東京国立博物館140周年 特別展「飛騨の円空―千光寺とその周辺の足跡―」に行って来ました。
〇「飛騨の円空」公式サイト
円空仏にはなんとも言えない愛らしさ、母性を感じます。
展示空間はワンフロアなのでそれほど広くはないのですが、巨大な大木に仏の顔を掘ったものなどが鎮座していて、まるで森のように感じられました。鎮守の森。
龍王像もありましたし、宇賀神像のように蛇のからだに老人の頭をつけた神さまなども。そういう仏さま以外の民俗信仰の神像もありました。
その土地土地と結びついた神さまを尊ぶ円空の自由な魂を感じます。
おそらく、そこに住む人たちから頼まれ、快く引き受けて作ったのでしょう。そういう柔軟で自由な精神から、学ぶことは多いです。
■
円空の木彫りをじっくり見ていると、「内在神」のようなものを感じます。自分の中に、仏さまや神さまがいるような気がしてくるのです。
どんなことであっても自分の内的世界を感じ取ることは難しいものです。
「自分」というのが永久に灯台下暗しの存在ですし、「内的世界」は目にも見えないし形もない世界だから、ということがその理由だと思います。
そのため、僕らは外的な世界に仏さまや神さまを仏像、神像として映しだし、それを見ることで自分の中に広がる内的世界の何かを確認しているのだと思います。
外的世界と内的世界は鏡面のように連動していると思います。
鏡の前で右手を動かすと、鏡の世界の左手は同時に動く。それは引力や斥力や超能力で向こう側の世界が動いているわけではなく、結局は同じものを見ている、ということです。
■
内的世界を感じ取るためには、外的世界で象徴的なことを行う。
それは、心理学者ユングが、晩年にボーリンゲンというところに塔を建てていた、という事実と同じような気がします。
ユングにとって塔を作ることは、外的世界で象徴的な行為を行うことで、死ぬ過程での内的世界の調和を図る象徴的な行為になっていたのだと思うのです。
村上春樹さんも1Q84の中でも、晩年のユングが塔を建てていたことは、触れていた気がします。
僕らが外的世界で仏さまや神さまを見るときに自分の内的世界で何かが反応していることは、自分の中に仏さまや神さまがいることのしるしであると思います。
逆に言えば、仏像や神像を見ても内的に何も感じられないときや、仏像や神像自体を外的に見たくないとき、それはリトマス試験紙のようなもの。今の生活があまりに俗物的な世界に浸りきっている危険信号のようなものかもしれません。それは、病が日常生活(行為や考え)の何らかの危険信号であることと似たような現象かと思います。
・・・・
大勢の人が円空仏を見に来ていました。自分もその一人。
ニコニコ笑顔で佇んでいる円空仏は、こちらの顔もにこやかにさせる不思議な力があります。
小さいフロアでの開催ですが、円空仏は一見の価値があります。「飛騨の円空―千光寺とその周辺の足跡―」、お奨めです。
そのついでに、是非とも東京国立博物館の常設展もグルっと一周見てみてください。
〇東京国立博物館 本館(日本ギャラリー)
円空に負けず劣らず、日本文化の素晴らしいものが銀河星団のようにキラキラと広がっていることに驚くことと思います。
先人が残したこうした魂の痕跡に触れることは、見る人の魂にも何かいい作用を及ぼしているんだと思います。そうして、魂は複雑精妙なやり方でリンクしながら転生・更新していくのだと思います。
〇「飛騨の円空」公式サイト
円空仏にはなんとも言えない愛らしさ、母性を感じます。
展示空間はワンフロアなのでそれほど広くはないのですが、巨大な大木に仏の顔を掘ったものなどが鎮座していて、まるで森のように感じられました。鎮守の森。
龍王像もありましたし、宇賀神像のように蛇のからだに老人の頭をつけた神さまなども。そういう仏さま以外の民俗信仰の神像もありました。
その土地土地と結びついた神さまを尊ぶ円空の自由な魂を感じます。
おそらく、そこに住む人たちから頼まれ、快く引き受けて作ったのでしょう。そういう柔軟で自由な精神から、学ぶことは多いです。
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円空の木彫りをじっくり見ていると、「内在神」のようなものを感じます。自分の中に、仏さまや神さまがいるような気がしてくるのです。
どんなことであっても自分の内的世界を感じ取ることは難しいものです。
「自分」というのが永久に灯台下暗しの存在ですし、「内的世界」は目にも見えないし形もない世界だから、ということがその理由だと思います。
そのため、僕らは外的な世界に仏さまや神さまを仏像、神像として映しだし、それを見ることで自分の中に広がる内的世界の何かを確認しているのだと思います。
外的世界と内的世界は鏡面のように連動していると思います。
鏡の前で右手を動かすと、鏡の世界の左手は同時に動く。それは引力や斥力や超能力で向こう側の世界が動いているわけではなく、結局は同じものを見ている、ということです。
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内的世界を感じ取るためには、外的世界で象徴的なことを行う。
それは、心理学者ユングが、晩年にボーリンゲンというところに塔を建てていた、という事実と同じような気がします。
ユングにとって塔を作ることは、外的世界で象徴的な行為を行うことで、死ぬ過程での内的世界の調和を図る象徴的な行為になっていたのだと思うのです。
村上春樹さんも1Q84の中でも、晩年のユングが塔を建てていたことは、触れていた気がします。
僕らが外的世界で仏さまや神さまを見るときに自分の内的世界で何かが反応していることは、自分の中に仏さまや神さまがいることのしるしであると思います。
逆に言えば、仏像や神像を見ても内的に何も感じられないときや、仏像や神像自体を外的に見たくないとき、それはリトマス試験紙のようなもの。今の生活があまりに俗物的な世界に浸りきっている危険信号のようなものかもしれません。それは、病が日常生活(行為や考え)の何らかの危険信号であることと似たような現象かと思います。
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大勢の人が円空仏を見に来ていました。自分もその一人。
ニコニコ笑顔で佇んでいる円空仏は、こちらの顔もにこやかにさせる不思議な力があります。
小さいフロアでの開催ですが、円空仏は一見の価値があります。「飛騨の円空―千光寺とその周辺の足跡―」、お奨めです。
そのついでに、是非とも東京国立博物館の常設展もグルっと一周見てみてください。
〇東京国立博物館 本館(日本ギャラリー)
円空に負けず劣らず、日本文化の素晴らしいものが銀河星団のようにキラキラと広がっていることに驚くことと思います。
先人が残したこうした魂の痕跡に触れることは、見る人の魂にも何かいい作用を及ぼしているんだと思います。そうして、魂は複雑精妙なやり方でリンクしながら転生・更新していくのだと思います。