日常

あい

2012-05-13 12:33:54 | 考え


ミスチルの<2001-2005 micro><2005-2010 macro>のベストアルバムを毎日聞いています。

全アルバムを中学時代からリアルタイムで買っている自分としては、曲自体は何百回も聞きこんでいるわけですが、ベストアルバムの楽しみ方としては「この曲順にはどういう理由が?」「この曲が選ばれたのはどういう理由が?」という問答を自分の中で繰り返す。それだけで十分に楽しめるのです。それでご飯2杯食べれるくらいです。 LIVEを見に行った時も同じような感じでも楽しみます。家に帰ってから曲順を思い返し、そこに込められた「流れ」や「布置」を読み解く作業。かなりマニアックですね。笑


あと、今回のはDVDでPV映像がついているのが最高なのです(これは初回特典?)。
こうして今もDVDの映像を観てます(「and I love you」を聞いてる)。
特に「箒星」のDVD映像(ミュージカル風)が最高に好きです。
当時のシングルのCDにもこのDVD映像がついていて、思わず涙したのを覚えています。今回のベストに入っているのはショートバージョンの方です。

「HERO」の映像もいいですよね・・
PVの映像とは違いますが、2005年のap bankで桜井さんが涙しながらHEROを歌った名シーンを思い出してしまた。

・・・・
無限に記憶が蘇ってキリがないので、この辺でやめときます。
蘇り、という文字を買いて、名曲「蘇生」(この2007年HOMEの蘇生は最高!)も思い出しました。





・・・・・・

ミスチルの話になると無限に終わらないので。笑



昨日、仕事の関係で岡山大学に行ってきました。
前々から出雲大社に行きたくて、かなりのニアミスでしたが時間なく一泊で帰宅。

日本各地、その歴史など調べるといろんな深い歴史がありますよね。
直接旅をして、その空気感を感じる、っていうのは旅の醍醐味。
いろいろな名所旧跡を訪れたいなぁ。





いろいろ読書をして日々学びがあるのですが、究極的には「愛」というものが何なのか、それを<完全に>理解するため、僕らは日々学んでいるのではないかと、思います。愛を学ぶ行為こそが「智慧」なのではないか、と。


「愛」というと使われ過ぎている言葉なので、使う方もなんとなく気恥ずかしい。
でも、その気恥ずかしさって、なんなのだろう、とも思います。

「愛」という言葉は、いろんな人の手あかにまみれていますが、そういう不必要な情報を一度すべて捨てて、純粋に「愛」という概念が指し示す本質を考えたいと思いますし、そのことを足の指先から脳細胞まで、すべての細胞で感知したいと思います。

そこにこそ、いろんなものを解決していく秘密があるのではないかと。
そういうことを学ぶために本を読んだり音楽を聴くのではないかと。
なんだか単純すぎますが、でも単純すぎるからこそ、本当の意味で理解することは難しくて。それでいて大切で。



どんな名言でも格言でも、それはただの情報をやり取りすることではなく、その言葉を「生きる」ことにこそ意味があるんだと思うんです。

以前は自分もTwitterもしてましたが、Twitterがただの情報としての言葉がやり取りされているだけな空間のように思えて、それでやめてしまいました。あまり言葉を安売りしたくない、と。
情報だけの言葉になると、それは容易に情報操作になりますし、洗脳にもなりえます。


「コトバ」の世界で自己充足的に酔うのではなく、その「コトバ」が指し示す本質を「生きる」こと。


「愛(アイ、AI)」という極限にシンプルなことを考えていて、ふとそんなことを考えました。

医療でも、いろんな技術やテクニックや・・・枝葉は無限にありますが、基本は愛とか愛情だと思うんですよね。
そういうものが込められているかが一番大事な本質だと思います。
それは取引きや執着の愛ではなくて(自分の都合がいいように「愛」という言葉を使わないように、ブッダはあえて愛を「執着」として、「慈悲」という別の言葉にスライドさせたんだと思う。本質は同じ。)。
愛はやはり無限に満ち満ちる無償の愛です。そんな愛が込められている時、奇跡的なことっていうのは比較的よく起きるものだと思います。それは日々の診療や日常でも実感していることです。


だから、仕事にも愛情込めてやろう、と思うのです。

それは料理でもなんでも同じです。
テレビ番組を見ていても、その一番大事な部分が欠けているから、なんともつまらない気がするんですよね。単に公開で情報のやり取りしているだけ、って気がして。
そんなことよりも、野菜をいかに愛情こめて育てたかとか、いかに愛情込めて料理したかとか、そんなことに自分は興味があるし、そのことを知りたいと思います。妙な小細工はいらないと思いす。子供だましというか。むしろ子供こそ小細工では騙せないと思う。



最初の話に無理につなげると、ミスチルの曲からは、そういう愛情をとても強くかんじるのですね。音楽業界は全般的にかなり迷走していますが、ミスチルはぶれない。それを受けて自分も好きになる。「好き」という感情も無償の愛に近いと思います。そこには打算もなにもなく、純粋に好きなのです。果てしなく好きなのです。


