車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

伊佐須美神社:あやめ苑 in 福島県会津美里町宮林

2024年12月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

伊佐須美神社の境内南、道路を挟んだ地にある神苑「あやめ苑」。この地は、伊佐須美神が明神ヶ岳から遷座した際に最初に鎮座した「高天原(高田南原)」の地であるといわれ、伊佐須美神は当地に欽明天皇13年から21年(552~560)の間に鎮座したと伝えられています。

回遊式庭園の苑内には約170種・10万株のあやめが植えられており、これらの花が見頃を迎える6月15日から7月5日には「あやめ祭り」が開催されます。

昭和49年(1974)のあやめ苑造成開始当時より管理・育成に携わってきた『馬場啓介氏(日本花菖蒲協会会員)』の交配研究により選出された種紫の絞り模様が美しい「高田錦」。旧・会津高田町のオリジナル品種で、2004年に日本花菖蒲協会の品種目録に正式登録されました。

古そうな石橋は、神橋として作られたものなのか、それとも菖蒲苑の為に作られたのか・・・美しい景色を生み出しています。

池のほとりで優雅に寛ぐ白鳥。こんなに近くに寄ってくれるなんて、何だか嬉しい😊

訪問日:2015年6月28日

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伊佐須美(いさすみ)神社 in 福島県会津美里町宮林

2024年12月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津美里町宮林甲に鎮座される「伊佐須美(いさすみ)神社」。御祭神は『伊弉諾尊・伊弉冉尊・大毘古命(おおひこのみこと)・建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)』。式内社(名神大社)、陸奥国二宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。岩代国一之宮、会津総鎮守とされます。

社殿に「凡そ二千有余年前第10代崇神天皇10年に諸国鎮撫の為に遣わされた大毘古命とその子 建沼河別命が会津にて行き逢ったのがこの地とされ、相津(会津)の地名の由来と伝えられる。天津嶽(現・新潟県境の御神楽嶽)において伊弉諾尊と伊弉冉尊の祭祀の礼典を挙げ、国家鎮護の神として奉斎した事に始まると伝えられる。その後、博士山、波佐間山(現・明神嶽)と会津の山々を巡り、第29代欽明天皇13年(552)に高田南原(現・境内高天原)に遷られ、同21年(560)現在の宮地に鎮座。以来千四百有余年、大毘古命、建沼河別命 父子を合祀。」公式HPより

参道正面に楼門

楼門の内より神域を守護される四道将軍「大毘古命(おおひこのみこと)」。「建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)

平成20年(2008)10月3日、火災により拝殿・授与所が焼失、同年10月29日にも火災により本殿・神楽殿・神饌所などを全焼。「御社殿造営姿図」に表された美しい姿、生きている間に、せめてニュース画像でも良いので、見る事ができればと願ったのですが・・神社本庁から「不許可」のお達しがあったそうです😱

御朱印を頂く為の時間待ち、社務所の周囲には何とも可愛い猫ちゃん、ネコ君、猫さんが一杯😍。手を差し出したら、よじ登って機嫌よく抱かれてくれた茶トラちゃん。可愛い御接待のお礼は、いつもより多めのお賽銭で😊

頂いた御朱印を手に、拝殿跡に建てられた「仮拝殿」

静謐さに満ちた境内

火災を免れた「東神門」

境内末社「伊佐須美天神」。御祭神は『菅原道真公』。相殿には31座の神々が祀られます。

三回なでて祈願すると願い事が叶うという「撫で牛」さん。私たちの願う事はいつも一緒だけれど・・🙏🙏

由緒碑の前に保存されていた大木。丁寧に屋根が架けられている事から察するに、御神木に類したものと思われますが、特にこの木に関しての情報はありませんでした。

明日は伊佐住神社神苑「あやめ苑」を紹介します。

参拝日:2015年6月28日

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御神名一口メモ

『大毘古命・大彦命(おおひこのみこと)』、 第8代孝元天皇の皇子。四道将軍の1人で、北陸道を進んだとされる。阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣の七族の始祖とされる。

『建沼河別命・武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)』、大毘古命の子。四道将軍の1人で、東海道を進んだとされる。大和国十市郡阿部(桜井市)の豪族の祖とされる。

四道将軍=上記二神に、西道を進んだとされる「吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波を進んだとされる「丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)」の名称。

 

