車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

2024年大晦日~能登は優しや土までも~

2024年12月31日 08時00分00秒 | 徒然なるままに思うこと

2024年正月、能登一帯を襲った地震の報に我が目を、我が耳を疑いました。見知った町が・・大好きな街が崩れてゆく様は悪夢以外の何物でもない。

一年という歳月が過ぎ、今なお復興が終わらない事に胸が痛み心が軋み続けます。復興ボランティアで能登に赴いた義姉のお兄さんは、屋根からの転落事故によって、11月半ばにやっと岡山に帰り、地元の病院に再入院。つい先日二度目の手術を終えて今も入院中。・・・一緒に能登に行かれ、同じ事故にあわれた仲間の方は、お骨になって自宅に帰られたと聞きました🙏

いろんな想いが渦巻いて、キーを打つ指が震え、画面がにじんでしまいます。それでも年末を一つの区切りとして、区切りとなることを願って・・・

「能登は優しや土までも」・・空も木々もそこに住む人たちすべて、私の記憶の中の能登は何年経っても、優しくて穏やかな町のまま。2024年の終わりの日は、大好きな、大好きな懐かしい景色を振り返ってみたい。

「白米(しらよね)千枚田」・・初めてその写真を見たときの感動は今も鮮明に記憶に焼き付いています。 日本海に面した急斜面、小さな田が幾重にも重なって海岸まで続き、その先に見えるのは白く砕ける波。深い群青の海。

高洲山の裾野の1.2ヘクタールにわたる急斜面に沿って、幾重にも重なる田んぼ、その数1,004枚。 1枚の田の平均面積は18平方メートル程で、栽培は昔ながらの手作業で行なわれています。働くにはあまりにも過酷な・・・、ですが鑑賞の対象としてはこの上なく美しい「白米千枚田」。どの季節に訪れようとも、その時々の美しさが私の心をひきつけます。2015年5月、田に水が張られたらもうすぐ田植えの季節、米作りで一番大変な作業が始まります。

2011年10月、稲刈りが終わった後の田圃はまるで大役を果たして満足しきったようにゆったりと・・・。実際に見る事は出来なかったけれど、苗が青々と風にそよぐ様も、黄金の稲穂が頭をたれて輝く様も、きっと素晴らしい光景だった事でしょう。

能登を代表する美しい絶景は「日本の棚田百選」は無論のこと、2001年には「国の名勝」に、2011年6月には「世界農業遺産」に認定されました。これまで多くの棚田を見てきましたが、これほど息を呑む光景は、おそらく初めてだと思います。

訪問日:2011年10月16日&2015年5月23日

能登半島有数の景勝地であり、国の名勝および天然記念物にも指定されている「曽々木海岸」。 日本海の荒波によって浸食された断崖は、人の概念では予想もつかない奇岩を生み出しています。

曽々木海岸を代表する観光スポット「窓岩」。板状の岩の真ん中、何百年にも渡って波と風の力で穿たれた穴は、まさしく岩の「窓」。伝説では『源義経』が弓で射た穴とも言われているそうですが・・・ここからさほど遠くない場所は「平家の里」

「平家にあらずんば人にあらず」・・「平家の郷」の主人公である『平時忠』は、清盛の妻『時子』の弟として清盛を補佐しつつも、実権を一手に担った参謀です。清盛亡き後、平家の実質的な指導者として権力を握り、冒頭の言葉を残したと言われています。

壇ノ浦の戦いで捕えられた『平時忠』は、三種の神器の一つ「神鏡」を守った功績により死罪を免れ、能登に配流となり、その4年後にこの地で生涯を終えました。

その後、嫡子である『平時国』は近隣の村々を統合し館を構え、今も尚その系譜は続いています。国指定重要文化財の最大級古民家 第21代当主によって築かれた189坪の豪壮巨大な屋敷「上時国家」

江戸後期、名工「安幸」が28年かけて完成させた、入母屋萱ぶきの巨大民家。これほどの建物が残されていることに感動!

