車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

歴史的建築物を訪ねて~其の四 in 福島県会津若松市

2024年10月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市相生町にある「カフェ雑貨:瑞祥館」。ご当地マンホールを通じて知り合った会津若松市にお住いの大切なお友達と、今日ここで今から会うのです。

HPとメールのやり取りでしか知らなかった方、今日初めて生の声を聞いた女性が、今現実に私の前に座り、まるで旧知の間柄のようにおしゃべりを楽しんでいる。そして「いつか・・また是非会いましょう」という言葉が現実的でない事を百も承知で、話の合間ごとに何度も繰り返すのです。

戊辰の役の刀傷が残る店内で、お店の方にお願いして写していただいた三人一緒の写真。見返すたびに甘酸っぱいような記憶と共に、彼女の優しい笑顔が浮かんできます。

楽しい時間は本当にあっと言う間、俊足ランナーでも勝てっこない速さで過ぎていき、私たちは再び会津若松市内に残る建築物を訪ねて歩きだします。

「会州一酒造」を後にして歩きだした二人の前に心惹かれる佇まいは「真言宗寺院豊山派寺院「自在院」『大日如来』を本尊とします。

お寺さんなれば、会津藩士の墓もある筈。せめて手を合わせ、隊士たちの後生を祈りましょう。

形ばかりの参拝を終え、会津若松市博労町の最初は、昭和2年(1927)築の「旧若松庶民金庫」。木造2階建、タイル張りのファサードや開口部の上げ下げ窓に特徴のある洋館風の建物は、市歴史的景観指定建造物です。

同じく、市歴史的景観指定建造物の「神禧堂薬館」は明治36年(1903)築。土蔵二階建て、切妻、平入の白漆喰仕上げ。一階部分には一間の下屋が張り出しています。元禄年間の創業当時は、仙台屋と称する会津藩御用の「正阿弥細工仕入所(刀の鍔などの販売所)」でしたが、後に薬の販売が主流となりました。

1993年に改修工事を行い、二階を「金看板資料館」とし、当時の看板と関連資料、生活用具など会津の町方文化を紹介しています。

続いて明治25年(1892)築の「松本家住宅及び土蔵(市歴史的景観指定建造物)」

造り酒屋として建てられた仕込み蔵をはじめとし、座敷蔵や住宅等の数棟の家並みが旧甲賀町通りにひっそりと佇んでいます。

会津若松市内に残る歴史的建築物、明日に続きます。

訪問日:2015年6月30日

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蚕養國(こがいこく)神社 in 福島県会津若松市蚕養町

2024年10月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市蚕養町に鎮座される「蚕養國(こがいこく)神社」。御祭神は『保食大神(うけもちのおおかみ)・稚産霊大神(わくむすびのおおかみ)・天照大御神』。養蚕守護の総本社とされます。

「日本一社にして延喜式神名帳にある、陸奥一百座の一つ。記紀神代の巻に、「軻遇突知命(かぐつちのみこと)、埴山姫命(はにやすひめのみこと)を娶り、稚産霊命を生奉る。此神の御頭より蚕生れ出でし。」とあり、これが我国の養蚕の始まりである。皇弘仁2年(811)鎮座、承和年中に官社に列せられ、延喜式選定の折、式内の社となる。寛弘7年(1011)に社殿を造営。その時の神官を、蚕養蔵人という。後、兵火のため社殿炎上。保科正之侯により社殿以下を造営。文化4年社殿焼失し、文政2年(1819)松平容敬公、社殿以下を造営、 今日に至る。」公式HPより

この日は「どぶろく祭り」と重なり、境内には沢山の関係者、氏子の方、また参拝者で境内は人の波。これでは御朱印は無理かと半ば諦めつつ御神職の方にお声がけしたところ、思いもかけず優しい言葉をかけて頂き、美しい御朱印を頂く事が出来ました。今更ではありますが、改めて心よりお礼申し上げます。

お蚕さんの繭で作られた、拝殿内奉納額

境内拝殿前より神域を守護されるのは大正三年建立の狛犬さん一対。阿形さんの口元は何があったのか・・・もしや東北大震災の影響ではと思いつつ、何方にも聞く事は出来ませんでした。

境内の一画に枝を広げる「峰張桜」。会津五桜の一つで、寛弘7年(1010)に植えられたと云われています。

右に神楽殿、左に拝殿・幣殿・本殿が小さく見えています。境内には「五社稲荷神社」「鬼渡神社」「護忠霊神」「和霊々社」「宗像神社」の末社もあった筈なのですが、人の多さに負けて・・、と言うよりも邪魔にならないように境内を後にしました。

そうそう、こちらの神社で「灯籠の奉納額」なるものを始めてみました。

阿吽の龍に護られるように、中央に「常夜燈」と刻まれた石造りの奉納額。これまで沢山の府県を訪問し、沢山の神社に参拝させて頂きましたが、まだまだ知らない事が沢山あります。

このあと福島県車泊旅の目的の一つ、会津若松市にお住いのお友達に会いに行きます😊 携帯を持つ手が震えるくらい、嬉しくてドキドキが止まりません。

参拝日:2015年6月30日

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会津松平氏庭園-御薬園 in 福島県会津若松市花春町

2024年10月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市花春町の一画に、会津松平氏庭園として国の名勝に指定される「御薬園」。その起こりは今からおよそ635年前に遡ります。

「葦名七代直盛が築いた東黒川館の北の方角に、大田谷地という野原があり、その一軒の農家に病気で難儀する喜助というものがおりました。朝日保方という白髪の老人が鶴の舞い降りた泉の水で喜助を介抱し、やがて喜助はもとのからだに戻りました。保方老人はそれを見届けるようにしてこの世を去りました。喜助は疫病から救ってくれた恩人・保方を霊泉の傍らに手あつく葬り、祠をたてて朝日神社とし、霊泉の泉を鶴ケ清水と名付けます。」公式HPより

