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calling ~天命・召命~

2011-09-04 12:20:00 | 徒然なるままに
9月3日(土)

朝、起きがけに、うつらうつら夢を見ていた。
夢の中で、なんだかすごく納得できたような気がした途端、バチッと目が覚めた。
夢だったのか、と思うより、探していた最後の絵札が見つかったとたん、全部の絵札がパーっと次々ひっくり返って、1枚の絵が完成するような、1つ1つバラバラだったビーズが、最後のビーズをつなげたとたん、一連の首飾りが出来上がったような、爽快感があった。

どんな夢だったのかというと、夢の中で、私は、今回の帰省で見聞きしたことや、ボランティア活動の体験をどうまとめようかと悩んでいて、いろいろなことを試みていた。
そのうち、そこは誰もいない体育館の舞台で、私は、自分が見聞きした様子を、私が撮ってきた画像をバックに朗読劇のような一人芝居をしていたのだ。

装置は何もない。
ただ、一人で、あのとき起きた地震の恐怖を、小学校の屋上に逃げて津波から子どもたちを守った友人の話を、舞台で再現していたのだ。

震災・津波当時の怖さだけでない、子どもたちが元気で当たり前に生活していた頃を明るく再現し、今現在の子どもたちの様子を代弁し、未来の視点でこの震災を振り返る姿を。自分で書いた脚本に、自分で動いてみてはあーでもない、こーでもないと試行錯誤して自分で演じているのだった。


去年は秋に、広島の被爆者の手紙をまとめた読劇『あの夏を忘れない』を中学生たちに、国語科、図書館司書、演劇部の顧問で上演した。
夏休みに、「ヒロシマ」をテーマに、いろいろ調べたり、朗読劇『この子たちの夏』を見に行ったり、堀絢子さんの一人芝居『朝ちゃん』を見に行ったり、戦争を忘れない、2度と戦争を起こさないための活動や授業を一生懸命考えて取り組んだ。

そして、今年、3月に故郷石巻が被災地になってしまった東日本大震災が起きた。
私は、故郷で、あの日一体何が起きたのか、いまだに続いている惨状を、温度差のある、風化しつつある故郷から離れた地でどう発信し続け、故郷で頑張っている人たちに、どんなエールを送るのか、あの地震が起きた日からずっと考えてきた。

絵を描く、文を描く、話す、演じる、歌を作る、現地で泥出しはできなくても、被災した人たちと話せなくても、私にできるボランティアはいろいろあるはずだ。

今、クラスの子どもたちにいろいろな場面で、私が伝えたいことを話している。
皆、真剣に聞いてくれる。
この子たちの記憶に残る話をしてあげよう。
自分が私の話の中で、あの恐怖を疑似体験し、私の話の中で、未来に希望が持てるような気持になれるお話をしてあげたい。
それはきっと、実際に怖い思いをし、未来に絶望した子どもたちへのエールになるのではないだろうか…。

ボランティア活動をしていた時、阪神から来ていた青年が、
「僕が阪神大震災を経験した時は小学校低学年でした。家も家族も無事だったので、学校が避難所になって、休みになっていた時は喜んでいました。
でも、大人になるにつれ、どんなことが起きたのか、あの時にどれだけ自分たちは日本中の人に助けられたのか分ってきました。そして、いつかどこかで災害が起きた時に、今度は自分がかけつけようと心に決めていました。
それで、東北で地震があった時に、あの時の恩返しができると思ってボランティアに来ました。」
と言って、人一倍責任感が強く、一生懸命働いていた。

私は、いつか千葉にも起きるかもしれない災害に備えながらも、自分たちが大きくなった時には、私や私の話を思い出して困っている人を助けに行ってくれる教え子が一人でもいたら、本当にうれしいなあ・・。
危険も伴うことでもあり、ボランティアはけして強制ではない。
気持ちがあっても、スケジュールの問題だってある。

初日に担当した家の泥出し作業を見ていた隣の家のおじいさんが、
「今は、自分の家のことでいっぱいいっぱいだけど、落ち着いたら、その時、日本のどこかで同じような災害が起きたら、今度は自分が手伝いに行こうと思う」
と言ってくれたことがうれしかった。


私の小学校2年生の頃の記憶は、いつ、だれとどんな話をしたのか、誰とどこに行ったか、クラスのみんなでどんなことを話したり、遊んだり取り組んだか、断片的ではあるが、オールカラーのフルネームで鮮明に思い出すことができる。
それだけインパクトが強かったのだろう。
私も、子どもたちが10年経っても、20年30年経っても覚えているような、記憶に残る授業をし、2年生の担任の先生がこう言ってたんだよなあと覚えていてくれるような先生でいたい。


