・瀧の水は山のくぼみにあらはれて空ひきおろしざまに落下す・
これは上田三四二の作品で那智の滝を詠んだものである。同じ那智の滝を詠んだ佐藤佐太郎の作品に、
・冬山の青岸渡寺の庭にいでて風に傾く那智の滝みゆ・「形影」
というものがある。
同じものを詠みながら、二首の間には決定的な差異がある。
その1。固有名詞の有無。
その2。比喩の有無。
その3。句またがりの有無。
佐太郎の作品は、固有名詞を有効に使い、比喩を使わずストレートに表現し、句またがりがなく「ゆったりとした声調」である。
上田三四二の作品は固有名詞を使わずに「滝の水」に焦点をあてている。「空ひきおろしざまに落下」という表現は、「句またがり」であり、「比喩=この場合直喩」である。これによって水の落下の激しさが引き立っている。
どちらがいいという訳ではないが、同じ素材でも表現の仕方によってはこんなにも差がでるのかと驚く。
上田三四二の作品の方が勢いがある。厳しさもある。ここに僕は島木赤彦的なものを見るのである。そういえば、「島木赤彦」(桜楓社)の作品鑑賞を担当したのは上田三四二であった。上田三四二の作風は戦後アララギの中心だった土屋文明とは全く異なる。「新月」は「白秋系の結社」となっているが、白秋の歌は象徴性の面から言うと、茂吉や佐太郎と共通点が多い。
アララギ派歌人と呼ばれながらアララギに入会せず、「新月」に入会した理由はこの辺にあったのではないかと僕は思う。島木赤彦が存命で、その系統の歌人がアララギに残っていれば、上田三四二もアララギに入会したのではないかと僕は思うが、どうだろうか。