関口文治郎が、妻沼の歓喜院に師匠石原吟八郎と、
10里の道を急いだのは1750(推定)19歳の時。
すでに、吟八郎の兄弟分、吉田茂八の弟子、
のち江戸で名を残した、後藤茂右衛門や小沢五右衛門は、
境内の掘っ立て小屋で、汗を流し、鑿を打ち込んでいた。
1670年妻沼大火で失った聖天堂の再建は、
1735年から
妻沼の宮大工、名工林兵庫正清が一世を懸けていた仕事である。
吟八郎が鑿を入れ、文治郎は仕出に精を出していたのだが、
徐々に吟治郎が病に冒され、鑿は文治郎があずかることに。
文治郎はここから始まる。
まさか2012年、彩色、ピカピカで「国宝」になるとは、思いもせず、
文治郎この後は、極彩色を好まなかったのだけど・・・
左甚五郎の作と言い伝えられる「鷹と猿」は、
れっきとした文治郎の作。👇
小沢五右衛門の作が、文治郎の作☝ の長押の上に👇
吟八郎の兄弟部の弟子、後藤茂右衛門が、👇
写真 2018.6.17 埼玉県妻沼聖天堂
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます