車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 千葉県栄町

2019年09月30日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

印旛郡栄町(さかえまち)は千葉県北部中央、利根川流域に位置する町です。成田市、印西市、また県を跨いで茨城県:北相馬郡利根町、稲敷郡河内町に隣接。平野部は関東平野に含まれ、町の西北部と南部は平坦な水田地帯。東部の台地は下総台地で山林や畑が多くあり、南には印旛沼、中心部には利根川と印旛沼を結ぶ長門川、西は将監川などの川に囲まれています。町内には国の史跡に指定された「龍角寺古墳群」や「岩屋古墳」などの古墳が良好に保存されています。「町の木:サザンカ」「町の花:リンドウ」を制定。

キャッチフレーズは「水と緑の田園観光都市 ~きらめきのなかで笑いがこだまし未来(あす)をうるおすまち~」

明治22年(1889)、町村制の施行により、下埴生郡境村、印旛郡布鎌(ふかま)村が発足。

1892年、下埴生郡境村が町制を施行し、改称して安食町が発足。

1955年、印旛郡布鎌村と安食町が合併し、印旛郡栄町となります。

1956年、茨城県稲敷郡河内村生板鍋子新田と龍ヶ崎町歩を越境編入、現在の町域となりました。

マンホールには、「イメージキャラクター『ドラム』と町の花:サザンカ」が描かれています。

昭和31年(1956)4月3日制定の町章は「円満な町政と躍進「栄町」の発展を表し「栄」を図案化したものです。」公式HPより

上水道関連の消火栓蓋には、水道事業団の知章と「長門川水道」の文字が記されています。

町役場の敷地内にあった消火栓は、水道事業団の知章のみで、自治体を現すものは何もありません。

栄町イメージキャラクター『龍夢(ドラム)』。栄町に伝わる「龍伝説」をモチーフとして誕生。 名前は、龍=ドラゴンの「ドラ」と、町民に夢や未来を与えたいとの願いから夢の「ム」を合わせて名付けられました。

撮影日:2019年3月17日

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滑河山・龍正院~其の二 in 千葉県成田市旧下総町

2019年09月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

昨日に続いての「滑河観音」。まずは参道から見る「観音堂」の画像から。

いきなりの不思議な石像、実は観音堂の前に置かれている「香炉」。左右に同じ顔(?)があります。 これが獅子なのか、それとも別の空想上の生き物なのか、二人で考えましたが答えが出ません😩

観音堂の外陣・左右には「大黒天」と、赤い帽子と前垂れ姿の「お賓頭盧(びんずる)様」。 木彫りの「大黒天」はそれなりに年代を経ているようで、顔立ちも実に個性的。子供の頃のお隣のおばあちゃんがこんな顔だったなとついつい思い出し笑い😅 「おびんずるさん」は十六羅漢の第一とされており、撫でると除病の功徳があるとして、なで仏とも呼ばれています。膝のテカリに人々の願いが伝わってきます。

本堂裏側には「天満神社・金乃比羅神社・熊野神社・白山神社・稲荷神社」が仲良く並んで鎮座。

「銅造宝篋印塔」は、享保3年(1718)に『小幡内匠』により鋳造。 三段の石基壇の上に、鋳造製の宝篋印塔が精巧に作られており、美術的にも価値の高いものとして、千葉県有形文化財に指定されています。

「宝篋印塔」の近くに、異なった種類の松が根元で一つになった珍しい「夫婦松」があります。一般に「夫婦○○」と呼ばれる木と違って、異なった種類の夫婦木は珍しく、こちらも市の文化財指定です。