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柳津~あちこちウォッチ in 福島県柳津町

2024年12月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

柳津町柳津下中平甲にある木造平屋建ての白い駅舎は「JR東日本只見線:会津柳津駅」。駅舎の正面は桜並木になっており、SLと桜のスポットとして、2002年に東北の駅百選に選定されています。

駅前の一画、上屋の下に保存展示された「C-11244」号機

昭和18年(1943)5月に製造され、翌月新潟局に配置。大館、秋田、青森と移り、昭和44年(1969)に会津若松に配置となり、昭和48年(1973)に廃車。翌年3月、会津柳津駅前に保存されました。

人々の様々な想いを乗せて走り続けた機関車、戦地へと向かう人を乗せて、故郷へと向かう人を乗せて、学生時代の思い出を一杯詰め込んだ修学旅行生もいたかもしれない。故郷を遠く離れて出稼ぎに行く人もいたかもしれない・・・あるいは記念の第一歩となる若い二人だったかも・・・様々な人生を乗せて北の大地を走り続けて来た蒸気機関車。

最終走行距離-1,253,548km

おや、綺麗にラッピングされた電車が入ってきました。会津坂本駅から来たのか、郷戸駅から来たのか、地理が良く分かっていません😅

柳津町・・実は2013年の新潟車中泊の折にも一度訪問しています。と言っても雨で予定した場所に行けなくて、地図で見るとそんなに距離を走らなくても「福島県」の西会津まで行ける・・そこから高速を使えばもう一か所「会津柳津」の道の駅がある・・と言う事で立ち寄っただけなのですが。

新潟県という地名でも充分に感動していたのに、雨で何処にも行けなかったからとは言え、福島県😍・・・で、この時の感動が二年後の福島県車中泊の旅に繋がったのですが・・それは置いといて。巨大な赤ベコの「あいちゃん」とのツーショットにも感激。

ちなみに赤ベコ一家は四人(匹)家族。お父さんの「福太郎」にお母さんの「満子」。子供は「もうくん」「あいちゃん」の二人(匹)。

道の駅の土手から見る景色。只見川と瑠璃光寺橋、橋の向こうには「福満虚空藏:圓藏寺」が見えます。

瑠璃光寺橋の奥に見える吊り橋。左手の洒落た建物も気になるけれど、それよりも川沿いの岩場の方が何気にスゴイ。

これ以上位置を変えられなかったのであやふやだけど、岩場の下はそのまま奥に続いているような・・・もしかして😲、謎の洞窟!?

短時間の滞在でしたが、いつか絶対!今日目にした景色をもう一度見に来ようね。と二人で真剣に誓い合った事も懐かしい思い出。帰路に写した瑠璃光寺橋の親柱。この時は何だか分からなかったレリーフは「福満虚空藏:七日堂裸詣り」

二年後の同じ6月に訪ねた福島県柳津、よほど相性が悪いのか、それともよほど雨神様に好かれてしまったのか😅 前回と同じく雨。まぁ・・・6月と言えば梅雨と相場は決まっているのだから、当たり前と言えば当たり前。ともあれ美しい景色に心癒された柳津の紹介は、これで終わりです。

訪問日:2013年6月19日&2015年6月30日

 

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福満虚空蔵~境内 in 福島県柳津町柳津寺家町

2024年12月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

昭和61年の丑年記念事業として1993年に建立された「霊寶殿」京都の妙心寺、徳川家より拝領の貴重な品々、圓藏寺で使用していた品々などが展示されています。

霊寶殿と向かい合うように建つ「圓藏寺会館」。無料の休憩施設になっており、数珠やお線香などが販売されています。雨に濡れて冷え切った体に、温かいお茶の美味しかった事。忘れられません🙏

「福満虚空蔵尊 奇祭七日堂裸詣り」「正月七日の夜に行われる寺行事。街中こうこうと燃えるかがり火の中、大鐘を合図に雪の中下帯一つの男たちが菊光堂の大鰐口を目指す姿は勇ましく見る人を魅了します。これは民衆の力で只見川に棲む竜神を追い払ったという伝説にちなんだ伝統行事です」私の故郷にも「西大寺 会陽裸祭り」なるものがありますが、熱気と人出の凄さに圧倒されて一度も実際の様子を見たことが有りません

