車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 奈良県河合町 

2023年05月31日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・奈良県

北葛城郡河合町(かわいちょう)は奈良県北西部、奈良盆地の西部に位置する町です。古代の大和国広瀬郡の地であり、延喜式内「廣瀬神社」や、川合大塚山古墳群・馬見丘陵古墳群など、国指定史跡4件11基を含めた60基もの古墳が残されている事で知られています。王寺町、上牧町、広陵町、斑鳩町、安堵町、川西町、三宅町に隣接。「町の木:山茶花」「町の花:福寿草」を制定。

キャッチフレーズは「輝きと潤いを みんなで築く 水辺の里」

明治22年(1889)、町村制の施行により、広瀬郡川合村が発足。

1892年、河合村大字沢・大野・寺戸地区を箸尾村に編入。

1897年、郡制の施行により葛下郡・広瀬郡の区域をもって北葛城郡が発足

1971年、河合村が町制を施行、北葛城郡河合町となる。

マンホールは町章のみの規格品で、デザインマンホールはありません。

町章は、昭和46年7月1日制定の村章を継承「「河」を図案化し、全体はで町の円満と発展を表徴。中央の円は明るい町を表わす。」公式HPより

広陵町からの帰路に通りかかって見つけた河合町のマンホール。何時か再訪してもう少し丁寧にマンホール画像を入手したいと思いつつ、結局ここも一回きりになりました。

撮影日:2009年6月27日

 

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ご当地マンホール in 奈良県五條市

2023年05月30日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・奈良県

五條市(ごじょうし)は奈良県南西部、吉野川流域に位置する市です。金剛山と吉野連山に囲まれ、大和国と紀伊国を結ぶ交通の要衝として、また吉野山地への入口として古来より重視されてきました。御所市、淀町、下市町、天川村、黒滝村、野迫川村、十津川村、上北山村に、また県を跨いで大阪府河内長野市、千早赤阪村と和歌山県橋本市、高野町に隣接。吉野川の流域に開けた町の辻辻には、こうした道標や石灯籠を幾つも見ることが出来ます。「市の木:楠」「市の花:桔梗」を制定。

キャッチフレーズは「豊かな自然と歴史が織りなすなごみとロマンとふれあいの創造都市」

明治22年(1889)、町村制の施行により、宇智郡五條町・牧野村・北宇智村・宇智村・南阿太村・野原村・阪合部村・大阿太村・南宇智村が発足。

1928年、野原村が町制を施行し、宇智郡野原町となる。

1952年、大阿太村大字佐名伝が吉野郡大淀町へ編入される。

1957年、宇智郡五條町・牧野村・北宇智村・宇智村・大阿太村・南阿太村・野原町・阪合部村が合併、五條市が発足。

1959年、宇智郡南宇智村を編入。

2005年、吉野郡西吉野村・大塔村を編入。現在に至ります。

マンホールには市章を中心に、「市の花:キキョウ」がデザインされています。

昭和33年10月1日制定の市章は「「五」の文字を金剛山に因んで山形に図案化し、飛躍発展と市民の融和を象徴。」公式HPより

撮影日:2009年6月27日

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吉野郡西吉野村(にしよしのむら)は奈良県の中南部、乗鞍岳の麓に位置した山間の村です。全国有数の柿の生産地として知られて、村のイメージキャラクターは『カッキー』。また村域にある賀名生(あのう)梅林は、丘陵を麓から中腹までおおいつくすように2万本の梅が咲き誇る県下有数の梅林として知られ、村の観光資源の一つとして多くの人々が訪れる名所よなっています。五條市、下市町、大塔村、天川村、黒滝村、和歌山県高野町に隣接。「村の木:ヤマモモ」「村の花:福寿草」を制定。。

