FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

源氏物語ミュージアム ~ 栄華と地獄と極楽と

2008-12-30 14:09:51 | 文学・絵画・芸術

 源氏物語ミュージアム(宇治)

今年は、『源氏物語』が書かれて(正確にはその存在が確認されて)から、千年ということで、いろんなイベントや出版がされたようです。

ドラマや、コミックでも何人かの作者が書いていますので、若い人も中身はよく知っていると思います。現代語訳もいくつか出ており、何年か前、私は谷崎潤一郎訳で、確か「須磨」当たりまで読んだ記憶があります。最近は、やっぱり作者と同じ女の言葉で読みたいと思い、瀬戸内寂聴訳で読み始めました。もちろん、時間を見て全巻読むつもりですが、もう年末、続きは来年になるでしょうね。

それでも今年中に、なんとか『源氏物語』にちなんだことを書いておこうと思ったのは、「千年紀」という響きでしょうか。私は光源氏の栄華を極めた前半生にも関心がありますが、それ以上に興味あるのは、栄華を過ぎた後半生、仏教観の強くなった話です。詳しくは、読み進んでからにしますが、華やかさのあとの死生観、死生観あってこその美がひときわ引き立つということです。

このことは、実際に現地に立つと分かります―。
それは、暑い夏の日でした。およそ、『源氏』の世界に思い立つような気候ではありません。白雪や紅い葉の敷きつめる地面を歩く時季と違って、余りある夏の光線が降り注ぐ中に、ひっそりとミュージアムがありました。宇治の駅から10分ほどですが、夏の中を歩くにはじゅうぶんすぎる時間。まだ開設して間もない頃の「源氏物語ミュージアム」に、人はまばらでした。


宇治の物語

中はちょっとした異世界でした。『源氏物語』の世界が、特に「宇治十帖」の世界が立体的に展開されています。そこに、「薫の君」がすぐそばに立っています。等身大で、2人の姉妹の姫君を覗き見ているところです。私は一緒になって、琴を弾く君たちを外から見ています。ここから「宇治」の物語が始まります(ミュージアムでは、人形による演戯でムービーに上演されてました。これがまた幻想的で、特に女の姿かたちは、実物の女以上に色香を感じました)。

「宇治十帖」の「浮舟」は、薫と匂宮との恋に苦しんで宇治川に入水します。それを救い出したのが横川僧都(よかわのそうず・恵心僧都 源信がモデル)。源信は、実在の平安の名僧で『往生要集』を書いた人です。そこには、仏教地獄の世界が生々しく書かれているのです。私は、哲学の延長で仏教書を読み漁ったことがあり、この書もじっくり読んだものです。この源信に救われた浮舟は、結局、出家の道に進むことになります

『往生要集』には、小野小町ほどの絶世の美女でも、いつかは年老い、髪は抜け、膚はぼろぼろ落ちて醜くなり、そして地面に野垂れ死にし、やがて肉体は腐り、蛆がわき、臭くなり、ついには骨と皮となる、この世もひとつの地獄である―。このような現世をまざまざ見せておき、救われるのは仏の道であると、リアリストとしての源信は教えているのです。名僧に救われた美しくも苦悩する「浮舟」が出家するのは、物語としては道理だったのです。宇治川に身を投げた女の長い黒髪が川の流れ流れにまとわりつかれる、なんともいえない妖しさと情欲と哀しみは、最後に穏やかに救われることを予言しているようです。

ミュージアムは、宇治にあります。この地は、永遠の平安の都、浄土を現しています。平等院は極楽を現世に出現させたものです。鳳凰堂から見渡す街は、今は面影が少なくなってしまいましたが、往時は土地一帯すべてが浄土を現すべく、平安で安穏できる建造物で埋め尽くされるはずだったと思います。

『源氏物語』の作者が最後にこの地を選んだのは、必然だったという気がします。ミュージアムを出たあと、しばし私は、美しい苦悩の君が身を投げたという宇治の川を見下ろしていました。



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