「夫婦松」の傍らには、貞享三年『芭蕉』四十三歳の時の句が刻まれた碑。

【観音の  甍みやりつ 華の雲】これと同じ句碑は、芝山町の「芝山仁王尊」にもありました。

境内の一画に建つ「子安観音堂」。安産子育てにご利益がある「観音像」が奉祭されており、毎年、節分前後になると、地元や近隣の女人衆が連れ立ってお参りにくるそうです。

「子安観音堂」に隣接して建つのは「弁天堂」、七福神の紅一点『弁財天』を奉祭。

「地蔵堂」の近くに建つのは、真言宗の開祖『空海(弘法大師)』を祀る「大師堂」

下総七福神のひとつ「毘沙門天」、別名を多聞天といい、商売繁盛、福徳円満のご利益があります。 千葉では色んな場所で「七福神巡り」の幟やポスターを目にしましたが、もしかして流行なんでしょうか?

高齢化社会を迎えて一番心配なのは、自分の存在が不確かになる・・つまりボケてしまう事。 「ぼけ封じ道祖神」は、中興第二十世が感得した「道祖神」を彫刻させ、奉祀したもの。 決して他人事でもなく、遠い先の話でもない切実な心配事、しっかりと手を合わせて来ました🙏🙏。

と最後まで書いて、「地蔵堂」を忘れていた事に気がつきましたが、すでに後の祭り。 何でも『左甚五郎』作の木製の馬がその中に置かれていたとか・・・ため息しか出ません😭

ご詠歌【おとにきく なめかわてらのけさがふち  あみころもにて すくふなりけり】

参拝日:2019年3月16日

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滑河山・龍正院~其の一 in 千葉県成田市旧下総町

2019年09月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

成田市滑川にある「滑河山・龍正(りゅうしょう)院」。通称「滑河観音(なめがわかんのん)」と呼ばれます。 『十一面観世音菩薩』を本尊とし、坂東三十三観音霊場:第二十六番札所としても親しまれています。

創建は承和5年(838)、滑河城主『小田将治』が発願し、『慈覚大師円仁』の開基とされています。 本堂の奉納絵馬には、小田川辺より観音像をすくいあげる「滑河観音縁起」が描かれています。

茅葺き寄棟造りの「仁王門」は『飛騨大隅』の作といわれる八脚門で、国重要文化財の指定。 簡素にして端麗な建物は桃山期の建築様式で、室町時代の文亀年間(1501~1504)の再建。

内陣に鎮座する仁王尊は、七難即滅・火伏せ・身体安全の守護像として、信仰を集めています。 何時の時代に彫られたものか不明ですが、不自然に誇張されていない素朴さに心を惹かれます。

建物を支える柱は、一見、円柱のようですが、実際には正確な一六角に整えられています。また一際目を引く仁王門の大注連縄は、火伏せの龍に見立てた物で、毎年1月8日に新しい大注連縄が奉納されます。

県有形文化財の「本堂」は銅板葺き、方五間の宏荘な建物で、元禄9年(1696)の建立とされます。 説明によれば【本堂の階段を上ると外陣であるが、正面入り口に扉はなく、四本の大紅梁がかけられ、天井は化粧屋根裏に続いて内側を鏡として、左右に天人を、中央に龍を飾り、ゆったりとした大空間をつくり、いつでも観音の慈悲にすがれるようになっている。】

ご本尊は一寸二分の十一面観世音で、後に定朝作の一丈二尺の観音像の胎内に納められました。

五代将軍『徳川綱吉』の寄進により再建された「本堂」。数々の彫刻に極彩色の天井絵は必見の凄さ。まずは本堂向背の「龍」、宮彫師の名前を知りたくて調べてみましたが、残念ながら不明。

本堂の欄間に施された「天女」は上半身が人、下半身が鳥の姿の「迦陵嚬伽(かりょうびんが)」

羽衣と翼をもった天女は殻の中にいる時から鳴きだすとされ、その声は仏の声にも例えられます。 極楽浄土にありながら、なんとも艶めかしい顔・・宮彫師はきっと名のある人でしょう。

