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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 愛知県岩倉市

2016年07月31日 10時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

岩倉市(いわくらし)は愛知県の北西部、濃尾平野のほぼ中央にあり、県内で最も面積が狭く、全国でも10番目に面積が狭い市です。市の中心部を北から南へゆっくりと五条川が流れ、名古屋市と犬山市を結ぶ名鉄犬山線が通り、両市のほぼ中間に位置しています。

キャッチフレーズは「健康で明るい緑の文化都市」

1889年、市町村制施行により、丹羽郡岩倉村・豊秋村・島野村・幼村が発足。

1892年、岩倉村が町制を施行し丹羽郡岩倉町となる。

1906年、丹羽郡岩倉町、豊秋村、島野村、幼村(一部を除く)が合併して二代目岩倉町となる。

1971年、丹羽郡岩倉町が市制施行、岩倉市となりました。

マンホールには「五条川の桜」と、1月~3月に行われる「のんぼり洗い」が描かれています。「のんぼり洗い」とは五条川で行われる、こいのぼりの糊落としの事を言います。

名神高速道路:尾張一宮PA記念スタンプ「のんぼり洗い」

昭和46年12月1日制定の市章は「井桁の上下を二つの末広型に変化して、
岩倉市の将来が、無限の発展を続けるよう希望をこめたものです。」公式HPより

路上タイル画:五條川の桜

路上タイル画:五條川の鯉

「のんぼり洗い」をイメージした岩倉駅の壁画。

撮影日:2011年6月4日

 

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ご当地マンホール in 岐阜県土岐市

2016年07月30日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

土岐市(ときし)は岐阜県の東南部に位置する市です。東は瑞浪市、西は多治見市及び可児市、北は御嵩町に。また県を跨いで南は愛知県瀬戸市、豊田市に隣接。市域の約7割を丘陵地が占め、南に高く北に低く、特に南部は急峻な山地となっています。市街地は、北部を横断する土岐川流域及び支流の肥田川、妻木川流域の平坦部に開け、中央丘陵を環状に取り巻くように形成。特に東濃地域は、良質な陶磁器用粘土が豊富なことから、1,400年以上の歴史をもつ古来からの焼き物の産地として発展し「陶磁器生産日本一の町」として、また「織部焼発祥の地」としても知られています。「市の木:ヒトツバタゴ」「市の花:桔梗」を制定。

キャッチフレーズは「“緑・美濃焼・みんなの笑顔”未来を拓く快適・交流都市」

明治22年(1889)、町村制の施行により、土岐郡土岐津町・肥田村・鶴里村・曽木村・駄知(だち)村・泉村・下石(おろし)村・妻木村が発足。

1909年、駄知村が町制を施行、土岐郡駄知町となる。

1915年、泉村が町制を施行、土岐郡泉町となる。

1919年、下石村が町制を施行、土岐郡下石町となる。

1931年、妻木村が町制を施行、土岐郡妻木町となる。

1955年、土岐郡土岐津町・肥田村・鶴里村・曽木村・駄知町・泉町・下石町町・妻木町が合併、市制を施行し土岐市が発足。

マンホールには中央に市章、十文字の4か所に「美濃焼きの壺」。周囲4か所に「市の花:桔梗」がデザインされています。

昭和30年(1955)2月1日制定の市章は「土岐市の頭文字である「土」を図案化したもので、窯焼く煙と温泉の湯煙をもって本市の表徴とし、これを市章と定めたものです。」公式HPより

撮影日:2011年6月4日

岐阜県道66号沿いにある「道の駅・土岐美濃焼街道:どんぶり会館」。明治村を後にしたJ🐣さんと私たちは、こちらで車中泊をさせて頂きました。

敷地内の芝生広場にあったこの不思議場オブジェの正体は、いまだに謎のまま。一見すると機械仕掛けの蛙??

