伊藤若冲の「白い鳳凰」、「あさひの鳳凰」と、鳳凰つながりで――。
まず、次の文章を読んでみてください。三島由紀夫『金閣寺』の有名な一節。
「私はまた、その屋根の頂きに、永い歳月を風雨にさらされてきた金銅の鳳凰を思った。この神秘的な金いろの鳥は、時もつくらず、羽ばたきもせず、自分が鳥であることを忘れてしまっているにちがいなかった。しかしそれが飛ばないようにみえるのはまちがいだ。ほかの鳥が空間を飛ぶのに、この金の鳳凰はかがやく翼をあげて、永遠に、時間のなかを飛んでいるのだ。時間がその翼を打つ。翼を打って、後方へ流れてゆく。飛んでいるためには、鳳凰はただ不動の姿で、眼(まなこ)を怒らせ、翼を高くかかげ、尾羽根をひるがえし、いかめしい金いろの双の脚を、しっかと踏んばっていればよかったのだ。」(『金閣寺』三島由紀夫)
この文章を何かの断片で読んだ時の印象がずっと残っていました。『金閣寺』は、文学的にみれば、三島由紀夫の最高傑作といえるものでしょう。晩年に『豊饒の海』(4部作)という代表作といえる作品を残しましたが、このうちの第1巻(『春の雪』)くらいが三島氏の最後の円熟さを思わせるものではないかと思います。三島氏の文章は、日本古典文学の遺産を現代文に華麗に溶かし巻きつけたもので、プロでもそうそうまねて書けるものではありません。
金閣寺の鳳凰なら中学生の修学旅行で見ているはずですが、あれは物的に見ていただけで何も記憶がありません。大人になって、心的に見たのはずっとあとです。上の文章に書かれた鳳凰、そして金閣、私は想像をめぐらしました。金閣の上に立つ鳳凰、その翼をひろげ、双(に)の脚で屹立するようすが、『金閣寺』全編を読み進むにしたがって、浮かび上がってきました。
池のこちらから遠く見る金閣寺は、おもちゃのように美しい。それは手に取れるように華奢でやさしく、壊れそうな建物です。それだけに、またこの世でないような非現実感があり、眺めていて飽きない。近くに寄るにしたがい、非現実感が現実として現れて、かえって、なかなか眼の前にあることが信じられない。
放火による炎上で再建されて、建物を蔽う金箔がまだ剥離もせずに黄金の完全さをそのままに放つ――、よりめまいを感じさせるのでしょう。嘘のようであって真(まこと)、真のようであって嘘の感覚。あまりに完全な姿を見せられると、ひとは本物かにせものか分からなくなります。焼失前の金閣のほうが、よほど現実的な美しさ、妖しさがあったのかもしれません。だから、修行僧が心を乱され、火を放ってしまったのか――。
金閣に立つ鳳凰。この世の王の象徴、美であり、永遠に存在する化身。時をはばたく翼と羽。鳳凰がなければ、金閣は金閣でなく、永遠の美の象徴であることもなかったはずです。この鳳凰は、若冲が描いたエロティックな鳳凰とちがって、両翼を張り上げて力強い双つの脚で踏ん張る姿は、永遠の「時の王」を謳歌しているようです。
金閣寺にふさわしい季節は、秋や冬や春や、いろいろあるでしょう。私は暑いさかりの夏に行きました(夏の金閣寺が好きということではなく、夏休みくらいしか行けないので)。暑いなかにも、人は多く、外国人ももちろん大勢いました。私の前をずっと歩いていたインド衣装の、薄い褐色のはだをあらわにした、漆黒の長い髪が美しい女性に私は眼を奪われていました。その女性が美しいということもそうですが、池の水面に金色に輝く金閣寺と、眼の前にいる東洋の幻想的な美女とがあまりに合わさって、そこに三島由紀夫が描く一つの小説世界が映し出されるようで、心地よい幻覚を覚えていたのです。
金閣と鳳凰、東洋の異国から来た美しい女。やはり、金閣寺は人を眩暈(めまい)の世界に引き込んでしまうのでしょうか。
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