天井では、蓮の花を手に優雅に舞う「迦陵頻伽」。狩野派の絵師である『狩野柳元』の銘があります。

体と同じほどの大きさの琴を軽々とかかえ、楽を奏でながら舞い唄う、美しい「迦陵頻伽」。 昔、一生懸命読みあさった某コミックに登場した、儚く幼い「迦陵頻伽」とはエライ違い😅

「迦陵頻伽」に挟まれた状態で中央に描かれているのは、江戸時代初期に京都で活躍した『狩野貞信』の「龍」。「観世音」の額が邪魔で(罰当たりな言動でごめんなさい!!)全体を捉え切れませんでした。

さらに本堂正面の軒下近くには、『左甚五郎』作と伝わる、二頭の木彫りの馬が奉納されているとか。 二人で一生懸命探したのですが、探し方が足りなかったのか、どうしても見つけられませんでした。

境内には大好きな芭蕉の句碑とか、文化財指定の「宝篋印塔」などがありますが続きは明日。

参拝日:2019年3月16日

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ご当地マンホール in 千葉県旧下総町・旧大栄町(成田市)

2019年09月27日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県
旧香取郡下総町(しもふさまち)は千葉県北部のほぼ中央に位置した町です。南・西は成田市、東は香取郡神崎町、大栄町に、北は利根川をはさんで茨城県河内町に隣接。下総の地名は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つである「下総国」が由来となっています。暮らしの営みは古く、先縄文時代に遡り、平安時代から室町時代までは千葉六覚の大須賀氏の支配地として、江戸時代は高岡藩、淀藩、旗本の所領地として発展してきました。利根川沿いの一帯は水田地帯が開け、水郷早場米の産地としても有名です。「町の木:モクセイ」「町の花:コスモス」「町の鳥:鶯」を制定。
 
旧キャッチフレーズは「利根川の育む みどりと文化の町」

明治22年(1889)、町村制の施行により、香取郡滑河町(初代)・高岡村・小御門村が発足。

1955年、滑河町が高岡村・小御門村と合併、滑河町(2代目)を新設。同日下総町に改称。

2006年、香取郡大栄町と共に成田市に編入されました。

マンホールには、全体に描かれた町章の中に「町の花:コスモス・町の鳥:鶯」、周囲に「町の木:キンモクセイ」がデザインされています。

昭和49年6月24日制定の町章は「「下」を人文字に、輪は合併した三町村を表し、「総」を中心に配しています。」

撮影日:2014年5月17日&2019年3月18日

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旧香取郡大栄町(たいえいまち)は千葉県の北北東、香取郡の西部に位置した町です。成田市、佐原市、香取郡:神崎町、下総町、多古町、栗源町、山武郡:芝山町に隣接。北総台地の一角を占める地形は、台地の中央に大須賀川が細い帯状に流れ、不整形な馬てい型の水田とこれを取り囲む畑作地帯により成立。ベニアズマを中心としたサツマイモは生産額・作付面積と共に全国トップクラスで県内第一位の生産量を誇ります。町名は、大須賀村と昭栄村との合併に伴い、「大」と「栄」を併せて「大栄」としました。「町の木:サザンカ」を制定

旧キャッチフレーズは「いきいきとした新しい時代を開くまち」

明治22年(1889)、町村制の施行により香取郡昭栄村・大須賀村が発足。

1955年、昭栄村、大須賀村が合併、香取郡大栄町が発足。

2006年、香取郡下総町と共に成田市に編入されました。

集排マンホールには、町章を中心に「町の木:サザンカ」がデザインされています。

昭和49年8月1日制定の町章は「大栄町の「大エイ」を丸く接続して図案化したもので大須賀村、昭栄村の2村合併を意味し、町民の"和"と"協調"を表現しています。」旧公式HPより

撮影日:2014年5月17日

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宗吾霊堂~其の二 in 千葉県成田市

2019年09月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

「宗吾霊堂」の境内紹介、~其の二の最初は、は昭和61年(1986)11月に建立された「聖天堂」。 ここ東勝寺を創建した『坂上田村麻呂』の持仏と伝わる「大聖歓喜天像」が祀られています。