明治22年(1889)、町村制の施行により、吉野郡白銀村・賀名生村・宗檜村が発足。

1959年、吉野郡白銀村・賀名生村・宗檜村が合併、吉野郡西吉野村が発足。

2005年、五條市に編入。

昭和63年7月1日制定の村章は「「にし」を図案化し、「に」は村の姿・「し」は融和と協調の精神を表し、中央の空白部分は村の地図を表したもの。」奈良県年鑑より

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吉野郡大塔村(おおとうむら)は奈良県の南西部、紀伊山地の山岳地域に位置した村です。紀伊半島の中央部、紀伊山地を東西に分ける十津川沿いに村落を構える山間(やまあい)の村で村域の96%は森林であり、古くより林業が盛んに行われていました。十津川村、野迫川村、西吉野村、上北山村、天川村、和歌山県高野町に隣接。「村の木:杉」「村の花:笹百合」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により吉野郡大塔村が発足。

2005年、五條市に編入。

昭和47年頃の制定とされる村章は「護良親王が難を逃れてこの地に参られたと伝えられ、カシワの紋章はこの宮の紋章であることから、この紋章を当村の村章として用いたもの。」奈良県年鑑より

幾つもの自治体の知章を見てきましたが、大塔村の村章は、美しいという言葉がぴったりです。

旧吉野郡西吉野村・大塔村に関しては未訪問の為、マンホール画像はありません。

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ご当地マンホール in 奈良県大淀町

2023年05月29日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・奈良県

吉野郡大淀町(おおよどちょう)は奈良県中部、吉野川右岸に位置する町です。紀伊半島のほぼ中央にあり、北は竜門山地が聳え、南には吉野川が流れ、西部の大阿太高原(おおあだこうげん)を始め、丘陵地が多いのが特徴です。御所市、五條市、高取町、吉野町、下市町に隣接。長期にわたって過疎化が深刻な吉野郡にありながら、近鉄大阪阿部野橋駅まで約1時間という利便性から、宅地開発によって人口が増加。官公庁が集まるなど、吉野郡の中核としての存在を強めています。また日本一の降水量を誇る大台ヶ原を源流とした吉野川の水源を活かした上水道の供給を行っており、奈良県内で最も安い水道料金設定が知られています(奈良県内水道料金の半額~三割程度)。「町の木:あらかし」「町の花:梨の花」を制定。

キャッチフレーズは「ひともまちも輝く大淀町 安全で住み良い活力あるまちをめざして」

明治22年(1889)、町村制の施行により吉野郡大淀村、宇智郡大阿太村が発足。

1921年、大淀村が町制を施行して吉野郡大淀町となる。

1952年、宇智郡大阿太村大字佐名伝を編入。現在に至ります。

マンホールは中央に町章を置き、町の特産品である「梨」と「吉野川の鮎」がデザインされています。

昭和41年5月制定の二代目町章は「大淀町の「大淀」を図案化したもの。」公式HPより

昭和37年1月15日制定の初代町章

大淀町六田地区に残る「町指定史跡・柳の渡し」には、天明6年(1786)建立の道標を兼ねた石灯籠や、【右 よしの ・ 左 いせ】と刻まれた道標が残されています。

用事が有っても無くても立ち寄ってしまうのが「道の駅」。「吉野路 大淀iセンター」、行けば何かしら、例えば美味しいものとか、珍しいものとかの発見があるものです(笑)。

山岳を神仏の世界そのものとする修験道。その聖地「大峯山系」では、今もこのような山伏(修験者)姿の行者が修行をしているそうです。こちらの熊さんは・・どのような経緯でこんな姿(剥製)になったのやら

撮影日:2009年6月27日

 