永享4年(1432)の頃、十代盛久は、この地は霊地であるとして四角四面に区切り別荘を建築。十六代盛氏の頃は葦名氏の全盛期で、盛氏は別荘を復興。これが御薬園の創始とされます。その後、時代は伊達・蒲生・上杉・再蒲生・加藤と移り永い戦乱が続いたため、別荘はまったく顧みられませんでしたが、松平氏藩祖保科正之は霊地の由緒を正して庭園を整備し、保養所として用いるようになりました。

現在の庭園は三代正容(まさかた)の時代、元禄9年(1696)小堀遠州の流れを汲む園匠:目黒浄定(じょうてい)と、普請奉行辰野源左衛門の手に成るもので、規模を拡大し借景を取り入れた池泉回遊式の大名庭に大補修を加えたものです。

心字の池の中島(亀島)に建てられた数寄屋風茅葺の平屋「楽寿亭」。主として藩主や藩重役等の納涼や観光の場であり、茶席として用いられました。

御薬園は、借景庭園の池泉回遊庭園型に入るといわれます。築山を設け、山・川・海・林・野などの要素を、水流・池・植込み・芝などにかえて、ひとまとまりの区画の中に表現。更に池の周囲に一定の園路を設けて茶亭などの建物を配し、園路を進むにつれて庭の変化を楽しむという回遊式の技法がとり入れられています。

寛文10年、二代藩主正経は、貧しい領民を疫病から救い、病気の予防や治療などを施したいとの願いから、園内に薬草園を設け、各種の薬草栽培を試みます。三代藩主正容の貞享年間から次第に薬園が整備拡充され、御種人蔘(幕府から人参種子を受けた事から付けられた名)を試植。これを広く民間に奨励したことから、領民からお殿様の薬園、御薬園と呼ばれるようになりました。

朝鮮人参(御種人蔘)の実

戊辰戦争の戦火の中にあって、御薬園は長屋門が焼け落ちた他は、建物・庭園ともほとんど昔のままの姿で残りました。それは、御茶屋御殿がいち早く西軍戦傷者の為の治療所にあてられたからです。

御茶屋御殿に残る刀傷は、西軍が気晴らしに斬り付けたものと言われており、御薬園での戦闘は行われていません。(気晴らしで柱に傷をつける感性は・・如何なものか)

戊辰戦争後、『藩祖:保科正之』を祠る猪苗代の「土津神社」「御薬園」「鶴ヶ城」は、松平家所有という理由で没収され、官有地となりました。これを憂いた若松柳原の豪商『長尾和俊』は、「土津神社(土地・立木・灯篭)」と「御薬園」を買い戻そうと若松の『林与市・森田七右衛門』、猪苗代の『中原丈八・六角尚謙・五十嵐幸五』等と相い計り、会津一円に募金を呼びかけ、運動に立ち上がります。明治5年(1872)から6年かけての募金は個人767人、82カ町村の浄財。その額は当時の金額で2,122円50銭(およそ4500万円)に達しました。官軍によってあらゆるものを奪いつくされ、決して裕福ではなかった筈にも関わらず、会津を愛する多くの人の力によって支えられてきた「会津の魂」は、こうして現代に引き継がれてきたのです。

昭和3年(1928)、昭和天皇の弟宮『秩父宮雍仁親王殿下』と、松平恒雄の長女『松平節子(せつこ)姫』とのご婚約が成立し、節子姫御一家の来若を歓迎するため、東山温泉新滝旅館に三階建の別館が建てられました。ご成婚に際し、貞明皇后陛下の名「節子(さだこ)」の同字を避け、皇室ゆかりの伊勢と会津松平家ゆかりの会津から一字ずつ取り、同音異字の「勢津子(せつこ)」の名を貞明皇后陛下より賜りました。その後、昭和48年(1973)に御薬園への移築が決まり、秩父宮妃殿下により「重陽閣」と命名。

2009年9月9日には「秩父宮妃勢津子殿下ご生誕100年」を記念し、御殿場にある秩父宮記念公園より、「プリンセスチチブ」が寄贈。勢津子妃殿下ゆかりの建物である重陽閣の前に植えられました。

昭和46年(1971)にイギリスのJ.ハークネスから秩父宮妃勢津子様に捧げられた薔薇「プリンセスチチブ」。強健で耐病性に優れ寒さに強く、その照葉も美しいローズピンクの薔薇は、会津の姫君にこれ以上ない相応しい気品と美しさで、私たちを迎えてくれました。

藩主の休息のほか上席の役人や藩御用達頭取の元締などが、招かれ、お褒めの言葉や御酒を賜る時などに利用された「御茶屋御殿」。往時の傷跡が伝える会津の歴史に思いを馳せつつ眺める庭園は、ただ凛として美しい。

磐梯は 遥けく青し 凌霄花(のうぜんか)  篠田悌二郎】 江戸の町火消しだった祖父:岩崎鎌蔵が、容保を慕って会津に移り、戊辰の役では会津の籠城戦に加わっていた縁から、本人の強い要望で会津のこの地に建立。

明日は養蚕守護の総本社として知られる「蚕養國神社」の紹介です。

訪問日:2015年6月29日

 

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歴史的建築物を訪ねて~其の三 in 福島県会津若松市

2024年10月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市門田町一ノ堰村東にある「会津娘(あいづむすめ):髙橋庄作酒造店」。髙橋庄作酒造店が酒造りをはじめたのは明治はじめ、戊辰戦争後まもなくのことと言われています。