境内の奥には、2002年8月、宗吾霊325年祭記念事業として建立された「奥の院」があります。

「奥の院」の近くには、『福沢諭吉』の発意によって建立された「宗吾顕彰碑」、案内文には【諭吉は"学問のすすめ"で、「人民ノ権義ヲ主張シ正理ヲ唱テ政府ニ迫リ其命ヲ棄テテ終リヲヨクシ、世界中ニ対シテ恥ジル事ナカル可キ者ハ古来唯一名ノ佐倉宗吾郎アルノミ」と記している・・】

昭和17年(1942)に建立された木造瓦葺の「大本坊」、信徒講社の研修道場などに使われているそうです。

昭和10年(1935)に開館した「宗吾霊宝殿」。ここには「宗吾様」の遺品や関係文書などが展示されています。

建物の右下に並ぶ「板石塔婆」は市指定文化財で、それぞれに明徳2年(1391)・康永元年(1342)の銘があります。

1991年、大本堂屋根改修工事とともに建立された「慈眼閣」。研修:休憩所として使われています。

まだ木の香りがただよってきそうな真新しい堂宇には「宗吾殿」の扁額。 公式ページにも詳しい説明が無かったので詳細は不明ですが、「宗吾様」関連の何かであることは確か。

「宗吾殿」の前、左右より境内を守護されるのは、護国タイプの狛犬さん。護国タイプなのに、吽形さんは子持。このタイプで子持というのはあまり見かけませんが、仔狛の仕草など好感がもてる狛犬でした。

境内にあった「地蔵堂」の内には、小さな子供を裾にまとわりつかせたお地蔵様が祀られます。

「地蔵堂」の隣にも小さなお堂がありましたが、祀られているのが何かは分かりませんでした。

境内には沢山の石碑が奉納されており、その中で目に留まった何点かを紹介します。 最初の碑には「智積院大僧正:金剛宥性(文政4(1821)~明治28(1895)」の言葉が刻まれています。 読み下せませんが、字面(じづら)からおおよその内容は理解できました。

【一死誠心為萬人 惨刑何憶乃家論 休言義侠空遭戮 菩薩元来誓捨身】

『大須賀清光』奉納句碑・・東勝寺のページには記載が無く、達筆すぎて判読できません。

「寄進記念碑」【人の世の 情けを知るや佐倉の地 親子の絆  語りつがれし】

「明治百年記念奏納碑」【永久に み霊は生きて慈雨となり ひかりとなりて田畑をうるおす】

「鐘楼堂」の手前に建立されていた「すっぽん供養碑」「虫魚鳥獣の碑」。 画像にはありませんが、他に「木材供養の碑」「カレーの碑」なども建立されていました。奉納したのはその業界の方かもしれませんね。

参拝日:2014年5月20日&2019年3月17日

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宗吾霊堂(そうごれいどう)~其の一 in 千葉県成田市

2019年09月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

成田市宗吾にある、真言宗豊山派の寺院「鳴鐘山:医王院:東勝寺」。義民『佐倉惣五郎』の霊が祀られていることから「宗吾霊堂(そうごれいどう)」と広くよばれています。 本来、真言宗の御本尊は「大日如来」ですが、ここでは「宗吾尊霊」を本尊としています。

境内を入ってすぐの「仁王門」は、宗吾様325年忌記念事業として、昭和53年(1978)に建立。

仁王門の内側には「金色仁王尊」と呼ばれる仁王像が、阿吽の呼吸で境内を守護しています。

「金色仁王尊」の身の丈は8尺8寸(3・34M)、鋳造・金箔仕上げで我が国で唯一のもの。

仁王門を入ってすぐ右手の参道の一画に「宗吾様御廟」があり、宗吾様と四人のお子が祀られます。

承応2年(1653)旧暦8月3日、直訴の罪により、公津ヶ原刑場にて磔刑に処せられた宗吾様。更に残された宗吾様の四人の子供たちも、打首という惨刑に処せられ、短い生涯を閉じました。「宗吾様御廟」に眠る親子の御霊を慰める香華は、どれほどの時を経ても絶える事はありません。