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海(かい)神社 in 奈良県宇陀市室生

2023年05月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

奈良県宇陀市室生三本松に鎮座される「海(かい)神社」。御祭神は『豐玉姫命』、別名「なるみの宮」とも称されます。

創建「応永三年(1396)に室生龍穴神社より善女竜王を勧請したという。尤も当社に祀る神像は鎌倉期と考証されており、中世の初頭には既に祠を構えていたと思われる。龍穴神社は祈雨・止雨の霊験厚く国家を鎮護したので貞観9年 勅諚により善女竜王の称号が授けられた。それゆえ当社も宝暦四年の郷鑑には「善女竜王社」とあり棟札にも祭神は善女竜王と記されている。ところが明治初年の神仏分離令により海神の姫「豐玉姫命」を祭神とし社号も「海神社」と改称した。海神の化身は龍神である事から本地に帰ったともいえよう。「豐玉姫命」は万物の命の源である水を統御し五穀豊穣をもたらす霊能豊かな神であらせられ、安産・鎮守の神としてもご神徳高く古くから崇敬のご至情を集めている」境内案内より

拝殿前左右より神域を守護されるのは、扁平頭でずんぐりした体系が特徴の浪花狛犬さん一対。何ともユニークな顔立ちは、その口元から見える歯の所為かもしれません。

拝殿屋根には「海」と刻まれた瓦。そういえば『豐玉姫』とは、海神が愛でる海底の真珠の神霊とも言われています。海の全く無い山奥に鎮座される「海神社」も、祈雨・止雨の神であれば特段不思議な話でも有りません。でも「善女竜王社」の方がしっくりきたのではと・・つい考えてしまいます。

「山神社」

「明治天皇遥拝所」「大正天皇遥拝所」と刻まれた石柱。

参拝日:2009年4月29日

 

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ご当地マンホール in 奈良県旧菟田野町・旧室生村(宇陀市)

2023年05月27日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・奈良県

旧宇陀郡菟田野町(うたのちょう)は奈良県の東北部、大和高原の山中に位置した町です。町の東部から流れる芳野川(ほうのがわ)流域の谷間に集落が点在し、榛原町、大宇陀町、吉野町、東吉野村町に隣接。菟田野古市場地区には崇徳天皇七年の創建と伝えられる「宇太水分神社」が鎮座され、本殿3棟は国宝に指定されています。「町の木:杉」「町の花:紫陽花」「町の鳥:めじろ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、宇陀郡宇太村・宇賀志村が発足。

1935年、宇太村が町制を施行し、宇陀郡宇太町となる。

1956年、宇陀郡宇太町・宇賀志村が合併、宇陀郡菟田野町が発足。

2006年、宇陀郡大宇陀町・榛原町・室生村と合併、宇陀市が発足。

マンホールには「町の木:杉」「町の花:紫陽花」「町の鳥:メジロ」がベルのように組み合わされています。

昭和35年5月10日制定の町章は、回りの円で菟田野町の頭文字「ウ」を、真ん中に「田」を表しています。

撮影日:2009年7月11日

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旧宇陀郡室生村(むろうむら)は奈良県北東部に位置し、山林が村の面積のほとんど(81.7%)を占める山村です。奈良市、山添村、榛原町、曽爾村、東吉野村と県境を挟んで三重県名張市に隣接。「村の木:松」「村の花:スズラン」を制定。

宇陀川の支流・室生川の北岸にある室生山の山麓から中腹に堂塔を持つ「室生寺」は「女人高野」の別称をもち、今も多くの人が参拝に訪れています。

明治22年(1889)、 町村制の施行により、宇陀郡室生村・三本松村、山辺郡東里村が発足。

1954年、宇陀郡室生村大字山粕が曽爾村に編入。

1955年、宇陀郡室生村、三本松村・山辺郡東里村が合併、改めて宇陀郡室生村が発足。

2006年、宇陀郡大宇陀町・菟田野町・榛原町と合併、宇陀市が発足。

昭和39年5月制定の村章は、全体で「ムロウ」を図案化したものです。

室生村に関しては室生寺近辺、滝谷花しょうぶ園の集落近辺も探してみましたが、ご当地マンホールの類は見つけられませんでした。

撮影日:2006年6月17日&2009年4月29日

 

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ご当地マンホール in 奈良県旧榛原町(宇陀市)

