車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

香取神宮:東国三社~其の四 in 千葉県香取市

2019年11月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

香取神宮の記事もこれがラスト。まさに眼福とも言える社殿の数々、二度目の参拝でしっかり目に焼き付けてきました。本殿の真後ろに設けられた拝所には檜皮葺の屋根があり、こちらからも参拝ができます。

そうそう、随分後回しになりましたが、香取神宮の御神紋は「五七の桐」と「三つ巴」。 この極彩色の御神紋は、本殿だったか拝殿だったか・・・いずれにしても社殿の何処かに描かれていたものです。

拝殿前に聳える御神木の大杉は、樹齢1,000年といわれており、社殿を見守るように聳えています。 1,000年と簡単に書いていますが、千年前の日本は平安時代、紫式部によって「源氏物語」が書かれた頃。

だからという訳では有りませんが、「源氏」つながりで『源頼義』の祈願により三又に分かれたと伝える「三本杉」。『源頼義』はこの杉に「天下太平、社頭御栄、子孫長久」を祈ったと伝えられています。残念ながら中央の一本は枯死してしまいました。

もう少し境内を歩き回り、今度こそ心残りの無いように😊。 本殿右手、木造校倉造の「神庫」は、明治42年(1909)の造営、香取市指定文化財となっています。

その「神庫」の近くに設けられた石段の脇に、「香取町道路元標」。昭和26年(1951)3月、香取町が佐原町など2町2村と合併して佐原市となるまで香取郡に存在した町の証です。

「大和心」と大書された碑の題字は、香取神宮賞賛会長を務める『安倍晋三氏』によるもの。 何かと問題のある政治の世界ですが、それでも現状では日本国にとって最も重要な存在である『安倍総理大臣』。何と言っても反日にいそしむ自称文化人とか、左しか見えない不自由な人とか、Kの国に毛嫌いされているという点だけをとってしても、私的には最高の人物😊

境内にはまだ幾つも摂社が鎮座されており、気がついた限りで参拝して廻りました。 三本杉の右手に鎮座される「摂社:匝瑳神社」、御祭神は夫婦紳であられる『磐筒男神、磐筒女神』。日本書紀では、二神は『磐裂根裂神(いわさくねさくのかみ)』の子であり、この二神の御子神が『経津主神(ふつぬしのかみ)』とされます。

神庫後方に鎮座される「鹿島新宮社」、明治10年(1877)、内務所の通達により摂社と定められました。 御祭神は『武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)』と、『天隠山命(あめのかぐやまのみこと)』

本殿後方に鎮座される「末社:櫻大刀自(さくらおおとじ)神社」。御祭神は『木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)』

楼門の内側には「諸国巡礼一ノ宮結願記念」と題された、同じような額が何枚も奉納されています。 木札に書かれた名前を見ているとその時々の時代背景が見えてくるようで、それもまた興味深い。

奉納額が架けられた前には盛り土がされて、四方を注連縄で囲むように結界が張られています。 いわゆる「御神砂(ごしんさ)」と呼ばれるもので、香取神の神徳を頂くと言う意味で使われるようです。

後から分かった事ですが、香取神宮には境内・境外にまだ幾つもの大きな摂社があったようです。 何度も下調べをして参拝に臨んだつもりでしたが、「香取神宮」制覇なんてとんでもない!まだまだ甘かったようです😅

参拝日:2014年5月18日&2019年3月15日

「香取神宮」をラストに、2014年、2019年に訪ねた千葉県車中泊の記事はこれで終了。明日からは同時期に訪ねた茨城県車中泊の記事、まずは東国三社の残る二社から紹介します。

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香取神宮:東国三社~其の三 in 千葉県香取市

2019年11月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

「香取神宮」其の二より続きます

「香取神宮」は「鹿島神宮」と共に、古来より神宮を名乗っていた三社のうちの二社とされます。また、茨城県鹿嶋市の「鹿島神宮」・神栖市の「息栖神社」と供に、東国三社の一社として知られています。

下総国の一宮で『経津主大神(ふつぬしのおおかみ)』を御祭神とする式内社。 また、関東地方を中心とした全国「香取神社」の総本社で、宮中の四方拝(しほうはい)で遥拝される一社でもあります。 四方拝とは、毎年1月1日の寅の刻(午前4時)に、天皇が清涼殿の東庭に出御し、天地四方の神祇を拝し、年災消滅、五穀豊穣を祈る宮中祭祀です。もっとも「宮中の四方拝」は、昭和天皇の御代以後途絶えたらしいと、某所より漏れ聞きましたが・・。

