車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

富来町あちこちウォッチ in 石川県志賀町富来

2018年02月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

志賀町富来町笹波に広がる「日本の棚田百選:大笹波水田」。観光案内では「棚田と日本海の絶景を独り占め」と有りましたが、さて、日本海はどこ??

もっと高い場所からでないと日本海は見えないのかも?でもここ、ちゃんと展望台なんだけどな・・ とキョロキョロ背伸びしていたら突然凄まじい羽音。見れば頭上高くに鳥同士が体をぶつけあっての大喧嘩!。もしものとばっちりが怖くて早々に展望台を降り、鳥たちを刺激しないようにそっと「大笹波水田」を後に(笑)

志賀町相神、延長4キロの白砂青松の増穂浦。毎年11月から3月にかけて吹く「貝寄せの風」によって海岸には多種多様な貝が流れつき、和歌山県の和歌浦、神奈川県の由比ヶ浜と並び、日本小貝3名所の1つといわれています。

流れつく貝はサクラガイ、ニシキガイ、ワスレガイ、マクラガイ、ムラサキガイ、コメツブガイ、タマツボ・・・等々、その数400種にも及びます。幸せを呼ぶピンクの「さくら貝」。浜辺の遊歩道にはこんなタイルもあります。

浜辺の降り口には『俵万智』の歌碑。

【 桜貝の 淡きピンクを一身に 集めて立てり 浜の少女は 】

そこで私も一句 【 桜貝 あると信じて一心に 集めてしゃがむ 浜のおっちゃん 】 ご亭主殿~~!、頑張って綺麗な桜貝を見つけてくださいねぇ~~~~~~~!!(⌒∇⌒)

さて、この海岸には「世界一長いベンチ」としてギネス世界記録に登録されていた(過去形)ベンチがあります。とりあえず、さっき買った男爵イモソフトを頬張りながら、ご亭主殿の貝探しを見学。

全長460.9mの木製ベンチがある一帯は「サンセットヒルイン増穂」と呼ばれ、夕日の名所だそうです。確かに長いベンチです・・・・一体何人が腰掛けられるんだろうとつい計算したくなるほど(笑)あっ!ご亭主殿、お疲れですか?(笑)

砂浜に打ち寄せる波は白く泡立ちながら崩れ落ち、新しい波に吸い込まれて消えてゆきます。ギネスのベンチや貝がら探しに興じる場所には不釣り合いとも思える慈母観音の像と「慈母の愛を讃える碑」。碑には~母は来ました~今日も来た~の歌い出しで始まる【岸壁の母】の歌詞が刻まれています。

この【岸壁の母】のモデルとなったのは、富来町出身の『端野いせ』さん。道の駅「とぎ海街」には、彼女の写真や当時のニュースなどが展示された一画がありました。帰らぬ我が子をひたすら待つ・・・きっと待つ事で息子は生きていると信じたかったのでしょう。 待つ事を止める・・・それはすなわち我が子を諦める、愛する者の死を自ら認めてしまう事に他ならないのです。

戦争は恐ろしい・・・だからと言ってその時代に生きていなかった私達が、今の価値観であれこれ言うのは絶対に!間違っています。 失われた命に捧げるものは、それは「どなた」かの決まり文句の「深い反省」では無く、ただ感謝のみ。増穂浦海岸に打ち寄せるこの波は、舞鶴に、更に遠くシベリアの海にも繋がっているでしょうか。

訪問日:2011年10月15日&2015年5月24日

 

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能登金剛~其の二 in 石川県志賀町富来

2018年02月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

巌門洞窟の近くに設けられた遊歩道の先、巌門園地から「碁盤島」が大きく見えます。 島上中央に湧水があり、中には義経伝説にちなむ碁盤型の岩塊が沈んでいると云われています。「義経主従が奥州に下る際、この碁盤島でしばし碁を楽しんでいたと言う伝説が今も語り継がれている」。いかにも判官びいきらしい優しい伝説です。

千畳敷から見上げた「がんもん橋」、今度は巌門園地から見下ろすような感じで眺めています。 見る分には、吊橋だろうと丸太橋だろうと、綺麗だとか素敵だとか普通に思えるのですが、苦手なものはどうしたって苦手。でも今回は、ご亭主殿の「絶対に大丈夫!揺れない」の言葉を信じて、この橋を渡りました! 橋の上からの眺め?そんなもんあるわけないです!!

