『坊ちゃん』は、私が中学の頃は快活でした。二度目、三度目の漱石は、だんだん深刻になりました。
中学に入って、すぐ『坊ちゃん』を読みました。
―― 親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。
出だしから一気に読んで、主人公の「おれ」に快哉を叫ぶ。この時分から、書くことに少なからぬ快感を味わうようになりました。『坊ちゃん』の「おれ」の書き方をまねて、小説を書き散らし、級友に回し読みしてもらったものです。
あの頃読んだ『坊ちゃん』は、痛快でした。こんな小説があるものか。それまで、教科書で芥川とか鴎外、太宰などを読んでいたのが、まるきり違っていました。
その後、大人になって読んだ漱石は、『こころ』であり、『三四郎』であり、『それから』、『門』、『草枕』など。そして文学史上でも評価が高い、代表作ともいえる『明暗』。読むたびに、漱石は深刻になりました。漱石本人も、英国留学でノイローゼになったり、帰国してからも病気がちで、精神的に孤独な生活を送っていました。
ところで、『坊ちゃん』は、今回で2度目か、3度目。漱石のほかの作品も読んでいるので、何回も読んでいる錯覚に陥ります。この作品は、私自身がものを書く原点となった作品です。久しぶりに読んでみると、確かに面白い。でも、なぜか今回は、「やがて哀しき・・・」という感じになります。
『人間失格』(太宰治)、『仮面の告白』(三島由紀夫)には、主人公の幼少期の自意識の過剰さと、親の愛情からはぐれた、少しねじれた自我の強さを感じたものです。その点で、この2作品は共通しているように思えます。ここに『坊ちゃん』を並べてみたくなりました。「おれ」も、親の愛情から見放された偏屈さが見られ、それが強がりとなり、漱石一流の文体で「痛快さ」として読めたのです。
中学生の頃の私には、文体の痛快さしか見えず、「おれ」の孤独感や哀切さが分からなかったのでした。「おれ」を愛してくれたのは、下女の婆や「清(きよ)」だけだったなんて、ちょっと哀しすぎやしないか。赴任1ヵ月で、暴行事件にはめられ、教師をクビになって松山から東京に帰った無鉄砲な「おれ」。その後はおとなしく間借りをし、技士の職に甘んじている。よほど、地方の生活がいやでいやで、やけっぱちでいたのか。孤独と寂しさ、世間から自分を隔離する偏屈さによる反発なのか。
昇給を「正義」のために断ったり、「クビ」を覚悟で教頭(赤シャツ)に談判し、挙句は暴れたり。今の時代から見ると、危なっかしくて見ていられない。たちまち職を失ってしまう。そんな無茶を通した者が、ある時期から元気でなくなったりする。それは嫌な意味、大人になったのだろうか。世間では通らない我を引っ込めてしまったのか。
それは、「坊ちゃん=おれ」だけでなく、読む自分もそうで、少し哀切を感じたりします。
中学に入って、すぐ『坊ちゃん』を読みました。
―― 親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。
出だしから一気に読んで、主人公の「おれ」に快哉を叫ぶ。この時分から、書くことに少なからぬ快感を味わうようになりました。『坊ちゃん』の「おれ」の書き方をまねて、小説を書き散らし、級友に回し読みしてもらったものです。
あの頃読んだ『坊ちゃん』は、痛快でした。こんな小説があるものか。それまで、教科書で芥川とか鴎外、太宰などを読んでいたのが、まるきり違っていました。
その後、大人になって読んだ漱石は、『こころ』であり、『三四郎』であり、『それから』、『門』、『草枕』など。そして文学史上でも評価が高い、代表作ともいえる『明暗』。読むたびに、漱石は深刻になりました。漱石本人も、英国留学でノイローゼになったり、帰国してからも病気がちで、精神的に孤独な生活を送っていました。
ところで、『坊ちゃん』は、今回で2度目か、3度目。漱石のほかの作品も読んでいるので、何回も読んでいる錯覚に陥ります。この作品は、私自身がものを書く原点となった作品です。久しぶりに読んでみると、確かに面白い。でも、なぜか今回は、「やがて哀しき・・・」という感じになります。
『人間失格』(太宰治)、『仮面の告白』(三島由紀夫)には、主人公の幼少期の自意識の過剰さと、親の愛情からはぐれた、少しねじれた自我の強さを感じたものです。その点で、この2作品は共通しているように思えます。ここに『坊ちゃん』を並べてみたくなりました。「おれ」も、親の愛情から見放された偏屈さが見られ、それが強がりとなり、漱石一流の文体で「痛快さ」として読めたのです。
中学生の頃の私には、文体の痛快さしか見えず、「おれ」の孤独感や哀切さが分からなかったのでした。「おれ」を愛してくれたのは、下女の婆や「清(きよ)」だけだったなんて、ちょっと哀しすぎやしないか。赴任1ヵ月で、暴行事件にはめられ、教師をクビになって松山から東京に帰った無鉄砲な「おれ」。その後はおとなしく間借りをし、技士の職に甘んじている。よほど、地方の生活がいやでいやで、やけっぱちでいたのか。孤独と寂しさ、世間から自分を隔離する偏屈さによる反発なのか。
昇給を「正義」のために断ったり、「クビ」を覚悟で教頭(赤シャツ)に談判し、挙句は暴れたり。今の時代から見ると、危なっかしくて見ていられない。たちまち職を失ってしまう。そんな無茶を通した者が、ある時期から元気でなくなったりする。それは嫌な意味、大人になったのだろうか。世間では通らない我を引っ込めてしまったのか。
それは、「坊ちゃん=おれ」だけでなく、読む自分もそうで、少し哀切を感じたりします。
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