車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

米沢市内~町歩き in 山形県米沢市

2025年02月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・旧跡・山形県

米沢市門東町の一画に美しい姿を見せる「九里(くのり)学園高等学校」

明治34年(1901)年に九里裁縫女学校が『九里とみ』によって、女性としての徳と社会で役に立つ技能を身につけさせる教育を建学の精神として創設。後に九里女学校、米沢女子高等学校と名前を変え、現在は男女共学の「九里学園高等学校」となっています。

昭和10年(1935)竣工の校舎は、総二階建L型平面になる校舎で、中央部に垂直線を強調した素朴な意匠の玄関を設け、外壁は下見板張りのハーフティンバー。

2階窓枠の下に気抜きの小窓等を設けてアクセントに。昭和初期の学校建築の好例として1997年に登録有形文化財に指定。風格のある外観が市民に親しまれています。

大正11年(1922)竣工の「米沢織物歴史資料館(旧米沢織物組合本館)」。館内には、米沢藩主上杉鷹山が、藩財政建て直しのために殖産振興として奨励した米沢織の歴史資料、機織り機や米沢織の作品などが展示されています。

「米澤民藝館(原始布 古代織参考館)」。からむし・しな・ぜんまい織など、古代織の技法を存続復元し、収集した織機や布などが展示保存されています。

米沢市大町にある「小嶋総本店:東光の酒蔵」。東北最大級の酒造資料館では、長い歴史を持つ「みちのくの造り酒屋」の内部が見学できます。

慶長2年(1597)創業の、米沢藩上杉家御用酒屋。江戸時代に飢饉で米不足となり禁酒令が出された中でも、酒造りを許されていた数少ない酒蔵の一つと言われています。

酒蔵独特の雰囲気に思わず足が止まってしまうというご亭主殿・・でも家に帰り着くのは二週間後だからね。出来れば荷物は増やしたくない・・

そのお向かいに店を構える「老舗醤油・カネマス醤油」さん。お醤油の良い香りに思わず足が止まってしまうご亭主殿。・・って、さっきも同じようなことを言ってませんでした?

創業明治31年(1898)の「ホテル音羽屋」。「音羽屋本館」『西山留太郎』の設計で昭和12年(1937)に竣工。文化遺産オンラインによれば「木造3階建・入母屋造で正面に千鳥破風の屋根を設ける。1階にアーチ状の出入り口や窓を設け、2階に出窓・3階には花頭窓風の窓を開き、隅柱等に色付けするなどの正面の賑やかな外観の意匠に特徴がある。」

米沢駅前でひときわ異彩を放つ「音羽屋本館」は、1997年に登録有形文化財に指定されました。

旧米沢高等工業学校をモデルとした米沢駅をラストに、お手軽コースの街歩きは終了。名残惜しくはありますが、明日からまた福島県内を訪ねる旅の再開です。にしても、山形県・・・捨てがたい😅

訪問日:2015年6月21日

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米沢城址 ・松が岬公園 in 山形県米沢市

2025年02月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・旧跡・山形県

水を湛えたお堀が往時の米沢城を偲ばせる松が岬公園。上杉家の史跡が点在する一帯には、二日に渡って紹介した上杉公縁の神社以外にも、見所が沢山あります。

城址公園の一画に残る「上杉記念館(旧上杉伯爵邸)」

明治29年(1896)、米沢城二の丸跡に上杉家14代:茂憲(もちのり)伯爵邸として建築されましたが、大正8年(1919)の米沢大火で焼失。六年後の大正14年(1925)、総檜・入母屋造りの純日本風の邸宅に再建されました。「鶴鳴館(かくめいかん)」と称された建物は、国登録有形文化財に指定されています。

現在は、米沢の郷土料理の原点とも言われる、鷹山公の「かてもの」を味わうことができる米沢唯一の館として開放。「かてもの」とは、飢饉の際に主食に植物等を混ぜ増やして、空腹を癒していた食物の事です。