国登録有形文化財の拝殿には千鳥破風が設けられ、組物・蟇股には極彩色が施されています。これらの拝殿・幣殿・神饌所は、昭和の大修築による造営で、木造平屋建て、檜皮葺となっています。

【初代神武天皇18年の創建と伝える。黎明期に関しては明らかでないが、『常陸国風土記』に、すでに「香取神子之社」として分祠の記載が見え、それ以前の鎮座は確実とされる。古代においては「鹿島神宮」とともに大和朝廷による東国支配の拠点として機能したとされるため、朝廷が拠点として両社を祀ったのが創祀と見る説もあるが、これに対して、その前から原形となる祭祀が存在したとする説もある】

本殿は三間社流造、檜皮葺で、南面しており、この形式の社殿としては最大級の規模となります。 壁や柱は黒漆塗の特徴的な外観で、屋根は檜皮葺ですが、かつては柿葺であったとされます。

本殿・幣殿・拝殿が連なった権現造の社殿は、元禄13年(1700)に 五代将軍『徳川綱吉』の命により造営。「生類憐みの令」など、犬公方としての悪評高い綱吉ですが、前半においては徳を重んずる文治政治を推進した人物であったといわれています。

本殿の蟇股には極彩色の「松に孔雀」の彫刻。まさに元禄文化の華やかさを髣髴させるもの。

同じく蟇股の「鳳凰」は、まるで有名な漫画家:手塚氏が描く「火の鳥」に似ています。

丹塗りが鮮やかな祈祷殿は、旧拝殿として使われていた建物で、千葉県指定文化財。 拝殿としては比較的大規模なもので、随所に施された彫刻等に、造営時の様式が残されています。

木鼻からは極彩色の「獏」が、不敵な笑みを浮かべて参拝者を見下ろしています。

手挟(たばさみ)の彫刻は鮮やかな「牡丹」。貫の獏にしてもこの手挟にしても、いずれも名のある名工の手による物と推察。

社殿の手前に建立されているのは、昭和48年に天皇陛下・皇后陛下が御親拝された折の記念碑。

「香取神宮」の境内紹介も明日で最終回、千葉県車中泊の記事も明日で最後です。

参拝日:2014年5月18日&2019年3月15日

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香取神宮:東国三社~其の二 in 千葉県香取市

2019年11月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

香取神宮の紹介二日目は、奥宮から元来た道を引き返し、参道を真っ直ぐに進むと、石製の三の鳥居の前に来ます。 鳥居の向こうには朱塗りの総門も見えており、いよいよ香取神宮の境内と言う雰囲気。

鳥居の左手前にあるのは「香取神宮の神池」。と言っても特別な雰囲気は感じられません。 神宮の境内にあるから「神池」と呼ばれているんだろうな・・と、そんな感じです。

鳥居を潜ってすぐの右手には、大きな茅葺屋根が特徴の「神徳館表門(市指定文化財)」。 この門は、旧大宮司邸の表門を転用したもので、天明元年(1781)の造営と云われています。

鮮やかな朱塗りの総門は、2018年に塗り替え工事が行われたばかりで、飾り金具もピカピカ。

総門の外側に鎮座する境外社は、『大山祇命』を祀る「大山祇神社」『宇迦之御魂神』を祀る「璽神社」の二社。

総門の内側には、境内末社「諏訪神社」が鎮座されており、『建御名方命』を御祭神とします。

元禄13年(1700)に造営された丹塗りの楼門は今回で二度目ですが、何度見ても荘厳で美しい。 本殿同様、江戸幕府の造営によるもので、入母屋造銅板葺の純和様。国重要文化財の指定です。

楼門には『東郷平八郎』の筆による額が架けられ、楼門共々「香取神宮」のシンボルとなっています。

楼門前の右手は「昭和天皇御観拝記念植樹」『水戸光圀』ゆかりの「黄門桜」。 「黄門桜」は、元禄11年(1698) に『水戸光圀』が「飯高寺」を訪れたのを記念して植樹されたもので、唯一現存している一本桜だそうです。

楼門内にある随身像は随神とも表し、一般的には右側を矢大臣、左側を右大臣と呼びます。 香取神宮の矢大臣は三韓征伐の『神功皇后』に付き従った『武内宿禰』と言われています。

では右大臣はと言うと、こちらは大化の改新の中心人物として名を馳せた『藤原鎌足』。何故この二人なのか?は、公式ページにも記載が無く、嘘か誠かもあやふやな情報😅

楼門の左にある「木母杉」は、『徳川光圀』が貞享元年(1684)に参拝した時に名付けたもの。 境内に立つ多数の杉の母であろうと・・思ったとか何とか・・(ちなみに杉で無くスダジイ)。残念ながら現在は枯死しているそうです。

