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春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

「花と竜」 砂漠に緑と食料、中村哲さん。

2019-12-09 09:00:26 | 医師、中村さん

👆 2019.12.8 群馬県川場村  吉祥寺。

福岡県で沖中仕をしていた、やくざと言われた、
玉井金五郎氏。
清貧にして気骨のある、明治の男。

玉井金五郎氏の長男が、
作家・火野葦平さん。
葦平さんの妹の子が、

アフガニスタンから、亡骸、無言で帰国した。
建築機材を自分で操作し、利水工事をし、
砂漠に緑を回復させ、食料を作れるようにした、
中村哲医師。

その背景、知らなかった!

👇2016年8月6日、投稿した、記事を見なおしました。

      ※※※

「チェリオ」!・・・火野葦平・・・「花と竜」

焼け跡をもたらした、戦争の終戦日が近くなり、
戦争を知らないからこそなのか私は、この時期に来ると、
幼いころへ“タイム・スリップ”してしまう。

この写真は、1925年当時国電大森駅の
「親不孝通り」ガード下のゴミ捨て場の風景ですが、
現代では、想像できない光景であって、何とも近寄りがたく、
看板「バー・チェリオ」の看板も、一気に横文字、何となく、いかがわしい
写真の育ちのいい女性に見えるのは掘っ建て小屋チェリオの「マダム」。
旦那さんは、絵描きで、仲のいい友達は、
反骨の文士、「火野葦平」や写真家「林忠彦」

火野葦平は林忠彦氏とこの「チェリオ」に毎晩のように通い、
「カストリ」を飲み、梯子をする。。
1927年「読売新聞」に約1年、掲載された「花と竜」
この時すでに、「花と竜」の大河小説の、構想を練っていたのかもしれない。

👇林忠彦氏 撮影 2019.12.9 追記


やくざの世界を描いた火野葦平の作品『花と竜』、
モデルは火野葦平の父、「玉井金五郎」氏。
刺青を入れた父、金五郎は、
戦後に全てを失った日本において、裏切りや屈辱の境遇にあっても、

人としての品位を守ろうとする、玉井自身の理想を「花」とし、
「竜」の刺青を入れた理由は、
男としての虚栄心と詰まらない意地は、
人生に拭えない影を落とすという自戒の徴である。

映画化され、藤田進氏、中村錦之介氏、高倉健氏、石原裕次郎氏、が、
「火野葦平」の父、「玉井金五郎」氏を演じて、
唄では村田英雄氏の「花と竜」があって
昭和の時代を彷彿とさせるものでした。

テレビでも放映されていると知ったのは最近で、
辰巳柳太郎氏、島田正吾氏共演、渡哲也氏、高島政宏氏。
テレビには疎かった私の失点。

『火野葦平』
1960年安保発令の、5日後自宅書斎で、
「・・・すみません。おゆるしください、さようなら」
53歳、反骨の小説家が・・さようなら・・・!
芥川龍之介を敬愛していた53歳の反骨の小説家が・・
さようなら・・・!

13回忌で明かされた、事実!

「チェリオ」のマダムと絵描きの夫婦は
その後、
九州に帰り、紙人形を作って大成功した。{写真家・林忠彦氏後日談}

焼け跡で生きた人の言葉には、どこか「花」があるけれど、
今は、何が、「花」なのだろうか!


花と竜を気取って、見物に出かけてみようか・・・!
     ※※※

コメント (3)
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ムカデを退治した豪傑、佐野市鞍掛神社

2019-12-06 22:10:12 | 社寺
 
滋賀県三上山、500m足らずの富士山の形に似た、
山を見た平安時代の女史、紫式部。
「打ち出でて 三上の山を 詠れば 
雪こそなけれ 富士のあけぼの」と詠んだ、
近江富士を7巻半もまく大ムカデがいた。
大ムカデは湖の龍族の仲間をさらい去っていくという。
困った龍族の長老は、
瀬田の唐橋で大蛇に姿を変え、
蛇をまたいでいく豪傑、俵籐太にムカデ退治を頼み、
竜宮城に招待する。

豪傑の名は藤原秀衡。
下野在庁官人から、土着した下野の貴族、豪族の武将。
弓矢の名人で、ムカデの目を射り退治し、
お礼に、竜神が差し出したのは、米俵、釣鐘、絹で、
米はいくら食しても減らなかったと、
別名,俵籐太。

その伝説の男の子孫が、
足利の武将と下野佐野赤見の戦いで、
左目を矢で射られた。
子孫の名前は、佐野中宮亮有綱。
戦いの後、傷口を清水で洗うも、
老体でもあった有綱、目は治らず、
日光市猪倉鞍掛山で、自ら命を絶つことに・・。

佐野の住民が、武勇人有綱の霊を祭る祠を造る。
1186年。
以降、繰り返し3度の再建をし、
1745年、裏胴羽目の龍族を救った藤原秀衡の彫刻が、
秀衡に退治された大ムカデが、東側の胴羽目にと、
滋賀県の出来事が、物語として、彫られている。
鞍掛神社は佐野市田園のこんもりした高台に。


 
 
 
 
👇佐野市鞍掛神社から12月3日の景色。

 
 
 
 
 
👇杮葺き屋根。
建築基準、今はこの施工は許可されていない。
十分な保存を願いたいものです。

 
 
 
 
 
 
 
 

神社を創建したのが、
住んでいた人たちと、分ると、
少し、立ち去りがたいものがあります。
 
👇私はずっと座りっぱなし。

 
1793年からです。
 
 
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夕焼け小焼けの長福寺。まもなく明治。町田市。

2019-12-04 22:10:08 | 社寺
 
町田市長福寺、
詳しいことが判らず訪れたお寺さんで、
夕焼けの境内、一人、
随分長いこと生きてきたなぁ~などと、
悦に入ってたのですが、
俄か仕込みでは、長福寺の本堂の天井には、
「江戸名所図会」「東都歳時記」の挿図を描いた、
長谷川雪旦の子、1842年の秋に長谷川雪堤が描いた、
35種の草花を描いた天井画が、配されているといい、
款記も明記されているという。(町田市教育委員会」
ちと、抒情に浸っている場合ではなかったようで」
来週の8日頃には、さらに訪れてみようかと・・・。

 
 
 
 
 
👇文珠堂。
優雅かつ精緻を極めている芝増上寺の山門を手がけた、
下相原村(地元)の青木勘次郎易直が携わったのだそうで、
シンプルな施しにちょっと研ぎ澄まされた優雅さも。
1862年の作。

同時に、山門👆も本堂も👆手掛けているのですが、
江戸中期の建築や彫刻と比較すれば、
いずれもシャープな感覚になっているのでしょうか。
まもなく明治。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
境内を歩けば向こうは神奈川、相模原、
ここは県境、東京町田市の多摩丘陵、
夕焼け小焼けの歌に、柄になく抒情に誘われた、
長福寺(開山1631年)は2ページでした。
 
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着た切り雀、町田市で夕焼け小焼け

2019-12-02 23:02:38 | 社寺
 
隣の町まで出かけた1日の夕刻、
寺の屋根を照らした夕刻の陽に
普段なら寄ることは無く、
家路に急ぐのに、つい立寄ったお寺。
東京ではあるけど、
ほとんど神奈川県との交流が多い町田市、
👆少し下った道路を挟んだ向こうは相模原市。
長福寺。



参拝する人は無く、暮れるまで一人。
これが心地よかったけど、
♪♪夕焼け小焼けで 日が暮れて
山のお寺の 鐘が鳴る
お手々つないで みな帰ろう
・・・・・・♬
お寺にきて気持ちが落ち着くのは、
夕焼け小焼け、
この歌があったからかもしれない。
何十年、見向きもしなかった、
お寺の散歩が気に入ったこの日。
着た切り雀が、門の前で我に返った。

幕末誰が彫ったか、詳細もない龍の彫刻。
めらめらと好奇心が鎌首をもたげたけど、
手掛かりがない。
昨日の夜は、
洋装店で服をあつらえている夢を見てしまった。
高台にある神社もあって、その彫刻も又、
好奇心をそそられました。
次回辺りで投稿できればと思います。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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菜の花畑を応永寺、桜門の天女と力士。

2019-12-01 00:48:07 | 社寺
 
11月が終わる。
慣れない資料まとめに、目はへっこみ、
幻聴ならぬ幻匂は階下のすき焼きか、
20時からうつら、うつら。
気を取り成してシーツを換えては、
付けっ放しのテレビの画面に気を取られ、
これでいい仕事ができる訳な~い、12月になった。

万之助は、30年まえ、欄間に彫った宗本寺に寄り、
本堂を無表情で見た歩いた後、
茶うけにと、寺が焼いてくれた残りの餅を半紙に包んで、
吾妻川から見上げる岩櫃山👆の絶壁を見ながら、
1里半、応永寺へ。

高瀬万之助、忠七親子が、
応永寺の山門の木鼻に取りつける彫刻を、
寺が用意した掘っ立て小屋で、彫ったのが1781年。
宗本寺の欄間を見た檀家たちが、依頼したもの。
今は、檀家たちが育てている名の花畑や、
桜を見に来る人たちがいるよう・・。
ここから1時間も歩けば、切り立った荘厳な吾妻渓谷を、
楽しめるが、高瀬親子は、見学したかどうか・・・。

の「力士」天井の「天女」が、
小高いのどかな田園風景に、
光って見えた。
 
 
👇菜の花畑。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
👇灑水観音。
流行する大悪病のときは、楊枝と浄水を献じると、
観音は衆生を哀れみ、三宝と観音の名を称えることを教え、
さらに神呪を説いて、
これを受持する者は病気を免れることができるという。

 
👇吾妻川、昭和昭和10年の水害、
土砂崩れに洪水、被害に遭った方々を弔んだ、
慰霊塔を見過ごすわけにはいかない・・

 
 
 
 
 
 
 
 
 
👇電車の尻尾は終点草津まで。
 
 
 
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