車で旅をする者にとってこうした施設は、本当に有難く大切な場所です。改めて、その節は有難うございました🙏🙏🙏

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ご当地マンホールin岐阜県瑞浪市

2016年07月29日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

瑞浪市(みずなみし)は岐阜県南東部、濃尾平野の北東端に位置する市です。恵那市、土岐市、可児郡御嵩町、加茂郡八百津町に、また県を跨いで愛知県豊田市に隣接。「美濃源氏土岐一族発祥の地」であり、中山道の宿場や一里塚、信長ゆかりの城跡が多く残されています。市域は室町時代の創業といわれる美濃焼を中心に発展してきた商工業都市ですが、太古の昔は海の底であり、クジラや海獣、ゾウや貝類、植物の化石が市内のあちこちから出土し、「化石のまち」としても知られています。「市の木:松」「市の花:桔梗」「市の鳥:ウグイス」を制定。

キャッチフレーズは「安心・快適 私たちが創るみずなみのまち」

中央自動車道「屏風山PA」記念スタンプは、瑞浪市明世町戸狩にある「サイエンスワールド」。実験や工作を通じて科学の面白さと不思議を学ぶ体験型科学館です。

同じく、中央自動車道「屏風山PA」記念スタンプは、瑞浪市陶町大川にある、高さ3.3m、幅1.56m、奥行き2.4m、総重量は15トンの「世界一大きな狛犬」

明治22年(1889)、町村制の施行により、土岐郡土岐村・小田村・山田村・寺河戸村・稲津村・餘戸村・日吉村・河合村・戸狩村・山野内村・月吉村。恵那郡猿爪村・水上村・大川村が発足。

1897年、小田村、山田村、寺河戸村が合併、土岐郡瑞浪村が発足。
   河合村、戸狩村、山野内村、月吉村が合併、土岐郡明世村が発足。
   猿爪村・水上村・大川村が合併、恵那郡陶村が発足。

1920年、瑞浪村が町制を施行、土岐郡瑞浪町となる。

1921年、土岐郡餘戸村が、釜戸村と大湫村に分村。

1926年、土岐村が町制を施行、土岐郡土岐町となる。

1932年、陶村が町制を施行、恵那郡陶町となる。

1951年、瑞浪町と土岐町が合併、土岐郡瑞浪土岐町が発足。

1954年、土岐郡瑞浪土岐町、稲津村、釜戸村、大湫村、日吉村、明世村戸狩・山野内・月吉、恵那郡陶町が合併、瑞浪市が発足。

マンホールには「市の花:桔梗」を中心に、周囲に「市の木:松」がデザインされています。

昭和29年(1954)4月1日制定の市章は「円満に飛躍する瑞浪市にちなんで、まるい3つの波が躍動する姿を表現した ものです。」公式HPより

中央自動車道「屏風山PA(瑞浪市)」に設置されていた汚水:汎用マンホール。

撮影日:2011年6月5日

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世界一の美濃焼狛犬と豊穣の壺 in 岐阜県瑞浪市陶町

2016年07月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

瑞浪市陶町大川、「八王子神社」参道近くに、1999年に制作された【世界一の美濃焼こま犬】があると言う、狛犬好きには必見の情報。気になりつつもなかなか機会が巡ってこず、13度目の車泊旅でやっと念願が叶う事に。初対面の感想は・・・・・・(゜゜;)

備前焼の地元で育った私には、焼物の大きな狛犬はそれなりに見慣れていたと思っていましたが、これは何と言うか桁違い。大きいではなく巨大!まさしく「世界一の狛犬」

添えられた説明版には、製作工程などを含めた概要が、丁寧に細かく記されています。「瑞浪市制35周年迎え、高浜市と姉妹都市提携を結んだこと。その記念として、瑞浪市陶町大川の地に、広く地域住民の参加のもと伝統産業を活かし、自ら考え、自ら行う地域づくり「ふるさと創生事業」として、市文化財指定である『大川窯四代目・羽柴与左右衛門景度』の美濃焼こま犬をモデルに、高さ3.3m、幅1.56m、奥行き2.4m、総重量は15トン! 世界最大の美濃焼こま犬一対を制作。この狛犬のモデルとなったのは市の文化財に指定されている大川窯四代目・羽柴与左衛門景度の美濃焼こま犬。製造には1000人もの人々が183日かけて・・・云々」

添えられた制作過程の写真を見れば、膨大な努力が結集されて完成したのだという事が、ものすごく納得できる20世紀最後の傑作。一見の価値というより、近ければ何度でも見に来たい!!