「木母杉」の近くに鎮座されるのは「末社:馬場殿神社」。御祭神は『建速須佐之男命』

更に「末社:市神社」には『事代主命』。市神社に合祀された「天降(あまくだし)神社」の御祭神は『伊伎志爾保(いきしにほのかみ)、鑰守(かぎもりのかみ)』

楼門の内側より神域を守護されるのは、とても姿勢の良い、木彫の神殿狛犬さん一対。 元々は習志野鉄道隊駐屯地内の神社にあったものですが、敗戦後にこの神社に移されたそうです。見るからに堅そうな木肌に刻まれた鑿(ノミ)のあとが、獅子たちを更に精悍に見せています。2014年の参拝の時も暫く目が離せなかったのですが、今回もやはり暫く見入ってしまいました。

楼門の内側、右手の「香取神宮:神饌(みけ)殿」は、神事の際に供える供物を納める処。

「神饌殿」の近くには、神宮に由来の「海上自衛隊練習艦:かとり」の碇が奉納されていました。

明日は楼門から拝殿・本殿と、境内の重要な建造物などを御朱印と共に紹介したいと思います。

参拝日:2014年5月18日&2019年3月15日

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香取神宮:東国三社~其の一 in 千葉県香取市

2019年11月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

香取市津宮、水運盛んであった頃、香取神宮への表参道口として、多くの文人墨客が訪れたという「津宮鳥居河岸」。

【現在の鳥居は平成14年に竣工 この辺りの利根川は、もともと香取ヶ浦(香取の海)と呼ばれ、鳥居も水中に建ち「浜鳥居」と呼ばれた。香取・鹿嶋・息栖三社参拝の際はこの鳥居を潜った。ここに建立されている常夜灯(市指定文化財)は、明和6年(1769)に三社参拝の講中の人々が航路の安全を祈願し、香取神宮に奉納した。】案内板より

利根川に面して立つ香取神宮の一の鳥居を背にすると、正面方向に香取神宮の奥宮があります。 御祭神である『経津主大神』はこの場所より上陸され、香取の地に鎮まったとされます。

常夜灯の傍らに『与謝野晶子』が明治34年(1901)に津宮に立ち寄った際に宿屋で詠ん句。【かきつばた 香取の海の津の宮の 宿屋に上る 板の仮橋】

ここは「大坂の井」と呼ばれる湧き水ですが、香取神宮の公式ページには特に記述がありません。 一応水中鳥居もあり神域なんだろうとは思いますが・・・井戸と言うイメージには程遠い。

表参道「一の鳥居」は、車を走らせている時に見かけたもので、撮影も横着に車内から😓

駐車場に車を入れたら、ここから社前町の雰囲気を楽しみながら、香取神宮への参拝スタート。
香取市香取、「亀甲(かめがせ)山」と称される丘陵上に鎮座される「香取(かとり)神宮」。御祭神は『経津主大神』。 朱塗りの二之鳥居の奥は、深い緑に包まれた長い参道。

二之鳥居をくぐってすぐ左手に「護国神社」「亀石」。さらに「奥宮」に至る参道。参道途中には「今井邦子:第三歌集:紫草」の中より抜粋した詩歌碑。【いつきても 胸すかすかし神宮の しつけき森に いろつく楓】

詩歌碑を後に、更に上に続く参道の途中に建立された「護国神社」の鳥居。

鳥居の奥の古い手水鉢には、鹿の角をあしらった「鹿角」紋が浮き彫りされています。 香取神社の神使いは「鹿」。もしかしたら古い時代に神紋として存在したのかもしれません。

「香取護国神社」は昭和21年9月創建、『明治以降の国難で殉じた香取郡出身者』が祀られます。

「護国神社」の横を抜けた先に、石の垣に囲まれた「要石」。「要石」は「鹿島神宮」と「香取神宮」にあって、地震を鎮める「霊石」とされます。

古来、地震が起こるのは、地中に大きな鯰が住みついて荒れ騒いでいる為と信じられていました。 そこで香取と鹿島の大神は、地中に深く石の棒をさし込み、大鯰の頭と尾を刺し通し鯰が暴れないようにしたと云います。 香取の要石の地上部分は丸く、地中深く伸びた石の杭で大鯰の尾を押さえつけているとされます。