「人形供養碑」、人の形をしたものをゴミとして捨てる事が忍びない・・そんな方達から寄せられた人形や仏像は、毎年10月の第2日曜日に圓藏寺会館で供養されます。

人形塚近くに枝を伸ばすのは、推定樹齢:約160年、樹高約18m、幹回り約3.2mの「千年杉」。枝がみな見事に上に伸びた姿が箒に似ている事から「箒杉」とも呼ばれます。左の碑は「桐樹供養塔」、柳津町、三島町、金山町は、会津桐の名産地です。昭和11年(1936)に桐材の業者の方々が桐への深い感謝をこめて建立しました。

「水塚」、何方が祀られているのか?何が祀られているのか不明。

【  一舟を 漕いで眼下の ダムの秋   新城杏所】

「鐘楼」「良寛禪師行脚之地」

境内から見下ろす只見川。何度見ても、どこから見ても心に残る風景。

山門石段下に建立されている「大日如来堂」。大日岩という大きな岩に大日如来が浮かび上がったといわれ、ここに御堂を建立。大日如来は未年・申年生まれの守り本尊として親しまれ、地元町内の守り神となっています。

ここから暫く歩いて・・・石段の先。あの何とも嫌な色合いは・・・もしかして絶対に遭遇したくないパターンの・・・・あの「工事中につき立ち入り禁止!」の😱

「国寶 弁天堂」

当たらなくてもいい予感は良く当たる物。いや、実際に石段下からこの色が見えた時点で諦めはついていたのです😭 まさか・・まさかの工事中。旧国宝、現重要文化財の「弁天堂」。足元びしょ濡れになりながら来たのに😭

近くで見つけた句碑・・【 芋の露 浄土ハ西と 思ひ〇り 】〇の部分が不明

参拝日:2015年7月1日

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福満虚空蔵~菊光堂 in 福島県柳津町柳津寺家町

2024年12月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

2013年に立ち寄った「道の駅会津柳津」から見る、福満虚空蔵「菊光堂」

山門の先にどっしりと姿を現す「円蔵寺:菊光堂」。創建当初の堂は文政元年(1818)に火災で焼失し、文政十三年(1830)に再建。岩上に舞台のように建てられた懸造(かけづくり)、二重破風に、下部は大唐破風造り。銅板葺き・平入で、桁行12間・梁間9間。外壁は真壁造り。用材はすべて欅材で、一切着色を施さない白木造りとなっています。

向拝には精緻な彫刻が施されおり、どれをとっても秀逸の一言。ああ、この雨が本当に恨めしい😭 と嘆いたところで雨は止む筈もなく。

唐破風下の彫刻は中国の故事に倣った図柄ですが、なにぶんにも中国の故事来歴に関しては、もともと興味が無いせいもあるのですが、ほぼ分かりません。その下には紫雲の中で爪を光らせる龍の姿。

丁度灯りに邪魔されてしまいましたが、艶やかな花々の彫刻に縁どられた「福満」の扁額。

そして扁額を支える力士ですが・・その表情が何ともユニーク。

ダルダルですか?それとも余裕?😆

堂内は撮影禁止の為画像はありませんが、荘厳と言う言葉がふさわしい、凛とした空気に満たされています🙏🙏。「十三仏」十三番目の仏様で、如意宝珠を持ち、虚空(無限の宇宙)から恵みを生み出すと言われる虚空像菩薩様。そのお姿が語り掛けてくれる言葉を心にしっかりと留めて本堂を後にします。

御堂の前に鎮座する「青銅の大撫牛」。赤べこ発祥の地でもある柳津町のシンボル的存在で、願いを込めて牛を撫でると福と知の無限の御利益と開運が開けるとされ、身体の悪いところ等を撫でれば、快方に向かうと云い伝えられています。こうしてみると腰と足首に痛みを抱える人が多いのかな・・、かく言う私たちもついつい、腰や足をさすっている😅 鼻周りのテカリは撫でやすい部位なのか・・等々、愚にもつかない事をあれこれ。

