野口晴哉先生の「健康生活の原理 -活元運動のすすめ-」全生社(1976/6/25)を読みました。
(この本はAmazonでは買えません。(なぜだろうか?) 自分はbookclub kaiという本屋さんで偶然見つけました。525円の小冊子です。)
全生社のHPなどから買えます。
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野口晴哉「健康生活の原理 -活元運動のすすめ-」全生社(1976/6/25)
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<全生社のHPより 本の紹介>
人間は本来、精妙きわまりない生命の自律作用によって生きている。
然るに、今日多くの人々は、この生命の働きすら自覚できず、薬物や専門技術に依存しなければ、健康を維持できないかのように思い込んでいる。
ホルモンを外部から常習的に注入すれば、体内でのホルモン分泌活動は衰えるように、薬物に過度に依存する現代人的傾向は、人間が本来もっている自律能力を、ますます衰弱させているといっても過言ではあるまい。
著者は、人間の体に具っている自律能力を活性化する必要があるとして、錐体外路系の訓練法である活元運動や愉気法を提唱する。
本書では、その実践方法が詳しく述べられている。整体生活入門のための適切な書と言えよう。
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■
ちなみに、野口晴哉先生のホームページもあります。面白い。
HPのここにも紹介がありますが、野口晴哉先生は今に至る「整体」を作られた方です。
野口整体をされていた素晴らしい先生から、ここ最近は茶道や華道を少しずつ習っています。
そのことで、野口晴哉先生に興味を持ち、色々な本を読んでいます。
医学の真髄につながることが多く、読むたびに目から何個もうろこが落ちまくります。
○整体入門 (ちくま文庫) 野口 晴哉 (2002/6)
○風邪の効用 (ちくま文庫) 野口 晴哉 (2003/2)
などは普通の本屋でも売ってます。
でも、この本では野口晴哉先生の偉大さや魅力はほとんど伝わりませんね。
あと、トゥルク・トンドゥップ「心の治癒力」(2012-12-07)を訳された永沢哲さんも、
○永沢哲「野生の哲学―野口晴哉の生命宇宙」ちくま文庫(2008/4/9)というとても面白い(そして分厚い文庫!)を書かれています。
・・・・・・・・・
ということで。
野口晴哉先生の「健康生活の原理 -活元運動のすすめ-」全生社(1976/6/25)から、気にいった部分をご紹介します。
-------------------------
私がお話しようとする健康生活の原理というのは、そういう体の普遍的な面だけを追求していたのでは判らない人間の体、その生きているというなんらかについて、五十数年 大勢の人を指導して得てきた生命観と言いますか、健康生活の哲学と言いますか、そういうことをお話ししようと思うのであります。
-------------------------
心臓は丈夫だとか胃が弱いとかどこが悪いとかいうのは言葉のテクニックであって、やはり体全体が一つの生命として生きているというところから入って行かないと、人間の健康問題を正しく理解する事はできません。
-------------------------
野次馬でも宴会でも、自分の意志以外のもので動いてしまい、自分の中にある力を壊す事も少なくない。
一人一人には自生する力があって、こんなことではいけないと思っている。そういう、自分以外の働きに左右されるという面が多いのです。
わかっていながら、そういう「気」が起こってくると、それに巻き込まれる。人間が生きているということは、そういう気の交流によるのだと言えます。
-------------------------
→
片山洋次郎さんの「整体。共鳴から始まる」(2012-09-26)を紹介した時も思いましたが、やはり全身を巡る「気」と生命のネットワーク(エネルギー)のようなものはもっと日常的、一般的になっていいと思いますね。
「元気」「やる気」・・・・日本語の中には「気」と言う言葉に満ち満ちています。
言葉として残っているのにあまり意識されていない場合、それは集合的無意識として沈殿しているとも言えます。
そういう目に見えない「気」の力に押されるように人間は動くことが多いです。
「病気」という言葉も、本来は「病やまい」だけで十分事足りるはずですが、それとは別に「病+気」と言う言葉が存在しているということは、「病」という状態と「病気」という状態の間にある何らかの違いについて、意識的にも無意識的にも使い分けている証拠だとも思います。
-------------------------
人間の中にはいろいろな可能性があって、それを発揮しようとしている。
いや、不可能を可能にしようとする、そういう意欲で人間が生きているということもできます。
-------------------------
やる気を持ってする仕事は疲れない。やる気がなくなると簡単なことをするだけでも疲れてしまう。重い荷物を持つ時も、自発的なら疲れないのに、人の荷物を持たされるとすぐ草臥れる。
その時の感じ方で変わってしまうのです。
-------------------------
