会津若松市一箕町八幡弁天下、まるで仏飯を伏せたかのように見える飯盛山。多感だった学生時代、その山中に「白虎隊」の墓所があると聞いた時から、いつか参拝したいと願い続けていた想いが、やっと叶う日が来ました。
Wikipediaなどによれば「「戊辰戦争」は、慶応4戊年(1868)~明治2申年(1869)、王政復古を経て新政府を樹立した新政府軍と、旧幕府軍が戦った日本の近代史最大の内戦。その干支から戊申戦争と呼ばれる」。また「会津藩主:松平容保が江戸幕府を支えて活動してきたため、会津藩は佐幕勢力の中心と見なされた」。こうして「尊皇愛国」を藩の伝統精神としてきた「会津藩」は新政府軍、とくに東北地方を軽視・卑下した薩長によって仇敵と目されたのです。
会津藩はこの戦の為に、武家男子による四つの隊を結成。「朱雀隊(18歳~35歳)、青龍隊(36歳~49歳)、玄武隊(50歳以上)」。予備隊として「白虎隊(日新館で学んだ16歳~17歳)」、中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者や、幼少組として13歳の少年も加わったと云い、この志は8月26日のブログで紹介した「二本松少年隊」にも同じケースが伝えられています。
白虎隊十九士の遺骸が眠る飯盛山中腹までは「動く坂道:スロープコンベア」が設置されており、足の弱い方でも容易に目的地に行く事が出来ます。
終着地から見る会津若松市街、眩しいほど青い空に浮かぶ白い雲。
一対の狛犬に守られ、一段高く、緑の木陰に抱かれるように並ぶ「白虎隊士十九士の墓」
松平容保公弔歌の碑「【幾人の 涙は石にそそぐとも その名は世々に 朽じとぞ思う 源 容保】 戊辰戦役当時自刃した白虎隊士の殉難忠節に対し九代藩主松平容保公が詠まれた弔歌を、現河東町八田野の篤志家:八田宗吉氏がこの碑に刻み建てたものである。」現地案内より
圧倒的な負け戦の後、飯盛山に残された少年たちの遺骸は、明治政府の命令によりそのまま放置。むろん、そうした処遇は白虎隊士に限らず、領内各所に捨て置かれた会津藩士の亡骸全てに及びます。死者の衣服をはぎ、体の一部を切り落とし、無残な亡骸に向かって得意げに排泄をする・・あさましき亡者の群れ・・それはまさに地獄絵図。 旧会津藩士は新政府に対し、何度も埋葬の許可を願い出るも聞き届けられる事はありませんでした。飯盛山に捨て置かれた白虎隊士の亡骸も、一度は心ある人の手で密かに飯盛山や妙国寺に仮埋葬されましたが、政府の命令で掘り返され・・・・ 白虎隊の埋葬に至る経緯については是非「最後の会津武士:町野主水」のページを一読して下さい。
「吉田伊惣次篤志碑・明治33年(1900)建立。」飯森山で自刃した白虎隊士の屍は、明治政府の意向により長く放置されていました。滝沢村牛ヶ墓の肝煎『吉田伊惣次』は、この惨状をみて村人の協力を得、夜間密かに遺体を飯森山と妙国寺に仮埋葬をしました。しかしそれも官軍の知るところとなり、吉田伊惣次は投獄。遺骸は掘り起こされ、元の場所に投げ捨てられます。
カラスや獣に食い荒らされたまま半年も野ざらしにされ、すでに人の判別もつかなくなった年若き隊士達の屍・・どれほど無残な地獄絵であった事か、残された者はいかばかり無念であった事か!!🙏🙏
戦において綺麗ごとなど、まやかしであると知らないわけではありません。しかし、明らかに敗者として恭順の意を示したものへの仕打ちは、天皇を旗頭とした官軍の振る舞いとして恥ずべき事だと・・・誰も異を唱えなかったのか!? 武士の矜持も作法も心得ぬ「ならず者」の所業だと・・本当に!誰一人思い至らなかったのか!?。
圧倒的勝利の元、埋葬が出来ない戦闘下では無かった! にも関わらず敢えて野ざらしにさせたのは、賊軍とされた敗者への、見せしめ以外の何物でもない。残された者たちの血を吐く慟哭は、命を賭した嘆願は・・官軍を名乗る者たちの耳には心地よく響いたのか!!
