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正岡子規「歌よみに与ふる書」を読む:斎藤茂吉の写生論の祖形・1

2011年01月07日 23時59分59秒 | 写生論の多様性
「歌よみに与ふる書」は1898年(明治31年)2月12日から3月4日の間に計10回にわたり、新聞「日本」に連載された正岡子規の歌論である。

「子規なかりせば、短詩型は滅び去ったか、少なくとも現在とはまったく異なる文芸となっていたであろう。」とは、「岩波現代短歌辞典」の記述。異論もあろうが、まずは「歌よみに与ふる書」を読んでみよう。

 子規は1895年(明治28年)に「俳諧大要」を発表して、俳句の革新にのりだした。それがひと段落したあとに、さらに短歌の革新を目指した。それで発表されたのが「歌よみに与ふる書」。この辺の事情は省くとして、「東京帝国大学で学んだ子規は、西洋風の文芸思想の洗礼をうけており、日本の短詩型の現状に対して批判的だった」(岡井隆監修「岩波現代短歌辞典」)ことだけを押えておくことにする。

 「歌よみに与ふる書」は全十章からなるが、章ごとにその大要を整理していく。


1・「仰せの如く近来和歌は一向に振ひ不申候(申さず候)。」源実朝を万葉以降の評価できる歌人とする。賀茂真淵(国学者)を「万葉を誉めたらぬ」と疑問を呈し、揖取魚彦(かとりなひこ・当時注目されていた歌人)を「万葉の模倣」と断じる。

2・「古今集はくだらぬ集に有之候(これあり候)」。紀貫之を「歌らしき歌は一首も相見え不申候(あい見えず申さず候)」として、辛辣に批判した。藤原定家については「上手か下手か訳の分からぬ人」とし、香川景樹(かがわかげき・当時評価の高かった歌人)については「歌がひどく玉石混淆」であるとした。

3・「彼ら(歌詠み)は・・・西洋には詩といふものが有るやら無いやらそれも分からぬ」と和歌の世界の閉鎖性を批判する。「俳句も漢詩も見ず、歌集ばかりを読み」という言葉にもそれがあらわれている。

4・具体的に「名歌」と呼ばれている作品の批判。俎上にあがったのは、柿本人麻呂・大江千里(百人一首のひとり)・八田知紀(はったとものり・当時評判の歌人)。人麻呂の歌の中にも手放しで評価できないものを挙げ、古今調の批判、八田知紀の批判を展開。特に大江と八田の歌には「理屈である」と批判する。

5・前回に続いて、大伴家持・凡河内躬恒などの作品が批判される。「嘘を詠むなら全く無い事」を詠め、そうでなければ「有りの儘に正直に詠むが宜しく候」として、浅いテクニックに走ることを戒める。

6・旧派への再反論。旧派和歌の衝撃の大きさがわかる。

7・用語の自由化。和歌の常套句、和語(やまとことば)だけでは陳腐になるとした。「外国語・漢語・サンスクリット語」を用いても、「日本人が作りたる上は日本の文学に相違無之候(相違これ無き候)」と言う。

8・4,5の反対に「秀歌の具体例」とその理由を述べる。源実朝の「金槐海和歌集」の作品がとりあげられる。

9・前回に続いて「秀歌の具体例」。源実朝のほか、新古今和歌集からも、定家・信明・西行・能因法師・慈円の歌が挙げられている。子規の目的が古典和歌歌の全否定ではなく、あくまで作品批評だったことを示す。

10・旧派歌壇への最後の批判、特に「御歌所」への批判である。また縁語などへの技巧に走り過ぎることへの戒めもある。俗語を用いるにしても雅語より「適せり」と判断した場合は、用いるべきだとしている。


まとめ・かなり激しい口調だが、和歌の世界で1000年近く「聖典」とされてきた「古今集」の批判だけに、致し方なかったのであろう。その反面では「新古今集」の作品を評価するとか、用語の拡大を主張するなどの柔軟性もある。「歌よみに与ふる書」を、ただの「万葉崇拝」「和歌の伝統の否定」「声高な叫び」などととるのは、一面的な見方と言えるだろう。

 文献としては、岩波文庫「歌よみに与ふる書」が手にいれ易いが、僕は筑摩書房「現代日本文学体系」をテキストにした。





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