「その土地の人がその土地の米と水を使い、その土地の手法で仕込む『土産土法の酒造り』を目指す」をコンセプトに、酒蔵の目の前の自社田で農作業に勤しみ、寒くなれば白漆喰壁に赤瓦屋根の酒蔵で、自ら収穫した酒米をつかって酒を醸す。・・・と、ここ迄調べていて素通りできるようでは「酒好き」とは言えないと力説するご亭主殿。ハイハイ、後でね😅。

会津若松市材木町、薄黄色の漆喰で仕上げられたが外壁が特徴の「林家住宅」。昭和2年(1928)築の木造漆喰壁下見板張り、入母屋瓦葺二階建。大規模邸宅として、国登録有形文化財に、また市歴史的景観指定建造物にも指定されています。

瓦葺き屋根の下の庇は銅板葺きですが、外から垣間見るのはこれが限界。人様のお家は、文化財で有ろうと無かろうと、遠慮しながらが当たり前なのです。

会津若松市川原町、「関善吉薬局」は大正4年(1915)築の土蔵造2階建、瓦葺。旧下野街道に北面して建つ土蔵造二階建で、正面に下屋を付し、外壁は黒漆喰で出桁造の軒先まで塗込めています。下屋境に防火対策で漆喰塗の大型引戸を備えるなど、当時の商家の有様を示すものとして国登録有形文化財、市歴史的景観建造物の指定。

会津若松市西栄町、「日本基督教団若松栄町教会」は明治44年(1911)築。木造2階建、下見板張りで鉄板葺。

塔屋付のゴシック式教会堂で、会堂部の外郭はラテン十字を描いており、ヴォーリズ設計の福島教会を手本としたと伝えられています。45度振った玄関部に尖塔付きの角塔をたちあげ、礼拝堂内のタイバーを用いた架構も時代性をよく示しており、貴重であるとして国登録有形文化財に指定されました。

当寺、近くの「会陽院」に薬局生として、医学・英・仏語を学んでいた『野口清作』、後の『野口英世』は、明治28年(1895)に19歳で洗礼を受けており、敬虔な英世の精神を今に受け継ぐ教会は、野口英世青春通りのシンボルとして活用されています。

会津若松市東栄町、「会津若松市役所」は昭和12年(1937)築で、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造り3階建て。装飾柱にはアカンサスの葉飾りと渦巻き模様があり、古代ローマの建築様式の一つ「コリント式」を模したものと案内に書かれています。

アーチ形の正面玄関から中に入ると、まず上り階段にある大きなステンドグラスが目に入ります。

ステンドグラスの模様は「會」の字をデザインした市章がモチーフ。こうした例は全国的にも非常に珍しいと言われています。

「ステンドグラスの作者は記録が残っておらず、長らく不明だったが、県外の研究家からメールがあり、磐梯町出身の大田広喜の作品だと分かった。明治から昭和のステンドグラス創成期を支え、インテリアデザイナーとして活躍。新宿ほてい屋(現伊勢丹)の内装も手掛けたとも伝えられている。大田は本庁舎落成の翌年、歩兵第29連隊(若松連隊)に入隊し、日中戦争で戦死。これが遺作になったという。」福島民友新聞HPより

何処を切り取っても美しい内装。こんな市役所なら、用事が無くても毎日立ち寄ってしまいそうだわと話していたら、後ろを通りかかった人がクスッ😊と微笑んで会釈をして下さいました。

登録文化財にも、市歴史的景観指定建造物にも指定されていませんが、素晴らしい建物を見せて頂きました。

ここから会津藩縁の「御薬園」に向かいます。どんな景色、どんな心象風景に出会えるのか楽しみです。

訪問日:2015年6月30日

 

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阿弥陀寺の御三階(ごさんかい) in 福島県会津若松市

2024年10月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市七日町に門を構える浄土宗寺院「正覚山:阿弥陀寺」。今からおよそ400年前『良然上人』により開山されたと伝えられます。鶴ヶ城の遺構として現存する唯一の建築物「御三階(ごさんかい) 」があり、また会津藩士たちが眠る墓所としても知られています。

戊辰戦争により、阿弥陀寺の建物は焼失。明治3年(1870)、廃城となった鶴ヶ城から御三階を移築し、仮本堂として長きにわたり使われていました。鶴ヶ城の小天守にあたる建築物で、外見は三階建て、内部は四階建てという特殊な構造をしており、文政元年(1824)以前の建築と言われています。玄関部分の豪華な唐破風は、鶴ヶ城本丸御殿の玄関の一部を移したものです。

一対の狛犬に護られて静かに眠る「戊辰戦争戦没者の墓」

敷地全域には戊辰戦争の戦没者1300名の遺骸が埋葬されています。この地への埋葬の経緯も・・飯盛山と同様に推して知るべし。新政府軍=民政局によって半年以上も放置された遺骸に対し、度重なる埋葬嘆願の願いを無視しきれなくなった民生局は、渋々ながら藩士の馬や罪人を埋葬してきた不浄の地を指定。あまりの事に憤る藩士たちの反発に慌てたた民政局は、藩の処刑場近くなら黙認すると言い出し、そこで、涙橋近くの寂れていた阿弥陀寺に埋葬することになりました。そこからの一連の顛末・・是非リンク先を一読下さい。

埋葬にこぎつけても墓標を建てることは許されず、明治6年(1873)に墓碑を建てる事が許可されますが、許された文字は「戦死墓」の3文字のみ。敗者となった会津藩士に対し、何処までいたぶれば気がすむのか、何処まで傲慢になれるのか。藩主を想い、どれほどの恥辱を加えられても耐え続けた会津藩士の方々に・・・今はただ、ただ、心から賞賛の祈りを捧げます。