2023年05月26日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・奈良県

旧宇陀郡榛原町(はいばらちょう)は奈良県中東部にあり、奈良市、桜井市、大宇陀町、菟田野町、室生村、東吉野村に隣接。大和高原の南端に位置し、四方を山地に囲まれていた町です。町内を流れる宇陀川・芳野川周辺の海抜300m前後の平坦地と、それを取り囲む600〜800mの山地で構成されています。「町の木:桧」「町の花:山ツツジ」「町の鳥:鶯」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により宇陀郡榛原村が発足。

1893年、榛原村が町制を施行、宇陀郡榛原町となる。

1954年、宇陀郡伊那佐村、磯城郡桜井町笠間・安田地区を編入。

1955年、宇陀郡内牧村を編入。

1969年、桜井市角柄・柳地区を編入。

2006年、宇陀郡大宇陀町・菟田野町・室生村と合併、宇陀市が発足。

マンホールには、大和富士とも呼ばれる「額井岳」と「町の花:ヤマツツジ」「町の鳥:鶯」がデザインされています。(榛原萩乃里付近のカラー歩道に設置。)

こちらには、町章を中心に「町の花:ヤマツツジ」がデザインされています。

昭和45年3月2日制定の町章は「五つの「ハ」を図案化して、「榛」を表したもので二代目の町章。」

撮影日:2009年7月11日

 

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宇陀松山重要伝統的建造物群保存地区 in 奈良県宇陀市大宇陀

2023年05月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

天武・持統天皇の時代、宮中行事でもあった薬狩りが阿騎野で行われたと文献に残る宇陀松山。古の昔より、阿騎野は、天皇の狩場や牧場があった場所として発展してきました。

宇陀松山が拓かれたのは、戦国時代に「宇陀三将」と呼ばれた一人、秋山氏の築いた秋山城の城下町を起源とします。その後豊臣秀長配下の大名により現在の町並みの原型が形成、地名も阿貴町から松山町に改められたとされています。

江戸時代には、宇陀松山藩の陣屋町として、元禄7年(1694)に江戸幕府の天領となってからは商業地として栄え、明治時代には宇陀郡役所や裁判所がおかれるなど地域の中心として発展してきた大宇陀。

往時の繁栄を伝える物はそこかしこに残されており、町歩きの楽しさに格別の趣を垣間見せてくれます。大きく「天寿丸」と書かれた看板が目を引き、松山地区のシンボルともされる建物。

江戸時代末期の細川家住宅を修復し、1994年に宇陀市大宇陀歴史文化館「薬の館」として開館。細川家は、文化3年(1806)に薬商を営み、天保7年(1836)には人参五臓圓・天寿丸という腹薬を販売しました。唐破風付きの看板が、当時の繁栄を今に伝えています。

松山と薬草との関わりは、江戸時代に開園した「森野旧薬園」に象徴されます。葛粉の製造を営んでいた11代目『森野藤助』は、享保14年(1729年)に幕府から派遣された採薬使に随行し、薬草採取に従事。その功績により幕府から薬草の種や苗を与えられました。自宅の裏山に開いた薬園には今も約250種類の薬草木が四季折々に来園者の目を楽しませてくれます。「森野旧薬園」は、「小石川植物園」と並ぶ日本最古の民間の薬草園として国の史跡に指定されています。

切妻造の建物に、すっかりと色あせてしまった看板が幾つも架かる「黒川本家」「山ノ坊屋」の屋号で吉野葛を商っていました。江戸時代中期の建築で間口10間半は、酒蔵通りの久保酒造と並んでこの一帯では最も広く、通りに貫禄を添えています。宇陀は「吉野葛」の産地として全国的に有名で、顧客に『谷崎潤一郎』の名が残されています。

薬の館の隣にある「山邊義徳家住宅」。かって宇陀紙の総元締めを家業としており、今も当時の藩札の原版や宿札などが残されているとか。入り口左側の千本格子の下に犬矢来を置き、厨子(つし)二階の虫籠窓は小さく、古い商家の状態がよく保存されています。天明5年(1785)の建築は宇陀松山で最も古く、奈良県文化財の指定を受けています。