生きている事が、不可能を可能にしてゆこうとする、そういう何かを絶えず体の中でつくっている力ならば、他人にも無意識に働きかけているわけです。
-------------------------
同じ傾向の気は、同じ傾向の気に感応する。
-------------------------
→
人と対話するとき、表面上の言葉だけではなく、無意識的な顔の表情含め、何か別のものも互いにやり取りしているのを感じます。
それが顕著なのは、複数の人がいる「場」においてでしょう。
ある「場」に参加すると、妙に嫌な感じがして具合が悪くなることもあれば、なんだか元気が出てくるような場がある・・・
こういうのは無意識に沈澱していくものです。無意識のオリに気づくためには、自分の中でも日常的に意識と無意識での対話が行われていないと、気づくことが難しい。
広大な無意識や潜在意識に支えられているのが我々なのですから、すべて含めて「わたし」である自覚を持って、日々生活することが「わたし」に責任を持つことなのかもしれません。
空気や重力のように、いつも着かず離れず存在しているだけに、すぐに忘れてしまいがちなのですが・・・。
ブッダにサンカーラ(sankhara)という言葉があります(パーリ語。サンスクリット語ではサンスカーラ)。
田口ランディさんの新刊も「サンカーラ: この世の断片をたぐり寄せて」新潮社 (2012/10/22) ですね。
サンカーラ(sankhara)は「行」と訳されていたり、「形成されらもの」(組み立てられたもの)と訳されたりします。ひいては、日常の重力、常識、社会的・文化的な習慣のようなものを意味します。
========
ダンマパダ 11章
私は幾多の生涯にわたって、生死の流れを無益に経めぐって来た。
家屋の作り手をさがし求めて。
あの生涯、この生涯と繰返すのは苦しいことである。
家屋の作り手よ。
汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。
汝の梁(はり)はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。
心は形成作用(サンカーラ)を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。
========
ダンマパダ 20章
「一切の形成されたもの(サンカーラ)は無常である」と、明らかな智慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。
これこそが、人が清らかになる道である。
========
野口晴哉先生の身体観、生命観は、こうしたサンカーラ(sankhara)に親和性があるのを強く感じます。
-------------------------
病気と喧嘩していたのでは、病気の方も強くなるのです。
-------------------------
病気自体は体の中の自然の働きで、体に悪いものがあるから下痢するのです。それは大掃除の働きなのです。
-------------------------
くしゃみもするし屁までするのですからね。体はみんな知っているのです。
-------------------------
自分の体の力で治った時に、治ったと言えるのです。
-------------------------
不安や闘争心はいけないのです。
平静な気持、天心といいますか、自然のままの心でスッと手をあてるとよくなる。
-------------------------
心をずっと集注してその密度を高めますと気が高まってくる。
よくなる方向の気が有る人なら、その人のよくなる気を呼び起こす。
死ぬ方向にある人なら、安らかに眠るように苦しまないのです。
愉気の感応とはそういうものなのです。
-------------------------
自分の生命を全うするのに必要な薬はみんな体の中に用意されている。
-------------------------
健康に生きていくことは知識の要ることではない。
本能の勘をもっと敏感にし、自然にそなわっている感覚を鋭敏にすれば出来ることなのです。
-------------------------
→
医療者は「治療する側」「治療される側」として立場を分離してしまいがちですが、人間にはそれぞれ自然治癒していく働きがあります。多少の強い弱いはあっても、自然治癒力が完全になくなったらこの世に生存すらできないはずですから、治療する側は常に自分自身に主体があるはずなのです。
「治療する側」「治療される側」と言う風に立場を分離するのは構造をつくり、「依存関係」を作ります。
具合が悪くなれば治してももらえばいい、と安直に構え、自分を振り返ることがありません。内部の問題を外部に委託して、内部のことを自分と関係のないことと忘れてしまうようなものです。
でも、「病」とは、何らかが原因で調和が崩れた時に、調和やバランスを取り戻そうとして動く運動のようなもの。クリーニングのような掃除してキレイにする働きがあるのだと思います。
そんな本当の意味や動きに気付かないと、結局それは何度も繰り返されることになるのでしょう。何度も何度も繰り返されていく過程の中で、心そのものも擦り減らされてしまうかもしれません。
