・冬ごもる病の床のガラス戸の曇りぬぐへば足袋干せる見ゆ・
「竹の里歌」所収。1900年(明治33年)作。
見たままをさりげなく詠っている。これが子規の写生であった。和歌には古くは二条流・京極流・冷泉流があり、近世に至り国学者を中心とした賀茂真淵の県居(あがたゐ)派(万葉派と江戸派にわかれる)などの諸流があった。
それを厳しく批判したのが正岡子規の「歌よみに与ふる書」であり、生み出された旗印が「写生」という用語であった。
身のまわりの見えるものをさりげなく詠う。ここに絵画のスケッチにあたる「写生」という用語を用いた意義がある。
一首の内容からいうと、「・・・の・・・の・・・の」で語調を整えていることあたりが万葉集から学んだと言われる。
その他に「ガラス戸」「足袋」にも注目する必要があるだろう。子規が病に伏して起き上がれなくなったとき、門人たちがさまざまな配慮をしたのはよく知られている。
病床の子規の視界にはいるように置かれた、藤の花、庭の花。そして当時としては非常に珍しかったガラス戸がそれである。
数年前の「NHK歌壇」の巻頭秀歌にガラス窓越しに見える干した靴下の写真とともに、この一首が掲載されていた。
今から見ると「どこが面白いか」という話になりかねない作品だが、当時としては、斬新だったに違いない。また、「足袋」を題材にするなど、旧派・堂上派の歌よみは眉をひそめたことだろう。
近代短歌を読む上で当時の歴史的背景を知る必要があると感じさせられる作品とも言えるだろう。
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