小さな池泉の側に建つ「鐘楼堂」は、昭和27年(1955)に宗吾霊三百年祭記念事業として建立。「梵鐘」には応長元年(1311)の銘が刻まれており、千葉県指定有形文化財となっています。

「鐘楼堂」の四隅の貫彫刻は「龍」のようですが、よく見ると背中に羽があるのがわかります。 いわゆる翼を持った「龍=飛龍」もしくは「翼竜」でしょうか。 これだけの緻密な彫刻は、おそらくそれなりに名のある宮彫師の手に寄るものでしょう。

「鐘楼堂」そのものが決して足場が良いとは言えない状況の為、四隅全部は写せていません。それでもこれだけの彫刻、無理を承知でご亭主殿に頑張っていただきました。(鐘楼の彫刻は2014年の参拝時。)

寺伝によれば【開創年代等については不詳であるが『桓武天皇』の勅命により、『坂上田村麻呂』が房総を平定した折、戦没者供養のために建立したという。たびたび火災にあって寺地を転々とし、寛文2年(1662)『澄祐』により再興され、下方字鐘打に移った。明治43年(1910)火災により焼失し、大正10年(1921)現在地に再建された。】

「宗吾尊霊」が祀られる「大本堂」は十間四面総欅造り総銅瓦葺で、大正十年(1921)に再建。 「大本堂」に架けられた「扁額:宗吾靈」は、徳川宗家十六代当主『徳川家達』によるもの。

「大本堂」前にあって境内を守護されるのは、大正9年(1920)4月建立の優雅な江戸流れ狛犬。 阿形は仔狛を、吽形は鞠を手にした、いわゆる「仔とり・玉とり」と呼ばれる一対です。

入母屋造り銅版葺き、千鳥破風を付けた「薬師堂」。『薬師瑠璃光如来』をご本尊とします。 明治43年(1910)に「供養堂」が消失したとき、「仮供養堂」として建立。 現在の本堂落成後に「五霊堂」となり、その後「薬師堂」と改称され現在に至っています。

「薬師堂」の前にあって境内を守護されるのは、慶応4年(1868)2月建立の素朴な江戸流れの一対。

平ぺったい頭は、撫でやすいという事も含めて😊どことなく愛嬌が感じられて、かなり好み。

2014年と2019年の二度に渡る「宗吾霊堂」の参拝、境内にはまだ多くの建物や碑があります。という事で、続きは明日の「宗吾霊堂~其の二」に。(最近、このパターンが多い)

参拝日:2014年5月20日&2019年3月17日

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成田山新勝寺~其の十 in 千葉県成田市

2019年09月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

成田山新勝寺~其の九はこちら

いつの間にか「~其の十」まで来てしまった「成田山新勝寺」も、今回が最終章です😊

「釈迦堂」の西隣の建立されている白いお堂は、2008年に建立された「聖天堂」。 お堂の前の案内には、人法繫昌の為に勧請された秘仏『大聖歓喜天』が祀られているとあります。

真っ白い唐破風屋根の懸魚、向背の龍、左右の貫の彫刻、どれも「歓喜天」に相応しい美しさ。

特にこの貫の獅子彫刻、真っ白い体に金色の目、黒い爪が妖しいほどに際立っています。 悔しい事に吽形の獅子は酷いピンボケ😔、折角ご亭主殿にお願いしたのに・・・・

境内をはさんで「額堂」に向かい合う位置には、昭和13年(1938)に建立された「開山堂」。 成田山を開山した『寛朝大僧正』の御姿を安置する為、開基一千年祭記念事業とし建立されました。