「危険なので上に登らないで下さい!」と注意書きが有るので、比べる対象が無いのが残念ですが、とにかく見上げる高さなのです。でも写真は自由に撮れるので、珍しく「阿吽」の位置で並べてみました(〃∇〃)

・・・・やっぱりこの迫力は、画像では紹介しきれません(^^;)

狛犬さんの後方には、焼成をした際の窯の一部と「焚き口跡」が残されています。最初に狛犬を成形し、それを覆う大きさの巨大な窯を作り、ドラム缶9本を繋いで煙突を作る・・さらっと書いてますが、そんなに簡単でないのは、この出来上がった狛犬を見れば分ります。

で、焚き口跡を除くと、狛犬さんの尻尾が見えます(笑)

世界一の美濃焼、実はまだまだこれだけではありません。狛犬さんが鎮座する裏側で存在感を誇示する世界一の茶壷「豊穣の壺」

『羽柴与左衛門景度』の茶壺をモデルとして、高さ5.4メートル、直径4メートル、使用粘土32トン。一体成形の焼き物としては世界一(ギネス認定)です。制作に1年を費やし、延べ12000人の地元の方々の労力によって造りあげられ、1万束の薪を燃料に300時間かけて焼成されました。」市HPより

ここでは手前に立っての記念写真が可能なので、さっそく二人(〃∇〃)

豊穣の壺の足元で、世界一の茶壷を守護されている、狐顔の狛犬さん一対。吽形さんの得意満面の顔が何とも(⌒∇⌒)

茶壷の後方にも「焚き口跡」があり、覗くと茶壷の後ろが(笑)

二つの世界一を見て思った事・・・それは単に大きいから凄いのではなく、地域の伝統手法で、地域の宝を、地域民が総出で作り上げた・・・その事実に心から賞賛の拍手を送らせてください。

ラストは巨大ではありませんが、瑞浪市内の「猿爪(ましずめ)川」に架かる「水上大橋」の親柱に並ぶ「狛犬」。

こんな風に地域の宝を宣伝されると、ついつい、他にも何か無いだろうかと探したくなります(^^;)

訪問日:2011年6月5日

 

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八王子神社 in 岐阜県瑞浪市陶町

2016年07月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

瑞浪市陶町大川に鎮座される「八王子神社」、御祭神は天照大神と素戔嗚尊の誓約時に出現した五男三女神『天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)・天穂日命(あめのほひのみこと)・ 天津彦根命(あまつひこねのみこと)・活津彦根命(いくつひこねのみこと)・ 熊野f樟日命(くまのくすひのみこと)・ 田心姫命(たごころひめのみこと)・ 湍津姫命(みずつひめのみこと)・ 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)』

「創祀未詳。元禄十四年再建の棟札存す。昭和六年三月一日陶町大川字十三塚鎮座無格社天神社を合併す。」岐阜県神社庁HPより(瑞浪市HPに寛永2年(1625)の創建の記述有り)

鳥居の内、参道左右より神域を守護されるのは、1990年11月製作の刻が有る 美濃焼製狛犬さん一対。御亭主殿いわく「大川窯四代目羽柴与左衛門景度の美濃焼狛犬をモデルにしたのではないか」との事ですが、実際の所は不明。

狛犬さんの地肌の色は錆茶色なので、使われたのは「瀬戸黒釉」でしょうか?焼き物は好きですが、こういう専門的な話になると、全くと言って良いほど無知です(^^;)

石段の先に見える神楽殿

神楽殿の先に拝殿

拝殿左右より神域を守護されるのは、昭和十三年十月建立の岡崎型の狛犬さん一対。吽形さんは毬に手を、阿形さんは仔狛を手元に置いています。

僅かに拝見できた御本殿

拝殿の長押部分には「瑞浪市指定文化財 美濃焼狛犬群の写真がずらり。長くなりますが案内文から「狛犬は、中世では多くが小型の石製や木彫のものが本殿の縁に据えられるものが普通であった。しかし、彫刻が難しいところから陶器に関係の深いこの地方では、江戸の中期以降に神社の氏子や信者たちが、個人または共同で庇護や利益の祈願報謝の意味をこめて、陶製狛犬を奉納するようになったといわれている。しかしこれらのうち半数が無銘で、年代も作者も一部しか判明していないのは残念であるが、この大川八王子神社の五対余のうちに「羽柴与左衛門景度作」在銘のものがあることは大変貴重なことである。この景度の先祖は、室町後半期の文明六年(1474)武蔵国久良岐郡(横浜市附近)より移住してきた加藤左衛門尉景信で大川窯を開き景光、景忠と続き、景度の時代で前世をきわめ、その製品は「与左焼」と呼ばれ広く世間から賞用された。その銘ある狛犬は、小型ではあるが与左衛門の元亀、天正頃の作と考えられ、その◼︎作のすばらしさを現わしている。」

