岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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桜田門の歌:斎藤瀏の短歌

2014年03月28日 23時59分59秒 | 私が選んだ近現代の短歌
・逃ぐるは逃げ斬らるるは斬られかたづけり桜田門外雪ふる雪ふる

    (「波濤」所収)

 斎藤瀏については、小池光、島田修三、三枝昂之、永田和宏、山田富士太郎(共著)の「昭和短歌の再検討」の、「斎藤瀏、歌人将軍の昭和」(小池光)に詳しい。


 「斎藤瀏は、明治12年末松本藩士の家に生まれた。佐佐木信綱より7才下、斎藤茂吉より3才上である。近隣の商家に丁稚奉公中、勉学ぶりが認められて漢学者斎藤順の養子となる。軍人を志し、陸軍幼年学校に入り、陸士、陸大へと進む。陸士は12期で後の総参謀総長杉山元(自決)、小磯国昭(絞首刑)らと同期、陸大では後の陸相寺内寿一、畑俊一らと同期であった。

 少尉として日露戦争に出征し、奉天会戦で戦傷を受く。陣中から佐佐木信綱に手紙を書いて入門を乞い、『心の花』に入る。

 終戦後は旭川第7師団をはじめとして各地の連隊に勤務し、大隊長、連隊長、参謀長と順調に昇進する。昭和2年には49歳で少尉に進み、熊本第6師団第11旅団の旅団長となった。ここで第2次山東出兵、いわゆる済南事変が勃発する。第6師団に動員が下され、日清戦争以来の日中正規軍の全面衝突を、師団長に次ぐナンバーツーの現場指揮官として戦う。・・・・その後在郷軍人団体の役員となるが、昭和11年2・26事件がおき、これに連座して反乱幇助により禁錮5年の実刑判決を受け、入獄する。(2年で保釈)・・・出獄後『心の花』から分かれて『短歌人』を創刊、主宰する。歌壇への発言を強め、時局協力のためにイニシアティブを発揮し、昭和15年大日本歌人会解散にむけて主導的役割を果たす。」

 (「昭和短歌の再検討・斎藤瀏、歌人将軍の昭和」より)

 このような状態なので、斎藤瀏は戦後、公職追放になる。戦争に加担した「負の遺産」が、歌壇にあるとすれば、斎藤瀏は「A級戦犯」だろう。

 戦争を煽ったのは、斎藤茂吉と同じだが、斎藤瀏のほうが確信犯に近い。2・26事件は、軍部の急進派による、クーデター未遂事件であり、実行犯はテロリストだった。その斎藤瀏が自らを、「桜田門外の変」の尊王攘夷の志士になぞらえているのは、いかにも滑稽だ。独占段階の資本主義になろうとする当時の日本で、近世末の尊王攘夷の志士を気取るとは、アナクロニズムと言っていいだろう。

 こういった「昭和軍閥」(皇道派も統制派も同じ)が、戦争を主導し、結果、日本を焦土と化した。掲出歌も面白くも何ともない。「桜田門」という言葉に酔っているだけだ。そして、かいま見えるのは時代錯誤のヒロイズム。こうした感覚が、国を滅ぼしたのだ。

 この斎藤瀏を、小池光は「ロマンチスト、熱血漢であった」「(2・26事件は)義挙であった」「その信念を批判することに私の関心はない」「斎藤瀏という人間としての、ほとんど喜劇のようにみえる悲劇がある」「荒涼と、そして忽然と、漂う終末感はまぎれもなく美しい」と最大限の賛美を送る。これに違和感を感じるのは僕だけだろうか。

 それにたいし、小池光は、斎藤茂吉の戦争責任を追及するのに熱心である。


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