敷地内には、藩の貧民救済、殖産興業、藩庫備蓄に務め、天明の大飢饉において、藩内に餓死者を一人も出さなかった米沢藩中興の祖「上杉鷹山公」胸像が建立されています。

「明治天皇:行在所遺趾」碑。明治14年、東北巡幸中の明治天皇はこの地にあった南置賜郡役所に宿泊されました(郡役所は大正8年に焼失)

『霜滿軍営秋氣清數行過雁月三更越山併得能州景遮莫家郷憶遠征憶(霜は軍営に満ちて秋気清し数行の過雁月三更越山併せ得たり能州の景さもあらばあれ家郷遠征を憶う)九月十三夜陣中作』天正五年(1577)、七尾城の戦いにて、兵士の慰労を兼ねた月見の宴で謙信が詠んだ漢詩。

「霜は真白く陣屋に満ちて、秋の気は身に沁みるばかり清々しい。空には幾列かの雁が鳴き渡り、真夜中の月は皎々と冴え渡っている。その月明かりのもとに越後・越中の山々と、更に今我が手に収めた能登の景色を見渡すことができる。ままよ、故郷の人々は我ら遠征の身を案じているだろうが今宵はそれを忘れて、心ゆくまで歓をつくそうではないか。」

某局の大河ドラマを記念して建立された『上杉景勝公・直江兼続』の主従像。台座にはドラマのタイトル「天地人」が刻まれています。

上杉鷹山が米沢に迎え入れられた際、義父:上杉重定は、歓迎の意を表して大手門前を流れる御入水川の橋を、新しく石橋に架け替えました。鷹山は、この新しい橋に気が付き、下馬をして橋の前で頭を下げて徒歩で橋を渡ったと云い、人々は鷹山の人柄に触れ、この石橋を「いただき橋」と名づけました。のちに石橋は割れてしまいましたが、その石で「建国記念の日」碑を建て、鷹山の人柄を伝承しています。

「伊達政宗生誕の地」碑。永禄十年(1567)、政宗はここ米沢城で産まれ、24歳で豊臣秀吉の命により仙台岩出山城に移封されるまでの青年期を米沢にて過ごしました。

「慰霊の碑」碑文「ふるさとの父母想い 妻や子のやすらかなれと祈りつつ 平和を願い散りし魂  戦後50年の節目の年に当り、あらためて、あの太平洋戦争を顧みながら、世界の恒久平和と、御霊の永遠の安寧を願うとともに、あの痛ましい悲惨な戦争体験を風化させることなく、戦争を二度と起こさない証として、ここに慰霊碑を建立する」 

伝国の杜・置賜文化ホールの近くに「縣工発祥の地」碑。「明治30年(1897)、市議会議事堂を仮校舎として「米沢市立工業学校」が開校。染織科・染色科・機械科が置かれる。翌 明治31年に県に移管され「山形県工業学校」と改称。県内で唯一の工業学校であったため「県工」と呼ばれた」碑文より

米沢牛の恩人『チャールズ・ヘンリー・ダラス』記念碑「東大の前身である東京開成学校の教授として日本に招かれていたダラスを、諸藩に先駆けて興譲館内に創設された洋学舎に英語教師として招聘。明治八年に米沢を去るにあたり、牛一頭を連れ帰り東京で英人仲間に馳走。その美味を賞賛され、横浜に移ってから添川村(現飯豊町)の佐藤吉之助を紹介し、横浜の牛肉問屋と特約させ、米沢牛として売出し、東京横浜で大評判となり『名産米沢牛』の名が世に広まった」碑文より

ラストは可愛らしい「野口雨情 詩碑」。大正15年4月、女流歌手第1号といわれた天童市出身の佐藤千夜子、作曲家中山晋平と共に来県した際、文学青年の集まりである「あづま詩社」の招きで米沢を訪れた折りの作品。