そんな気の毒な私の為に(笑)ご亭主殿が橋の上から写してくれた千畳敷の遊歩道。

鷹の巣岩の岩肌。あの黒っぽく見える穴が鷹の巣跡らしい・・・

暫く巌門園地を歩いてゆくと「名勝能登金剛 猪鼻崎」の表示板が立つ展望地に到着。 言われてみれば、イノシシの鼻のようにも見える岬が右手に見えています。

「能登金剛」を一躍メジャーにしたと言われているのが『松本清張』の推理小説【ゼロの焦点】。作中に登場するヒロインの悲運を美しく詠いあげた歌碑もあります。ですが歌碑の建立は、小説の影響を受けて能登金剛に身を投じた女性を哀悼するためだったとか・・・。

【 雲たれて ひとりたけれる荒波を 恋しと思えり 能登の初旅 】

駐車場に戻り、片隅に祀られている「能登金剛神社」に、旅の無事を改めて願って次なる目的地へ。

伊勢の二見岩によく似ていることから、別名「能登二見」とも呼ばれる「機具岩(はたごいわ)」。眺望スポットは国道249号線の「生神(うるかみ)トンネル」を抜けた先、志賀町七海にあります。

「古歌に【 織姫の たてしや磯の機具岩  綾織りかくる 波のかずかず 】太古能登部に鎮座する能登比咩神社の祭神が賊徒におそわれし時、持っていた機具を投げられた。それが飛んでこの地に至り、化して機具岩となった。この岩の祭神は淳名木入比咩命である。夕日が沈む能登二見で陰陽石が相対する真の夫婦岩である。」現地案内

機具岩は二つの岩がしめ縄で結ばれており、大きい岩が女岩、小さい岩が男岩とされています。

偶然にも巌門洞窟でお会いしたご夫婦と一緒になり、こちらでも記念写真の撮りっこ(*´꒳`*) なんかこういう出会いって単純に嬉しいですね。

2011年の能登金剛巡りはこれで終りなのですが、能登金剛にはもう一箇所、外せない名所があります。2015年5月の車泊旅で訪れた志賀町笹波にある、断崖絶壁「ヤセの断崖」。同じく【ゼロの焦点】の重要な舞台となった場所です。

「ヤセ」の言葉の由来は、作物が作れないほど「痩せた」土地であるという説が一つ。もう一つは高さ35mの断崖の先端に立って海面を見下ろすと、身もやせるからと言うもの。まずもって、35mの断崖の先端に立つという発想が、私の中では絶対に!!!有り得ないのですが(^^;) 

展望台から見える景色は、断崖絶壁という言葉とは裏腹に穏やかで、ひたすらに青く輝く海。もしかしたらこの柵の下は、見るものを震え上がらせる断崖絶壁なのかもしれませんが・・ だからと言って、それを確かめる無謀さも冒険心もなく、柵にしがみ付いて遠目の景色を楽しむだけで満足(^^;)

初夏の日差しを受けた日本海は穏やかで美しく、4年前の海の色が嘘のよう。ああ、そう言えば展望台に来る途中に見かけた岩・・まるでクマさんが蜂蜜のツボに顔を突っ込んでいるような・・・あれは何だったんだろう?

訪問日:2011年10月15日&2015年5月24日

 

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能登金剛~其の一 in 石川県志賀町富来

2018年02月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

福浦灯台を後にした私たちが向かったのは、「能登金剛」の代表的景観「巌門」。 国道の案内に「能登金剛」の文字が目立ち始めたところで「巌門鷹の巣岩」の標識を発見。

志賀町福浦港:国定公園能登金剛の最初の見所は、高さ27メートルの「鷹の巣岩」。岩の頂部にはマツが茂り、鷹が営巣した事からこの名がつきました。上から見下ろす鷹の巣岩周辺の景色はどこを見ても曰くありげで、気が急くったらありゃしない(笑)

能登半島国定公園を代表する景観の一つ「能登金剛」。福浦港から関野鼻までの約30kmの海岸線には、険しい断崖と荒波が作り出した奇岩が続き、「能登金剛のみち」として観光の目玉にもなっています。

駐車場に車を入れ、急き立てられる気持ちを抱えつつ(笑)待望の能登の風景を堪能する事に。 今日は随分と風が強く遊覧船はお休み。その所為もあって観光客も少ないとの話ですが、それでもかなりの人が私たちの前後を歩いています。