ですので、自然にもともと備わっている「治療」とは、それぞれが自分の治癒力を信用して、自分で自立して自分のからだ全体を見つめる働きの一部なのだと思います。
そのために、『本能の勘をもっと敏感にし、自然にそなわっている感覚を鋭敏に』することが大事なのでしょう。
-------------------------
自分だけ働いたら損だとか言って、働きたい要求を様々な理屈をつけて抑え、自然の感覚と言うものから離れてしまう。生き物は何もしないでいれば退屈になって動きたくなるものです。
-------------------------
人間の体にとって良いもの、悪いものという区分はないのです。ヒ素だって梅毒を治すでしょう。毒も薬として使えるのです。
-------------------------
摩擦は邪魔だけれど、摩擦がないと走れないのです。
-------------------------
人間は壊す働きと創る働きで新陳代謝する。そのバランスで生きているのだから、治す方だけを考えて壊す方を考えないのは間違いなのです。
自然良能が体の壊れた者を治すものなら、病気は体を壊す方の働きと考えるべきなのです。
病気になるのも治るのも通して自然の一つの力です。
同じ力であって対立する力ではない。
-------------------------
痛みがなかったら何処が悪いのかもわからない。痛みはそういう警告なのです。
そして治ろうとしている働きの表れなのです。
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引力があると言っても、リンゴは熟してくるまでは落ちない。熟して木の枝から離れるようになってきたときに落ちるのです。絵だから栄養を取る必要が亡くなったから落ちるのです。生理的な要求で落ちるのです。
-------------------------
→
物事には習慣的に「いい」「わるい」と価値観をつけてしまいがちですが、この世界には「いい」も「わるい」もなくて、常にニュートラルで中立的なものだと思います。
だからこそ、自分で考えるための「問い」として、自分に起こることを考える必要があるのだと思います。そこで意味づけをするときに、それぞれが持つ自由意思の意味があります。
それが病や健康をどう自分に意味づけするのか、ということにも通じる話なのだと思います。
-------------------------
「魂の感応」、自分ではそういうつもりでやっております。
自分の全部を叩きつけるようにして愉気をします。
指先だけでのごまかしはしません。だからその人の全部が動きだしてくる。
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秋の空の晴れ渡っているように、雲がなくなると空は蒼い。
心の中の雑念がカラッと無くなると天心が現れます。天心であれば気は感じ合います。
-------------------------
活元運動は誰でも自然に行っています。クシャミ、アクビ。ひとりでに自然の要求に従って体が動きだしてくる。そういう働きで体を整え、丈夫を保っている。それが活元運動であります。
寝相が悪いのも一つの活元運動です。寝相で調整して、それで間に合っているのが一番いいのです。
健康法や養生法でお金や時間をかけるのは贅沢です。
人間の体はそんなことをしなくても丈夫を保つようにできているのです。
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生きものというのは、生まれた時から自分の生命を全うできるような体の構造を持っています。
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→
目から鱗が落ちます。
クシャミ、アクビ、寝相・・・・
僕らのからだが無意識に行っているあらゆるものは、からだを整えるために「わたし」が行っている重要な営みの一つ。
そうして考えると、自分の中に潜む生命原理のようなものに、感謝の念こそ感じます。すごいものです。
-------------------------
今、こうして見ることのできる体は、自分で必要な物質を集めてつくった結果なのです。
その以前にある見えない力で物質を集めてきたのです。
そういう物質を集める見えない働きの方が、人間の実質であるといわなくてはならないのです。
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錐体外路系による無意識の運動が健全になされてこそ、はじめてそういう意識運動が思う如く行われると言えるのであります。
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人間の体には自然の衛生法というものが備わっていて、体に良いことは快いのです。旨いのです。
酒でも煙草でも、旨くなくなったら、そこで止めればいいのです。
-------------------------
私が治療というものから手を引いたのもそのためなのです。
治療するということは他人の不養生の後始末をやっているようなもので、私の治療手技が上手になればなるほど、安心して不摂生して体を壊している。あそこへ行けば簡単に治してくれるなどと横着な考えを起こして、安心して体を壊している。