【 あづま山から兎がはねて ぴょんとここまでこえばよい 】

訪問日:2015年6月21日

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松岬(まつがさき)神社と上杉鷹山 in 山形県米沢市

2025年02月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・旧跡・山形県

米沢市丸の内、米沢城本丸跡に鎮座される「上杉神社」摂社「松岬(まつがさき)神社」。御祭神は『上杉鷹山公』

「元、上杉神社に合祀されていたが、明治9年(1876)に上杉神社の神殿が成り、遷座祭を挙行された際、新たに摂社:松岬神社を創立。上杉鷹山公が御鎮座される。」

「上杉鷹山公之像」

「伝国の辞」鷹山が35歳で隠居に際し、次代藩主・治広に申し伝えた言葉

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
  右三条御遺念有間敷候事  天明五巳年二月七日 治憲(鷹山)

彼方を指さす『上杉鷹山公』像。「アメリカ合衆国大統領J・F・ケネディが、日本人記者団の質問に「日本の政治家で最も尊敬しているのは上杉鷹山である」と答えた事は夙に有名である」建立趣意書より

銅像の傍らに鷹山公の名言碑「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」

鷹山公の言葉は、武田信玄の名言をもじったものと言われているとか・・「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなき」・・双方ともにけだし名言、納得です。

参拝日:2015年6月21日

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上杉神社と上杉謙信 in 山形県米沢市

2025年02月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・旧跡・山形県

米沢市丸の内、米沢城本丸跡に鎮座される「上杉神社」。御祭神は『上杉謙信公』

由緒「天正6年(1578)、上杉謙信公は越後の春日山城にて49歳で急逝。その遺骸は城中不識庵に仏式を以て鎮祭された。景勝公が会津を経て米沢に移封されるに当たり、御堂を米沢城内に移し仏祭を厳修。明治に、御堂のまま神祭に改め、中興の鷹山公を合祀して上杉神社と称す。明治9年(1876)に新たに神殿が成り、遷座祭を挙行。」公式HPより

「祠堂遺跡」明治9年(1876)に上杉謙信公の霊柩を御廟所中央に奉遷するまで安置した場所。明治24年(1896)、祠堂跡に遺跡碑が建立されました。

場違いな感じが否めない「招魂碑」ですが、この地は上杉謙信公の遺骸を安置した御堂が建っていた所。明治になり米沢城跡は公園となり、謙信公の遺骸も御廟所に移されました。明治11年4月、戊辰戦争および西南戦争で戦死した郷土の人を慰霊する為に招魂碑を建立。その後、諸戦争で戦死した将兵の霊も合祀されました。

参道正面に建立された『上杉謙信公』像。

「上杉謙信公家訓十六ヶ条」

大正8年(1919)の大火で境内は本殿以下全焼。『伊東忠太氏』の設計により翌9年から再建が開始され、同12年4月に現在に残る社殿が完成しました。

拝殿

楼門

楼門左右より神域を守護されるのは、社殿を設計された『伊東忠太の手になる大正12年4月建立の狛犬さん一対・・護国型でも無く招魂社型でも無い、でもどちらの特徴も併せ持った・・しいて言うなら「伊東忠太型」と名付けたい独自の形状です。

上杉神社本殿の右に並ぶ「稽照殿」。館内には上杉謙信の遺品を主として、刀や甲冑、絵画など約300点が収蔵展示されています。

参道にある舞鶴橋には「毘」と「龍」の軍旗。「毘」は上杉謙信が毘沙門天を厚く信仰していたことに由来。「龍」は不動明王を表し、全軍総攻撃をする際に突撃の合図として掲げられた旗と言われています。

参拝日:2015年6月21日

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旧米沢高等工業学校 in 山形県米沢市

2025年02月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・旧跡・山形県

米沢市城南に建つ「旧米沢高等工業学校」。染織産業の長い歴史を持つ米沢市が「染織学科を主科目」とする官立の高等工業高校の創設を誘致したもので、設立当初の学科は、「染織科」「応用化学科」の2科が置かれていました。

