・かすがの に おしてる つき の ほがらかに あき の ゆふべ と なり に ける かも・
「南京新唱」1924年(大正13年)刊。制作年代は不祥だが、「明治41年8月以降の作」とある。(本林勝夫「現代短歌」による)
カナ書きでは読みにくいので、漢字・仮名まじりに直す。
・春日野に押し照る月のほがらかに秋のゆふべとなりにけるかも・
語意から「春日野=奈良興福寺の東にある野」「押し照る=あまねく照る、照り渡る」
「けるかも」の結句にみられるように、茂吉好みの歌体である。「けるかも」と言えば、次の作品が思い浮かぶ。
・最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも・(斎藤茂吉「白き山」)
・みんなみの嶺岡やまの焼くる火のこよひも赤くなりにけるかも・(古泉千樫「川のほとり」)
特に茂吉の作品と下の句が極似している。ただ茂吉の作は大きな厳しい景が見えるのに対し、会津八一の作品は、秋の月夜の静寂を詠っている。
会津八一は万葉集や良寛の歌に親しみ、正岡子規とも交渉のあった人だが、早稲田の英文科を卒業ののち、母校で英文学・美術史の講座をもった。もっぱら奈良文化や東洋美術史の研究に専念し、短歌は誰に師事するともなしに、歌壇との交渉は全くなかった。
しかし、その専門領域から分かるように、「万葉の人が何故そういう言葉遣いをしたのか考える」(正岡子規)条件は十分であった。若いころ俳句に親しんだのも見逃せない。
「秋草道人」を名乗ったが、斎藤茂吉は次のように記す。
「道人の歌は、万葉調なるを以て特色とするが、ただ古調のこつこつしたもの、乾燥し果てたものとは趣を異にして、その声調流動し、新鮮な果実の汁のごときものを感ぜせしめる。」(「秋草道人の歌一首」・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌論集」285ページ)
独自に達した歌境だけに、万葉集の真髄を理解し自己のものとしたところには注目すべき点があると思う。またすべてを「かな書き」にした点も作者ならではのものだろう。斎藤茂吉が「みちのくの農の子」(西郷信綱)ならば、会津八一はさしづめ「北越の孤高の学究歌人」とでもいおうか。彼は新潟出身である。良寛の歌に興味をもったのも、その関係かも知れない。
この会津八一にいち早く注目したのは斎藤茂吉であり、八一に師事した吉野秀雄が、「良寛和尚の歌」の著者であることも覚えておいてよいことだと思う。
「会津八一:歌人・書家・美術家。・・・青少年時代は旧派和歌と新派和歌の交代期にあたり、同世代の与謝野晶子や長塚節は旧派から歌にはいったことが知られている。・・・1900(明治33)に正岡子規を訪れ、年年後日、良寛の歌集を送ったことは注目に値する。< 子規自ら教へざる子規門流の歌人 >(釈迢空)という位置づけも成り立つゆえんである。」 (岡井隆監修「現代短歌辞典」)