松山地区まちづくりセンター「千軒舎」。明治時代前期の建築とされ、薬屋・歯科医院として使われていた「内藤家住宅」を改修。松山地区の観光拠点として一般開放されています。

江戸時代後期の建築で、片側入母屋・平入の伝統的町家「森田家住宅」。屋号を「諸木野屋」といい、1階前面の戸袋には「五龍園」と書かれた看板が残されています。当時は薬や雑貨を商っていたそうですが、明治初年には商売をやめ、今は空き家となっていました。

長い石段が続く「神楽岡神社」の参道脇に建つ「都司家住宅」。屋号を「更紗屋」といい、主屋には明治4年(1871)の愛宕祈祷札があり、明治元年頃の建築と伝わっています。宇陀の領主であった秋山氏の菩提寺・慶恩寺の晋山式の時には、都司家が僧侶の支度控えに利用され、この玄関から僧侶が出入りしたと云われています。

川沿いに建つ古い学校舎のような建物は明治36年に旧松山町役場として建設された、松山地区の中では比較的大きな建物。その後、工業学校、土木事務所等を経て、現在は大宇陀福祉会館として利用されています。

松山藩時代の面影を残す「史跡:宇陀松山の西門」。江戸時代初期の建築とされる「旧松山西口関門」で、建築当時のままの位置に残されています。

黒漆喰の外壁が美しい「久保酒造」。明治時代に「登徳造商店」として現在の店舗の場所から少し離れた村の中で創業。その後、大正時代に入り、現在の場所に移って今に至ります。

千代の松・稲戸屋などの醸造元である「芳村酒造」。建物の年代は昭和16年と新しいものの、格子・卯建・黒漆喰などの伝統的な町屋の要素を持ち、特に主屋南側の2段卯建は見事。

寒冷地であり、良質な水に恵まれたこの地は、また日本酒づくりにも最適な土地。地区の中心を南北に走る旧伊勢街道の南端は酒蔵通りと呼ばれ、今も軒先に杉玉を吊るした酒蔵の構えを見る事が出来ます。

上に小さく西の文字「右:大峰山上」、上に小さく南の文字「左:京 大坂」と刻まれた道標。

明治22年の町村制施行によって発足し、昭和17年の大宇陀町発足時に消滅した「神戸村道路元票」。目立たない存在ですが、宇陀松山地区の歴史を物語るものです。

松山地区には珍しい洋館は明治期に建てられた旧郵便局らしいのですが、この建物に関しては情報が今一つ不足。

こちらは今も現役の「久保医院」。丸い眼鏡が似合いそうなお医者さんが、にこにこ顔で「今日はどうしましたか?」と聞いてくれそう。

「琴平神社 愛宕神社」社号碑

どちらの神域を守護されていたのか不明ですが、浪花系の狛犬さん一対。かなりの年数をこちらで過ごされたようで、貫禄たっぷりの表情。

大樽が看板の「奈良一:奈良漬本舗  いせ弥」。奥に見えるのは「銘菓:きみごろも本舗 松月堂」。何もかもがしっとりと落ち着いて、ただそこを歩くだけで不思議なほど気持ちが穏やかになる・・・

こんな素晴らしい町並みが残されていることに、この町並みを残し続けて下さっている地元の方々に、私たちはただ感謝の思いで一杯です。

訪問日:2009年7月11日

 

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ご当地マンホール in 奈良県旧大宇陀町(宇陀市)

2023年05月24日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・奈良県

旧宇陀郡大宇陀町(おおうだちょう)は奈良県東北部、桜井市 、榛原町、菟田野町 、吉野町に隣接し、大和高原の南端部に位置した町です。宇陀川と城山の間の細長い平地に形成された旧松山町域は、2006年に「宇陀市松山重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。「町の木:クヌギ」「町の花:かざぐるま」「町の鳥:ほおじろ」を制定。