潮の加減で今ひとつイメージがつかみにくい「千畳敷岩」。畳を敷き詰めたように広く平らに浸食された岩場で、千畳の名の通りかなりの広さです。 波打ち際まで歩いて行ける遊歩道もあるのですが、万が一を考えてご亭主殿から「ここまで!」と足止め(-"-)。

「千畳敷岩」近くの遊歩道から見える吊り橋は「幸せのがんもん橋」「行ってみたいか?」と笑いながら質問されましたが、「ああいうのは遠目で見るのが綺麗で凄いのよ!」と、高所恐怖症の負け惜しみ(-_-;)

能登金剛の目玉の一つ「巌門洞窟」は海に突き出た岩盤にあり、波食によって形成された天然の貫通洞門。幅6m、高さ15m、奥行き60mにも及ぶ大規模なものです。

洞門の入り口はこんな感じで、ちゃんと石段も整備されており、気をつければ充分に歩けそう。 心配性のご亭主殿も、しぶしぶですが許可してくれました(^^)。

お日様が差し込む洞窟の入り口近く、岩肌にしがみ付くように映える名前も知らない植物たち。洞窟と言うのは、その語感だけで不思議なワクワク感を呼び覚まし、さしてある筈のない冒険心を掻き立てます。

とは言え、距離にすれば何ほどの事も無く、それにひたすら石段を見ながらなので感動に浸る間もなく、もう出口(笑)。

ほんのりと薄暗い洞窟を出て、そうして振り返って見る巌門。どれほどの年月があればこのような姿になるのか・・削られた岩肌には今も波が打ち寄せ、吹き付ける風は岩肌にしがみ付く松の枝をゆらせます。

初めて出会った素敵なカップルは、銀婚旅行で来たのよと嬉しそうに話してくれました。一期一会で別れてゆく他人同士、互いに写しあった記念写真は良い思い出になりました。

眼前には、私たちをここに誘った「鷹巣岩」が、白く砕ける波をものともせず聳え立ち、道路上から見る姿とは一線を画し自然界の力をまざまざと見せつけて屹立しています。

ここから洞窟を通ってもと来た場所に引き返すのも有りですが、折角なので遊歩道を通る事に。遊歩道から見下ろす巌門は、さながら『歌川広重』描く「六十余州名所図会」そのまま。

遊歩道の右手に見える「不動滝」。不動の名を冠しているところを見ると、近くに「お不動様」が祀られているのかもしれません。

まだまだ見所一杯の「能登金剛」、続きは明日のブログ「能登金剛~Ⅱ~」で(*^^*)

訪問日:2011年10月15日

 

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旧福浦灯台と金刀比羅神社 in 石川県志賀町富来

2018年02月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

石川県志賀町福浦港、日本海を望む日和山の断崖の上に立つ瀟洒な下見板張りの「旧福浦灯台」

福浦灯台の歴史は古く、慶長13年(1608)に『日野資信(すけのぶ)』が港入口日和山の断崖上に篝火(かがりび)を炊いたのが最初とされている。

元禄5年(1692)にいたって、『11代:日野長兵衞』が石垣を築いて灯明堂を建て、代々灯明役としてこれを守ってきたという。現存する灯台は、明治9年(1876)に『日野吉三郎』の手で建造されたもので、日本最古の木造洋式灯台である。

(明治十一年 岩倉右大臣よりの書状写し)

高さ約5m、木造四角の建物で、内部は三層となっている。建築したのは福良住『三渡辰之丞』を棟梁とする三名の地元大工であることが、棟木に記された墨書により判明。かつての北前船時代の繁栄を物語る数少ない遺構の一つとして、貴重な史跡である。」色文字は石川県HPより

「旧福浦灯台」の近くに鎮座される「金刀比羅(ことひら)神社」。御祭神は『大物主命 ・崇徳天皇』

「創立年月不詳。讃岐国琴比羅神社より勧請し、無格社と称す。古来より福浦港漁民の信仰の中心である。」石川県神社庁HPより

海風を避ける為の覆屋内より神域を守護されるのは、明治二十八年二月吉日奉納の狛犬さん一対。吽形さんは角を持ち、阿吽さんはこのタイプに特徴の耳まで裂けた口で参拝者を迎えます。

金刀比羅神社拝殿の前に据えられているのは「町指定文化財・石造方位版」。傍らに「石質花崗岩の方位版は、弘化4年(1847)に海上安全を祈って寄進された」とあります。

境内に建立された自然石の碑に刻まれた文字は【 福浦よいとこ 入船出船 波に黄金の花が咲く 】

その傍らには福浦で歌い継がれたであろう「福浦いづも節」の歌詞。【 能登で名高い 福浦の港 入口一つで 澗が二つ 北は水の澗 上り澗で 南は大澗で 下り澗で 中でしよんぼ 藻ヶ崎 問屋つけ船 かづござる 千石船さえ 四つつなぎ 碇いらずの良港 】

コスモスの花の中に立つ白い木造灯台。はるか眼下に広がるのは「黄金の花が咲く」と謡われた福浦港。

耳を澄ませば、波音に混じっていづも節の陽気な歌声が聞こえてくるような・・・そんな錯覚さえ覚える。 能登金剛と呼ばれる複雑な形状の海岸線「能登半島外浦」は、この福浦港の日和山から始まります。

訪問日:2011年10月15日

 

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身代(みしろ)神社 in 石川県志賀町富来

2018年02月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

志賀町梨谷小山に鎮座される『身代(みしろ)神社』。御祭神は『大穴牟遅神、少名毘古那神』

【創祀年代不詳であるが古来より「延喜式内・大穴持像石神社」と称せられ、天正年中兵乱の際、社殿神器旧記等すべて焼失した。同郡町村産神と社名同名のため、天明年中より社号争論おこり論議決せず、明治6年4月「身代神社」と改称を仰せつけられる。出雲国より舟に乗りて当村に着かれた「大真石」が御神体として仰がれている。】

鳥居のうち、参道左右より神域を守護されるのは昭和17年生まれの野性的な狛犬さん一対。吊り上がった眉・・阿形さんは耳まで裂けた口。吽形さんは毬の上に手を重ねた姿勢。

一見したところ徒歩でないと無理に見えた参道ですが、幸いに上に続く道があるようなので、根性無しの二人(笑)、車での参拝としました。 思ったよりも距離があり、横着を決めて正解。駐車スペースもちゃんと設けられています。

シンと鎮まる鎮守の杜を背景に鎮まる拝殿、奥に覆い屋に護られた本殿。

拝殿前より神域を守護されるのは、皇紀26000年(昭和15年)生まれの狛犬さん一対。吽形さんは角を持ち満面の笑み。阿形さんは舌を上あごにくっつけて何をしているんだろう?

ご亭主殿が車を廻している間に、境内を探検していて見つけた「うらしま草の実」。何と言うか悪魔的とも思える色の配合・・興味深そうに手を出してきたので、「毒が有るので注意です!」と手渡したら、あわてて茂みに投げ込んでしまいました(笑)

参拝日:2011年11月15日

 

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松尾神社&松尾寺 in 石川県志賀町富来

2018年02月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

志賀町町居、旧富来に鎮座される「松尾神社」。御祭神は『大山咋命、玉依比売命』

由緒【承和元年8月、山城国松尾神社より勧請。以来、町居村、草木村、日下田村の惣社として崇敬され、例祭、造営等は相寄って斎行した。明治40年1月27日村内にあった雨乞神社、神宮神社、稲荷神社、布留神社、松岡神社を合祀す。】

「本殿は室町時代後期の永禄2年(1559)頃に建立されたと推定される建物で、一間社流造、板葺。宝永元年(1704)に改修工事が行われているものの細部の組物や彫刻などが建立当時の姿を留め、能登地方に残る数少ない中世神社本殿建築の遺構として大変貴重な事から棟札2枚、旧蟇股と共に昭和55年(1980)に国指定重要文化財に指定されています。」現地案内より

「拝殿の建築年代は不詳ですが、本殿とほぼ同様な構造、手法をしているところから同じく室町時代後期に建てられたと推定。入母屋、茅葺、妻入、桁行5間、梁間3間、正面1間向拝付で外壁が板張り。何度か改修されているものの建立当時の姿をよく留め、石川県内に残る数少ない中世拝殿建築の1つとして貴重な存在で棟札1枚と共に昭和59年(1984)に石川県指定有形文化財に指定。」現地案内より