治療するということは、他人に依りかかることを奨励しているみたいなものです。
そこで、大勢の人の身体を丈夫にするには、それぞれの体に適した使い方を指導するようになりました。人間の体には、自分の体を無意識に調整する自然の働きがある。それを開発し、ひろげていこうとして、活元運動の普及になったのです。
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活元運動は本能の裡にある体を保全する働きなのです。生きる要求とでも言ったらいいでしょうか。
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→
本当に同感です。依存心を生むのがよくないですよね。
医療も生死も宗教もスピリチュアルも精神世界も神秘体験も哲学も恋愛も・・・・・・
人間のスピリットに関わるあらゆるものは、そのこと自体が目的となり、依存してしまってはいけません。
あくまでも自立して強く生きるための手段に過ぎないんだと思います。
この世に手段は無数にあります。それをどう使うか。
それは出会いや巡り合わせなどの偶然性に左右されることもありますが、その偶然性を引きよせ、自分にとっての必然にしているのも、ほかならぬ自分自身なわけですし。
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質疑
体も心もなくなって気だけが感じられる。
生活自体が気の動きそのものになる。
その気も、ただ一個人の気だけではなく、もっと大きな(宇宙的な)気と感応しあい、それと溶け合いながら動くと、世界は一つになる。
-------------------------
頭の中で何か鬱滞している時は夢で鬱散をはかりますから。
夢も一種の活元運動だと見てよい面があります。
頭をごく素直に使っていれば、頭の中に鬱滞が生じないように頭をつかっていれば、深く眠って夢を見ないようになります。
夢は眠って見ないで、昼間見た方がいいようです。
-------------------------
呼吸は鼻でするものと決めてしまっていますが、最も大切なことは背骨で呼吸する事です。
気を背骨に集中して、腰髄まで息を吸い込むという方法は、一切の健康問題を解決する力を持っています。
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どんな観念を凝らしても、心を無にするよりほかに、呼吸を静かに保つ状態はあり得ないのです。
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どんな道でも、息ということを無視してその神髄はつかめません。
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→
呼吸や息は奥が深いですね。
人間の無意識を調節している自律神経の働きに対して、意識的に働き掛けることのできるただひとつのものだとのことですから・・。
もちろん、そいうのはもろ刃の剣なので、呼吸法自体が目的となってしまっては本も子もないわけですが。
いづれにせよ、深く長い呼吸をしているときは心は安定しているし、心を安定させるためには深く長い呼吸が必要なようです。
・・・・・・・
示唆に富む本で素晴らしかった。
野口晴哉先生は素晴らしいですね。
西洋医学に従事している人間にこそ、読んでほしい本です。
自分の中でモヤモヤしているいろんなものが、キレイに解きほぐされていくと思います。
野口晴哉先生は64歳で永眠されましたが(1911ー1976)、17歳で「健康に生くることが自然順応の姿である」とする『全生訓』を発表し(全文はココや、HPからも読めます。17歳の文章とは・・・!)、以後、一貫して「活き活きと生を全うする」ことを指針に据えられたとのこと。一貫してぶれていない。見習わないといけないです。
(この本はAmazonでは買えません。(なぜだろうか?) 自分はbookclub kaiという本屋さんで偶然見つけました。525円の小冊子です。)
全生社のHPなどから買えます。
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野口晴哉「健康生活の原理 -活元運動のすすめ-」全生社(1976/6/25)
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<全生社のHPより 本の紹介>
人間は本来、精妙きわまりない生命の自律作用によって生きている。
然るに、今日多くの人々は、この生命の働きすら自覚できず、薬物や専門技術に依存しなければ、健康を維持できないかのように思い込んでいる。
ホルモンを外部から常習的に注入すれば、体内でのホルモン分泌活動は衰えるように、薬物に過度に依存する現代人的傾向は、人間が本来もっている自律能力を、ますます衰弱させているといっても過言ではあるまい。
著者は、人間の体に具っている自律能力を活性化する必要があるとして、錐体外路系の訓練法である活元運動や愉気法を提唱する。
本書では、その実践方法が詳しく述べられている。整体生活入門のための適切な書と言えよう。
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ちなみに、野口晴哉先生のホームページもあります。面白い。
