んだ【牛飼が 歌よむ時に世の中の あらたしき歌 おほひに起る】は良く知られており、旧家跡に碑として建立されています。

敷地内の茶室は、同じ山武郡出身の友人であった『蕨真(けっしん)(蕨真一郎)』から贈られたもので、昭和16年(1941)に東京の自宅から現在地に移築、生家と共に保存されています。 子規から「茶博士」と呼ばれるほど茶道に通じ、心の底から「茶の湯」を愛した『左千夫』。 彼はこの茶室を「唯真閣(ゆいしんかく)」と呼び、終生愛着をもっていたと伝えられています。

『伊藤左千夫』の歌風は万葉集を尊重して雄大であり、東洋的な諦念が底流するといわれています。 私には歌の良し悪しは分かりませんが、それでも「ああ、美しい」と思える歌は作者が誰であっても心を惹かれます。

【久々に 家帰り見て故さとの  今見る目には 岡も河もよし】

彼の中にある故郷、岡も河も美しい故さと。その記憶があの美しい「野菊の墓」の舞台を生み出したのか・・彼の歌を見ているとそんな事が頭をよぎります。

さて・・上の画像は全て2014年の訪問の時の物。できれば「私」が付いていない建物だけの画像が欲しくて、2019年に再訪したのですが・・・・・結果は見るも悲しい「改装中」😱 下調べが足りなかった事を悔やむしかありません。遠方からわざわざ回り道をしてこの結果は、正直・・心折れます😭

訪問日:2014年5月19日

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五所神社 in 千葉県山武市蓮沼

2019年07月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

山武市蓮沼に鎮座される「五所神社」。御祭神は『天照大神』。明治5年まで「五所大権現」と称された古社で、『誉田別尊・天児屋根命・表筒男命(うわつつのおのみこと)・素登織姫命(そとおりひめのみこと)』を配祀。

社伝では、海中から出現した鏡を御神体『天照大神』として祀ったのがはじまりと伝えられ、これに八幡・春日の二神『誉田別尊・天児屋根命』を併せ祀って「三社大明神」と称し、さらに『表筒雄命、素登織姫命』の二神を併せ「五所明神社」「五所権現社」としました。

由緒に【『高倉天皇』の御宇、承安元年に創建される。永仁年間、『領主:遠山出雲亮』の寄進による懸仏をはじめ、『源頼朝公、水戸光圀公、堀田相模守』その他地頭の崇敬篤く数々の寄進があった事は古文書により明らかである。特に上総国山辺荘の総社と称せられ、享保二年神祇官より正一位に増位の宣旨あり、鎮座地殿台も『源頼朝公』が奥州『藤原泰衡』を征するにあたり、本社へ武運長久を祈り、兵力を休養されたところという。】

現在の本殿は正徳元年(1711)12月の再建。桃山時代の遺風を残す建造物で、唐破風・千鳥破風、入母屋造・栩葺きで身舎は数多くの彫物で装飾され色彩が施されています。 と説明されても、このように覆屋の中ではその類を見ない素晴らしさの片鱗も伺えません😔 千葉県有形文化財の指定ということなので、せめて写真でも側に添えてくれたらと思うのですが、誰も興味ないのでしょうか?

九十九里沿岸の横芝町から一宮町にかけて鎮座される「浜の七福神」。五所神社は『大黒天』

浜の七福神めぐりは、室町時代の末期に始まり、民間信仰の最も完全な形となって育てられたといわれています。 この朱印は拝殿に用意されており、「有富蓄財」の文字に惹かれて頂いて来ました。

「護国神社」は、当地の御英霊が祀られているのでしょう。近くには忠魂碑が建立されています。

境内社として「日月神社・箭指神社・八幡神社・三峯神社」が祀られているとありました。 ただ、お社らしきものは無く塀の内は石祠、他にも七基の石の祠が祀られています。

拝殿近くに奉納されていた「貞亨三年奉納の石灯籠一対」は、旧・蓮沼村の有形指定文化財。 と・・ここで画像確認をして気がついたのですが、後ろの建物・・・何だったんでしょう😲

大きく傾いて枝を広げる巨木には注連縄が巻かれており、おそらくこの神社の御神木と思われます。思われますが何の木なのかわかりません。「わかりません」が多すぎて消化不良です😔

参拝日:2019年3月10日

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