という事で、八王子神社の参道には、多くの氏子・関係者の方がによって奉納された美濃焼の狛犬さんがズラリ。実際にはもっと沢山の狛犬さんが奉納されているので、気になる方は是非とも現地へ!!(*^^*)

そして瑞浪市の八王子神社と言えば何と言っても世界一の狛犬さんですが、その入り口より神域を守護される美濃焼の狛犬さん一対。

何とも渋い色合いの狛犬さんには1995年10月建立の刻。首に下げられた細い注連縄が、通り過ぎる人にここが神域である事を教えています。

八王子神社の前、「中馬街道」沿いの小高い丘の上に祀られる「馬頭観音石仏」。足元に置かれた香炉には「馬を曳く馬子」の姿が刻まれています。

参拝日:2011年6月5日

 

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ご当地マンホール in 岐阜県恵那市

2016年07月26日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

恵那市(えなし)は岐阜県の南東部に位置し、愛知県と長野県に境を接する市です。大正13年に木曽川をせき止めて造られた大井ダムと恵那峡周辺は県立自然公園に指定され、恵那市を代表する観光地として有名です。市域には阿木川ダムや矢作ダム、小里川ダムなどがあり、ダムが多い市としても知られています。

恵那の地名は『天照大神』が誕生した時の「胞衣(エナ=胎児を包む膜と胎盤)」をこの辺りの山に納めたことから、胞山・・恵那(エナ)となったと云われます。

キャッチフレーズは「人・地域・自然が調和した交流都市」

1889年、町村制の施行により、恵那郡大井村・長島村・東野村・三郷村・竹折村・藤村・中野方村、加茂郡飯地村が発足。

1897年、竹折村、藤村が合併、恵那郡竹折村が発足。姫栗村、毛呂窪村、加茂郡河合村が合併、恵那郡笠置村が発足。

1898年、長島村が町制を施行、恵那郡長島町となる。

1890年、大井村が町制を施行、恵那郡大井町となる。

1902年、竹折村が恵那郡武並村に改称。

1948年、加茂郡飯地村が恵那郡飯地村になる。

1954年、恵那郡大井町、長島町、東野村、三郷村、武並村、笠置村、中野方村、飯地村が合併、恵那市が発足。

2004年、(旧)恵那市と恵那郡山岡町・明智町・岩村町・串原村・上矢作町が合併、現在の恵那市となりました。

マンホールには市章を中心に、旧恵那市の花「ベニドウザン」が描かれています。(恵那駅付近の歩道に設置)

2004年に合併した旧明智町のデザインで、自治体章が「恵那市」に代わっています。

2004年10月25日制定の市章は「昭和29年公募により決定したもので、図案化した「エナ」で太陽と飛翔する鳥を表現し、翼の6枚の羽は、合併した六つの市町村を表しています。輝き昇る日の中を天空の一点を目指し六つの市町村が左右の翼となり、市民が一致団結し市の飛躍と発展を図る姿を象徴しています。」公式HPより

恵那駅の敷地内の碑「歩きたくなる街 恵那市」

撮影日:2010年10月2日

旧恵那郡岩村町・山岡町・串原村・上矢作町は未訪問の為、マンホール画像はありません。

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ご当地マンホール in 岐阜県旧明智町(恵那市)

2016年07月25日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

旧恵那郡明智町(あけちちょう)は岐阜県の南東端に位置した町です。美濃三河高原に属する丘陵に囲まれた盆地にあり、明治・大正期には養蚕・製糸産業で栄えてきました。大昔、この地域は湿原のアケチ(茶地)であり、やがて祖先の努力によってアケチ(開け地)となり、それに、明るい知恵や賢さを表す好字の「明知」「明智」の字が当てられたのが地名の由来とされます。町域に残る西洋文化の影響を受けた建造物を生かして立村された「日本大正村」は観光スポットとして特に有名です。