手水舎近くに奉納されていた撫で牛さん。ゆったりと目を閉じてまどろむ姿は、見る者の心さえも温かく包んでくれる。

菊光堂の参道左右に鎮座するのは、狛犬ならぬ撫で牛さんと・・

撫で牛ならぬ撫で寅さん。「虚空蔵菩薩」は丑寅生まれの守り本尊とされます。二人とも丑寅とは縁のない干支ですが、この最それは置いときましょう😅

本堂から見る只見川の風景。雨の中ゆえに薄暗い画像となりましたが、雨の中だからこそ見られる景色と思えば、それもまた良しです😊

参拝日:2015年7月1日

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福満虚空蔵~仁王門 in 福島県柳津町柳津寺家町

2024年12月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

柳津町柳津寺家町甲、只見川畔に門を構える、臨済宗妙心寺派寺院「霊巌山:圓藏禪寺」

日本三虚空蔵、会津六詣出・会津三十三観音番外札所。「柳津虚空蔵・福満虚空蔵」とも称され、丑歳・寅歳生れの守り本尊と云われる『虚空藏菩薩』を本尊とします。

縁起によれば「弘法大師が唐の高僧から霊木を授かり、帰国後にその木を三つに分かち海に投げいれたところ茨城、千葉、そしてここ柳津に流れついたと云う。霊木漂着の知らせを聞いた大師は、さっそくその木で虚空藏尊菩薩を刻みあげた。大同二年(807)、徳一大師は虚空蔵菩薩を安置するため菊光堂を建立。円蔵寺は菊光堂の別当寺として建立されたと伝えられ、南北朝時代の至徳年間(1384~1387)に臨済宗に改められ、江戸時代に入って一時真言宗に属することとなったが、寛永4年(1627)に臨済宗に復帰。茨城県東海村の大満虚空藏菩薩、千葉県鴨川市の能満虚空藏菩薩と共に日本三虚空藏菩薩の一つに数えらる。」会津六詣出より

見上げた瞬間に思わず躊躇してしまう石段参道。しかも生憎の雨😔 とは言え、ここまで来て尻込みなんぞをしていたんでは、どこにも行けない!ここはひとつ気合を入れて😠

石段途中の山門前、その左右より仏域を守護されるのは、福島型と呼ばれる狛犬さん一対。台座には「磐城白河之住 石材彫刻師 野田平業謹刻」「昭和十八年(1943)」の刻。阿形さんは大きな玉の上に手を置き、吽形さんは飛び出していこうとする仔狛を宥めるように頭に手を重ねています。雨の中でもあり、また位置的な制約がきつく、多方向からの画像は諦めました。

総欅造り・入母屋造り(軒唐破風)桁行き三間・梁間二間・銅板葺き・三間一戸の八脚単層の山門は大正13年(1924)の再建。

門の内より仏域を守護されのは、朱色の体に黒の天衣(てんえ) を纏った勇猛な忿怒(ふんぬ)の形相の仁王像一対。阿は金剛、吽は力士。忿怒と言うよりも慈悲深い顔に見えてしまうのは何故・・

仁王門・天井画。画像が小さくて見づらいですが「雷鳴の中に咆哮する龍」。それにしてもこの沢山の千社札・・どうやって貼ったんだろう?。

門内の左右には、それぞれに大わらじが奉納されています。

貫には二対の獅子。円蔵寺の山門貫の彫刻は、左右正面、いずれも獅子で統一されています。

さて・・・菊光堂までもうひと頑張りです。

参拝日:2015年7月1日

 

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大山祇(おおやまづみ)神社 in 福島県西会津町野沢大久保

2024年12月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

西会津町野沢大久保甲に鎮座される「大山祇(おおやまづみ)神社」。会津西方の霊域とされ、御祭神は『大山祇命(おおやまづみのみこと)・岩長比売命(いわながひめのみこと)・木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)』

「宝亀九年(778)、真海法師が来訪し眠りについた夜更け、法師を呼ぶ声が聞こえてきた為声の主を問うと「われこそは相模国三嶋大明神なり、この山に霊地あり。ここに於いてわれを山神として勧請すべし。火災、病苦諸厄を除き国中を安穏に擁護し、誠意を以って祈念する者は、一代に一回は必ず聞き召すべし"と厳かなる神勅をこうむった。この事より、「なじょな(どんな)願いもききなさる山の神様」と伝えられている。」

大山祇神社社号標から参道へ、幟柱の左右より神域を守護されるのは「会津若松 石工:佐藤万作」「大正十五年(1926)建立」の狛犬さん一対。口中に玉を含み、愛おしそうに仔狛の頭に手を置く阿形さん。

そんな阿形さんと仔狛を更に愛おしそうに見つめながら、毬に手を重ねる吽形さん。

大人しく首筋を撫でられて、神妙な仔狛さんが、無条件に可愛い😊

参道を進んだ石段の先に鳥居、その奥に「遙拝殿」。

「野沢の山の神様」、三度続けてお参りすればどんな願いも叶えて下さるそうですが・・西会津は・・いや福島県は遠すぎます。

「神楽殿」

さて、私たちが参拝したのは山の麓の遥拝殿。本社はもう少し先と教えられて、それではと境内図を確認したら・・・無理です!もう絶対に無理😭

頂いた由緒によりますと、遥拝殿から本社までは、樹齢400年以上の杉並木が約4キロ続く山間の道、途中には6体の道祖神と不動滝・弥作の滝がありますという事ですが・・・良いです。入り口の「やすらぎ道祖神」だけで。