訪問日:2015年5月23日

能登半島の先端部、珠洲市の鵜飼海岸の沖合に浮かぶ白亜の島「見附島(みつけじま)」。高さ約28mの無人島は、その形が軍艦に似ていることから、「軍艦島」とも呼ばれています。言われて見れば見えなくも無いですが、生茂る木々が、ちょっと小首をかしげたおばちゃんの髪の毛みたいで。しかも上手い具合にそれらしい位置に目と口・・・😁 更に、おばちゃんの陰に隠れてこっそりこっちを見る小さな顔も😊

見附島の名は『空海』が佐渡島から当地方に渡った際、最初に見付けた島である事に由来します。くもり空の下でしたが、心に残る不思議で美しい光景でした

訪問日:2011年10月17日

「見附島」から3.5kmの海岸線「えんむすビーチ」。恋路海岸の一帯には想像をかき立てる奇岩が立ち並び、そこに立っている自分を主人公に、勝手に物語を作り出したくなる景色が展開されます。

とんがり頭の君は、いつも緑の中の誰かを見ているんだね。ねぇ、あそこにはね神様が住んでいるんだよ。だから一生懸命お願いしたら・・いつかお前の願いも叶うかもしれない。叶うといいね。

私達は旅の途中だから、お前の願いが叶うのを見届けることはできないけれど、でもずっとずっと忘れないよ。とんがり頭の君と君の友達の不思議な相棒のことは。きっとこの写真を見るたびに思い出すよ。

訪問日:2011年10月17日

能登の美しい風景、長い間憧れてやっとその場所に立ったときの感動は今でも鮮明です。年頭の震災で失われてしまったあの美しい景色を・・それでも私は決して忘れない。目を閉じれば鮮やかに蘇る海の色、目をみはる佇まいのお屋敷、物語を紡ぐ不思議な岩の造形。それから・・・それから、手間も暇も充分にかけて大切に作られる輪島の塩。 輪島の塩を手にまぶし、炊き立てのご飯で作るお握り・・・何もかもが泣きたくなるほど恋しく懐かしい。

あの悪夢の瞬間から一年・・言葉にできない痛みの中から立ち上がる方たちに心からのエールと、ありったけの「大好き」を込めて・・・

2024年 大晦日

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からむし織の里 in 福島県昭和村

2024年12月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

昭和村佐倉上ノ原にある「道の駅からむし織の里しょうわ」。からむし織の文化を伝える施設として、奥会津昭和村振興公社が2001年より運営。2014年に道の駅に登録されました。

「古代布 からむし織」

着物好きな人ならさして不思議にも思わない名称ですが、上布や伝統工芸に興味ない人には「からむし=殻虫・唐虫・カラムシ」と変換する人もいて、認知度の低さに逆に驚かされました。まぁ・・確かにムシと付くと止むを得ない気もします。前置きが長くなりましたが「からむし」は、イラクサ科の多年草で「苧麻(ちょま)」とも、また茎からとれる繊維の名称から「青苧(あおそ)」とも呼ばれます。現在、本州では昭和村が唯一の産地であり「小千谷縮・越後上布」の原料にも用いられています。

棒ガヤの垣の中の「昭和村からむし」。え??、これって抜いても抜いても生えてくるあの厄介な雑草じゃないの!?と思われたアナタ。ええ、その感想、多分間違っていません(笑)。

ところが茎の皮から採れる「靭皮(じんぴ)繊維」はとても丈夫で、績(う)んで取り出した繊維を紡いで糸にし、縦糸と横糸を織って布にすると、着物好きには垂涎の「上布(じょうふ)」になるのです。(績む=繊維を目的の細さに裂き、繋いで糸にする事) 長く着付けの講師をしていた私ですが、7桁のお値段に負けて遂に入手は叶いませんでした。

この苧麻、日本では有史以前から繊維用に栽培されていた事が文献などにも残されており、朝廷や豪族が部民(専門の職業集団)として糸を作るための「麻績部(おみべ)」、布を織るための「機織(はとりべ、はとり)」を置いていた事が解明されています。また日本書紀の、持統天皇7年(693)条によれば、天皇が詔を発して役人が民に栽培を奨励すべき草木の一つとして「紵(からむし)」が挙げられています。

