「道の駅:関宿」の入り口マットに描かれているのは、『歌川広重』「東海道五拾三次之内・関」の図」。
旧伊勢国・鈴鹿峠の麓に位置する東海道五十三次・四十七番目の宿場「関の宿」。古代からの交通の要衝であり、壬申の乱の頃に置かれた「愛発の関(越前国)・不破の関(美濃国)」と共に、古代三関の一つに数えられる「鈴鹿関(伊勢国)」が関宿の由来と言われています。(奥に見えるのは鈴鹿山系の山並)
東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する立地にあり、約1.8キロメートルにわたる関の宿。その始まりは、天正年間(16世紀末)に伊勢国領主『関盛信』による領内の道路改修から。その後、徳川家康が慶長6年(1601年)に行った宿駅制度によって、東海道47番目の宿場として本格的に整備が成されました。
明治大正、そして昭和の戦後を経てもなお、江戸時代当時の宿場の賑わいを彷彿させる街並みが残されていた関宿。戦後、旧東海道の宿場の大半が旧態を失いつつある中、関宿では町並み保存の機運が高まり、昭和55年(1980)2月に「町並み保存会」を結成。同年6月、「関町関宿伝統的建造物群保存条例」が制定され、伝統的建造物として多くの町家の保存と修復がなされました。
そうした地元有志の方々の努力の結果、昭和59年(1984)12月、関宿の面積25ヘクタールにおよぶ地区が、全国で20番目・三重県では初となる国の「亀山市関宿重要伝統的建造物保存地区」に選定。さらに、昭和61年には「東海道の宿場町・関宿」として「日本の道100選」にも選ばれました。
「関で泊まるなら鶴屋か玉屋」とうたわれた「旅籠玉屋」 。ここでは、実際に使われていた当時の道具類や、旅籠に関する資料などが展示されており、「旅籠玉屋歴史資料館」として一般公開されています。
当時の貴重な建物がそのままに残された関宿を代表する旅籠建築「玉屋」。二階部分中央には、その屋号にちなんで、「宝珠の玉(玉から火焔があがる様)」を象った虫籠窓が設けられています。
江戸時代末期に建てられた関宿を代表する町屋「旧別所家」は、「関まちなみ資料館」として「旅籠玉屋」と共に一般公開されています。
寛永年間(1624~1645)に初代が考案した伝統銘菓「関の戸」で有名な「深川屋 服部家」。漆喰を塗籠めた土壁に虫籠窓がある二階建て平入りの家屋で、源氏車に二つ竹の家紋を施した細工瓦が広い間口の上を覆っています。
二階中央にある「庵看板」は関宿のシンボル的存在として知られており、私たちも含めて、道行く人の大半がカメラを向けています。
「鶴屋:脇本陣跡(旧 波多野家) 鶴屋は西尾吉兵衛を名乗っていたので西尾脇本陣ともいった。二階避面に千鳥破風をのせた派手な意匠である。」
「雲林院家:昔は開雲楼と称した芸妓置店であった。街道筋の宿場では大抵の旅籠は飯盛り女と呼ばれる遊女を置き、また専門の遊郭も多かった。かいうん楼はその代表的なもので表の立繁格子やべにがら塗りの鴨居や柱にその面影を残している。」
「田中屋:田中家は大正初期に建築された代々左太夫を名乗り醤油醸造業を営む。間口十五間半二階建て総格子作りの表構えもさることながら、内部は広々した~以下略」
京都の町屋などでたまに見かける「ばったり床几」。普段は壁や格子際に立てかけておき、使用する際にばったりと倒して使う事からこのように呼ばれます。物を並べたり、夕涼みをしたり、ご隠居さんが集まって将棋を指したり・・用途は無限大(笑)
「大井家:代々玄庵を名乗り医者であった。明治初年には西洋医学を学び種痘医として、また眼科・参加・内科医として地域医療に活躍した。」
「百六里庭・眺関亭」は安政6年(1859)に建築された「橋爪屋十兵衛家」があった場所。母屋は取り壊されましたが、階上からは関宿の町並みが一望できます。
眺関亭から、江戸方面に向かう関宿の町並みを見る。
眺関亭から見る、京都方面に向かう関宿の町並み。高所は泣くほど苦手ですが高い塀が廻らされているお陰で、心おきなく甍の波を堪能できました。
東海道と関神社参道入口の角にある「御馳走場」。御馳走場は大名行列を宿役人が出迎え見送る場所の名称であり、ここで食事を供したわけではありません。 大名行列は「御馳走場」で出迎えを受けた後、隊列を整え「下に~、下に!」の掛け声に合わせて宿泊する本陣まで進みます。
「橋爪家 :代々橋爪市郎兵衛を名乗り、寛文の頃より両替商を営み江戸にも出店を持ち大阪のこうの池家と並び称される豪商であった江戸末期は芸妓の置屋として栄えた。街道に面して手摺付の二階妻入建てであるが、これは明治期の改造で元は平入りの屋根であった。」建物案内より
個人旅行者向けの旅人宿「関宿まちかど博物館:旅人宿石垣屋」。築約120年の建物内には地域の人たちから提供された昔の生活道具やレトロなバイクなどが展示されています。
地蔵院前にあるお食事処「会津屋」さん。「 関で泊まるなら 鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら 会津屋か 」と謡われた程、往時は鶴屋・玉屋と並ぶ大旅籠でした。
江戸時代初期、本陣の役割を担った御茶屋御殿跡地に建てられた「関郵便局」と・・・
江戸時代の数々の絵図を基に忠実に復元された、「高札場と高札」
白漆喰の厨子(つし)二階に虫籠窓を持つ「百五銀行関支店」。公共の建物もここでは重要な景観を担っています。
町並みは美しく、建物はどれも時代を髣髴させる佇まいで、その存在感を示します。目を閉じて・・・・それからゆっくり目を開けたら、もしかしたら目の前を歩いているのは鈴鹿峠を越えて一息ついた旅人さん。忙しく辻を駆け抜けるお店の人たち。 威勢のよい掛け声で町を往来する物売り、裾裁きもあでやかに木戸を開けて声をかける若い女将さん・・・一時の春の夢です (=_=)
関の宿場歩き・・もうしばらく続きます(〃∇〃)
訪問日:2011年4月10日