だから、自分の仕事でも常に誠心誠意、愛情を込めてやらないといけないな、と思います。一秒でもおろそかにすることなく。


チリでもホコリでもなんであっても、すべてに愛情を込めれるのは、万物に仏を見るからではないかと思います。

『一切衆生悉有仏性(いっさいしゅうじょうしつうぶっしょう)』
普通の読解では「全ての生きとし生くるものは、仏性即ち、仏になる可能性を有している」。

道元禅師の読解では「一切は衆生なり。悉有(すべて)が仏性なり。全世界、全存在、全宇宙が仏性である。仏である」

だから、自分の行いは、すべて仏の行いであると思って生きなさい、と。
自分も含めてすべてが仏であると思って生きなさい、と。

そう思うから、仏さまを仰ぎ見るようにすべてに愛情を込めることができる。
それは、いろんな偉大な先人達が到達した貴重なおしえだと思う。
「ほんとうに分かるかな?」と試されているようなものです。





愛とか愛情とか、自分の中のそういう「思い」は、確かに外からは見えないかもしれません。ホモサピエンスは、表情筋などのテクニックで本心と外見が違うような生態を選択してしまいましたから。
でも、それは必ず伝わる。
野生の思考で感知すらできるものなのです。


しかも、こめられた愛情というものは、尽きることのない泉のようなものです。
もし枯渇しようとしても、ほんとうに美しいものを見に行けばいいのです。それは自然でもいいし、美術館にあるダビンチやセザンヌや北斎でもいい。時間や空間を超えて、それは間違いなく伝わるのです。

恋と愛は違います。
今は「愛」と称して「恋」ばかり取り上げて、ほんとうの意味での「愛」を取り上げない気がします。

「恋は下心。愛は真心」(←漢字って面白い。)
「恋は自己本位。愛は他人本位。」(←確か美輪さんが言っていた。)


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恋ではなく愛を。
頭の中の観念の世界で閉じるのではなく、日々の仕事や日常生活の中で開いて実践していきたいなと、思います。つねに、はじまりは「わたし」から。


「あい」っていうのが、にほんごのはじめのふたつ(「あいうえお・・・」)というのも、なんだか不思議な気がします。
それが、すべてのはじまりなんでしょうね。


詩人のまどみちおさん
(高校生から「愛と恋との違いは」と聞かれた時の言葉)
『「恋」というのは人間同士の間で言われるものです。
 「愛」というのはね。森羅万象いっさいについてのものです。』


2 コメント

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好奇心と勇気。 (さ。)
2012-05-25 02:19:36
「あい」というと、この大好きな詩と、このアニメを思いだします。このアニメは、思い出すだけで、ちょっと鳥肌が立つというか、すごいなあ。。。 http://www.youtube.com/watch?v=3fOeZFK7eg8&feature=related




「あい 

口で言うのはかんたんだ 
愛 文字で書くのもむずかしくない 
あい 気持ちはだれでも知っている 
愛 悲しいくらい好きになること 
あい いつでもそばにいたいこと 
愛 いつまでも生きてほしいと願うこと
あい それは愛ということばじゃない 
愛 それは気持ちだけでもない 
あい はるかな過去をわすれないこと 
愛 見えない未来を信じること 
あい くりかえしくりかえし考えること 
愛 いのちをかけて生きること」

(谷川俊太郎 「あい」)


恋は好奇心で、愛は勇気だなと感じます。
恋は自分と違うものに惹かれる心。自分との「違い」をのみ込みながら、自分の境界線がとけて、アメーバみたいに、大きくなって変わっていく。 愛は、他を受け容れ、ゆるす覚悟かな。じっとずっと見守り続ける気持ち。自分から愛していく姿勢そのもの。器。無私。無我。


いわさきちひろさんの言葉も思い出します。

「大人というものは、どんなに苦労が多くても、自分の方から、人を愛していける人間に、
なることなんだと思います。」


仕事でも、何でも、愛情をこめるって、シンプルだけれど、大切だよね。私も、レッスンでは、愛のこもった毒舌を。笑。。。



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あい (いなば)
2012-05-27 10:30:45
歌でも文学でも。
いろんなものは究極的に「あい」を語っている、と思う事があります。
詩人や俳人は、言葉少なだけに、その一言一言には重みがあるし、小説は長編であればあるほど、それだけの深い読書体験を経て深い愛を感知するのだと思います。
いろんな言葉で「あい」は表現されていて、それを字面だけで満足するのではなく、その「あい」を「生きる」という形で、自分の人生の中にオリジナルに織り成していくことが一番大事なことなんじゃないかと思いますね。その井tpは自分でしか織れないものだし、世界で唯一のとびっきりオリジナルなものであって。

いやはや。30年以上生きてきて、最近やっとコトバの字面だけではない深い意味がわかってきたような。その言葉の意味を本当に知るまでは自利行(自分のための行)で、それを経ることではじめて利他行(他者のための行)に入れるのかもしれない。いやはや。見返りなく差別なく、どんな善も悪も。<善に見えるもの>も<悪に見えるもの>も、差別なく愛情持って接してきたいな、と思います。
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