1889年、町村制の施行により恵那郡明知町・吉良見村・横通村・大泉村・大田村・杉野村・阿妻村・野志村・三濃村が発足。

1897年、明知町・野志村・杉野村・東方村が合併、第二次:明知町が発足。

1897年、阿妻村・大田村・吉良見村・大泉村が合併、恵那郡吉田村が発足。

1905年、明知町野志、杉野、東方地区が恵那郡静波村として分立。

1954年、明知町と静波村が合併、第三次:明智町が発足。

1955年、恵那郡三濃村横通地区、恵那郡吉田村を編入。

2004年、旧恵那市、恵那郡岩村町・山岡町・串原村・上矢作町と合併、恵那市明智町となりました。

マンホールには「県指定天然記念物の団子杉」と、周囲に「町の木:カエデ」が描かれています。

昭和32年7月6日制定の町章は「アケチの三文字を右下より右回りに組み合せ、円形で団結と平和、三方にのびる線で発展と飛躍を象徴している。」合併協議会資料より

撮影日:2011年6月5日

 

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日本大正村~Ⅰ~ in 岐阜県恵那市明智町

2016年07月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

恵那市明智町にあるレトロテーマパーク(野外博物館)「日本大正村」。かつて蚕糸を地場産業としていた頃の町並みをそのまま保存し、建物や風景すべてに大正時代の情緒が活きている日本大正村。特定の敷地内ではなく、街全体が、大正時代の雰囲気を保存・再現し、店舗、資料館、博物館などが軒を連ねています。

前日に明治村で丸一日を過ごし、今日は大正村。なんか安易な日程みたいですが、明治村に行くからには、流れとして大正村へ・・と決めたのは私です(笑)

大正村への入口で、私たちの前に突然現れた小さな祠。横には「嗚呼!哀史 糸曳き乙女地蔵」の標柱。「糸曳き乙女」とは、製糸工場で働いた女工の事、このお地蔵様はその女性たちの供養のために建立されたのでしょう。

大正路地と名付けられた情緒あふれる石畳の道は日本大正村の立村に当たって整備された、米倉と呉服問屋の蔵が並ぶ昔ながらの路地。

白と黒のコントラストが鮮やかな細い石畳の道を入り込むと、そこは物語の中でしか知らない大正時代という過去へと誘う道。その路地に立ち入った瞬間から、私たちは時の旅人になるのです。

昭和元年(1926)に建てられた木造2階建の「保母歯科医院」。大正ロマンという言葉がしっくりくるモダンな建物にテンションは上昇(〃∇〃)

町歩きの準備として、きちんとルートを決めて簡易地図まで持たせてくれたご亭主殿には申し訳ないのですが、女二人が揃うとそんなルールなんて知ったこっちゃない(笑) バラの香りに誘われて向かったのは大正村のメインともいえる「大正浪漫館」

短くも華やかな古き良き大正モダンをイメージした真っ白い洋風建築には、その時代を思い起こさせる様々な資料が展示されているそうで、まずは「初代日本大正村村長・高峰三枝子」氏の銅像に出迎えられます。

「歌う映画スター」の先駆者的存在の方ですが、私には「犬神家の一族」で演じたスケキヨの母「松子」の印象が強烈で、今もその姿が目に浮かびます。ちなみに二代目村長は『司葉子』さん、三代目の現村長は、『竹下景子』さんだそうです。と、ついつい話が逸れてしまうのはいつもの事(笑)

大正村ではこの「大正ロマン館」と、「日本大正村資料館」「おもちゃ資料館」「大正時代館」の四施設が有料となっており、ここでその四施設の共通入場券(500円)を購入します。

ロビーで私たちを出迎えてくれたのは「幸福を招く白狸 福ちゃん」。白い狸は大変珍しく、自然界では1万匹に1匹の割合で生まれるそうです。

館内には、初代村長:高峰三枝子氏や、初代議長:元横綱栃錦氏に縁の品々が展示されています。画像は撮影不可の為有りません。で、化粧室に飾られていた『竹久夢二』の美人画を(笑)