「要石」のすぐ近くに鎮座される「末社:推手稲荷神社」。御祭神は『宇迦之御魂神』

ささやかな小祠ですが、ちゃんと神使いの狐さんが神域を守護されています。 向かい合った形ではなく、同じ方向に体をむけて頭だけを後ろに回して阿形さんを待つ吽形さん。こういう独特の動きのある神狐さんは見ていても楽しく、作者の独創性が感じられます。

さらに旧参道を進むと、入り口に「欄柵(こまよせ)」をまわした雨乞塚。 説明には「聖武天皇天平四年(732)、この地が大旱魃の時、祭壇を設け雨乞いをした処」とあります。

奥に進むと左手石段の手前に「天真正伝神道流始祖:飯篠長威斎(いいざさちょういさい)墓(県指定史跡)」の案内。 「天真正伝神道流」は、室町時代に形成されたわが国最古の権威ある流儀として知られています。

墓碑は緑泥片岩で上部を欠き、その面には「飯篠伊賀守長威大覚位」の陰刻。

【ある日、家直の家人が香取神宮の神井で馬を洗っていたところ、人馬ともに突然死亡した。これを見た家直は、香取の神の不思議な力を感じ取り、香取神宮境内の梅木山不断所に千日籠もりの修行をし、ついに剣法の奥義を極めるに至ったのである。】墓所案内より
もしかして、家直の家人が馬を洗った香取神宮の神井って、あの「大坂の井」??

元の道に戻って右手、境内の西方には「奥宮」が鎮座。『経津主神の荒魂』が祀られます。

奥宮の社殿造営には、昭和48年(1973)の伊勢神宮御遷宮のおりに下賜された古材を使用。 この20年に一度の「お伊勢さん」の古材は全国の神社に譲渡され、社殿の御用材として大切に受け継がれています。

香取神宮~其の二に続きます

参拝日:2014年5月18日&2019年3月15日

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観福寺(かんぷくじ) in 千葉県香取市

2019年11月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

香取市牧野に境内を構える真言宗豊山派の寺院「妙光山:観福寺(かんぷくじ)」『聖観世音菩薩』を本尊とします。

江戸時代には、末寺五十三カ寺をもつ「中本山」として、厄除大師信仰の中心的存在にあり、現在は「川崎大師」「西新井大師」とともに「日本厄除三大師」の一つと称されています。

寺伝によれば、開基は寛平2年(890)、『尊海僧正』によるものと伝えられています。 北総の名刹と仰がれる「本堂」は文化8年(1811)に「鐘眞和尚」が再建したと伝えられ、「本堂」内には、国重要文化財に指定されている 「銅造懸仏」4点が安置。 元々は「香取神宮」の本地仏でしたが、神仏分離令に伴う廃仏毀釈により当寺に安置されました。

本堂に向かい合う位置には、元禄年間に「春海和尚」が建立したと伝わる「観音堂」があります。 ここには『平将門』の守護仏とされる平安時代後期作の「聖観世音菩薩像」が安置されています。

「観音堂」の貫彫刻に施された獅子と獏ですが、特に獅子はいろんな意味で一見の価値あり。 これまで色んな獅子彫刻を見ましたが、こんなに楽しそうに大口を開けている獅子は初めて😊。

吽形さん、大口こそ開けていませんが「ニンマリ」😆

文政12年(1829)に『秀珍和尚』が建立した「大師堂」。内陣には「弘法大師像」を安置。

向背の龍、貫の獅子・麒麟の彫刻はいずれも迫力があり、それなりの名工の作と思われます。

文化15年(1818)、『快恵和尚』によって再建された「不動堂」には、身丈5尺の「不動明王像」が安置。

「不動堂」の向かいには、1995年に『量賢和尚』が建立した、この境内では一番新しい「毘沙門堂」があります。

「毘沙門堂」の左側には文化8年(1811)に建立された「袴腰付鐘楼堂」

その「鐘楼堂」の脇を過ぎると「伊能家代々の墓所」があり、そこに、市指定史跡「伊能忠敬の墓」があります。 画像右側は、江戸後期から明治時代の国学者「伊能穎則(ひでのり)の墓」、こちらは県指定史跡。

「不動堂」の前には『伊能式部』の句碑【暖を  ふり敷く物の 朧月】

寛政4年(1792)に佐原下仲町に生まれた『宮沢江月』句碑は、安政5年(1858)の建立。【はつ鶏の  地に下るまで 明けにけり】

参拝日:2019年3月15日

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八坂神社 in 千葉県香取市佐原

2019年11月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

香取市佐原に鎮座される「八坂神社」。御祭神は『素戔嗚尊』。佐原の大祭(祇園祭)で知られます。 当初一の鳥居:正面は浜宿側にありましたが、明治初年の社殿改造の際に、現在の八日市場側に鳥居を増設。