「明和五年(1768)戊子」と刻まれた墓地前の灯籠2基は、鶴ヶ城内にあった東照宮に奉納されていたもの。開城後、東照宮は官軍によって破壊され撤去されましたが、灯籠だけは篤志家の尽力により消滅を免れ、時を経てこの地に移されました。

墓所の扉にその存在を知らしめる「会津三つ葵紋」。中央には「会津藩相萱野長修遙拝碑」。右手に「戦死墓」碑。六月の爽やかな日差しの下。緑の木立に抱かれ、陸奥会津藩松平氏の家紋に護られて眠る、誇り高き会津藩士千三百柱の御霊に・・・、この場所に詣でられた事に改めて深く感謝いたします🙏🙏

会津藩最強の武芸者と言われた「黒河内伝五郎の墓」。慶応4年(1868)8月23日、長賊らの来襲を聞き、床に伏していた次男:百次郎を介錯し自刃。享年65歳。墓碑中央には「進義院剣光尽忠居士」。左隣りの墓碑は母か夫人の物と思われます。失明していた身、深手を負った長子、二人にとって他の選択肢は無かったのでしょう。

新選組隊士『斉藤一(藤田五郎)』が眠る「藤田家の墓」

土方歳三の負傷を受けて会津に入り、新選組を指揮。会津戦争が迫り土方が会津を離れるに際しては、「会津を見捨てるのは正義ではない」と告げ、隊士十余名と会津に残り共に戦います。会津藩降伏後は越後高田に幽閉。その後上京、警視庁に入り、西南戦争では警視抜刀隊、警察退職後は東京高等師範学校、東京女子高等師範学校をつとめ、大正四年(1915)逝去。享年七十二歳。

「五輪塔」

【 ものいへば  唇さむし 秋の風 松尾芭蕉】

阿弥陀寺への参拝を終え、七日町駅まで来ました。ここからハイカラさんに乗って会津若松駅まで帰ったら、今日の予定は全て終了。温かいお風呂に入って・・相棒のエブリィ茶々丸君にしつらえたお布団に潜り込んだら、今日はもう、何も考えずに眠ろう。

七日町駅が開業の経緯が刻まれた「七日町駅開設記念碑」

参拝日:2015年6月29日

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歴史的建築物を訪ねて~其の二 in 福島県会津若松市

2024年10月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

昨日に続いての歴史的建築を訪ねる町歩き、今日は~其の二です。

通りで一際目を引く土蔵造り3階建ての建物は「白木屋漆器店」。店舗のHPには「大正2年(1913)に建て始め、翌年春に竣工した、洋風の外観の「土蔵造り」です。当初より、漆器の陳列と店頭販売を目的として建てたものです。」

大貫を横張りとし、素焼の敷瓦(8寸角)を釘付け。漆喰下塗りの上に、赤土とセメントを混ぜた南蛮土を塗り、モルタルで中塗りをした後に洗い出しをし・・と書いている本人、実はちっとも意味が分かっていない😱。ともあれ、建築学的にも興味深い建築物として、歴史的景観指定建造物に指定されています。

この佇まいに慣れていない観光客(私たち)には、こちらで会津漆器が購入できますよと教えられても、思わずしり込みをしてしまいそう😅

昭和11年(1936)に建てられた「旧黒河内胃腸病医院」。寄棟と切妻が併用された赤茶色の和瓦葺の屋根には、ヴォールト屋根の二つの小さなドゥーマーが載っています。市のHPには「那智黒石で造られた塀とともに存在感を醸し出す姿は、野口英世青春通りにあって貴重な建物である。」と紹介されています。

昭和11年(1936)建築の「菊池金粉製作所:黒漆喰蔵」。逆光で分かり難いのですが、珍しい横目地の入った黒漆喰の土蔵造りとなっています。

七日町通りの一角に、昭和2年に「旧郡山橋本銀行若松支店」として建築されたギリシャ建築を思わせる洋館。正面に配された6本の円柱が建物の重厚さを醸し出しています。その後、新潟に本店がある「第四銀行会津支店」となり、現在は 「滝谷建設工業(株)会津若松店社屋」として使われています

「清水家旅館跡」。幕末の嘉永5年(1852)には、吉田松陰が東北旅行の途中に宿泊。慶応4年(1868)には、戊辰戦争宇都宮の戦いで負傷した新選組副長土方歳三が宿泊。戊辰戦争後には、松平容保の義姉照姫が東京に護送される前、妙国寺から清水屋に移り、ここから東京の紀州藩青山邸に向かいました。清水屋旅館は昭和の初め頃に取り壊され、今は碑だけが残されています。

昭和2年(1927)に建てられた「第二塚原呉服店」。正面には「だいにつかはら」、上部には「Department Store」。ここからから少し離れた場所に本店がある事から「第二塚原」という名称になっています。

会津でも歴史のあるスポーツ用品店「塚原呉服店(バンダイスポーツ)」。 建物は大正15年(1926)に建築され、当時は塚原呉服店として営業をおこなっていました。一つ上で紹介した「第二塚原呉服店」の本店にあたります。

大正時代に建築されたと思われる「レオ氏郷南蛮館」。レオは『蒲生氏郷』の洗礼名で、二階には蒲生氏郷の資料が陳列されています。

七日町通りに一際その存在感を示すのは、昭和3年(1928)に竣工されたモルタル仕上げの洋風建築「旧鈴木洋装店」。現在は「活性炭製造輸入販売:尚伸株式会社」の看板が上がっています。

