若狭町にある 若狭と京都を結ぶ旧鯖街道「熊川宿(くまがわじゅく)」。1996年7月9日、若狭町熊川宿伝統的建造物群保存地区の名称で国の重要伝建地区に選定。また2015年には「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 - 御食国(みけつくに)若狭と鯖街道 - 」の構成文化財として日本遺産に認定されています。
若狭では古くより小浜を中心に「京は遠ても十八里」と言われ、若狭から京都へ至る多数の街道や峠道が作られていました。街道で運ばれた物資の中でも特に「鯖」が有名になった事から、これらの道を総称して「鯖街道」と呼ぶようになりました。
宿場の入口には、元の位置に現存する唯一の番所「熊川番所」が設けられてており、どこかで見たような顔のお役人が宿場を通過する人たちをしっかり吟味しています。
熊川宿が置かれた地は近江との国境近く、小浜と今津のほぼ中間点に位置しており、天正17年(1589)に小浜城主:浅野長政が近江と若狭を結ぶ鯖街道(若狭街道)の宿場町として整備。江戸時代を通して鯖街道随一の宿場町として繁栄してきました。
旧街道に沿って流れる水量豊かな前川。往来と家屋とを結ぶ石橋や、水流を利用した水路の芋洗い水車など、往時の佇まいを色濃く残す約1kmの町並みが、私たちの目の前に展開されています。
熊川宿の観光案内やポスターでは必ずと言ってよいほど目にする、この橋のある風景。上ノ町と中ノ町を結ぶ「中条橋」を渡ったその先に、「旧逸見勘兵衛家住宅」があります。
旧逸見家は、伊藤忠商事2代目社長『伊藤竹之助』の生家で、主屋・土蔵・庭が町指定の文化財となっています。
伊藤忠商事二代目社長となった『伊藤竹之助翁(旧姓逸見』)が、昭和15年に熊川村役場として建てた「若狭鯖街道熊川宿資料館宿場館」。トスカーナ風の柱頭をもつ円柱が建ち、寄棟瓦葺の2階屋根の中央には越屋根が付いています。
館内には往時を物語る様々な諸道具が展示され、特に古い看板が大好きな私を喜ばせるものも一杯。
当時の学校の表札でしょうか?尋常小学校は聞き覚えがありますが、実業補習学校」と言うのは初見。おそらく技術学校、もしくは専門学校的なものと思われます。
再現された帳場
近代において、鯖街道越えをする人でしょうか?手前の仁丹の箱は大きさからみて看板?人力車も見えますが、多分ここは未整理区画なのかもしれません。
資料館を出て再び宿場のそぞろ歩き。熊川宿のほぼ中央、前川に面して建つのは「菱屋(勢馬清兵衛家)」。熊川宿の中でも最大級の家屋で間口が28間、切妻、桟瓦葺、平入、木造2階建、本屋の大屋根にはむくりが付けられ、2階外壁両側には袖卯建が設けられています。「勢馬家は屋号を「ひしや」といい10数軒の問屋、脇問屋とともに街道の繁栄を支えた旧家。広い家屋敷にそのおもかげを残す。最盛期には年間20万駄の荷揚の荷継ぎ場としてその問屋場に馬借、背負人が群がったという。また宿場町役人として藩の御用や町の自治にも貢献した。」案内板より
塗込の壁や袖壁卯建がある屋敷は、同じく旧問屋で屋号は「倉見屋(萩野八左衛門家)」。主屋、土蔵など問屋の形式を残している最も古い町家で、表には2ケ所の駒繋ぎが見られます。
古い町並みで古い看板を見つける事も楽しみの一つ。粋な紳士がふかしているのは「タバコ」。昔は煙草の専売もされていたお店だったようです。ローソクの看板は、物好きな私の為にお店のおばあちゃまが、こんな古い看板もあるよといってわざわざ見せてくださったものです(*^^*)
熊川地区の中ほどに鎮座される「白石神社」。御祭神は『彦火々出見尊・白鬚(しらひげ)明神・酒井忠勝・および山の神』。この地区の氏神様と言う事で、鳥居前からの参拝です。
この神社の鳥居脇に、昭和2年11月に建立されたという「時計とうろう」があります。残念な事に、これに関する文献類は一切無いそうです。
同じく熊川宿に鎮座される「松木神社」。御祭神は『義民:松木庄左衛門の御霊』。時間的な事もあり、こちらも参道石段からの参拝となりました。
江戸時代のはじめ、厳しい年貢の取り立てに苦しむ若狭の農民たちを救おうと、新道村の若き庄屋「松木庄左衛門」たち20名は、税の軽減を十数年に渡り訴え続け、ついに酒井忠勝により税の軽減を許されました。しかし当時の法では直訴は死罪と決まっており、代表者であった「松木庄左衛門」は捕えられ、日笠川原で磔の刑になり28歳の生涯を閉じたのです。
暗い話になりましたが、日本の各地には民を顧みないお殿様がどこにもいたようで、私の数少ない旅の中でもこうした義民の碑や神社を目にします。特に飢饉に見舞われた地域では、行く先々に義民の碑が残されており、そのたびごとに胸が痛みます。ではここで少しほのぼのとした話題を。
上ノ町の街道沿いにある「大岩」は、子供たちの格好の遊び場なのですが、不思議な事にここで遊んでも誰一人、怪我をする子が居ないことから別名「子守り岩」とも呼ばれています。
ラストは「孝子与七の碑」。「享保6年(1721)貧しい暮らしの与七とその妻は、自分たちは貧しいものを食べても父母にはご馳走を食べさせて孝行のかぎりを尽くしました。時の小浜藩主は与七の行いを聞くに及んで、米数俵を与えその志を褒めたことが『若狭良民伝』にも出ています。」現地案内より
訪問日:2008年6月1日
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御神名一口メモ
『白鬚明神』、全国に約190社あると言われる白鬚神社の祭神の総称で、一般的には「猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)」とする。他に「武内宿禰命(たけしうちのすくねのみこと)」とする神社が30社。又少数だが「少彦名命」、「天御中主神」、「太玉命」、「金山彦命」、「大己貴命」、「天鈿女命」、「大田命」、「久延毘古命」等の名で祀られる神社もある。