(20号)の続き。
弟子入り志願の手紙の返信には時間がかかった。二・三週間は待っただろう。
そしてある日、一枚の葉書が舞い込んだ。「尾崎左永子」と鮮明に朱色の印が押されていた。自宅で酒を飲みながら一人で祝杯を挙げたのを記憶している。
こちらからの手紙は「運河の会」の発行所に出したものだったが、葉書には「横浜で研究会をしています。詳細はA氏へ。」とややためらいがちに書かれていた。葉書の末尾のほとんど欄外と言ってよいほどのところに細い字で、つけたしのように書かれていたのである。
研究会の名は「神奈川サロン」だった。運河の会の神奈川県在住の会員が十四・五人集まっていた。そこには他の結社の選者がおり、後に日本歌人クラブの新人賞を受賞したK氏もいた。小南さん(「星座α」の選者)ともここで出会った。実力派揃いである。・・・・(中略)
(この後研究会での体験、尾崎主筆の言葉から学んだことを書いた。僕の作品が尾崎主筆から手ひどく批判されたことも。)
ここまで書いて来ると、尾崎左永子の熱狂的信者のように聞こえるかも知れない。「岩田さん。尾崎先生の受け売りをしなくともよいでしょう。」と辛辣に言われたこともある。しかし、尾崎主筆の言わんとするものの核心は心から共感でき、「詩人の聲」のプロジェクトで、プロデューサーの詩人、天童大人氏から聞いたこととも共通する。これは「星座の会」十五周年記念の選者の座談会でも話した。抒情詩としての普遍性があるように思う。・・・(中略)
(この後作品の音読について述べた。)
最近は「尾崎左永子歌集」(砂子屋書房刊)を霧が丘短歌会の会員全員で群読している。
「運河の会」の時代のことはいずれ。(続く)