松尾神社に隣接して門を構える、北陸不動三十六番礼所三番目「高野山真言宗:松尾寺」『阿弥陀如来』を本尊とします。

時間的なものもあったのでしょうが、境内はひっそりと静まり返り誰の姿も見られません。 後日ネットで調べて見ましたが由緒に関する情報は見つけられませんでした。

境内に建立されていた「弘法大師修行像」

参拝日:2015年5月24日

 

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狭野(さの)神社 in 石川県能美市寺井

2018年02月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

能美市佐野町に鎮座される、式内社「狭野(さの)神社」。御祭神は『神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)=神武天皇・素盞嗚尊、天照大御神、豊受比咩神(とようけひめのかみ)』

境内案内に【当社は往昔、佐野集落の発祥の地である峠路の山中に、鎮守の神として創建されたもので、郷民の崇敬厚く、嘉祥三年(850)に皇室から正六位上を賜った。狹い谷間の野原の奥にあったから狹野の社と称えられ、これが佐野の地名の起こりと言う。明治35年5月に県社に昇格し、同年12月29日に神饌幣帛供進神社に指定され、明治40年4月に末社神田神社を合祀】

一の鳥居のうちより神域を守護されるのは、メタボ系の加賀獅子タイプ狛犬さん一対。 メタボですが顔立ちは精悍、頑丈そうな太い四肢、そして鋭そうな大きな爪。全体的な印象は・・可愛い(笑)

鳥居の奥に続く境内は鬱蒼とした鎮守の杜。流石に10月の16時半と言う時間・・のんびり参拝とはいきません。 

石工の彫刻が見事な二つの鳥居額。一つは「狭野神社」ですが、古い方の鳥居額の文字は・・

二の鳥居の内より神域を守護されるのは、すっかり御馴染みになった加賀逆立ち狛犬さん一対。「明治三十六年九月  石工・福嶋伊之助」。目に玉を用いた端正な顔立ちですが、残念な事に阿形さんの下顎には剥落が・・・

このまま壮健で神域の守護を続けられますように・・・願いを籠めて

拝殿の右手には、幹の下から幾つも枝分かれした樹齢不詳の「椎の御神木」

御神木近くより神域を守護されるのは、すらりと姿勢の良い狛犬さん一対。鳥取県の神社で何度かお目にかかっていますが・・同じ石工さんでしょうか? 体に比して以上に細い四肢が何ともアンバランスで・・でも結構好みかも。

参道左手に鎮座される「境内社・陶祖神社」。御祭神は『斎田道開(さいだ どうかい)』。釉薬の源土を発見し、赤絵細描技法を発展させた人で、九谷焼の開祖とされています。

「陶祖 斎田道開 生誕の地」モニュメント

雲をけり、軽やかに天駆ける石造りの御神馬

神馬舎の内には陶器製の御神馬。三回なでながら願い事を唱えると願いが叶うと言われています。が・・それを知ったのは自宅に帰ってからの事・・せめて境内の案内に一文加えて欲しかったと思います。

さて・・こちらの拝殿内では、御朱印は自分で印を押すようになっており、墨等もきちんと用意されています。さすがに「これです」と自筆の御朱印を紹介するのは恥ずかしいので、その様子だけ(^^;)

境内の一画に建立されていた句碑

【 その上に 白山すわる 花野かな  新田祐久】

「狭野神社」例祭後の 5月3日から5日まで行われる「九谷茶碗まつり」。九谷焼の陶祖を偲んで、 明治41年に「慰霊祭」をしたのが始まりとされています。国内外問わず全国から毎年約18万人の人が訪れ大変な賑わいをみせるという・・鎮守の杜を背景に建立された「茶碗祭り発祥の地」碑。

参拝日:2015年10月19日

 

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義経記ゆかりの町 in 石川県能美市根上

2018年01月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

兄:頼朝に対立し朝敵とされた『源義経』。難関であった「安宅関」も、弁慶の咄嗟の機転と、関守:富樫の温情によって無事通り抜けることが出来ました。そうして現在の能美市道林町まで来たとき、弁慶は己が主である義経にした仕打ちを涙で詫びるのです。
「いかに関を抜けるためとは言え、命よりも大事な主を打ち据えた事、到底許されざり・・・」
それに対し義経は、「そなたの機転で助けられた」とその忠誠心を厚くねぎららいます。