HPのここにも紹介がありますが、野口晴哉先生は今に至る「整体」を作られた方です。
野口整体をされていた素晴らしい先生から、ここ最近は茶道や華道を少しずつ習っています。
そのことで、野口晴哉先生に興味を持ち、色々な本を読んでいます。
医学の真髄につながることが多く、読むたびに目から何個もうろこが落ちまくります。
○整体入門 (ちくま文庫) 野口 晴哉 (2002/6)
○風邪の効用 (ちくま文庫) 野口 晴哉 (2003/2)
などは普通の本屋でも売ってます。
でも、この本では野口晴哉先生の偉大さや魅力はほとんど伝わりませんね。
あと、トゥルク・トンドゥップ「心の治癒力」(2012-12-07)を訳された永沢哲さんも、
○永沢哲「野生の哲学―野口晴哉の生命宇宙」ちくま文庫(2008/4/9)というとても面白い(そして分厚い文庫!)を書かれています。
・・・・・・・・・
ということで。
野口晴哉先生の「健康生活の原理 -活元運動のすすめ-」全生社(1976/6/25)から、気にいった部分をご紹介します。
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私がお話しようとする健康生活の原理というのは、そういう体の普遍的な面だけを追求していたのでは判らない人間の体、その生きているというなんらかについて、五十数年 大勢の人を指導して得てきた生命観と言いますか、健康生活の哲学と言いますか、そういうことをお話ししようと思うのであります。
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心臓は丈夫だとか胃が弱いとかどこが悪いとかいうのは言葉のテクニックであって、やはり体全体が一つの生命として生きているというところから入って行かないと、人間の健康問題を正しく理解する事はできません。
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野次馬でも宴会でも、自分の意志以外のもので動いてしまい、自分の中にある力を壊す事も少なくない。
一人一人には自生する力があって、こんなことではいけないと思っている。そういう、自分以外の働きに左右されるという面が多いのです。
わかっていながら、そういう「気」が起こってくると、それに巻き込まれる。人間が生きているということは、そういう気の交流によるのだと言えます。
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片山洋次郎さんの「整体。共鳴から始まる」(2012-09-26)を紹介した時も思いましたが、やはり全身を巡る「気」と生命のネットワーク(エネルギー)のようなものはもっと日常的、一般的になっていいと思いますね。
「元気」「やる気」・・・・日本語の中には「気」と言う言葉に満ち満ちています。
言葉として残っているのにあまり意識されていない場合、それは集合的無意識として沈殿しているとも言えます。
そういう目に見えない「気」の力に押されるように人間は動くことが多いです。
「病気」という言葉も、本来は「病やまい」だけで十分事足りるはずですが、それとは別に「病+気」と言う言葉が存在しているということは、「病」という状態と「病気」という状態の間にある何らかの違いについて、意識的にも無意識的にも使い分けている証拠だとも思います。
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人間の中にはいろいろな可能性があって、それを発揮しようとしている。
いや、不可能を可能にしようとする、そういう意欲で人間が生きているということもできます。
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やる気を持ってする仕事は疲れない。やる気がなくなると簡単なことをするだけでも疲れてしまう。重い荷物を持つ時も、自発的なら疲れないのに、人の荷物を持たされるとすぐ草臥れる。
その時の感じ方で変わってしまうのです。
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生きている事が、不可能を可能にしてゆこうとする、そういう何かを絶えず体の中でつくっている力ならば、他人にも無意識に働きかけているわけです。
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同じ傾向の気は、同じ傾向の気に感応する。
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→
人と対話するとき、表面上の言葉だけではなく、無意識的な顔の表情含め、何か別のものも互いにやり取りしているのを感じます。
それが顕著なのは、複数の人がいる「場」においてでしょう。
ある「場」に参加すると、妙に嫌な感じがして具合が悪くなることもあれば、なんだか元気が出てくるような場がある・・・
こういうのは無意識に沈澱していくものです。無意識のオリに気づくためには、自分の中でも日常的に意識と無意識での対話が行われていないと、気づくことが難しい。
広大な無意識や潜在意識に支えられているのが我々なのですから、すべて含めて「わたし」である自覚を持って、日々生活することが「わたし」に責任を持つことなのかもしれません。
