・牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いに起る・
「伊藤左千夫歌集」。歌集巻頭の一首だが、制作年代は正確にはわからない。
先ずは読みから。「牛飼」はもともとは「牛ひき」のことだが、この場合は「牛乳搾乳業」にたずさわっていた伊藤左千夫のこと。「新しき」は「あらたしき」と読む。文語である。
伊藤左千夫はもともと旧派の和歌を詠んでいた。号は「春園」。正岡子規より年長だが、子規に議論を吹っ掛けにいって、逆に論破され、門下に連なった。
子規の死後、機関誌をもたない「根岸短歌会」のために「馬酔木・あしび」を創刊するも、雑誌は売れず廃刊。三井甲之の「アカネ」がこれを引き継いだが、同人の間に不満続出。紆余曲折を経て、「アララギ・当初は漢字書き」を創刊。
雑誌の経営難・資金難、さらに自宅が洪水の被害を受けるなどの困難がふりかかった。「アララギ」が安定したあとも、島木赤彦の作品をめぐって、斎藤茂吉と誌上で激論を交わした。それでいて斎藤茂吉の異色な作品をかばった。(「伊藤左千夫と斎藤茂吉」:「写生論アラカルト」参照。)
島木赤彦・斎藤茂吉・土屋文明などの個性の違う弟子たちや、長塚節・岡麓らの子規門下をまとめ、いわば「根岸短歌会」の「重石」だった。岡井隆のいう「大同団結」の気風をアララギの中に育んだのは、伊藤左千夫の功績である。
生前、自身の歌集を出版することはなく、小説の執筆に傾倒したこともあり、「野菊の墓」などの作品を残している。(これに関しては、新潮文庫の「野菊の墓」の解説が参考になる。)
冒頭の一首は、子規門下に入ったあとのもので、やや気負いが感じられるが、率直に詠ったことが、のちの大柄な作風の基礎があったことを示しているようだ。僕が引っかかるのはその「気負い」である。が、率直さがそれを上回るだろう。
それ以前の旧派風の作品が、巻頭歌になっていないのが、伊藤左千夫の大胆さを示しているのではないか。