大正ロマン館の裏手には、元禄元年(1688)に建築された合掌造りの茅葺民家「旧三宅家」があります。

「もともとは明智町馬木地区にあったもので、1991年に明智町が寄贈を受け、翌年現在地に移築復元したものです。三宅家は馬木村の有力な農家で、江戸時代の初めには旗本明知遠山家に仕えていましたが、寛文4年(1664)に帰農し馬木村に居を定めました。住居は元禄元年に普請されたもので、近世中期の民家の特徴である鳥居建ての形式が残されています。」公式HPより

縁側では、地元の方々によるザルやカゴなど、実際に編んでいる様子を見せていただけます。そういえば・・・私の父も、随分器用に色んなものを手作りしていたと・・・不意に思い出し目の奥がツ~~~ンと(^^;)

「大正琴誕生 百年記念」碑(大正村村長:司葉子)

【念ずれば 花開く】

バラの香りに見送られ、大正ロマン館を後にして次に向ったのは「絵画館」。

絵画館は明治10年(1877)に竣工され、これまでに小学校、警察、商工会議所、集会所と利用されてきました。現在は企画展示館として活用されており、この日は【源氏物語絵巻】の展示がされていました。

「絵画館」の石段から見る大正路地。右手に見えている下見板張りの建物が次に向かう「大正村役場」ですが、続きは明日のブログで(*^^*)

訪問日:2011年6月5日

 

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日本大正村~Ⅱ~ in 岐阜県恵那市明智町

2016年07月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

明治39年に建てられ、昭和32年まで「明智町役場」として使用されていた「大正村役場 」。瓦葺き寄せ棟造り2階建ての木造洋館は、当寺としては非常にモダンな建物であったと言います。

街灯がつけられた石門、正面入り口には重厚な引戸。内部は資料館兼休憩所となっており、休憩所ではちょっと一息のお茶も頂けます。

村役場時代の村長室兼応接室でしょうか。

懐かしさを感じさせる町並みに、赤いポストは必須(笑)

「日本大正村 開村記念」

大正村役場の正面にある「大正村展示館」。建物は昭和のはじめに旧町営発電所電気事業部として建てられ、その後、中部電力の事務所や個人の住宅として使用されていました。現在はパネルなどを使った規格展示がされています。

明治8年(1875)に開局し、のちに電信・電話局も兼ねた旧郵便局。1階が「逓信資料館」として一般に公開されており、明治・大正期の明智郵便局集配順路図や郵便、電信など興味深い資料が展示されています。

明智郵便局の向かいは、明治から大正時代の教科書や蓄音機などが展示されている「日本大正村資料館」。

「建物は通称「銀行蔵」といい、農家から預かったり買い取ったりした繭(まゆ)を保存していたもので、恵那市の有形文化財にもなっています。建物は2棟あり、東側の棟は木造瓦葺2階建で大正7年に竣工され、西側の棟は木造瓦葺3階(一部4階)建で明治42年に竣工され、非常に歴史のある建造物です。」公式HPより

入り口の倉は売店になっており、ちょっと寛いで休憩するスペースにもなっています。見てください、このまわり一面の珍しい品々。レトロ感をお腹一杯味わって過せます(笑)

館内には、それはそれは面白・珍しいものが一杯。特に私の興味を目いっぱい引き付けてくれたものを何点か紹介。本当はまだまだ楽しいものが有るのですが、全部は紹介できないのが物凄く残念。

昔の酒製品のポスターって何で着物姿の美人画なんだろう。でもって、じつはこのタイプのポスターって大好き。良いなぁって思う。こっちは「胃薬新薬」の看板、「医活」のフレーズがいかにも効果ありそう(笑)

「サンタクロースメリヤス」・・う~~~ん、何故にサンタクロース(笑)ちなみにメリヤスとは、編み物(ニット)の古い呼び名。冬物に多く使われた事を考えるとサンタクロースにも納得かな(笑)

「写真新聞」、今でいうグラビアみたいなものだろうか?