「南無釈迦牟尼仏」と刻まれた墓碑。明治も14年(1881)になって、やっと飯盛山上に一基の石碑の建立が許可されましたが、そこに文字を刻むことは許されませんでした。それから更に九年、白虎隊士自刃からは実に23年の歳月を経た明治23年(1890)、初めて十九隊士各々の墓碑が建立されました🙏🙏
飯盛山の山腹、水流の中にぽっかりと口を開ける洞門。猪苗代湖の水を会津地方に引くため掘られた「戸ノ口堰洞穴(とのぐちせきどうけつ)」、別名「弁天洞門」とも呼ばれます。
猪苗代湖畔・戸ノ口原の戦いで破れた白虎隊士ら二十名は、鶴ヶ城の安否を確かめんとする一心で、この長さ約150mの洞穴を潜り、飯盛山の中腹を目指しました。離れた場所から見ても、水流はかなりの勢いである事がわかります。
「白虎隊自刃の地」。少年が手をかざす方向には、黒煙に包まれた「鶴ヶ城」が、懐かしい「会津の城下」が見えました。
「城下町にあがる黒煙を見た隊士は、それを鶴ヶ城の落城と勘違いし、もはや最後と悟って自刃した」・・・と、歌や小説、ドラマは伝えてきました。しかし、白虎隊に縁の方達によって設立された「白虎隊の会」は、2011年に「落城誤認説は誤りである」とする説明文を飯盛山に建てています。
飯盛山で自刃した隊士の中でただ一人、自ら喉を突いた『飯沼貞吉(のち貞雄と改名)』はまだ息があった事から、偶然、戻らぬ息子を探しに来た藩士の妻によって秘かに助け出され、一命を取りとめました。その後、電信技士として明治・大正を生き抜き、昭和6年(1931)に77歳で永眠。貞吉が生前に伝え残した手記「白虎隊顛末略記(貞吉からの聞き書きに、本人が朱を入れた)」には、若松城へたどり着くか、敵軍に斬り込むか「甲怒り、乙罵り、激論以てこれ争う」というやり取りがあった後、「敵に捕まり生き恥を晒すよりは、武士の本分を明らかにする」として、飯盛山で自刃を決行した顛末が書かれていました。
「飯沼貞吉の墓」「会津藩士飯沼一正の次男 童名:貞吉~中略~明治戊辰の役、白虎隊は全員飯盛山に自刃し君も亦その一員であった。偶一藩士の妻が20の屍の中になお微に体温を存ずる君を発見 百方介抱し遂に蘇生せしめた。洵(まこと)に天の摂理という外なき奇しき運命であった。併し君が終生胸底深く蔵めて忘れ得なかったのが 往年の盟友への思慕であった。今年白虎隊士90年祭に常り、郷里会津と逓信関係の有志によりゆかりの山に、君の墓碑を建てられた。君と19人の同志は泉下に手を執り合い満足の笑みを交していることであろう。」
「飯沼貞雄翁記念碑」「飯沼翁は、戊辰戦役に当たり、白虎隊の一員としてこの地に自刃せるも唯一人の蘇生者となり白虎隊の忠烈果敢な行動を世に傅う。後逓信事業に挺身し碍子の考案等事業に対する貢献多大のみならず翁の清廉にして高潔なる人格と生涯は後生の事業人に尊い教訓を与え洵に崇敬に堪えず、茲に翁ゆかりの故山に墓碑を建立し、謹んでその霊を弔う。昭和32年9月24日」
「飯沼貞夫歌碑」【日の御子の 御影仰ぎて若桜 散りてののちも 春を知るらむ】(皇太子同妃両殿下、大正13年の御親拝を伝え聞き)
白虎隊~飯盛山を訪ねて~其の二~に続きます。
参拝日:2015年6月29日