大本堂裏手の築山には、「大日如来(不動明王の本地仏)」他、約50体の露仏を奉安。 画像を見ると良く分かるのですが、この辺まで来るともう駆け足に近い状態、一つ一つ確認して写真を撮る余裕がありません😔

「不動明王の利剣」と呼ばれる銅像、またの名を「倶利伽羅剣(くりからけん)」と称し、不動明王の化身とされます。 利剣の左右には、脇侍の「制多迦(せいたか)童子」「矜羯羅((こんがら))童子」が控えています。

天保4年(1833)奉納の「成田山境内絵図」の石碑、と聞いても、既に絵図の判読は出来ません。 ですが刻まれた絵図には「仁王門の提灯・旧本堂・旧光明堂・三重塔」等が、当時のまま描かれているそうです。

仁王門から石段を上がった先にあるのは、「撫で不動」とも呼ばれる「石摺(いしずり)不動尊」。 文政10年(1827)に奉納されたもので、石碑の中央に「不動明王と両童子」が彫られています。昔は、碑の不動明王像を拓本して頒布していたそうで、そこから「石刷り不動」の名がつけられました。

総門を出る前にもう一ヶ所、境内の水行堂の横に「二宮尊徳開眼の地」と刻まれた碑があります。 「禍を転じて福となし」にはじまる七大誓願を胸に成田山新勝寺に参籠した『二宮尊徳』。 断食水行21日の行の後、「一円融合」の境地に達したとされ、今なお語り継がれています。

2019年の二度目の参拝では、隅から隅まで網羅しようと意気込んで、駆け回った筈の「成田山」。 いざ終わって振り返ってみると、あれ・・あそこは?、可笑しいな青銅の狛犬、写して無い?? それでも前回の画像フォルダの枚数から比べれば、格段に充実していたのは間違いありません😄

帰り道の表参道は、朝とは比べ物にならない人の波ですが、それもまた有名社寺らしい光景。

名物のうなぎ料理のお店からは、威勢の良い声にまじって香ばしい蒲焼の匂いが流れてきます。

はるばる千葉の成田山まで・・おそらく三度目の再訪は無いだろうと思うと名残は尽きません。 【一番はじめは一宮~♪・・・・七つ成田の不動様~♪】ついつい口ずさんでしまう私です😄

参拝日:2014年5月20日&2019年3月18日

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成田山新勝寺~其の九 in 千葉県成田市

2019年09月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

成田山新勝寺~其の八はこちら

成田山新勝寺には、新旧の様々な伽藍が立ち並び、内、五棟が国の重要文化財に。さらに、成田市指定文化財として、薬師堂、鐘楼、一切経堂(輪転経蔵)、清滝権現堂があります。

「清流権現堂妙見宮」は享保17年(1732)の建立、天明8年(1788)・安政5年(1858)と二度の修理が成されました。 光明堂の右方に位置し、成田山の鎮守として「地主妙見」「清瀧権現」をお祀りします。「清瀧権現」は真言密教を守護する女神、「妙見」とは「優れた視力」という意味を持ちます。

「清瀧妙見宮」の玉垣内で守護をされるのは、正徳元年(1711)辛卯9月吉日建立の狛犬さん。 獅子でも狛犬でもなく、いかにも「犬」という形の狛犬さんは「薬師堂」でも見ました。

緻密な優雅さも、ふさふさと流れる鬣もありませんが、この素朴さが何とも好ましく・・・

境内の最奥には、昭和59年(1984)竣工の鉄筋コンクリート造の「平和の大塔」。 高さ58.1メートルの多宝塔形の仏塔で、外観は二重塔ですが、内部は5階建てになっているそうです。