大山祇神社を後に次の目的地に向かう途次、雷山公園の一画で見かけた「杉木之覚の碑」。会津藩野沢代官所が約32万の杉苗を配り、不時の災難に備えろと布告した時の碑だそうです。

ご亭主殿に写真を頼んだら「「雷山」の碑と、この怪しい碑だけだったよ」って・・・違う・・!!絶対にコレジャナイ!!!😱

参拝日:2015年6月19日

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如法寺の隠れ三猿:寺社彫刻 in 福島県西会津町野沢

2024年12月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

「霊峰:飯豊山(いいでさん)」の南麓に位置し、阿賀川が悠然と流れる山紫水明の里に門を構え、極楽浄土を願う善男善女の願いを受け止めてきた「鳥追観音堂・如法寺」。

海老虹梁・頭貫・木鼻・手挟み・・・龍の背中に乗った武人、相対するのは麒麟の手綱を曳く人物。どの部分を見ても思わずため息が出る彫刻の数々に、ついつい時間を忘れて見入る二人。

そして・・何と!こちらには『左甚五郎』が刻んだと伝えられる「如法寺の隠れ三猿」と呼ばれる彫刻があるとの事。公式HPには「観音の大慈大悲に祈願してこの三猿を探し得れば牡丹の蕾が花開くように幸運が開き「福マサル」といわれています。」
最初の猿を見つけたのはご亭主殿。松の枝間から獰猛な目を光らせて猿を探す鷹。ここでの鷹は災難を象徴します。

松の葉陰に身を潜め、息を殺してやり過ごそうとする「隠れ猿」

二つ目は私が発見。猿を見失った鷹は辺りを見回し、やがて猿の事など忘れて次の獲物を探します。

無時に逃げおおせ、僅かに安堵の息を漏らす「逃れ猿」

三匹目はかなり難渋しましたが、それでもちゃんと見つける事が出来ました。最初は「まさかみたいだけど、あれじゃないかな?」「あれかな?」「あれだと思う」「本当にそうかな?」「うん!あれしかないよ!」

綺麗な牡丹の手挟み、パッと見では牡丹の蕾と見間違いそうな・・その突端の上に見える小さく柔らかそうな影。

花茎の間から見えるのは、幸せそうに手枕で寝ている「安楽に暮らし猿」

何とか三猿を見つけてひとまず安堵、やっとその他の彫刻をゆっくりと愛でる事が出来ました。まずは定番中の定番ともいえる、迫力満点の獅子に牡丹

百獣の王である「獅子」、百花の王と言われる「牡丹」の取り合わせは寺社彫刻の王道と言っても過言ではありません。わずかに残る獅子の口中と牡丹の朱が得も言われぬ雰囲気を生み出しています。

これも寺社彫刻には必須の龍。龍は水を司るものとして火災除けの呪いも有ります。

龍と言えば虎、共に均衡した力を持つ二頭は、互いに対立し合う英雄の象徴とされています。

場所の関係だったか、日差しの関係だったのか・・多分同じ方向からの画像なので場所的なものが大きく作用したと思われる貫の「獅子」。こちらにもわずかに朱の跡が残されています。

麒麟と言うよりも龍に近いような、それでも間違いなく蹄を持った「麒麟」です。

鳥追観音の由来

奈良時代、天平八年(736)の春、僧行基は会津巡錫(じゅんしゃく)の折、野沢のとある農家に宿されました。行基は、子にも恵まれず、鳥獣害による不作の貧苦で悲歎に暮れる農夫を憐れみ、念持仏である一寸八分の聖観音のご尊像をお授けになられました。以来、観音様は自ら鳴子の綱をお引きになり鳥や獣を追い払い、やがて一家は子宝を授かり、豊作に恵まれ、幸福な人生を全うし、観音様の導きにより、西方浄土に安楽往生が叶いました。やがて衆生は、この観音様を「鳥追観音」と尊称し、篤い信仰を集めました。

