今月の特集は「小さな発見を歌う」だった。執筆者は合わせて10人。そのうち小池光と花山多佳子が総論と論考を書いた。先ずは、この二人に注目してみた。
:詩になる私事、些事(事実を超えるもの):小池光
小池光は石川啄木に限定して総論を書いている。だがこれが「総論」足りえているかどうかは、率直に言って疑問である。「総論」ならば、一人石川啄木だけでなく、複数の歌人の代表作を挙げるべきだと思う。だから「石川啄木論」として読んだ。
「大きな発見がなくて小さな発見のみがあるのが短歌の宿命だと割り切ってよい。・・・それは短歌の生まれついた性格なのだ。あまりにその詩形は小さい。その小ささに見合って、発見もまた小さくなるのが短歌というものである。」
(=短歌の詩形が小さいので大きな発見がなくとも短歌は詠める、という意味で基本的には賛成だ。しかし「小さな発見のみ」の「のみ」と、「宿命」という規定には、ぼくは大いに「ひっかかり」を感じる。何も「小さな発見」のみに限定する必要はない。「小さな発見さえあれば、短歌の素材となり得る」というべきであろう。)
「一見取るに足らぬ小さな発見が、・・・物事の本質を鮮やかに照射して、何百言、何千言を費やしたもの言いよりも、忘れ難い印象を読者のこころに刻みつける。」
(=僕も賛成だ。だが肝心なのは「そういう事が理想」であることだ。つまり「大きな発見」があっても良いのだ。問題は表現力だろう。やはり啄木だけに限定する必要はなかったと僕は思う。)
そのあと石川啄木の作品を7首挙げて論じているが、これは実物を購入して実際にお読み頂くことを、お勧めしたい。
:短歌における小さな発見とは何か:花山多佳子
花山多佳子は6人の歌人の12首を挙げて、かなり具体的に論じている。
(=この方が「総論」としてはふさわしいと思う。)
採り上げている歌人とその作品数は以下の通り。
・高安国世(二首)、村木道彦(二首)、斎藤茂吉(二首)、佐藤佐太郎(二首)、大西民子(二首)、森岡貞香(二首)。
(=やはり斎藤茂吉と佐藤佐太郎からは学ぶことが多いということだろう。)
そして結論。
「日常こそは人間の無意識の宝庫であり、説明しがたい厚みと深淵を有する磁場であろう。先立つ意味から離れて存在そのものを発見する磁場でもある。」
(=この結論には、説得力と普遍性があり、「もって肝に銘ずるべきもの」であると、僕は思う。)
そのほか、「一首鑑賞:小さな発見が効いているこの一首」という記事があって、岩田正、奥村晃作、久々湊盈子、池田はるみ、福井和子、佐藤弓生、大森静佳が、一首の例にその勘所を一ページずつ執筆していた。
(=これも必読である。特に自分の作歌に行き詰まりを感じている人にとっては。)