子どもたちに、何をどう伝えるのか。

今まで、絵を描いて来たこと、アニメの仕事をしていたこと、芝居をしていたこと、人形劇をしていたこと、教師をしていること、母親であること・・・。いろんなことが、全部今につながっている。

そして、私は、これからどうしたいのか、どう生きたいのか。

夢の中で、私は、ストンと心に何かが落ちたような、頭に何かが降りてきたようなそんな感じで目が覚めたのだ。
身体の底から何か湧き出てくるような感じ。
毛穴という毛穴からアイディアが噴き出してくるようなピリピリと発火している感じなのだ。
まだ漠然として、形を成さないのだが、それを形にするには、まだまだ足りないものがたくさんある。
その足りないパーツを慎重に、かつエネルギッシュにかき集めながら、早く形にして、微力ながらも故郷復興の力になりたいと思う。


『キツネとぶどう』

2011-09-04 06:02:00 | 徒然なるままに
9月2日(金)

今日の道徳の時間に、『キツネとぶどう』(坪田譲治・作)の学習をした。

お腹をすかせた子狐のために、母狐が命がけでブドウを取りに出かけ、苦労してようやく巣まで戻ってきたのに、漁師に打たれてしまう。母狐が残したブドウの実が、やがて、大きなぶどうの木となって、古巣に帰ってきたかつての子狐が、母の愛情に気がつくと言うお話。
http://www.city.okayama.jp/museum/tsubota-joji/dowa_01.html

親は、自分が食べなくても、子どもに食べさせるために、一生懸命なんだと言う話をしながら、先の東日本大震災の避難所での話をした。

命からがら避難所に逃げてはきたものの、食料も水もなく、二日間で配られた食料は、あめ1個。その後ようやく支給されたおにぎり1個をめぐって、大の大人が殴り合いのけんかだったそうだ。それは、自分が食べたいからではなく、おなかをすかせた子どもに食べさせたくて・・・。
赤ちゃん連れのお母さんたちはもっと大変だった。ミルクもおむつもないのだ。
避難所の小学校の屋上に、いろいろなものを集めて、「SOS!ミルク」と書いたところもあった。
携帯電話がつながるようになって、全国から粉ミルクが送られたが、道路は寸断、瓦礫が沈んでいるうえ、余震が続いて津波の危険があり、船も近付けない。
ヘリコプターは、けが人の搬送に忙しく、食料を運ぶ余裕がない。
飲まず食わずの状態で、暖房もなく、ヘドロの海を泳いで助かったものの、風呂にも入れない状態で、せっかく助かったのに、ノロウィルスや風邪で亡くなった人もたくさんいたのだそうだ。

子どもたちに、なんとか食べさせてあげたい。温かい物を食べさせてあげたい。
清潔な服を着せてあげたい。
大人たちは、一生懸命だった。
津波で家族を亡くしてしまった子どもたちに、先生方も一生懸命だったと言う。

8月22日から2学期が始まり、ようやく、給食が始まったのだそうだ。
みんなと一緒に食べられる温かい給食。
3月11日までは、当たり前に食べられていた給食が、給食センターも津波で壊されてずっと給食がなかったのだ。

みんなでそろって食べる給食はどんなに美味しいことだろう。
その給食も、放射能のお影響で、栄養士さんが一生懸命安心安全な食材を調達し、調理してくださっているのだ。
けして好き嫌いや、無駄にすることなく、感謝していただかなくてはならない。

子どもたちにひもじい思いをさせないよう、丈夫な身体に育ってもらいたくて、ご両親だけでなく、大人の人たちは一生懸命なんだ。

果たして、子どもたちの心にはどれだけのことが届いたのか…。

今日の給食はカレーということもあり、残飯はほとんどなかった。


キツネつながりで、『ごんぎつね』の話もした。
http://www2.saga-ed.jp/edq12801/hiranoHP/hirano-el/gongitune.html
病気のおっかさんに食べさせたくて、ウナギを捕っている兵十に、狐のごんがいたずらをして、せっかくとったウナギを逃がしてしまう。

最後に、罪滅ぼしの栗の実を届けてくれていたのがごんだと気がつかずに、兵十がごんを銃で撃ってしまうシーンでは、子どもたちはシーンとなり、
「あ~あ・・・」
と涙ぐむ子もいた。

我がクラスは、元気いっぱいでうるさいくらいなのだが、道徳や、読み聞かせ、特に、今回の震災・津波に関しての話をするときは、すごく真剣に集中して静かに話を聞く。
質問や、意見や感想も、ふざけたりしないで、一生懸命考え、応えてくれるる。

今年は、縁があって小学校の担任をすることになり、『美術』を教えられない寂しさはあったが、小学校2年生の全教科を教え、特に、『道徳』では、子どもたちに『大人になっても大切なこと』を、自分の体験談を交えながら伝える授業ができると言う機会を得たことを、本当に幸運に思う。