
大悲願寺、都下のあきる野市、
310メートルの天竺山の麓、
こんもりした森林に囲まれたお寺に、
昔、川遊びの好きな、
伊達松宗が、秋川で鮎魚を楽しんだ帰りに立寄り、
壮大な萩の花に感動して、どうしても萩を仙台に、
咲かせたいと、後日、徳川家康に許された、
こんもりした森林に囲まれたお寺に、
昔、川遊びの好きな、
伊達松宗が、秋川で鮎魚を楽しんだ帰りに立寄り、
壮大な萩の花に感動して、どうしても萩を仙台に、
咲かせたいと、後日、徳川家康に許された、
松平陸奥守の名で、手紙を飛脚に持たせている。
伊達政宗56歳の、
1623年の8月21日の花押しの手紙が保存されている。
伊達政宗56歳の、
1623年の8月21日の花押しの手紙が保存されている。
仙台の紫の萩しか見たことが無い、政宗には、
白い萩が、珍しかったのでしょう。
白い萩が、珍しかったのでしょう。
記録には無いのですが、弟子は当時の13代住職の弟子は、
15代住職になった政宗の俗弟だという。
手紙の宛名は、彼岸寺と書かれてた。
15代住職になった政宗の俗弟だという。
手紙の宛名は、彼岸寺と書かれてた。

👆1794年に建てられた無畏閣は、
千手観世音菩薩を勧進したお堂として、
信仰を集め、秋川観音と親しまれている。
信仰を集め、秋川観音と親しまれている。
畏とは、観音様の慈悲で、
心の畏・・恐れ 不安 怒りなどを取り払うこと。
心の畏・・恐れ 不安 怒りなどを取り払うこと。
建立後、参拝者の為に、向拝を作ったのは、
33年後、1827年で、
羽目板や、唐破風の彫刻は更に5年後のことで、
👇地元の近郊の匠が手掛けたという、
33年後、1827年で、
羽目板や、唐破風の彫刻は更に5年後のことで、
👇地元の近郊の匠が手掛けたという、
地獄図、極楽図などの彫刻。





👇向拝には カメもいた。

👇堂の裏手には鶏が居た。

👇大師堂



👇鐘楼
江戸時代のあきる野市を分断するように流れる、
秋川は、江戸城の台所に差し出す鮎の、
御用鮎制度で厳しく管理され、鮎業を許された村同士で、
争いもあったという。
秋川は、江戸城の台所に差し出す鮎の、
御用鮎制度で厳しく管理され、鮎業を許された村同士で、
争いもあったという。
そんな中、、時を知らせる鐘として、
八王子市の加藤五郎衛門尉宗次が、
1672年に鋳造したという鐘楼が・・・
1672年に鋳造したという鐘楼が・・・
鐘楼には、抜粋・・
それ梵鐘なるものは、紺園 寺院の別名 容器上観の霊枢なり。
これによりて朝には斎粥の期を告げ、
暮には禅定の席を開く。ここに住持信盛 大悲願寺の住職、
ふたたび冶工をして、華鯨 釣鐘 を鋳鎔せしむ・・・
・・・冶工武州横川住加藤五郎衛門尉宗次・・とある。
それ梵鐘なるものは、紺園 寺院の別名 容器上観の霊枢なり。
これによりて朝には斎粥の期を告げ、
暮には禅定の席を開く。ここに住持信盛 大悲願寺の住職、
ふたたび冶工をして、華鯨 釣鐘 を鋳鎔せしむ・・・
・・・冶工武州横川住加藤五郎衛門尉宗次・・とある。

故・平岩弓枝さんの
白萩屋敷の月
彼岸の頃、手紙と香箱を届けて欲しいと
与力の兄の使いで出向いたのは
与力の兄の使いで出向いたのは
藤色の着物に白い被布を着た
萩の精のような女性
横顔に火傷の痕が残ってた
横顔に火傷の痕が残ってた
慕ってた兄に似た弟
宿屋・かわせみの居候
神林東吾
・・・その夜・・・
切り株に座れば、
そんな小説を喚起させた大悲願寺でした
・・・その夜・・・
切り株に座れば、
そんな小説を喚起させた大悲願寺でした

お身体の痛みは大丈夫ですか?
寒いので温かくしてお過ごし下さいね。
秋川の渓谷に涼をとり、寺域の中の木立、
白萩を観ながら、日暮れまで・・・一人訪れるのも風流です。
ご案内いたします‥よッ ‼
幾分良くなり、今日は青梅市辺りまで出かけました。
コルセットがフィットしてよかったですね。
お互い腰痛には悩まされますね。
暖かい日が続けばいいなと、思います。