明治22年(1889)築の店蔵を利用した「会津新撰組記念館」。会津藩や新選組の資料をはじめ、来援した旧幕府軍・奥羽越列藩同盟軍、来攻した新政府軍等の貴重な資料が展示されています。

2階建てモルタル仕上げの看板建築「池田種苗店」。建物の前面を垂直に立ちあげ、モルタルや銅板・タイルなどで洋風のデザイン装飾を施した看板建築は、昭和初期の商店などに見かけます。

蔵造りと言うほど厳めしくないこじんまりとした可愛らしさを感じさせてくれる「長門屋七日町店」。疲れると甘いものが無性に欲しくなるようで、手軽に口に放り込めそうな「あんこ玉」を購入。

大正期建築の「渋川問屋」。店舗や棟続きの土蔵、美しい格子の風格ある佇まいが、会津一の海産物問屋として隆盛を極めた姿を留めています。

訪問日:2015年6月29日

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歴史的建築物を訪ねて~其の一 in 福島県会津若松市

2024年10月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

飯盛山を後にし、再びハイカラさんでJR会津若松駅に。ここからは、徒歩で市街地に残された素晴らしい建造物を見ながら「七日町駅」に向かいます。まずは、会津の赤べこから生まれた巨大『あかべぇ』とのツーショット。

駅前に展示されていた「C57形蒸気機関車の動輪」。2000年12月、磐越西線SL「ばんえつ物語」の運行開始を記念して設置されました。

大町通りのそぞろ歩き、スタートは大正8年築の「羽金家住宅」。黒々とした瓦葺の入母屋屋根、下見板張りと漆喰壁の建物に明治期の土蔵が立ち並ぶ様は圧巻。

「会津町方伝承館」。「あかべぇ」ならぬ『ふくべぇ』に出迎えられて・・実際のところ、何という名前なのか知らないので勝手に命名😅

風格と歴史を感じさせる佇まいの小野寺漆器店。明治初年の建築で、市歴史的建造物に指定されています。町歩き早々にも関わらず、素敵な会津塗のスプーンを購入💗

まっすぐ前を向いて歩くのが困難なほど、見所一杯の大町通りは、大町四つ角を境に「野口英世青春通り」と名を変えます。

野口英世青春通りを進んで大町四ツ角の交差点に建つのは「四つ角大正館」。「旧郡山商業銀行若松支店」として大正10年(1921)に建築されました。

明治17年に建てられた蔵造りの洋館「会津壱番館」「明治17年に「第六十国立銀行若松支店」として建てられ、その後明治24年(1891)にアメリカから帰国した医師の渡部鼎(かなえ)によって「会陽医院」に改修されました。翌年、野口清作が左手の手術をし、明治26年からは三年半、書生として住み込みました。」現地案内

現在は医院の建物をそのまま使った喫茶&資料館「野口英世青春館」として活用されています。

野口英世青春館に隣接する黒漆喰の建物は「福西本店店蔵」。19世紀後半から20世紀前半に栄えた大商家福西家が、100年ほど前に建てた蔵と商家建築。

大通りに面した店蔵、仏間蔵、炭蔵の3棟の蔵の外壁は、大変手間のかかる黒漆喰で建てられており、通りでも一際異彩を放っています。

明治11年竣工の、白漆喰塗り妻入りの土蔵・蔵造りの建物は「遠藤米穀店 ・遠藤古美術店」。敷地奥の住居も捨てがたい建物だったのですが、うまくカメラに捉えられませんでした。

遠藤米穀店横の敷地にある花壇の石垣は、「会津藩中屋敷」の船入場に築かれていた石垣の石が用いられています。こんな所にも会津藩の遺構が残され、それをきちんと紹介している事に好感度が増します。

「野口英世像」。台石には「忍耐」の文字が刻まれています。

「Dr HIDEYO NOGUTHI」で始まる碑文。傍らの訳文の碑には「博士野口英世-ロックフェラー医学研究所員 1876年(明治9年)1月9日 日本猪苗代に生まる。1928年(昭和3年)5月21日アフリカ黄金海岸に死す。科学と人生への献身の故に彼の生涯は喜んで黄熱病の征服の斗(たたか)いの為に捧げられた。この銅像は彼の親愛なる市民によって彼の偉大なる業績を記念し、かつ将来の若き世代の人々に彼の示範と激励とを要請すべく建立されたものである。 1957年」

訪問日:2015年6月29日

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宇賀神堂~さざえ堂 in 福島県会津若松市一箕町

2024年10月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市一箕町八幡弁天下、飯盛山の一隅に門を構える「宇賀神堂」。創建「江戸時代初期の寛文年間(1661~1627)に会津藩三代藩主『松平正容』により「弁財天像と五穀豊穣の宇賀神(白蛇)」を勧請し社殿を建立した事が始まりとされる。」

社殿は木造平屋建て、桁行3間、梁間2間、入母屋、銅板葺き、平入、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り板張り。

内部には戊辰戦争で飯盛山で自刃した白虎隊19士の霊像を安置。霊像は明治23年(1890)、白虎隊の墓碑を改修した際、若松城下滝沢村出身の仏師『大橋知伸』と『田中治八』によって製作されたもので、フランス風の軍服を着ています。

奉納額「〇白虎隊士が自刃の際唱和せし詩吟  人生古ヨリ誰カ死無カラン 丹心ヲ留取シテ汗青ヲ照ラサン  〇飯沼貞吉正念出陣にあたり 母文子がおくりし歌 梓弓 向う矢さきはしげくとも 引きな返しそ武夫の道 」

奉納額「〇郭門を守り城に入らず敵中に突進して戦死せる野矢常方老辞世(六十七才) 弓矢とる身にこそ知らめ時ありて 散るを盛りの山ざくら花  〇城外出撃に率先参加して戦死せる三坂逸八辞世 武夫の強き眞弓を引くときは 還らぬものとかねてこそ知れ  〇娘子軍として薙刀をふるって戦死せる中野竹子女辞世(二十二才) もののふの猛き心にくらぶれば 數には入らぬわが身ながらも 

奉納額「会津白虎隊自刃乃図」

「白虎隊士供養車。この車を手前にまわすと悲痛な音を発し、これが冥土に届いて白虎隊の霊魂を慰めます。また石の台座は中国伝説上の「獏」と言い夢を食べることから、頭に上ると悪夢消滅の願いを叶えると言われます」

寛政8年(1796)、飯盛山に建立された、高さ16.5m、六角三層のお堂さざえ堂」。

「旧正宗三匝堂(さんそうどう)」。らせん階段が内部を貫く独特な構造で、一度通った所は二度と通らない。例えていうなら、DNAのらせんとよく似た構造で、世界的にも類のない建築物であるとして国重要文化財に指定されています。

さざえ堂入り口。

向拝や貫にまとわりつくもの・・私には宇賀神の化身とされる白蛇に見えるのですが・・・

途中に清水が湧き出ており、白虎隊士が城下へ戻る時に喉を潤した水で、そのことから「白虎清水」と名付けられました。今では、霊を弔う慈母子育観音が祀られた祠が建立され、「白虎清水観音」と呼ばれています。

「厳島神社」「永徳~弘和年間 (1381~1383)、多数の童女を従えて現れた美しい霊妃のお告げにより、豪族の石部・堂家・石塚の3家が社殿を建立、正宗寺の別当「宗像神社 (弁財天)」を創建。社殿の建築中にも童女たちが現れ、人夫たちに小豆飯を振舞ったが、いくら食べても減らなかったことから「飯盛」の地名ができたという。」

「水塚・花塚・茶筌塚」明治26年に会津の茶道、花道の功労者である山口儀平翁と、当時会津第一の学者であった宮城盛至翁によって建立。天地自然の恩恵に対し深い感謝の意をあらわされた。「花塚」には松平容保の【花といふ 花をあつめて此の塚の  いしもさこそは 世にかほるらめ】が刻まれています。

「星暁邨:彰恩碑」【花みつつ かすみ酌むまのひと時は うき世の外の 我世なりけり】

【天高し ピサの斜塔と さざえ堂 桜桃子(おうとうし)】俳人協会理事、日本ペンクラブ評議員、国際俳句交流会評議員などを歴任した人物だそうです😓

三日に渡って紹介した飯森山白虎隊の史跡は、???な俳句で終了です。悲惨な面のみが語られましたが、白虎隊隊士343名中290名の若者は過酷な時代を生き延び、後の会津若松市の発展に寄与しました。

参拝日:2015年6月29日

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飯盛山 会津白虎隊~其の二 in 福島県会津若松市

2024年10月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

「少年武士慰霊碑 白虎隊外戦死者」。「白虎隊士と同じ年齢で県内各地及び新潟・栃木・京都で戦い戦士した会津藩少年武士(14才~17才)六十二名の慰霊碑。」

「森新太郎・磐城大平口で戦死。16歳」「佐々木新六郎・越後赤谷で戦死。16歳」「藤森八太郎・越後津川で戦死。16歳。」「百瀬外次郎・越後石間口で戦死。17歳。」「椎野恒四郎・若松城で戦死。14歳。」・・・・

「遠藤嘉龍二・会津熊倉で傷、10月7日死。15歳。」「簗瀬武治・会津飯盛山で自刃。16歳。」「星 八弥・会津舟渡で戦死。16歳。」「若林八次郎・越後赤谷で戦死。16歳。」「安恵助三郎・会津小田垣で戦死。16歳。」・・・

「会津藩殉難烈婦の碑」。「この碑は、会津戊辰戦役で自刃 又は戦死した婦女子二百余名の霊を弔うため 昭和3年(1928)4月 旧藩士山川健次郎氏 (男爵、理学博士、帝大総長) 等の篤志家によって建てられた顕彰碑である。」現地案内

「飯盛山郡上八幡凌霜隊碑」。「17歳の『朝比奈茂吉』を隊長に45名からなる凌霜隊は、新政府軍との戦闘を繰り返しながら、会津西街道を北上。」

「道ハ一筋ナリ」「此の碑は戊辰の戦に、会津侯を盟主と頼み各地に転戦して若松城の籠城戦に参加し、白虎隊と共に奮戦死闘した美濃国郡上藩凌霜隊の事績を偲び、且つその霊を慰め永くこれを後世に伝えるため、郡上の石で郡民等の浄財によって建立したものである。」

「白虎隊受難士各霊塔」

「白虎隊殉難詩碑」。容保公の侍医:馬島瑞園作の白虎隊殉難詩「たたかひ今を限りとや思ひけん  十あまり五たりの男の子ども 飯盛山にて腹きりて死したりけるをうつし  画にせしを見て あはれさのあまりに」
紀州邸に幽閉されていた 容保公が、白虎隊自刃の絵を見て詠まれた詩【千代までと そだてし親のこころさへ 推しはかられて ぬるる袖かな 容保】

「鶴ヶ城址献納者 白虎隊士 遠藤 嘉竜二 墓碑参道」旧会津藩士:遠藤敬止の弟。

「ローマ市寄贈の碑」

白虎隊士の精神に深い感銘を受けたローマ市は、昭和3年、ローマ市民の名をもって碑を贈呈。碑の円柱は赤花崗で、ベスビアス火山の噴火で埋没したポンペイの廃墟から発掘した古代宮殿の柱である。基石表面にイタリー語で「文明の母たるローマは白虎隊勇士に遺列烈に、不朽の敬意を捧げんが為、古代ローマの権威を表すファシスタ党章の鉞(まさかり)を飾り永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」。裏面には「武士道の精神に捧ぐ ローマ元老院 及び市民より」と刻まれてあったが、第2次世界大戦後、”占領軍の命”により「」と共に削りとられた。

「フォン・エッツドルフ氏寄贈の碑」「昭和9年(1934)この地を訪れたドイツ大使館書記官エッツドルフが、白虎隊精神に感動して贈った碑。碑には、古来ドイツ国の「十字章」「会津の若き少年武士へ贈る 一ドイツ人」とドイツ語で刻まれ、翌10年に建てられた。この碑も”占領軍の命”により、文字を削られた後に撤去。昭和28年再亥のうえ復元されたものである。」二つの碑の顛末は「飯森フミ(三代目)」を参照してください

横面「嗚呼 忠烈白虎隊」。表面「白虎隊歌詞」。裏面「白虎隊詩」『小年団結白虎隊  国歩艱難戍堡塞(こくほかんなんほさい) 大軍突如風雨来(たいぐんとつじょふううきたり)  殺気惨憺白日晦(さっきさんたんはくじつくらし)・・・・・』

白虎隊記念館近くに建立された「白虎隊士の像」

場所は変わりますが会津若松駅前に建立された白虎隊士の像」

「酒井峰治と 愛犬クマ」の像。白虎隊の一人。1993年に酒井家の仏壇の中から峰治が明治時代に書き記した『戊辰戦争実歴談』を発見。敗走中に仲間とはぐれ自刃を覚悟した時、愛犬のクマと出会った事が書かれていました。「余の傍らを過ぐるあり よく顧みれば、愛犬クマなり。すなわち声をあげてその名を呼べば、とどまりて余の面を仰ぎみるや、疾駆して来たりて飛びつき、歓喜に堪えざるの状あり。余もまた帳然として涙なきにあたわず」生きる決意をした峰治は鶴ヶ城に入城、そうして昭和7年まで天寿を全うしました。

2000年に建立された「水戸藩諸生党鎮魂碑」「水戸藩諸生党、農兵隊の鎮魂碑建立の趣旨  戊辰戦争の明治元年(1868) 8月23日雨の朝、土佐藩兵を主力とする西軍が怒涛の如く鶴ヶ城追手紋に迫った時、北越戦線から会津に戻っていた諸生党などが駆けつけ危機を救った。その後城内の各門の防禦と城外各地で会津藩と共に奮戦し感謝された。時代の流れに逆らって信念を貫ぬき、消え去った人達に光をあてたい。 仰天会・栗栖平造 撰」

「報国誠忠天地鑒 勤皇丹心 聖君知」碑・・(文字に間違いがあるかもしれませんが・・・血を吐くような心の声が聞こえます)

「戸ノ口十六橋の石材」

明日は「飯盛山・宇賀神堂」「さざえ堂」の紹介です。

参拝日:2015年6月29日

 

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飯盛山 会津白虎隊~其の一 in 福島県会津若松市

2024年10月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市一箕町八幡弁天下、まるで仏飯を伏せたかのように見える飯盛山。多感だった学生時代、その山中に「白虎隊」の墓所があると聞いた時から、いつか参拝したいと願い続けていた想いが、やっと叶う日が来ました。

Wikipediaなどによれば「「戊辰戦争」は、慶応4戊年(1868)~明治2申年(1869)、王政復古を経て新政府を樹立した新政府軍と、旧幕府軍が戦った日本の近代史最大の内戦。その干支から戊申戦争と呼ばれる」。また「会津藩主:松平容保が江戸幕府を支えて活動してきたため、会津藩は佐幕勢力の中心と見なされた」。こうして「尊皇愛国」を藩の伝統精神としてきた「会津藩」は新政府軍、とくに東北地方を軽視・卑下した薩長によって仇敵と目されたのです。

会津藩はこの戦の為に、武家男子による四つの隊を結成。「朱雀隊(18歳~35歳)、青龍隊(36歳~49歳)、玄武隊(50歳以上)」。予備隊として「白虎隊(日新館で学んだ16歳~17歳)」、中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者や、幼少組として13歳の少年も加わったと云い、この志は8月26日のブログで紹介した「二本松少年隊」にも同じケースが伝えられています。

白虎隊十九士の遺骸が眠る飯盛山中腹までは「動く坂道:スロープコンベア」が設置されており、足の弱い方でも容易に目的地に行く事が出来ます。

終着地から見る会津若松市街、眩しいほど青い空に浮かぶ白い雲。

一対の狛犬に守られ、一段高く、緑の木陰に抱かれるように並ぶ「白虎隊士十九士の墓」

松平容保公弔歌の碑「【幾人の 涙は石にそそぐとも その名は世々に 朽じとぞ思う 源 容保】 戊辰戦役当時自刃した白虎隊士の殉難忠節に対し九代藩主松平容保公が詠まれた弔歌を、現河東町八田野の篤志家:八田宗吉氏がこの碑に刻み建てたものである。」現地案内より