縄文の昔から人間と共に生きてきた植物との営みを伝える「からむし工芸博物館」。館内では、からむしの歴史から、上布で作られた様々な収蔵品が、営みにまつわる道具とともに展示されています。

からむしは、雪がとけた5月中旬頃に根を植え、2年目以降の旧暦4月の中の日を目安に「からむし焼」をおこないます。これは、からむしの発芽がばらばらなので、先に出た芽を焼くと共に根に刺激を与えて一斉に発芽させる為に行います。また、害虫の駆除や焼いた灰を肥料にする意味もあります。

積もったばかりの平らな雪の上に上布を広げる「雪晒し」。太陽の熱によって雪が溶けて水蒸気になる時、殺菌・漂白作用のある「オゾン」が発生。これが布目を通る時に化学反応が起きて繊維が漂白されるという効果を利用したもので、汚れやシミなどを落とし漂白し、柄をより鮮明に浮き立たせるために行われます。

歴史のある「からむし織」は県の文化財に指定。原料となる「からむし」の栽培方法は国の保存技術に選定され、2017年に国の伝統的工芸品に。また、からむし織りのはた音は「日本の音風景100選」に選定されました。

昭和村大芦、からむしの里を後にふと目に留まった「中組山神社」。石段・石灯籠・石鳥居が村有形文化財の指定を受けています。石段下からの拝礼で・・・

山越えの私たちの前に現れた昭和村名水10選の看板。「天狗の冷泉」の名とその由来を読み、そっと手を浸せば思わず肩がブルっと震える。初夏の日差しもここまでは届かないようです。

訪問日:2015年7月2日

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ご当地マンホール in 福島県昭和村

2024年12月29日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・福島県

大沼郡昭和村(しょうわむら)は福島県会津地方の西南部に位置する村です。可沼郡柳津町、南会津郡下郷町、南会津町、只見町、大沼郡会津美里町、金山町、三島町に隣接。

村の面積のほとんどが急峻な山で、82%が山林。村の中央を野尻川が貫流し、その河岸段丘に10の集落があります。村名は昭和時代に合併した事に由来。かっては峡谷の難所であり、村人は峠越えで往来するしか道がありませんでした。「村の木:ヒメコマツ」「村の花:サユリ」「村の鳥:ヤマガラ」を制定。

キャッチフレーズは「からむし織とかすみ草の里」

明治22年(1889)、町村制の施行により、大沼郡野尻村、大芦村が発足。

1927年、野尻村、大芦村が合併、大沼郡昭和村となる。

マンホールには中央に村章、放射状に「村の花:サユリ」「村の鳥:ヤマガラス」が交互にデザインされています。

上記と全く同じデザインですが、こちらは集落排水用で左下の「公」の文字が「集」に変わっています。

昭和42年(1967)3月20日制定の町章は「鳩の羽根に「ショウワ」を配し、表したもの」

昭和村公式マスコットキャラクター『からむん』は、昭和村を愛するからむしとカスミソウの妖精。 頭の形は七夕の織姫とカスミソウ。 足は昭和村の駒止湿原や矢ノ原湿原の清水、胴体はからむしの茎を表現しているそうです。

撮影日:2015年7月2日

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会津美里~あちこちウォッチ in 福島県会津美里町

2024年12月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津美里町西勝に伝承される「西勝彼岸獅子舞」、太夫獅子、雄獅子、雌獅子の三体で舞われる獅子舞。寛永3年(1626)西勝集落が大火により全焼し、後、天明の大飢饉、その後の疫病によって村の人口が半減した寛政10年前後に、獅子の霊力にあやかろうと、火伏せと五穀豊穣、死者の供養のために、招致したものと伝えられています。 毎年・春の彼岸の春分の日を中心に町内と西勝集落を踊り子、笛、太鼓などによって舞が披露されています。