参拝日:2016年6月19日

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如法寺:会津鳥追観音 in 福島県西会津町野沢

2024年12月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

西会津町野沢字如法寺に門を構える、真言宗室生寺派寺院「金剛山:如法寺」。会津ころり三観音の一、会津三十三観音番外別格の結願所であり、『鳥追聖観世音菩薩』を本尊とします。

「大同二年(807)、奈良より来たりて仏都会津の祖・徳一大師が「会津西方浄土」として開創。現観音堂は、慶長十六年(1611)の大地震で倒壊後、会津藩家老・岡半兵衛重政により再建。東から入り参拝後、西より出る全国でも珍しい「東西向拝口」で、観音様の導きにより西方浄土への安楽往生を祈願したものとされる。また、慶応四年八月、戊辰戦争で野沢に出陣の会津藩主・松平容保公が戦勝祈願に訪れたことでも知られる。僧行基御作と伝えられる「聖観音」は、衆生を導き寿命を全うさせ、西方浄土の阿弥陀仏の世界へ安楽往生させるという、二世(この世・あの世)の安楽を願い、≪命のふるさと・鳥追観音≫として参拝者が絶えない。」公式HPより

朱塗りと思われる仁王像。宝髻を結い、腰から下に裙をまとって天衣(てんえ)を翻す姿は頼もしく、仁王門の内より阿吽の呼吸で境内一帯を守り続けておられます。

参道正面に「東西向拝口・三方開き」の観音堂

東口から入り、鳥追観音に祈願した後、戻らずに西口から出る。これは「観音様の導きで人生を 全うし、やがて西方浄土へ安楽往生が叶う」という鳥追観音のご誓願を表現しています。

観音堂の随所に施された見事な彫刻の数々、目に焼き付けてカメラに収めて、それでも離れがたくしばしの間、魅入っていた二人。左甚五郎の隠れ三猿・・獅子・鷹、艶やかに咲く牡丹、これらは明日のブログで紹介します。

「県指定天然記念物 樹齢1200年:樹高30m:東北最大の高野槇」

鳥追観音如法寺の道向かいに展示されていた「ロータリー車・ラッセル車」。

「全国で北海道と西会津町のみに展示されている貴重な車両。戦前から1970年代まで北海道、東北、新潟、北陸など豪雪地域に200余り配置されており、線路の除雪作業に大活躍しました。昭和36年(1961)の大豪雪では、36回の出動で、延べ走行距離が3864キロメートルの多数出動をしました。」東北観光サイトより

車体には「新」「長岡操車駅常備」「キ172」「日本国有鉄道」の文字。観音様に詣で、思いがけず、珍しい物を見せて頂きました🙏🙏。

参拝日:2015年6月19日

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会津坂下~あちこちウォッチ in 福島県会津坂下町

2024年12月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

下帯姿の参加者が重さ約5トンの大俵を引き合う新春恒例の「大俵引き」。会津坂下町で400年続く奇祭だそうで、マンホールのデザインにも使われています。

会津坂下町柳町のポケットパークに、剣の修行に励んでいた若き日の「堀部安兵衛」像。会津坂下町茶屋町貴徳寺で生まれた『中山安之助』。長じて安兵衛となり、高田馬場での仇討ちの評判が、赤穂藩士:堀部安兵衛の耳に留まり、ぜひと請われて堀部家に婿入り、その後は赤穂四十七士として吉良邸に討ち入りします。

有名人と言えば会津坂下町は「演歌歌手:春日八郎」氏の出身地だそうで「会津坂下駅」には・・・

春日八郎氏の銅像と

電車の停車駅らしく「赤いランプの終列車」歌碑

「春日八郎 ”歌碑” 別れの一本杉」と書かれた幟の矢印に従って車を走らせた先に

会津坂下町船杉、「春日八郎記念庭園」にある「おもいで館」

で、これが歌詞に出てくる「山の懸巣が啼いていた一本杉」

「村はずれの石の地蔵さん」???・・多分、そうじゃない😩。

「別れの一本杉 歌碑」・・彼のヒット曲を検索して分かった事は、「お富さん」って、この人の持ち歌だったと言う事実😲 歌は知ってたけど、知らなかった😅

ちなみにですが、会津坂下町は「猪俣公章(作詞&作曲家)」の出身地としても知られているそうです。「空港」とか「大阪ラプソディ」、ど演歌なら「あばれ太鼓」等々・・カラオケで良く歌ったな🎤 なんて、実はそんなに知らない😅。

訪問日:2015年6月28日

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