その為、神社には二つの正門が存在し、上が「浜宿口」、こちらが「八日市場口」と呼ばれます。 どちらも正門である為、一年ごとに正門が交代するという、とても珍しい慣例がある神社です。

由緒に【古く佐原諏訪山近傍の天王台に創建、天和年間に現在地へ遷座し佐原・本宿の総鎮守となりました。今も諏訪上字天王宮に「八坂神社:奥宮」が鎮座されています】

参拝の際、拝殿の鈴緒の色が薄青色なのがちょっと気になりましたが、この色には何か意味があるのでしょうか? これまでの神社ではほぼ何処も紅白、もしくは白だったように記憶しています。

拝殿前より神域を守護されるのは、阿吽共にとても姿の良い構えタイプの狛犬さん一対。 台座に、明治廿八年建立、石工:白鳥と刻まれていますが、この形、もろに二人の好み。

阿形さんが真っ直ぐに前方を見ているのに対し、吽形さんは低く構えて下を凝視。 この姿勢はいわゆる「獅子の子落とし」の構図に使われるのですが、仔狛はいませんでした。

境内の一画には『悠仁親王殿下』御誕生記念植樹の高野槙が健やかに育っています。こうして見るとずいぶんと高くなりました。正当な男系男子の皇位継承者であられる『悠仁親王殿下』に、神の加護のありますように!!
ある一時期を境に皇室に不信感しか持てなくなった私にとって、その存在は「光」そのものなのです。

「八坂神社」の境内には、沢山の境内社が祀られており、中でも別個に本殿を持つのが「境内末社:水天宮」、船運安全、子育て守護の神が祀られます。

「境内社:豊川稲荷神社」は、愛知県の曹洞宗寺院「豊川閣妙厳寺」からの勧請。

「境内末社:琴平神社」、いわゆる「金比羅さん」の事で、海上安全の神が祀られます。

「境内末社:三峰神社」、境内案内にいわく、盗難除けの神様が祀られているそうです。

これも一応境内社になるのか・・注連縄が掛けられた碑に「大山阿夫利神社」の刻。

「火伏之神」と刻まれた碑、火伏せは関西なら「愛宕神社」ですが、関東は「秋葉神社」かな?  「神敬奉公」と刻まれた碑。意味はそのまま「神を敬い一身をささげて公の為に尽くすこと」。

境内の歌碑は『楫取魚彦』が明和6年(1769)47歳の時、夫人:雅木と大和へ旅した折のもの。

【入日さす 豊旗雲は わがこふる  よしのの山や 越て来つらむ】

「八坂神社」の例大祭「佐原の大祭」は、7月の本宿祇園祭と、10月の新宿秋祭りの総称。 お祭大好きな二人ですが、流石にここまで来るには往復で二日がかり・・・😥  でも大丈夫!!そんな私たちの為に!(観光客の為です)、祭りの雰囲気に浸れる場所がすぐ側にありました。

公式ページである程度の予備知識はありましたが、実際に見るとその迫力に圧倒されます。 明日は境内に隣接する「水郷佐原山車会館」の館内の色々を紹介します。

参拝日:2019年3月15日

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水郷の町・佐原~其の四 in 千葉県香取市

2019年11月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

佐原の町歩き紹介もいよいよラスト、さて、町歩きでのちょっとしたお楽しみは、足元に見つけた碑、頭上に見つけた趣向を凝らした街灯・・・等々。ここ小野川の岸辺にもそんな楽しい仕掛けが沢山あり、野次馬的好奇心を満たしてくれます。 まずは開運橋近くに建立されていた歌碑、「香取四家集」の中の躬国集からとったもの。

【 常陸なる かしまが埼を見わたせば  帯ばかりにぞ 霞そめける 】

次は共栄橋付近に建立された漢詩碑、論書二十首の中の一つで、書を書く心構えを表しています。

「字是居心後(字は是れ心後に居り)意要在筆前(意は筆前に存るを要す)揮亳無阻滞(揮亳して阻滞無くんば) 巨細自然圓(巨細自然に円になり)」

こちらは特に誰かの作品とも明記されておらず、佐原の町並みの為に建立されたものと思われます。【ゆかりなつかし 伊能忠敬の地図のふるさと 水の郷】

そうそう、そう言えば小野川の川岸に、何故か白鳥のボートがぽつんと係留されていました。 で、ボートの後ろには二羽の白鳥、まさか仲間と間違えたとは思えませんが😅・・・・でも何か笑える。