弁慶が謝罪をしたとされる道林寺跡には、その時の様子を写した銅像が建立されています。 実際にこの一連の出来事があったのは、現在の富山県高岡市の「如意の渡し」と云われています。 が、場所が何処であれ、敗者に思いを寄せる判官贔屓の日本人らしい、美しい主従の姿。

「時は文治三年二月十日のこと、義経は安宅の関所を、弁慶と富樫との勧進帳の問答により、無事通過する事が出来た。そのあと当道林寺で弁慶は「主を金剛杖で打った罪」を心から謝罪した。義経は「機智の働きは天の加護」とその忠誠を心厚くねぎらった。ここがその伝承の地である」碑文より

銅像の近くに自然石の句碑。

【 主従の あつき涙や 春しぐれ(作者不詳)】

【「源平盛衰記」によると、寿永2年(1183)、源氏方についた加賀国住人『井家次郎範方』一党17騎が『平維盛』軍と戦い、11度の戦闘を仕掛けた後、根上の松まで追い詰められて壮絶な討ち死にをしたとされます。 安宅関を抜けた義経たち一行はこの地を訪れ、戦死者の冥福を祈ったのちに岩根宮へと向かったということです。】現地案内板より

「源平古戦場跡」には、根上町の町名の由来ともなった推定樹齢110年の黒松があります。 樹高14メートル、根が地面より60センチほど隆起した様子は、まさに根上りの名の通り。駐車場が見当たらなかった為、ここに立っているのは私1人・・この感動を分かち合える人のいない事がとても残念。

一人で来ると、どうしても待っている人が気になってゆっくり出来ないのが辛いところ。さぁ、急いで下りなければ・・と言いつつ、碑文らしきものを見つけたので画像に・・何々?

「浜清水 末期の水  山を背にした根上りの地区では生水のよく出るところが三か所あり、その一つの新記家では溝を掘って池に溜めていた。水量も豊富だった昔(大正の頃)は、この水で水車を回し、米かち用として利用していた。この新記家の水は、「末期の水」として近在に知られ、一升ビンを持ってもらいに来る人も多くいた。」

更に義経主従とは関係の無い内容ですが、弁慶謝罪の地にあったのでこれも紹介(笑)「無形民俗芸能・獅子舞ドットコセー節」 道林町に伝承されている「大きやり(鯛網大漁音頭)」で、明治時代釜屋村の漁師たちが大漁の際、日本中の船の神様に感謝を込めて唄ったと伝えられている。地元で唄われてきた「大きやり」の節に合わせて、全国六十余州の船霊様を順次唄ったものである。

松が生い茂る道林寺跡・・落ちのびてゆく義経主従にとってこの景色はどのように映ったのだろうか・・

訪問日:2015年10月21日

 

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天日陰比咩(あめひかげひめ)神社 in 石川県中能登町鹿島

2018年01月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

中能登町二宮に鎮座される、 能登國二ノ宮 「天日陰比咩(あめひかげひめ)神社」。御祭神は『天日陰比咩大神(あめひかげひめのおおかみ)、屋船久久能智命(やふねくくのちのみこと)』

相殿「二宮神社」『伊須流支比古大神(いするぎひこおおかみ)、大己貴命、應神天皇、大毘古命(おおびこのみこと)』 

配祀『崇神天皇、印色入日子命(いにしきいりひこのみこと) 、 建御名方命伊弉諾命、菊理媛命、大山咋命、天照大御神、罔象女神(みつはのめのかみ)、波多八代宿彌命(はたのやしろすくねのみこと)、二宮水天宮、豊受大御神』

【人皇10代崇神天皇の御宇鎮座の延喜式内社であり建長4年4月に能登の国二宮と指定されたる官弊社である。往古より菊御紋を粧飾し、上日庄(あさひのしょう)18カ村の総社として崇められてきた。社殿後山の「大御前峰社」は、以前『天日陰比咩(あめひかげひめ)神』をまつり、又羽咋郡市及び七尾鹿島郡市の雨乞所であった。中御前峰社は『崇神天皇』及び『印色之入日子命』の御陵墓であったと伝へられている。辛酉61年目毎に羽咋、鹿島両郡の諸難退散祈願祭を斎行している。」

