中世から近世において、山陽道の宿場町・市場町として栄えた長船町福岡。長船派と呼ばれる刀工の定住や、古来より備前焼の集積地として吉井川の水運に支えられ、大いに栄えた福岡の一画に「日蓮宗妙興寺」があります。
瀬戸内市長船町福岡にある日蓮宗寺院「教意山:妙興寺」。応永10年(1403)、播磨の国主である『赤松則興』の追善供養のため、阿闇梨日伝によって開基。戦国時代には寺域が2町(約2万平方メートル)あまりに及び、一院と十の坊がひしめく大寺院であったと言います。
本堂横に聳える、瀬戸内市指定天然記念物の「大銀杏」
その妙興寺:境内の墓所に、『黒田官兵衛孝高(如水)』の曽祖父・祖父にあたる『黒田高政・重隆』が眠ると伝えられる墓塔があります。
近江国から流れてきて福岡に居住した高政は、この福岡の町で一財を築き、その子・重隆は浦上氏、小寺氏に仕え、後に播磨国姫路城を拠点として活躍し、嫡子である職隆に家督を譲った後、同地で没したと言います。近世大名となった筑前黒田家の実質上の家祖とされ、福岡藩10代藩主によって姫路御着の地に新たに墓所を造営しています。
また、浦上氏によって追放された『宇喜多興家』は、この地に逃れて病死しましたが、その子宇喜多直家は後に家名を再興し、浦上氏を追放して岡山城を拠点に備前一国を平定。境内には直家の父、宇喜多興家の墓もあります。
某テレビ局の大河ドラマの影響で、一躍 脚光を浴びる事となった『黒田官兵衛』。地元に住んでいる義姉も知らなかった名所?ですが、山門の前には「黒田官兵衛父祖の墓所」なる碑が建てられています。
お寺の境内としては拍子抜けするような明るさは、晴れの岡山というお国柄故か。 山門を真っ直ぐに進むと「教意山」の額が架かる重厚な仁王門。
広く明るい境内にはこんな看板が。名のある人物であっても縁の無いものが墓所に訪れるというのは些か抵抗があるのですが、こういうのを見るとそれも有りと思えるから不思議です😊 それではもう少し境内の散策を・・
妙興寺の参道南側に祀られるのは「三十番神堂」。天神、地祇三十神が、毎日、結番交替して国家、国民を守護せられると伝えられています。
鳥居の両側より神堂を守護されるのは備前焼きの宮獅子一対。いつからここで頑張っておられるのか不明ですが、随所に見られる痛々しい傷は何度見ても胸が痛み、そして修復の跡に何度も気持ちがあたたかくなります。
福岡一文字造剣の碑
妙興寺のラストは、山門屋根の留め蓋でくつろぐ飾り瓦の仙人たち。瓢(ひさご)を傾ける者、盃を差し出す者・・・一体ここにいる仙人は何者??多分もう一体ある筈なのですが、木の枝に邪魔されたのか画像がありません。いずれにしても何某かの物語の主人公なのでしょう、
今はすっかり落ち着いたたたずまいの長船町福岡の町並みですが、かっては「備前福岡名所町、七口、七井戸、七小路」とうたわれた城下町。今でも当時の面影を伝える場所が残されており、この井戸も七井戸と呼ばれたうちの一つ。現在、七つのうち四つの井戸が昔の姿のまま残されているそうです。
現存する井戸・・失われた井戸の跡に建てられた碑。
慶長5年(1600)、黒田官兵衛の子である『黒田長政』が筑前国に封じられた際、本拠城の名称を黒田氏ゆかりの備前福岡より取って、「福岡城」と命名。これが今日の福岡県および福岡市の名称の由来となりました。
訪問日:2015年8月12日