舟運が盛んだった頃に作られた川岸の陸上施設「だし」。今は殆ど役目を終えた「だし」に、思い思いの趣向で「お雛様」が飾られています。「さわら雛めぐり」の趣向の一つらしく、舟めぐりの人たちにはとても好評のようです。

お雛様のお家もそれぞれに趣向が凝らされていて、どれも同じでないのが又素敵。 縦長だったり横長だったり、お雛様の数も姿もまちまちで、ついつい覗き込んでしまいます。

町の活性化を願って、地元商店の「おかみさん」を中心に構成された「佐原おかみさん会」。春の「佐原雛巡り」や「五月人形巡り」では、お店に伝わるお人形たちが一般公開されます。 この「だし」を使った雛人形の展示も、「佐原おかみさん会」の方たちのアイデアなのです。

今度は頭の上に目をやって、柳並木に設置された街灯に取り付けられたレリーフをじっくりと鑑賞。これらのレリーフは「佐原の大祭」で引き出される豪華絢爛な山車の、一番上に置かれる大人形を影絵風に製作したもの。一番最初は、天の浮き橋から天沼矛で海をかき回し、国産み・神産みをされた「伊弉那岐尊」

続いて、天孫・瓊瓊杵尊の曽孫で、橿原宮にて即位し日本を建国したとされる「神武天皇」。「神武天皇」が持つ杖の先にいるのは、熊野国から大和国への道案内をしたとされる三本足の「八咫烏」

「香取神宮」の祭神でもある「経津主命」は、剣を神格化した神とも言われており、それゆえに背に剣を持ちます。

町内に住む人達の手によって制作される稲藁細工の作り物「鷹」、これが実際の写真などで見ると、結構な迫力なんです。

釣竿を持った漁師風の若者の前にいるのは大きな海亀・・とくれば答えは簡単、「浦島太郎」

柳の枝に飛びつこうとする蛙、それを見守る「小野道風」、これも分かりやすい大人形。

さて、最期の二枚がどうしても分かりません(^^;)、もしかしたらスサノオの大蛇退治かな? それにしては大蛇の頭部らしきものが、某映画の怪獣映画みたいで今一つピンとこない😓

もう一つは・・?大人の女性と男の子の組み合わせで歴史的な人物・・う~~~ん何だろう? もしかしたら家光と乳母の春日の局??有りそうな気もします。

ちなみこのレリーフを調べる為に「佐原の大祭」のページを見て、祀りそのものにすっかり魅了。明日は2019年の再訪で入館を果たした「佐原の大祭」の資料が満載の「水郷佐原山車会館」です。

訪問日:2014年5月18日&2019年3月15日

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水郷の町・佐原~其の三 in 千葉県香取市

2019年11月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

其の二に続く佐原の町歩き、川風に揺れる柳が影を落とす小野川、その両側に並ぶ商家の町並みはまた格別の景色です。

白壁土蔵の建物「夢時庵(ムージャン)」は、明治34年の町家を改装したフレンチレストラン。 偏食過ぎる私は、フレンチもドイツもイタリアンも、ついでに中国もエスニックも、特に韓国なんて完全NG😓 でも建物は本当に素敵なんです。

お店の前の川沿いに、沢山の焼き物の瓶が積み上げられているのを発見、付近には何とも香ばしい香り・・

創業は寛政12年(1800)5月、江戸時代より醤油の醸造をしていた「正上」さん。店舗は天保3年(1832)、土蔵は明治初期の建築で、戦後は佃煮の製造販売を主とし、現在は10代目だそうです。

歴史を感じるお店の中で試食させて頂いた「美味しい醤油で作る美味しい佃煮」。一緒に出されたお茶にとってもマッチして、ついつい財布の紐も緩みます。

今回で二度目の町歩きは、川を挟んで二人別々のそぞろ歩き😊、川向こうに見る建物も、とっても良い雰囲気。昔懐かしいガラスの大戸には、ご亭主殿いわく、「東海」の文字が書かれていたそうです。もちろん難癖に利用される東海とは全く無関係。

懐かしい佇まいの家の前には、ちょっと懐かしい赤い郵便ポスト、さり気なく絵になっています。 これだけの構えのお屋敷なのだからきっと由緒もあるのでしょうが、その辺は全然不明です。

川向こうに見えるのは「ワーズワース 佐原店」、佐原では有名なイタリアンレストランです。 でも残念ながら、先述したようにイタリアンも、メキシカンも、スペインも・・・以下略😅