「平和の大塔」の手前にあるのは、2017年・開基1080年祭記念事業として建立された「醫王(いおう)殿」『月光菩薩・薬師如来・日光菩薩』が奉安され、左右には十二神将が奉安されています。 醫王殿と平和の大塔、それぞれに御朱印が頂けます。

1992年建立の「聖徳太子堂」、八角形のお堂の姿は「法隆寺の夢殿」を思わせる佇まい。それも道理で、建物は仏教興隆の祖である『聖徳太子』の理念に基ずき、世界平和を願って建立されました。

光明堂の裏手にある「奥之院」には、『不動明王』の本地仏である『大日如来像』を奉安。 成田山では年に一度の祭礼期間に限り奥之院が開扉され、一般の人も洞窟内に入る事が出来ます。

入り口左右に嵌め込まれた県重要文化財の「板石塔婆」、私には何が何やら・・ですが😅 考古学的に非常に貴重なものだそうです。

右側の板石塔婆には「阿弥陀如来の種子(しゅじ)」、明徳5年(1394)8月彼岸建立。 「種子」とは、密教において、仏尊を象徴する一音節の呪文、いわゆる「真言」の事だそうです。

成田山新勝寺~明日でラストです

参拝日:2014年5月20日&2019年3月18日

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成田山新勝寺~其の八 in 千葉県成田市

2019年09月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

成田山新勝寺~其の七はこちら

入母屋造、全面吹き放しの「額堂」は、文久元年(1861)建立で、国重要文化財の指定。 「三升の額堂」とも呼ばれた「第一額堂」が焼失する迄は、第二額堂と呼ばれていました。

堂内には、いわゆる「奉納額」以外の物も幾つか奉納されており、どれも興味深いものばかり。 中央の目立つ位置には、江戸時代末に活躍した名優「成田屋七代目:市川団十郎」の石像があります。

文政4年(1821)、團十郎は一千両の金子をもって額堂を寄進しましたが、昭和40年(1965)の放火により焼失。 石像は焼失後にこちらに移されましたが、鼻に残る傷跡はおそらくその時のものと思われます。

「青銅製大地球儀」は、日露戦争の戦勝記念として明治40年(1907)の奉納。 ここからでは見えませんが、「大日本帝国」の範囲には、銀の象嵌が施されていたそうです。

額堂周囲の貫に施された彫刻は、『後藤勇次郎(二代目:後藤弥太郎名跡)』の手に寄るもの。 迫力ある龍の顔を更に際立たせているのは、左目に嵌め込まれた、青みを帯びた銅眼のゆえでしょう。

残念ながら銅眼が嵌め込まれているのは、左隅頭貫の龍の左目のみで、他は空になっています。 それでもこの迫力は流石・・むしろ木肌の目であることが尚更に鬼気迫るものを感じさせます。

素晴らしいのは獅子も同じ、こちらも銅眼は失われてしまいましたが、その表情の凄さは変わりません。 しかし、獅子と言えば牡丹というのが定番ですが、この獅子は何と竹笹を咥えて遊んでいます。

口に咥えた竹笹の動きが面白いのか、左手で掴もうとするその仕草が、顔の凄みと反比例して何とも微笑ましい。

額堂の壁一面に納められた「奉納額」はどれもその折々の時代を反映して興味深い内容です。 一枚、一枚に、奉納者の心が籠められているのだろうと思うと、知らずに頭が下がります。

額堂内に入る事ができないので、周囲の壁を外から見上げるだけですが、それでも十分に満足できる内容でした。

成田山新勝寺~其の九に続きます

参拝日:2014年5月20日&2019年3月18日

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成田山新勝寺~其の七 in 千葉県成田市

2019年09月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

成田山新勝寺~其の六はこちら

成田山の御朱印ポイントも残り三箇所・・・と考えた瞬間、唐突に御朱印を集めるという行為に嫌気がさしてきました😩 本当に頂きたいと思って出向くのではなく、まるで御朱印ラリーのような現状、何か間違ってると思ってしまう私・・ええ、不信人者です😅