会津美里町船場にある「向羽黒山城一の曲輪(本丸)」、陸奥国にあった日本最大級の山城。城跡は国の史跡に指定されていますが、ここを登ってゆく根性は無し😓

でも登山口に設けられた駐車場からの眺めは最高にステキ😍 さすがに「会津盆地一望の ビューポイント」の説明はだてじゃない。

「古釜18567年(安政5年)1920年代(明治末期)まで使用。大釜1860年(万延元年)1920年代(明治末期)まで使用。」『水野瀬戸右衛門 共同窯跡』水野瀬戸右衛門以下16名共同窯と言う事で16名の氏名が記されています。

近くの「会津美里町観光協会」の一画に展示されていた鬼瓦

会津美里町高田甲に建立された「慈眼大師御誕生地」碑。大正13年、舟木舘跡に建立された天海大僧正の生誕地をしめす石標。刻字は輪王寺門跡大照円朗大僧正による書。昭和43年(1968)2月22日に町指定史跡に指定されています。

天海大僧正の生誕地の斜め向かい、会津美里町公民館前に立つ「天海大僧正」石造と「護法石」

天海僧正は天文5年(1536)に会津美里町(高田地区)に舟木景光夫婦との間に生まれ、幼名を兵太郎といいました。なかなか子宝に恵まれなかった舟木夫婦は文殊堂に籠って子供の誕生を祈願した結果、天海を授かったといわれています。舟木夫婦は子供が産まれたことを記念して「護法石(ごほういし)」を屋敷敷地内に建立したといわれています。この石は「遥拝石」とも呼ばれており、天海が太陽を拝んだことが由来とされています。また、この石には「天一」とも刻まれています。

「天海大僧正」の右に見えていた色鮮やかなお神輿は、国指定重要無形民族文化財に指定されている会津美里町:御田植祭太鼓台」。祭りの連と呼んで良いのかどうか不明ですが「第一仲若」の太鼓台のようです。

会津美里町新屋敷稲荷宮甲に残る町指定文化財 新屋敷一里塚」。「下野街道沿いに位置するこの塚は、かって寛文七年(1667)に国に設けられた一里塚で当時坂下一高田一大内一田島への盆地西部の交通史上重要な史跡である。これ以外のものはすべて破壊されており、東側のこの一里塚が遺された唯一の物である。」現地案内

会津美里町新屋敷東十二神甲に鎮座される「十里神社」。通りすがりにお見掛けした神社故、鳥居前の拝礼で失礼します。

通りがかりに見かけた巨大大俵・・あれは確か坂下坂下町で見たもの・・え??私たち、道を間違えた!!?? いえいえ、大丈夫。実は会津美里町にも、四百余年の伝統を誇る「奇祭 大俵引き」があるのです。

 町の目抜き通りで。日没後にかがり火や提灯の明かりの中で行われる豪快綺麗な正月行事「大俵引き」。 長さ五メートル、直径三メートル、重さ三トンの大俵を町内の若者が上手と下手に分かれて引っ張りあい、 上手が勝つと米の値段が上がり、下手が勝つと豊作になるといわれています。新鶴PAの地域案内地図に見かけた「大俵引きの里」には、両方の地名が入っていました。

訪問日:2015年6月28日&6月30日

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ご当地マンホール in 福島県旧会津本郷町(会津美里町)

2024年12月27日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・福島県

旧大沼郡会津本郷町(あいづほんごうまち)は会津盆地の南端部に位置した町です。会津若松市、会津高田町、南会津郡下郷町に隣接。町の北部は盆地が広がり比較的平坦ですが、中南部は山間部が広がり町域の70%が森林。町の東側、会津若松市との境を阿賀川が南北に流れています。東北最古の窯場といわれる会津本郷焼で知られており、その発祥は1593年、会津若松城主・蒲生氏郷が城の改修のために播磨国から瓦工を招き、瓦を焼かせたのが始まりといわれています。「町の木:赤松」「町の花:山ツツジ」「町の鳥:セキレイ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、大沼郡本郷村・氷玉岡村・川路村が発足。