小野川沿いに建つ「木の下旅館」。元は船宿で創業は明治34年(1901)、建物はその時に建てられました。 こんな場所でのんびりくつろいで、夕刻の川沿いを浴衣姿に下駄の音を鳴らしてそぞろ歩く・・想像しただけで顔がにやけてしまいそうですが、それはまたいつか・・多分、ず~~っと先のお楽しみ。

で、こちらは2019年に再び見た「木の下旅館」。紺の暖簾がなくなって、随分雰囲気が変わっていました。

寛政6年(1794)創業の「旧油惣商店」。寛政10年(1798)築の土蔵は、佐原で最古とも言われています。 奈良漬け業者として、明治から昭和戦前までアメリカへ「奈良漬」を輸出していたそうですが・・  アメリカ人に奈良漬??と思ったけど、多分、戦前に移住していた日本人向けでしょうね。

「小江戸さわら舟めぐり」の船が、ゆらゆらと水郷を行き交う川岸、まるっと風景画の世界。 ここからでは聞こえませんが、時折起こる笑い声の理由はきっと船頭さんの洒脱な話術でしょうね。

どこかのお店で見かけた、とっても素敵な紙人形・・こんな船もさっき見た水郷を通ったかもしれません。 花嫁さんの前に積み上げられた米俵が、嫁ぐ娘を思う親心を思わせて、なぜか胸が熱くなりました。

訪問日:2014年5月18日&2019年3月15日

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水郷の町・佐原~其の二 in 千葉県香取市

2019年11月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

昨日に引き続いての佐原、流石に素敵な町歩きは、なんだかんだと障害物はあるものの、画像はかなりの数になります。

ここで、ちょっと面白い手法で、昨日紹介した「福新呉服店」をもう一度紹介してみましょう。 ガラス越しに覗けば、着物地で作られた小物や巾着がテーブル一杯に広げられています。

お隣の「蕎麦処:小堀屋本店」、蕎麦好きのご亭主殿には蕎麦が運ばれるのが待ち遠しいです。 なんて・・😅 実はこのお店、本物そっくりに再現されたミニチュアの町屋。

もちろん手を触れるのは禁止、写真を撮る為にそ~~~と伸ばした手がぷるぷると震えます。

ここは佐原の魅力を発信する「佐原町並み交流館」。お言葉に甘えて厚かましく、係りの方の素敵な法被をお借りしての記念写真。 法被の後ろに描かれているのは「日本図」と「大日本沿海輿地全図」を完成させた『伊能忠敬』の有名なイラスト。

忠敬は、50歳で江戸へ出るまで佐原の名主・村方後見を務め、家業では醸造業等を営んでいました。 小野川に面した旧宅の正面には「だし」と呼ばれる広い荷揚げ場があり、往時の繁栄ぶりを物語っています。

実は2014年に訪問した際は、東日本大震災の復旧工事中だった為、見学が出来ませんでした。あの頃は町中の色んな場所に災害の爪あとがあり、随分と切ない気持ちになったものです。

という事で、今回はしっかりと店舗から、炊事場、書院、土蔵・・その他諸々を見てきました。何よりも綺麗に復興された様子を目の当たりに出来たことが嬉しくて、本当に喜んだものです。 まずは店舗の奥の主屋、寛政5年(1793)、忠敬が48歳のときに自らの設計によって建てたものです。

室内には、忠敬が測量で用いた「中象限儀」「測量方の旗」のレプリカも展示されています。

主屋の東にある二階建の土蔵は、観音開きの戸が広まる以前の引き戸形式の戸だそうで、比較的珍しいものだそうです。

敷地内には「この一歩から」と刻まれた「測量の日:記念碑」『伊能忠敬』の銅像がありました。

忠敬が寛政3年(1791)に作った「忠敬家訓書」の碑。

第一 仮にも偽りをせず、孝弟忠信にして正直たるべし。
第二 身の上の人は勿論、身下の人にても教訓異見あらば急度相用堅く守るべし。
第三 徳敬謙譲とて言語進退を寛裕に諸事謙り敬み少も人と争論など成すべからず。

旧宅に隣接する「伊能忠敬記念館」では、測量に使用された各種計測器具や、彼が残した業績が映像た資料と共に数多く展示されています。

忠敬旧宅の近くに、日本の音景色100選に選定された「小野川の樋(とゆ)橋」、別名「ジャージャー橋」があります。 名前の由来は見てのとおりで、橋につけられた「樋」から流れ落ちる水の音から。

そうそう、小野川の「忠敬橋」の欄干は、伊能忠敬愛用の「測量道具:象限儀(しょうげんぎ)」。 流石にここまで徹底されるとむしろ楽しく、他にもないかと探してみたくなります。