さて、前回も参拝した「出世開運稲荷」、御朱印を頂きたいと願っての再参拝。稲荷の鳥居が楽しい『荼枳尼天尊』の御朱印でした。

「稲荷の社」、ここは成田山新勝寺の境内なので、合掌一礼で鳥居をくぐります。

由来に「ここにお祀りしてある御本尊は佐倉城主『稲葉丹後守』より宝永年中に当山に寄進せられ尊像で、古来「出世稲荷大明神」と称せられて居ります。御稲荷様の御本体は『倉稲魂神』と申し、五穀のみのりと一切の食物を守護る、施福の神として尊ばれて居ります。その昔『弘法大師』が『嵯峨天皇』より東寺を賜りし時、この明神が翁の姿を現わし色々有難い教えを垂れられましたので東寺の鎮守とて 祭られてから大いに盛んになったのであります。」

参道の石段を上がって左右には、七代目團十郎・八代目團十郎が奉納した石灯籠があります。 この七代目の石灯籠には『海老蔵』とありますが、これは七代目がまだ五代目:海老蔵だった頃の物です。

2014年の参道には透明な屋根のようなものが張られ、沢山の大提灯が下げられていました。

ところが今回、2019年の参拝時には、寺紋付きの紫幕が日よけのように張られています。 前回が5月、今回が3月・・季節によって変えられているのか、それとも仕様が変わったのか・・理由はわかりません。

明治21年(1888)に再建された本殿には、白狐に乗る天女のお姿の『荼枳尼天』を奉際。 鮮やかな朱塗りの社殿、向拝は『後藤 敬信』による金の龍が、優雅な彫刻で彩られています。

社殿脇障子の彫刻は『石川銀次郎』による「三韓征伐」。『誉田別尊』を抱く『武内宿禰』。 反対側には、筑紫の宇美で『誉田別尊』を出産した男装の『神功皇后』の姿。 この図柄は社殿彫刻としては非常に有名で、それだけに宮彫師の技量や個性が良く分かります。

さて、稲荷と言えば「神狐」。「出世開運稲荷」の境内には、驚くほど沢山の神狐が居ます。長い年月、様々な人たちによって奉納された神狐たちは、どれも個性的で素晴らしい姿。 稲荷神のお使いとしては王道ともいえる、宝珠を前足に握りこむ狐、稲穂を咥える一対。

人の手によって彫られた神狐たち、それゆえ彫り手の思いが反映された珍しい姿にも出会うことができます。

子持ちの神狐はよく目にしますが、ここでは親狐の腕の中で無心に遊ぶ仔狐の姿。 親の腕の中で何も怖くない子狐の無邪気な顔は何とも愛らしい。

正面から見たら普通の神狐にしか見えなかったのに、横に廻って初めて子持ちと気付く構図もあります。・・ 怖いものから隠れるように、親狐の横腹ににすがりつく仔狐の姿・・初めて見るタイプの親子狐です。

白狐に乗るのは『荼枳尼天』と思っていましたが、どうやら仙人や行者の方たちも狐に乗って移動されるみたいですね。 どう見ても我が身より大きな人を乗せているのに、稲穂を咥えた顔立ちは余裕たっぷり😅

かと思えばこちらの神狐さん、何と台座はトラックの荷台😅 お行儀良く向かい合っている姿も何とも微笑ましい。 運送業関連の方が奉納したのでしょうか、稲荷のご利益の一番は、何と言っても商売繁昌!

「出世開運・商売繁盛」参拝に訪れる多くの人々の願いが、絵馬賭けを何倍にも膨れ上がらせています。 真っ赤な絵馬に描かれているのは一対の稲荷の白狐。 そうそう、絵馬の裏には名刺を貼り付けるのを忘れずに😊

成田山新勝寺~其の八に続きます

参拝日:2014年5月20日&2019年3月18日

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