古代においては「阿騎野(あきの)」と呼ばれ、宮廷の狩場として多くの文献にも登場します。『柿本人麻呂』は阿騎野で【東(ひむかし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾ぬ】という和歌を詠んでいます。

明治22年(1889)、町村制の施行により、宇陀郡松山町・神戸村・政始村・吉野郡上龍門村が発足。

1942年、宇陀郡松山町・神戸村・政始村・吉野郡上龍門村が合併して大宇陀町が発足。

2006年、菟田野町・榛原町・室生村と合併して宇陀市が発足。宇陀市大宇陀となりました。

マンホールには「町の花:カザグルマ」が全体に描かれています。

集落排水のマンホールには、「町の木:くぬぎ」、田園風景の中に「町の鳥:ホオジロ」が描かれています。

昭和45年10月1日中央の町章は、全体で「大・宇・陀」を表しています。

撮影日:2009年7月11日

 

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ご当地マンホール in 奈良県宇陀市

2023年05月23日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・奈良県

宇陀市(うだし)は奈良県北東部、大和高原の南端に位置し、四方を山に囲まれた高原都市です。奈良市、桜井市 、山添村 、曽爾村、吉野町、東吉野村と三重県名張市に隣接。2006年1月1日 、宇陀郡菟田野町・大宇陀町・榛原町・室生村が合併して発足しました。「宇陀」の地名は万葉の時代から散見され、また合併したそれぞれの地域も歴史上古くから登場し、各地に数多くの遺跡や文化財が残されています。「市の木:桧」「市の花:スズラン」「市の鳥:うぐいす」を制定。

キャッチフレーズは「~ 協働と交流で築く ぬくもりの家 ~ 自然と共生し、歴史・文化が育む ふれあいと活力あるまち 宇陀市」

マンホールは2009年当時の収集で、新しく制定された市章付きの規格蓋のみ。

2006年1月1日制定の市章は「宇陀市の「う」をモチーフに、大宇陀町・菟田野町・榛原町・室生村の4町村の合併と宇陀市の誕生を4つの花弁の開花で表わし、レッドは活力を、グリーンは豊かな自然を、ブルーは清らかな水をイメージ。全体として、宇陀市の魅力と活力あふれる将来像を表徴しています。」公式HPより

 

撮影日:2009年7月11日

 

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ご当地マンホール in 奈良県高取町

2023年05月22日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・奈良県

高市郡高取町(たかとりちょう)は奈良県の中部にあり、橿原市、御所市、明日香村、大淀町、吉野町に隣接。大和平野の東南端にあり、飛鳥から吉野や紀伊に通じる道の途上に位置します。「日本書紀」に、676年に高取山周辺の森林伐採を禁止する記述(日本最古の保安林的制度)が見られることから、古くから周辺の人口集中を支える地域として発展していたことが窺えます。「町の木:カエデ」「町の花:ツツジ」を制定。

キャッチフレーズは「古代史のふるさと・大和と花の吉野を結ぶまち」

明治22年(1889)、町村制 の施行により、高市郡高取村・船倉村・越智岡村が発足。

1891年、 高取村が町制を施行し高市郡高取町となる。

1954年、高市郡船倉村・越智岡村と合併、改めて高取町が発足。

マンホールには町章を中心に、「町の木:カエデ」「町の花:ツツジ」が交互にデザインされています。

昭和42年11月25日制定の町章は「高取町・船倉村・越智岡村の三ヶ町村を表した三つの輪を重ねて、中央に高取の「T」を図案化したものです。三つの輪は協和の精神を象徴しています。「T」は大きく羽ばたくタカの鳥をあらわし、高取町の飛躍前進を意味しています。」公式HPより

壺阪駅前の「高松橋」に施された、四神獣の欄干と高欄。左右の高欄には東西の《青竜と白虎》

欄干のレリーフは、南北の《朱雀と玄武》

撮影日:2009年6月24日

 

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