場所は変わりますが、佐原公園には、忠敬翁没後100年を記念し今から100年前に建立された銅像があります。夕暮れ間近に訪ねたこの銅像が、旧佐原も含めて、香取市での最後の立ち寄り地になりましたが、それは別の話。佐原の町歩き、まだまだ続きます。

訪問日:2014年5月18日&2019年3月15日

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水郷の町・佐原~其の一 in 千葉県香取市

2019年11月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

利根川水運の中継基地として栄えた佐原には、今も江戸情緒あふれる古い町並みが残っています。 緑の影を落とす柳が小野川の川風に吹かれる様は、まさに「北総の小江戸」、そして「水郷の町」です。

そもそも「国重要伝統的建造物群保存地区」と聞いただけで、訪問先に決定してしまう私。 まれにもの凄く「外れ😩!」な地区もありますが 、大抵は来て良かったと思える場所です。 今回も多分にもれず「来てよかった素晴らしい町」をじっくりと散策し、堪能しました。 何しろ2014年と2019年、二度に渡って町歩きを決めた位ですから、惚れ込みも格別なのです。

町並みは、佐原が最も栄えていた江戸時代末期から昭和時代前期に建てられた木造町家建築。 明治の大火の後に建てられた重厚な蔵造りの店舗建築、洋風建築などから構成されています。

行ったり来たりを楽しんだ佐原の町並み、あまりにもウロウロし過ぎて、どの建物が何のお店だったのか、殆ど覚えていません。それでも僅かな記憶と、香取市のHPを参考にお気に入りの建物をピックアップしてみました。

駐車場に車を入れて最初に遭遇するのが、大正3年(1914)に建てられた「旧三菱銀行佐原支店」。イギリスから輸入した煉瓦造二階建ての洋館で、県内でも有数の洋風建築として知られます。

さぁ、次は「お江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸まさり」と唄われた商家町へと歩を進めます。 土蔵造りの佇まいに、不思議なほどマッチした「癒し雑貨つきのうさぎ らぱん」の「うさぎ」。法被姿で旗指物を持っているのは「忠敬うさぎ」。そしてサングラスが何故か似合う白ウサギ😅

「中村屋乾物店」、明治25年(1892)に佐原を襲った大火直後に建築されたもの。その為か、建物は当時最高の技術を駆使した防火構造で、壁の厚さは約45cmもあるそうです。 先の「らぱん」とよく似た店構えですが、こちらの建物は県指定有形文化財となっています。

小野川にかかる「忠敬橋」をそのまま進むと、右手に黒土蔵造りの「十三里屋(旧正文堂書店)」。明治13年(1880)の建築で、二階窓の土塗の開き戸と、登り龍、下り龍を配した看板が特徴です。

お店の前を通ったら懐かしい甘い匂い・・「十三里屋」はお芋屋さん😊。暖簾には、山積みの「十三里芋」をのせて水郷をいく船・・この太鼓暖簾のデザイン、とても洒落てます。

ちなみに、2014年に佐原を訪問した時の「正文堂書店」の画像。これから見ると、まるで別物。

天明2年(1782)創業の「蕎麦処:小堀屋本店」。現在の建物は、明治25年(1892)の建築。 表のガラス戸は、明治35年(1902)に旧佐原市で初めて使われたと言う事・・アップで写しておくんだった😣

こちらは文化元年(1804)創業、佐原で八代目の老舗「福新呉服店」。建物は明治28年(1895)築です。 佐原の商家の典型的なつくりのこのお店で、ご亭主殿は素敵な藍染めのTシャツを購入しました。

「福新呉服店」の店内には古い節句人形が飾られており、自由に見学させていただけます。 これは五月端午の節句に飾られた「加藤清正の虎退治」。男の子は強く逞しくあるようにとの願いがこめられています。

柳に飛びつこうと頑張る蛙の姿に、努力する事を悟ったという「小野道風青柳硯」の一場面。 珍しい人形ですが、実は外にも「弁慶の引き摺り鐘」など、変わった人形が幾つもありました。

もう一つ、おそらく結納か何かで一緒に飾られたと思われる「高砂」、共に白髪の・・・ですね。

そこから引き換えして、香取街道と小野川沿いの道が交差する角に建てられた「中村屋商店」。 明治7年頃より、代々荒物・雑貨・畳を商ってきたそうで、店舗は安政2年(1855)の建築。

まだまだ続く佐原の町歩き、明日は「小野川」沿いに残された美しい町並みを紹介します。

訪問日:2014年5月18日&2019年3月15日

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