空気や重力のように、いつも着かず離れず存在しているだけに、すぐに忘れてしまいがちなのですが・・・。
ブッダにサンカーラ(sankhara)という言葉があります(パーリ語。サンスクリット語ではサンスカーラ)。
田口ランディさんの新刊も「サンカーラ: この世の断片をたぐり寄せて」新潮社 (2012/10/22) ですね。
サンカーラ(sankhara)は「行」と訳されていたり、「形成されらもの」(組み立てられたもの)と訳されたりします。ひいては、日常の重力、常識、社会的・文化的な習慣のようなものを意味します。
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ダンマパダ 11章
私は幾多の生涯にわたって、生死の流れを無益に経めぐって来た。
家屋の作り手をさがし求めて。
あの生涯、この生涯と繰返すのは苦しいことである。
家屋の作り手よ。
汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。
汝の梁(はり)はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。
心は形成作用(サンカーラ)を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。
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ダンマパダ 20章
「一切の形成されたもの(サンカーラ)は無常である」と、明らかな智慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。
これこそが、人が清らかになる道である。
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野口晴哉先生の身体観、生命観は、こうしたサンカーラ(sankhara)に親和性があるのを強く感じます。
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病気と喧嘩していたのでは、病気の方も強くなるのです。
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病気自体は体の中の自然の働きで、体に悪いものがあるから下痢するのです。それは大掃除の働きなのです。
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くしゃみもするし屁までするのですからね。体はみんな知っているのです。
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自分の体の力で治った時に、治ったと言えるのです。
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不安や闘争心はいけないのです。
平静な気持、天心といいますか、自然のままの心でスッと手をあてるとよくなる。
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心をずっと集注してその密度を高めますと気が高まってくる。
よくなる方向の気が有る人なら、その人のよくなる気を呼び起こす。
死ぬ方向にある人なら、安らかに眠るように苦しまないのです。
愉気の感応とはそういうものなのです。
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自分の生命を全うするのに必要な薬はみんな体の中に用意されている。
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健康に生きていくことは知識の要ることではない。
本能の勘をもっと敏感にし、自然にそなわっている感覚を鋭敏にすれば出来ることなのです。
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医療者は「治療する側」「治療される側」として立場を分離してしまいがちですが、人間にはそれぞれ自然治癒していく働きがあります。多少の強い弱いはあっても、自然治癒力が完全になくなったらこの世に生存すらできないはずですから、治療する側は常に自分自身に主体があるはずなのです。
「治療する側」「治療される側」と言う風に立場を分離するのは構造をつくり、「依存関係」を作ります。
具合が悪くなれば治してももらえばいい、と安直に構え、自分を振り返ることがありません。内部の問題を外部に委託して、内部のことを自分と関係のないことと忘れてしまうようなものです。
でも、「病」とは、何らかが原因で調和が崩れた時に、調和やバランスを取り戻そうとして動く運動のようなもの。クリーニングのような掃除してキレイにする働きがあるのだと思います。
そんな本当の意味や動きに気付かないと、結局それは何度も繰り返されることになるのでしょう。何度も何度も繰り返されていく過程の中で、心そのものも擦り減らされてしまうかもしれません。
ですので、自然にもともと備わっている「治療」とは、それぞれが自分の治癒力を信用して、自分で自立して自分のからだ全体を見つめる働きの一部なのだと思います。