1903年、本郷村が町制を施行、大沼郡本郷町となる。

1925年、氷玉岡村・川路村が合併、大沼郡玉路村となる。

1954年、本郷町が玉路(たまじ)村と合併。

1992年、本郷町が会津本郷町と改称。

2005年、会津高田町、新鶴村と合併、大沼郡会津美里町となる。

マンホールには東北最古の歴史を持つ「会津本郷焼」の急須がデザインされています。

会津本郷焼の急須

1992年3月31日制定の町章は「「A」と「H」を合わせて図案化したもの」

本郷町から会津本郷町に「町名変更記念宣言書」「白鳳の山を望み 豊かな大地の中で 土と炎の伝統を守り 未来にはばたく 会津本郷の歴史 今ここに始まる」

旧本郷町時代の町章入り制水弁。

撮影日:2015年6月30日

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法用寺:御堂彫刻 in 福島県会津美里町

2024年12月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

一度では紹介しきれなかった「法用寺」。二日目はお堂に施された見事な彫刻を紹介していきます。

まずは寺社彫刻の定番中の定番ともいえる向拝の龍。ここでは阿吽・一対の龍が見事に体をくねらせて睨み合っています。

触れれば刺し貫かされそうな鋭い髭。らんらんと輝く漆黒の目は、世の全ての情理を見透かすように深く黒く・・

龍の存在など知らぬが如く、内深くで見返るのは吽の獅子

楽し気に追う阿の獅子

貫彫刻には阿吽の獅子。それは驚くばかりの迫力。鋭くとがった牙を覗かせながら、しかしそれは決しておどろおどろしい物では無く、猛々しさの中に神秘があり、嵌めこまれた玉眼は全てを見通すほどの光を放つ・・寺社の貫に施された獅子彫刻。これまでに軽く三桁は見てきましたが、心に残る一対です。

獅子と対になるのは麒麟の一対。目線の違いかもしれませんが、何という優しさ、何という慈愛に満ちた眼差し。

一角を頭に戴く麒麟。獅子と同様に嵌められた玉眼なのに、これほどまでに異なった印象を与えてくれるとは。名も知らぬ匠の技にしばし言葉を忘れて見惚れる二人。

弘安2年(1279)に『富塚伊賀守盛勝公』が伽藍を造営、その際に「普門山:圓通閣」と称したという由来を伝える扁額。

続いて「子安地蔵堂」の向拝彫刻は、「竜虎相搏」の図

「龍吟ずれば雲起こり、雲は竜に従う」

「虎嘯けば風生じ、風は虎に従う」

虹梁を支えるのは朱に塗られた力神

参拝日:2015年6月28日

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妙行院:法用寺 in 福島県会津美里町雀林

2024年12月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津美里町雀林三番山下に門を構える天台宗寺院「雷電山妙行院:法用寺」。会津三十三観音第29番札所 、『十一面観世音菩薩』を本尊とします。

寺伝によれば「養老4年(720)、徳道上人が会津美里町蓋沼の北、堂平坊ヶ沢に創建。大同2(807)に火災で堂宇・仏像もろとも消失。翌年の大同3(808)、徳一大師が “仏都会津” を一望できる現在地に再建。弘仁2(811)、観音堂が創建。宝永6(1703)に大雪で崩壊、安永9(1780)に再建され現在に至る。嵯峨天皇の祈願所であり、恵日寺が建つまでは多くの末寺を有していたという。長く無住で荒廃している感はあるが、地元雀林地区で毎年1月7日に行われる「蛇の御年始」に伝統が偲ばれる。」

奉納絵馬に描かれた「釈迦三尊像」。御堂の手前には金剛力士の姿も見えます。

不思議な色合いを背景に、睦まじい二羽の鴉・・・、もしかしたら鴉ではなくて別の鳥かもしれませんが、印象に残る絵馬でした。

本堂左右より仏域を守護される福島型狛犬さん一対。上目遣いで吽形さんを見ながら仔狛を抑える阿形さん。前足の下の仔狛さんのお尻が何とも可愛くて。飾り毬を持ちながら、親子を見守る吽形さんの目線の優しい事😊。

不満たらたらなのが一目瞭然のやんちゃそうな顔(笑)。これを刻んだ人の近くには、絶対に犬か猫さんの親子がいる筈!

