FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

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「見得」が切れない海老蔵 ― 歌舞伎「助六」 

2010-12-19 19:33:17 | 芸能・映画・文化・スポーツ
『助六所縁江戸櫻』

海老蔵の事故(事件?)が起きるちょっと前に、NHK教育テレビで、歌舞伎座改築前の最後の歌舞伎(録画)を見ました。

歌舞伎はそれほど詳しくなく、ほとんど見ません。この夜は、たまたまつけたチャンネルで、3時間近く通しで夜中に見てしまいました。歌舞伎18番の『助六』です。通の人なら、これがたいした一番だとすぐわかるでしょうけど、私は筋すら知りません。もともと歌舞伎は、筋があってもよくわからないし、役者の動きも緩慢、喋っていることも聞き取れないしで、日本人の私ですらこうですから、外国人の人はさぞ退屈だろうなあ、というのがこれまでの実感でした。

この日の『助六』では、ちゃんと「事故」前の海老蔵がそれらしく舞台で前口上をやっていました。助六を父親の団十郎、花魁の揚巻を玉三郎、助六の兄を菊五郎、通人を勘三郎と豪華メンバー。その役者だけ見ていても、ちっとも飽きが来ないのは我ながら不思議でした。これまではどうも、下手なドラマを見るように筋ばかりを追って見ようとしていたからでしょう。小説でも、つまらない小説はやたら筋が動き回っているし、テレビでもへたくそな役者ほど喚いたり泣いたりしています。

歌舞伎は、確かに喋っている役者以外は、動作がありません。止まっています。動きも、京劇のような激しさ、アクロバットのようなところ、だれでもぱっと見てぱっとわかるところがあるわけではありません。しかし、よくよく私がひきつけられるようになったのは、団十郎助六の、形式美としての動きです。歌舞伎自体が、様式美、形式美を楽しむことだと悟ったわけです。たとえば、台詞を言っている役者以外の、黙って止まっている役者の表情を見ているだけでも面白い(と言っても、止まっているので表情の変化はありませんが、今この役者は何を考えて次の台詞を待っているのだろう、など)。

まあまあ、団十郎にしても菊五郎にしても、勘三郎もまた、それなりに楽しめました。歌舞伎と言えば、「大見得を切る」ところ。たいした役者ほど、間(ま)が持てる、間がうまい。形になる。

・・・、だけど時々CMや紹介番組などでやる歌舞伎界のプリンス(ともてはやされている)海老蔵のせりふ回しや「見得」は、素人の私が見ても、ヘタ。間が持てない。歯切れが悪い。形に美がない。前々からそれは感じていましたが、この役者がプリンスとして歌舞伎界を本当に引っ張っていくのだろうかと思うと、ずっとがっかりしていました。そこへきて、今回の問題です。へたな「見栄を張る」のではなく、ちゃんとした「見得が切れる」ように、この際、謹慎中にしっかり修行をしてほしいものです。


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