参道左右より神域を守護されるのは、阿吽共に高く足を上げた加賀逆立ち狛犬さん一対。そう!!そうなんです!こちらの狛犬さん、阿吽ともに高く足を蹴上げた加賀逆立ち狛犬さんなのです。

決して少ないとは言えない数の加賀逆立ちを見てきましたが、後にも先にも阿吽ともに逆立ちは、こちらの神社さんのみでした。

木漏れ日の中の拝殿。聞こえるのは名も知らぬ鳥のさえずりだけ。

境内右手に鎮座される「境内社:天神稲荷社」。御祭神は『宇賀御魂命、菅原大神』。 鳥居のうちには神域を守護される岡崎現代型狛犬さんが一対。

神馬の腹掛け、御神紋は「十六菊」。

神社庁HPに「社殿向かって右の奥の山である「石動山」は、往古「枝摺樹山(えするぎざん)」と呼ばれ、老木大木折り重なり山鬼・天狗等の怪しき物をはじめ、蝮・狼・狐・狸等も住む山と恐れられておりました。」の記載。拝殿左手に祀られる「鎮座石」の表面にある大小二つの足跡は、天狗の足跡と言い伝へられています。

中能登町の天然記念物にも指定される、樹齢600年余りの「いろは楓」。南枝10m、西枝6mの二枝に別れ、竜の形に似る事から「龍髭(りゅうしゅ)楓」とも云われています。

参拝を終え、境内鳥居の内から見る俗世。何もかもが緑に染まってただ美しい。

参拝日:2011年10月18日

 

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能登比咩(のとひめ)神社 in 石川県中能登町鹿西

2018年01月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

中能登町能登部下に鎮座される「能登比咩(のとひめ)神社」。御祭神は『能登比咩神(のとひめのかみ)・沼名木入比賣命(ぬなきいりびめのみこと)』。合祀『天照大神、虚空津比賣命(そらつひめのみこと)、猿田彦大神、建御名方神、倉稻魂命、菅原道眞、素戔嗚尊、日本武尊、少名彦命』。

【(能登比咩神)太古大己貴命、少彦名命と共に天下を経営し越の八国を平け給う時此の地に至り国津神を求め給う、爰に機織乙女あり、命機殿に来たり御飯を語り給いければ乙女は稗粥と、どぶろくを進む、命甚く愛で生して永く吾苗裔と爲さむと宜り給う。此の乙女名を能登比咩神と稱へ奉る機棹を海中に投げ給いしに島が出来この島名は能登比咩織島又名は機貝島と云う。羽咋郡富来沖にあり。(沼名木入比賣命)人皇十代崇神天皇の皇女、沼名木入比賣命は皇兄大入杵令に隨いて当国の下向し此郷に駐り給う産土神能登比咩神の遺業を興し郷里の婦女に機織子業を教へ給う。 命此地に薨去し給いければ、里人御尊骸を後丘に葬り、神霊を祭祀し奉る。能登麻織物の御祀神と稱え奉り御神徳を仰ぎ奉る。】

拝殿に至る参道、色づき始めた木の下より神域を守護されるのは、昭和4年生まれの岡崎型狛犬さん一対と、ブロンズ製の神牛さん。

妻入りの拝殿

向拝彫刻は、波間に遊ぶ阿吽の玄武。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、昭和2年(1927)3月吉日建立の狛犬さん一対。吽形さんには小さな角、高らかに笑う阿形さんは鞠に手を置いています。

奉納神馬、腹掛けには水が湧き出る井戸を表す「井桁」の御神紋。

社殿左手に鎮座される「境内社:子安神社」。安産・子育ての神が祀られます。

昭和八年歌会始 昭和天皇御製碑

【  天地の 神にぞいのる 朝なぎの 海のごとくに 波たゝぬ世を  】

御神託碑「天にならひ 地にうけたりし人こころ まからざりせば すなわちのかみ」

手水舎屋根上で参拝者を見守る瓦材の構え獅子

どの屋根だったか記憶にない(^^;) 留め蓋の獅子

奉納神馬、腹掛けには水が湧き出る井戸を表す「井桁」の御神紋。

参拝日:2011年10月18日

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御神名一口メモ

『能登比咩神(のとひめのかみ)・沼名木入比賣命(ぬなきいりびめのみこと)』、「能登上布」を生み出した二柱の織姫

『虚空津比賣命(そらつひめのみこと)』、息長宿禰王の娘。神功皇后の妹。

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