池に影を落とす三重塔。生い茂る緑と太鼓橋の対比は静謐さに満ち、まさしく観音のおわす地に相応しい。

安永9年(1780)に完成したと伝わる会津地方唯一の「法用寺:三重塔(福島県指定重要文化財)」。高さ17・3メートル、塔の内部に四天柱があり、厨子には釈迦三尊像が安置されます。 

県指定重要文化財の観音堂と、手前に鐘楼

県指定重要文化財の銅鐘

会津五桜の一つ「法用寺の虎の尾桜」。葉が花よりも先に芽吹くのが特徴だそうで、雄蕊が花弁化する珍種。花の中から花びらが立ち上がっているように見えます。

「弁天石(抱き石)。伝承によると、徳一大師が法用寺再建に尽力していた際、ある時、虎の尾桜の下で眠りこけると霊夢に弁財天の化身が立ち、目覚めると石があったので弁天石と名付けたとされ、抱きつくと安産、子授けに御利益があるとして信仰されました。」現地案内より

「子安地蔵堂」

仁王門に祀られる、藁で作られた大きな蛇。そのむかし、用水不足に窮した雀林地区の人々は、龍蔵神社に五龍王神をお祀りしましたが、この龍を模して藁の大蛇(約7m)を作り、仁王門に飾ってお参りするようになったのが『へびの御年始』の始まりです。水の恵みに加え、五穀豊穣や無病息災を祈願する、全国的にも珍しい行事です。

平安時代にさかのぼる木造金剛力士像が納められていた仁王門。重要文化財の仁王像保存のため、現在は本堂内に移されています。

法用寺三重塔の裏手に建立された石川啄木歌碑。【 あらそいて いたく憎みて別れたる 友をなつかしく 思う日も来ぬ 】【 敵として 憎みし友とやや長く 手をば握りき わかれといふに 】碑に刻まれた文字は、啄木のノートなどから探し再構成したものだそうです。

参拝日:2015年6月28日

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弘安寺:中田観音 in 福島県会津美里町

2024年12月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津美里町米田堂ノ後甲に門を構える曹洞宗寺院「普門山:弘安寺 中田観音」。会津三十三観音第30番札所 、「会津コロリ三観音」の一つに数えられ『十一面観世音菩薩』を本尊とします。

「文永11年(1274)、長者江川常俊が娘の菩提を弔うために十一面観世音菩薩立像を鋳造し愛娘の心が宿るここ中田の里に観音堂建立し納めたといわれる。弘安2年(1279)、富塚伊賀守盛勝公が伽藍を造営し普門山圓通閣と称した。その後厳知和尚を招いて開山。その年号より弘安寺と称する。重要文化財の旧観音堂厨子は寛永19年(1642)~慶安元年(1646)に観音堂が修復された際に堂外に出され、現在は保存庫に納められ、代りに弁財天が祀られる。銅造十一面観世音菩薩、脇侍不動明王、地蔵菩薩立像の3体は鎌倉時代の鋳像として東北地方においても珍しく、国の重要文化財に指定。」

医聖・野口英世の母:シカさんが深く信仰し、息子の火傷治療と立身出世を願い、毎月17日におこもりをする月詣りを欠かさなかったという逸話。堂内にはアメリカから一時帰国した英世とシカ親子、恩師:小林栄先生との参詣写真が残されています。

「観音堂」は木造平屋建て、二重入母屋造、銅板葺、平入、正面唐破風向拝付き、外壁は真壁造り板張り、向拝木鼻には精緻な彫刻。また、観音堂内の「だきつき柱」に抱きつき念願すれば、その想いは成就されるといわれています。御亭主殿と私、交互に太い柱に抱きついて来ました。良い大人が・・・と笑ってはいけません。一願を願う姿は皆等しく尊いのです。