これは多分・・・電気ストーブ

手回しミシン・・左手だけで布を動かすのって神業(((((^_^;)

明治から大正期にかけての蓄音機(ステレオ)

大正時代の振袖、もしくは花嫁衣裳の打掛だったのかも?右は多分昔の教科書の一ページ。「コマイヌサン ア コマイヌサン ウン」。こんな優しい言葉や感性、できる事なら残して欲しいと願います。

この建物の南隣にある「大正の館」は、明治の末期に建てられた『旧橋本家』。二階建ての家屋には、大正時代の生活様式が象薇的に残されており、古布で作ったタペストリーや人形などが展示されています。

元々は何の建物だったのでしょう?素敵な佇まいの下見板張りの洋風建築は「おもちゃ資料館」。内部には、東京の骨董市で買い集めたり、各地の収集家から寄贈を受けた大正から昭和初期までのおもちゃ、約3,000点が、随時入れ替えで展示公開されています。(2016年に閉館したそうです)

ここでは「ブリキのおもちゃ」が一押しらしく、実に様々なブリキ製のおもちゃがズラリ。きっと好きな人には垂涎ものの展示なんだろうな。

多くの文化人が通った京都の老舗:天久カフェを復元した「天久資料館」の二階にある「大正時代館」。まず目についたのが、美しく気品に溢れた錦刷りの肖像画『大正天皇と貞明皇后』の御真影。

大正村に最もふさわしい展示の数々、暫く時を忘れて見入っていました。

「大正村・遠山氏屋敷跡」「明智川のほとり、中馬街道沿いに、樹齢4百年と伝えられる桜の巨木が亭々と聳え、川面にまで枝を伸ばし、毎年見事な桜をつけます。土地の人はこれを「遠山桜」と呼んでいます。この一郭は「遠山様」(お殿様のお屋敷)と古くから呼び伝えられてきました。明治30年代、遠山家は東京に移転されました。今もこの屋根瓦には遠山家の家紋が残り当時を偲ばせます。」現地案内より

町全体が大正村博物館として観光客を出迎えてくれる。だからふいっと迷い込んだ路地に思いもかけない発見が有り、その度ごとに足が止まり、好奇心を掻き立てられます。

赤煉瓦の佇まいがいかにも大正時代の風情を感じさせる「十六銀行 明知支店」。こんな銀行が近くにあったら、毎日通いつめそう(笑)

好き勝手なおしゃべりと想像で楽しんだ大正村散策。最後の〆は、「大正村浪漫亭」でお土産選びです(*^^*)

訪問日:2011年6月5日

 

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日本大正村~八王子神社~ in 岐阜県恵那市明智町

2016年07月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

恵那市明智町に鎮座される「金幣社:八王子神社」。御祭神は天照大神が素戔嗚尊と誓約した時に出現したといわれる『五男三女神』

「由緒:天暦三年(949)に創建された千年を超える歴史をもつ産土神。天正二年(1574)の戦で城と共に焼かれたが、慶長八年(1603)に新たに社殿を再建。延宝四年(1676)『遠山半九郎伊次公』によつて、現在の社殿が造営された。」

境内に入り、鳥居の先に続く参道を進むと、石段が見えてきます。この急な石段を登る為には、町歩きで体力を消耗する前でないと・・(^^;)

登り終わって後ろを振り向いた写真、ああ、足の裏がむず痒い(笑) う~~~ん、高所恐怖症のくせに、なぜこういう写真を撮ってしまうのだろう・・・(((((^_^;)

石段先の唐門は、江戸時代前期に建てられた「白鷹城(明知城)」の城門を移築したもので、流造の本殿と共に、県重要文化財に指定されています。

唐門からまっすぐに入母屋造の拝殿

向拝を支えているのは鬼の化生?じっと見ていると、その者も見られた事がわかって苦笑いをしているようにも見え、何とも良い感じ。

暖かな日差しの差し込む一画に鎮座される「柿本人麻呂社」。御祭神は『柿本人麻呂』

「伝承によれば、文武を志す明智光秀公が学問所には天神を八王子神社には人麻呂を祀り、社前に紅葉(楓)を植えたと伝えられています。この社殿には明智氏の家紋である桔梗紋が彫られ、大和絵風の歌聖柿本人麻呂の画像が祀られています。」公式HPより

光秀公手植えの楓・県重要文化財の人麻呂社

唐門の先より境内一帯の神域を守護されるのは「昭和五年一月 寄進者:安藤忠次郎」の刻が有る岡崎型の狛犬さん一対。阿形さんは毬の上に手を重ねています。

毎年10月の八王子神社例大祭で奉納される「明智太鼓」

境内摂社・末社群

天神様のお牛様に乗った恵比須:大国様

境内の左隣に鎮座される「明智西宮 恵美寿神社」

参拝日:2011年6月5日

 

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