明治43年(1910)3月、東京・大阪・京都・名古屋・熊本・仙台に続いて、全国7番目の高等工業学校として開設された「米沢高等工業学校」。昭和19年4月米沢工業専門学校と改称、昭和24年5月の学制改革によって山形大学工学部に改組されました。

文部省建築課の『中島泉次郎』設計による、 ルネサンス様式を基調とした木造2階建。中央屋から左右に胴屋が連なり、その両端に短い翼屋。正面・幅・全長94メートルに及ぶ大規模なもので、屋根は寄棟造り、中央屋正面には両端に小塔形の角屋(階段室)が突き出し、中央玄関には車寄せがついています。

外壁は下見板張りで、屋根は中央家がストレート葺、胴屋と翼屋は桟瓦葺。窓は側回り内部間仕切とも上げ下げ窓、出入口は全て開戸様式。

およそ学校らしからぬ木々が枝を伸ばし、さながら文明開化の時代を彷彿させる「旧米沢高等工業学校」。米沢に入って最初の立ち寄り地の景色は、心に深く刻み込まれました。

『サミエル・ウルマン』の「青春」詩碑。心に深く残った一節「~年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる~以下略」。碑の下左右には翻訳者の岡田義夫氏、詩を広めた森平三郎氏のレリーフが嵌めこまれています。

『大竹 多気(おおたけ たき)氏胸像。繊維工学を専門とし、日本の染色技術、毛織物工業の近代化に貢献した人物。工学博士の学位を持ち、千住製絨所長を経て、米沢高等工業・桐生高等染織学校の初代校長を歴任しました。

『大髙庄右衛門先生』

「重要文化財旧米沢高等工業学校本館」記念碑。建物は、明治後半に建設された一連の高等工業高校の遺構として、学校建築史上でも貴重なものであるとして、昭和48年(1973)6月2日、国指定重要文化財に指定されました。

旧米沢高等工業学校・石塀

訪問日:2015年6月21日

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ご当地マンホール in 山形県米沢市

2025年02月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・旧跡・山形県

米沢市(よねざわし)は山形県の最南端、置賜地方に位置する市です。北は東置賜郡高畠町と川西町に、西は西置賜郡飯豊町に、東と南は県を跨いで福島県:喜多方市、福島市、耶麻郡猪苗代町、北塩原村に隣接。市域は南置賜郡の大半および東置賜郡の一部を加えた範囲に及び、南部及び東部は米沢盆地に囲まれ、尾根筋と谷筋が東西交互に並んだ複雑な地形です。鎌倉時代は長井氏の領地として、室町時代初期から戦国時代にかけて伊達氏の本拠地になりましたが、関ヶ原の戦い後、会津地方を支配していた上杉景勝が減封のうえ米沢へ移され、明治の廃藩置県までは米沢藩上杉氏の城下町となりました。「市の木:コメツガ」「市の花:アズマシャクナゲ」を制定。

駅前には1992年の駅舎改修に合わせて「活力と創造と愛の21世紀都市・米沢をめざして」と題されたモニュメントが設置されています。

キャッチフレーズは~豊かさとやすらぎ 共に創りあげる ときめきの米沢~

明治14年(1871)、廃藩置県により、米沢が置賜県の県庁所在地となる。

1876年、置賜県が山形県に編入される。

明治22年(1889)、町村制の施行により米沢市が発足(日本で最初に市制を施行した31市のひとつ)

1953年、南置賜郡上長井村を編入。

1954年、南置賜郡塩井村、広幡村、万世村、六郷村、窪田村、三沢村を編入。

1955年、南置賜郡山上村、東置賜郡上郷村、南置賜郡南原村を編入。

マンホールには市章を中心に「市の花:アズマシャクナゲ」がデザインされています。

明治41年(1908)年9月3日制定の町章は米沢市の「米」の字を8本の扇(末広)で構成。 四方八方への未来の発展を祈念し、桜で末広をつなぎ、明るく住みよい郷土を象徴したものといわれています。」公式HPより

