岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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短歌の文学性「現代短歌新聞」:2014年10月号

2014年10月20日 23時59分59秒 | 総合誌・雑誌の記事や特集から
「現代短歌新聞」2014年10月号


 「現代短歌新聞」の10月号には、冒頭に岡井隆のインタビューが掲載されている。新聞の今月号から、「『未来歌集』を読む」という連載が始まったのだ。

 この連載の執筆者は「八雁」の小田鮎子だ。第1回は総論。『未来歌集』の刊行の歴史的背景が書かれている。

 戦後、短歌は打撃を受けた。第二芸術論による「短歌はサブカルチャー」という論難。戦中に戦意高揚の短歌を、有力歌人だけでなく、短歌に携わる人たちが、殆ど例外なく詠んだのだ。謂わば短歌が戦争のプロパガンダの役割を果たしたのだ。第二芸術論も、そういう点への批判という側面があった。

 プロパガンダに使うという事は、「短歌の文学性」を歌人みずからが否定したことではあるまいか。

 「『未来歌集』を読む」(総論)では、次のように書かれている。

「(『未来歌集』の)歌には、敗戦のよる苦しみや葛藤、忍び寄る新たな戦火への視線が読みこまれている。・・・おのれおのれの置かれた状況にひとりひとりが向き合うとき、その姿勢はおのずと定まり、文学運動の片鱗を見せていたのであった。」

 人間の感情が表現されていなければ、文学とは言えない。『未来歌集』に参加した歌人たちは、この主題に立ち向かったのだろう。

 この企画に先だち、岡井隆が、冒頭のインタビューに答えている。


「『未来歌集』は戦後文学、戦後短歌と言われているものを若い人達なりに総決算をつけたものともいえるし、また新しいことがはじまる出発点でもあったいう二つの見方ができるんだね。・・・当時短歌が置かれていた第二芸術論的な風潮への反発を作品で示したいという気持ちが強くあった・・・角川短歌にも<詩の点滅>を書いていたんだけど、此の頃空虚感が強くなっちゃってね。詩人は第二芸術論以来、小野十三郎があんなものは読む必要は無いと大声で言ってからは短歌なんてのは見向きもしない。歌人も詩に対してほとんど無関心の方が多いです。五・七・五・七・七の定型さえ守っていればいいというのでは駄目ですよ。」

 歌人は現代詩を読まない、詩人は短歌を読まない。ここに岡井隆の空虚感があるのだろう。「短歌は定型の現代詩である」と僕はそう思って、短歌に向かっている。「詩人の聲」のプロジェクトのに参加したのも、そこに意味がある。

 短歌を抒情詩と考えない限り、短歌は文学性を失う。このブログが、コメント拒否の設定になっているのは、ブログ開設直後に次のようなコメントがあったからだ。

「(「言葉遊びではいけない」という僕の記事に関して)ゲーム感覚でいいじゃないですか。」

 これに僕は憤慨した。どのブロガーかは知らないが、短歌を余りにも軽く見ている。現代歌人協会で「短歌は文学かいなか」という公開講座があったが、例え頑固と呼ばれても「短歌の文学性」は握りしめておきたい。

 「現代短歌新聞」の連載は、有意義な連載になりそうだ。





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