堂内入口の横に並べられた恵比須大国、地蔵菩薩、観音諸仏の像、誰がどのような思いで納めたものなのか分かりませんが、一つ一つ大切に置かれている事に、無条件に心が温かくなります。

人々の想いや願いを受け止めてきた観音堂、その境内の左右より仏域を守護されるのは、昭和四年(1929)十一月奉納の福島型狛犬さん一対。飾り毬を持つ吽形さんと、仔狛をあやす阿形さん。

親狛の大きな手の下で無邪気に遊ぶ仔狛。人も神獣も親子の情に変りはありません。

常香炉

門と本堂の間に鎮座される弁天堂は、もと御本尊である観世音菩薩像が祀られていた厨子で、現在は『弁財天』が祀られています。とは言え、画像が小さい事もあって、どんな構図だったのか見返す本人にも良く分かっていない・・・・😓。

境内入り口に建つ山門は寄棟、桟瓦葺き、三間一戸、八脚単層門。奉納された大草鞋が目を惹きます。

天衣をひるがえして立つ金剛力士像。口元の朱と歯の白さが際立ちます。

御詠歌【 巡り来て 四方の千里を眺むれば  これぞ会津の中田なるらん 】

参拝日:2015年6月28日

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ご当地マンホール in 福島県旧新鶴村(会津美里町)

2024年12月23日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・福島県

旧大沼郡新鶴村(にいつるむら)は会津盆地の中西部に位置した村です。柳津町、会津若松市、会津高田町、会津坂下町に隣接。佐賀瀬川周辺に広がる鶴沼川と佐賀瀬川の複合扇状地に開けた会津盆地は米どころとして知られますが、村域の50%が森林で占められています。村域には縄文遺跡、古墳、条里遺構も残されており、また江戸時代には若松城下から現:柳津町の軽井沢銀山へ通じる銀山街道があり、交通の要所として栄えてきました。「村の木:エンジュ」「村の花:菊」「村の鳥:ヒバリ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、大沼郡新田村、鶴野辺村が発足。

1898年、新田村と鶴野辺村が合併、大沼郡新鶴村が発足。

1949年、西山村大字軽井沢の上平地区を編入。

2005年、大沼郡会津本郷町、会津高田町と合併、大沼郡会津美里町となる。

マンホールには村のイメージキャラクター「ニッキー」を中心に、上に「村の木:エンジュ」、下に「村の花:菊」枠部分に「NIITURU」の文字が出会因されています。

特産の会津米から生まれた、新鶴村イメージキャラクターニッキー

昭和48年(1973)12月制定の村章は「新鶴の「に」をつるの姿にかたどり、「にいつる」と組み合せて図案化。胴と羽は村民の融和と団結、豊かで円満な平和を表し、首と口ばしは限りない発展を願い、明日へ飛躍する新鶴村を表しています。」新鶴村勢要覧より

撮影日:2015年6月28日

 

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伊佐須美神社:あやめ苑 in 福島県会津美里町宮林

2024年12月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

伊佐須美神社の境内南、道路を挟んだ地にある神苑「あやめ苑」。この地は、伊佐須美神が明神ヶ岳から遷座した際に最初に鎮座した「高天原(高田南原)」の地であるといわれ、伊佐須美神は当地に欽明天皇13年から21年(552~560)の間に鎮座したと伝えられています。

回遊式庭園の苑内には約170種・10万株のあやめが植えられており、これらの花が見頃を迎える6月15日から7月5日には「あやめ祭り」が開催されます。

昭和49年(1974)のあやめ苑造成開始当時より管理・育成に携わってきた『馬場啓介氏(日本花菖蒲協会会員)』の交配研究により選出された種紫の絞り模様が美しい「高田錦」。旧・会津高田町のオリジナル品種で、2004年に日本花菖蒲協会の品種目録に正式登録されました。

古そうな石橋は、神橋として作られたものなのか、それとも菖蒲苑の為に作られたのか・・・美しい景色を生み出しています。

池のほとりで優雅に寛ぐ白鳥。こんなに近くに寄ってくれるなんて、何だか嬉しい😊

訪問日:2015年6月28日

コメント (4)
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