路上のタイル画は「米沢のまつり」「上杉まつり・夏まつり・雪灯篭まつり」がデザインされています。

「米沢の味ABC」のタイル画は「舘山林檎 (Apple) ・米沢牛 (Beef)  ・上杉鷹山が飼育を始めた米沢鯉 (Carp) 」がデザインされています。

米沢市マスコットキャラクター『かねたん』は、ずっと子犬の男の子。ドジだけどいざというとき頼りになるタイプで、好物は米沢牛のコロッケ。直江兼続と同じ「愛」の前立の兜を被っています。
かねたんの仲間その1『かげっちさま』、上杉景勝がモデルで、チャームポイントは立派なヒゲともみあげ。
かねたんの仲間その2『おせんちゃん』、モデルは兼続の妻、お船の方。「愛の前立て」を意識したハートマーク型の前髪が特徴。

仲間その3『けーじろー』は前田慶次郎がモデル。チャームポイントは「前田」の頭文字M型のあごひげ。何故か『かねたん』を差し置いて別枠で、しかもフルカラー😅

撮影日:2015年6月21日

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番外編~いざ!山形へ

2025年02月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・旧跡・山形県

遠方への車泊旅で、私たちはある約束事を決めました。それは何処でも良いから隣県に足を踏み入れる。遠方ゆえに、もしかしたらこの先訪問できるかどうかわからない。でも隣県なら一か所くらい立ち寄って、また戻る事は可能じゃないか・・と言うのがその約束を決めた理由。今回の福島県の旅では「山形県米沢市」を選択。旧熱塩加納村から国道121号線で米沢市まで一本道。「山形県」の標識が見えた時、大げさでは無く感動しました😲😄

矢谷大橋の欄干にちょっと変わったモニュメントを発見。帰宅後に調べた所米沢市の南に位置する笹野地区で、古くから作られている「お鷹ぽっぽ」と呼ばれる伝統玩具との事。江戸時代、米沢藩主『上杉鷹山』が、農民の冬期の副業として工芸品の製作を奨励したことにはじまったとも言われています。決して「ハトぽっぽ」の仲間ではありません😅

熱塩から23分で、道の駅「なごみの郷:田沢」に到着😊

道の駅向かいの敷地に建立されていた「木村武雄像」

碑文によれば「国道121号線、愛称「大峠」の改修が氏の手掛けた最後の事業である事による。車の往来にも不便で冬は通行不能の難路であった為、その改修は地元田沢地区挙げて要望する処となり、地元先人有志の熱情が郷土を愛する木村氏を揺り動かし、成されたものである~略 田沢道路愛護会」
お陰様で私たちも、福島県から難なく米沢入りが出来ました🙏。

田沢マップ・・何分にも時間が😓

駐車場の一画には「山形県図と米沢市の位置」、「お鷹ぽっぽ」と「市の花木」がデザインされたタイル画が敷設されています。こうしてみると山形県ってモアイの横顔みたい。

館内に展示されていた「笹野一刀彫:お鷹ぽっぽ」。ぽっぽとは、アイヌ語で「玩具」を意味し、魔除けや「禄高を増す」縁起ものとして、親しまれてきました

「道の駅:田沢」での初体験は「山形名物・玉こん」。好き嫌いが尋常ではない私。一応料理によっては食べる事が出来る「こんにゃく」ですが・・お味が・・😥 その点、納豆とキムチ以外は何でも大丈夫なご亭主殿、率先して味見役を買って出、絶対に大丈夫と太鼓判。・・😣・・😲 以後、好物の一つになりました😄

という訳で、米沢市内目指してlet's go!  ちなみに、米沢市内に入って昼食用の買い物した折に見つけてしまった「調理済み玉こん」と、何故かその場で食べられない「玉こん」。大丈夫、クーラーボックスに入れておけば、帰宅するまで持つ筈😠!

訪問日:2015年6月21日

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