赤穂市東部の坂越湾に面する港町「坂越(さこし)」。国の天然記念物、瀬戸内海国立公園特別保護地区、ひょうごの森百選に指定された「生島」を包むように広がる美しい坂越湾の眺望と、伝統的建造物群による古い町並で知られています。
天然の良好であった坂越の港は、17世紀になって、瀬戸内海有数の廻船業の拠点として発展してきました。18世紀以降、北前船が停泊する日本海諸港の台頭によって内海の港町の多くが衰退するなか、坂越は「赤穂の塩」を運ぶ拠点として、明治時代まで栄えました。赤穂市を流れる千種川河畔の袂には、その時代を象徴するかのような、北前舟を象ったタイル画が展示されています。
坂越浦から、高瀬舟の発着場があった千種川まで続く「大道」。風格ある町並みは往時の坂越を今に伝えるものとして、都市景観大賞にも選ばれています。
町筋の一画に残る「大道井」は「井筒」とも呼ばれた古い井戸で、坂越の人たちの生活用水として利用され、「生島の船井」「海雲寺の寺井」とともに坂越の三井と言われた井戸です。昭和10年(1935)に水道が通り、その役目は終えましたが、大道井は今も道路の下に残っています。辻に残る石は、当時の大道井の井戸枠の一部だった事が、現地説明に明記されています。
街中でもひときわ目を引く「奥藤家」は、慶長6年(1601)以来酒造りのほか、大庄屋、船手庄屋を勤めた廻船業でも財をなし、金融・地主・製塩・電燈等の事業も興したという、坂越きっての豪商。
酒蔵は寛文年間(1661~1673)の建物で、高さ2m余りの石垣による半地下式の構造が今も保存され「奥藤酒造郷土館」として、酒造用具・廻船・漁業等の資料が無料公開されています。
酒蔵の並びには、旧奥藤銀行を改装した「坂越まちなみ資料館」があります。館内1階には、坂越の名所・旧跡、特産品に関する写真や資料が展示されているほか、この建物がかつて銀行であったことを示す、古いアメリカ製の大金庫も置かれています。
「坂越まちなみ資料館」のならび、茶臼山の南麓に、享禄5年(1532)に開基したと伝える浄土真宗本願寺派寺院「妙道寺」の山門(宝暦3年(1753)年に再建)があります。
山門彫刻の「三人の仙人と一対の獅子」がどれもこれも生き生きと彫られており、その見事さについ時間を忘れてデジカメを向けまくってしまいました。鶴に乗った仙人は「乗鶴仙人」、中国の「王子喬・黄鶴楼」などとも言われています。
鯉に乗っているのは「琴高仙人」、長寿の仙術を行って800年も生きたと言われています。ある時「龍の子を捕らえて見せる」と弟子たちに約束して川の中に入り、約束の日に大きな鯉に乗って現れた故事から、黄河の竜門を登った鯉は龍になると伝えられています。
3尺もある亀に乗っているのは「黄安仙人」、別名「盧敖(ろごう)仙人」とも言います。この亀は三千年に一度だけ頭を出すと言われているそうで、頭が見られた私はラッキーかも😆
千尋の崖に立つ阿吽の獅子は、今まさに可愛いわが子を谷底に突き落としたところでしょうか?その猛々しい姿からは、聞くものを震え上がらせる咆哮が聞こえてきそうです。
山門彫刻が見事なら当然瓦の細工も期待できるはず!、の予想は裏切られず、力士や天女、留蓋の獅子など、どれもこれも期待を遥かに上回りました。これほど揃いもそろった逸品たちに出会えるなんて、本当にラッキー!!
今にもピョンと飛び降りてきそうに高く上げた足。阿吽共に人懐こそうな顔で興味深そうに、参拝者の様子を見下ろしています。
本堂には、寛永9年(1632)に高砂沖で漁網にかかった阿弥陀仏像が安置されます。享保19年(1734)の再建と言う事から、ここが非常に歴史のある寺院である事が伺えます。
寺院を後にもと来た道を引き返し、「大道」の港側端、坂越浦に面して建つ「旧坂越浦会所」にきました。建物は天保2~3年(1831~1832)に建築され、明治時代まで坂越村の会所として使用されたほか、昭和26年の赤穂市との合併までは「坂越公会堂」として使用されていました。
畳座敷から見る奥庭の緑が、真夏の日差しに痛めつけられた目にはとても優しく見えます。管理人の方が入れて下さった冷たい麦茶の味も、思いがけなく嬉しいおもてなしでした。
2階にある「観海楼」と名付けられた藩主専用の部屋に入り、当時の人たちに習って窓際に陣取ってみました。観海楼の名のとおり窓一面に坂越の海が広がり、その先には神の島である生島が見えます。 藩主が見た当時の海は、すぐ側まで波が迫っていたのだとか、きっと格別の眺めだったことでしょう。
訪問日:2010年8月