圧倒的な負け戦の後、飯盛山に残された少年たちの遺骸は、明治政府の命令によりそのまま放置。むろん、そうした処遇は白虎隊士に限らず、領内各所に捨て置かれた会津藩士の亡骸全てに及びます。死者の衣服をはぎ、体の一部を切り落とし、無残な亡骸に向かって得意げに排泄をする・・あさましき亡者の群れ・・それはまさに地獄絵図。 旧会津藩士は新政府に対し、何度も埋葬の許可を願い出るも聞き届けられる事はありませんでした。飯盛山に捨て置かれた白虎隊士の亡骸も、一度は心ある人の手で密かに飯盛山や妙国寺に仮埋葬されましたが、政府の命令で掘り返され・・・・ 白虎隊の埋葬に至る経緯については是非「最後の会津武士:町野主水」のページを一読して下さい。

「吉田伊惣次篤志碑・明治33年(1900)建立。」飯森山で自刃した白虎隊士の屍は、明治政府の意向により長く放置されていました。滝沢村牛ヶ墓の肝煎『吉田伊惣次』は、この惨状をみて村人の協力を得、夜間密かに遺体を飯森山と妙国寺に仮埋葬をしました。しかしそれも官軍の知るところとなり、吉田伊惣次は投獄。遺骸は掘り起こされ、元の場所に投げ捨てられます。

カラスや獣に食い荒らされたまま半年も野ざらしにされ、すでに人の判別もつかなくなった年若き隊士達の屍・・どれほど無残な地獄絵であった事か、残された者はいかばかり無念であった事か!!🙏🙏 

戦において綺麗ごとなど、まやかしであると知らないわけではありません。しかし、明らかに敗者として恭順の意を示したものへの仕打ちは、天皇を旗頭とした官軍の振る舞いとして恥ずべき事だと・・・誰も異を唱えなかったのか!? 武士の矜持も作法も心得ぬ「ならず者」の所業だと・・本当に!誰一人思い至らなかったのか!?。

圧倒的勝利の元、埋葬が出来ない戦闘下では無かった! にも関わらず敢えて野ざらしにさせたのは、賊軍とされた敗者への、見せしめ以外の何物でもない。残された者たちの血を吐く慟哭は、命を賭した嘆願は・・官軍を名乗る者たちの耳には心地よく響いたのか!!

「南無釈迦牟尼仏」と刻まれた墓碑。明治も14年(1881)になって、やっと飯盛山上に一基の石碑の建立が許可されましたが、そこに文字を刻むことは許されませんでした。それから更に九年、白虎隊士自刃からは実に23年の歳月を経た明治23年(1890)、初めて十九隊士各々の墓碑が建立されました🙏🙏

飯盛山の山腹、水流の中にぽっかりと口を開ける洞門。猪苗代湖の水を会津地方に引くため掘られた「戸ノ口堰洞穴(とのぐちせきどうけつ)」、別名「弁天洞門」とも呼ばれます。

猪苗代湖畔・戸ノ口原の戦いで破れた白虎隊士ら二十名は、鶴ヶ城の安否を確かめんとする一心で、この長さ約150mの洞穴を潜り、飯盛山の中腹を目指しました。離れた場所から見ても、水流はかなりの勢いである事がわかります。

「白虎隊自刃の地」。少年が手をかざす方向には、黒煙に包まれた「鶴ヶ城」が、懐かしい「会津の城下」が見えました。

「城下町にあがる黒煙を見た隊士は、それを鶴ヶ城の落城と勘違いし、もはや最後と悟って自刃した」・・・と、歌や小説、ドラマは伝えてきました。しかし、白虎隊に縁の方達によって設立された「白虎隊の会」は、2011年に落城誤認説は誤りである」とする説明文を飯盛山に建てています。

飯盛山で自刃した隊士の中でただ一人、自ら喉を突いた『飯沼貞吉(のち貞雄と改名)』はまだ息があった事から、偶然、戻らぬ息子を探しに来た藩士の妻によって秘かに助け出され、一命を取りとめました。その後、電信技士として明治・大正を生き抜き、昭和6年(1931)に77歳で永眠。貞吉が生前に伝え残した手記「白虎隊顛末略記(貞吉からの聞き書きに、本人が朱を入れた)には、若松城へたどり着くか、敵軍に斬り込むか「甲怒り、乙罵り、激論以てこれ争う」というやり取りがあった後、「敵に捕まり生き恥を晒すよりは、武士の本分を明らかにする」として、飯盛山で自刃を決行した顛末が書かれていました。

「飯沼貞吉の墓」「会津藩士飯沼一正の次男  童名:貞吉~中略~明治戊辰の役、白虎隊は全員飯盛山に自刃し君も亦その一員であった。偶一藩士の妻が20の屍の中になお微に体温を存ずる君を発見 百方介抱し遂に蘇生せしめた。洵(まこと)に天の摂理という外なき奇しき運命であった。併し君が終生胸底深く蔵めて忘れ得なかったのが 往年の盟友への思慕であった。今年白虎隊士90年祭に常り、郷里会津と逓信関係の有志によりゆかりの山に、君の墓碑を建てられた。君と19人の同志は泉下に手を執り合い満足の笑みを交していることであろう。」
「飯沼貞雄翁記念碑」「飯沼翁は、戊辰戦役に当たり、白虎隊の一員としてこの地に自刃せるも唯一人の蘇生者となり白虎隊の忠烈果敢な行動を世に傅う。後逓信事業に挺身し碍子の考案等事業に対する貢献多大のみならず翁の清廉にして高潔なる人格と生涯は後生の事業人に尊い教訓を与え洵に崇敬に堪えず、茲に翁ゆかりの故山に墓碑を建立し、謹んでその霊を弔う。昭和32年9月24日」
「飯沼貞夫歌碑」【日の御子の 御影仰ぎて若桜 散りてののちも 春を知るらむ】(皇太子同妃両殿下、大正13年の御親拝を伝え聞き)

白虎隊~飯盛山を訪ねて~其の二~に続きます。

参拝日:2015年6月29日

 

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