そのために、『本能の勘をもっと敏感にし、自然にそなわっている感覚を鋭敏に』することが大事なのでしょう。
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自分だけ働いたら損だとか言って、働きたい要求を様々な理屈をつけて抑え、自然の感覚と言うものから離れてしまう。生き物は何もしないでいれば退屈になって動きたくなるものです。
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人間の体にとって良いもの、悪いものという区分はないのです。ヒ素だって梅毒を治すでしょう。毒も薬として使えるのです。
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摩擦は邪魔だけれど、摩擦がないと走れないのです。
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人間は壊す働きと創る働きで新陳代謝する。そのバランスで生きているのだから、治す方だけを考えて壊す方を考えないのは間違いなのです。
自然良能が体の壊れた者を治すものなら、病気は体を壊す方の働きと考えるべきなのです。
病気になるのも治るのも通して自然の一つの力です。
同じ力であって対立する力ではない。
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痛みがなかったら何処が悪いのかもわからない。痛みはそういう警告なのです。
そして治ろうとしている働きの表れなのです。
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引力があると言っても、リンゴは熟してくるまでは落ちない。熟して木の枝から離れるようになってきたときに落ちるのです。絵だから栄養を取る必要が亡くなったから落ちるのです。生理的な要求で落ちるのです。
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物事には習慣的に「いい」「わるい」と価値観をつけてしまいがちですが、この世界には「いい」も「わるい」もなくて、常にニュートラルで中立的なものだと思います。
だからこそ、自分で考えるための「問い」として、自分に起こることを考える必要があるのだと思います。そこで意味づけをするときに、それぞれが持つ自由意思の意味があります。
それが病や健康をどう自分に意味づけするのか、ということにも通じる話なのだと思います。
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「魂の感応」、自分ではそういうつもりでやっております。
自分の全部を叩きつけるようにして愉気をします。
指先だけでのごまかしはしません。だからその人の全部が動きだしてくる。
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秋の空の晴れ渡っているように、雲がなくなると空は蒼い。
心の中の雑念がカラッと無くなると天心が現れます。天心であれば気は感じ合います。
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活元運動は誰でも自然に行っています。クシャミ、アクビ。ひとりでに自然の要求に従って体が動きだしてくる。そういう働きで体を整え、丈夫を保っている。それが活元運動であります。
寝相が悪いのも一つの活元運動です。寝相で調整して、それで間に合っているのが一番いいのです。
健康法や養生法でお金や時間をかけるのは贅沢です。
人間の体はそんなことをしなくても丈夫を保つようにできているのです。
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生きものというのは、生まれた時から自分の生命を全うできるような体の構造を持っています。
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目から鱗が落ちます。
クシャミ、アクビ、寝相・・・・
僕らのからだが無意識に行っているあらゆるものは、からだを整えるために「わたし」が行っている重要な営みの一つ。
そうして考えると、自分の中に潜む生命原理のようなものに、感謝の念こそ感じます。すごいものです。
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今、こうして見ることのできる体は、自分で必要な物質を集めてつくった結果なのです。
その以前にある見えない力で物質を集めてきたのです。
そういう物質を集める見えない働きの方が、人間の実質であるといわなくてはならないのです。
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錐体外路系による無意識の運動が健全になされてこそ、はじめてそういう意識運動が思う如く行われると言えるのであります。
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人間の体には自然の衛生法というものが備わっていて、体に良いことは快いのです。旨いのです。
酒でも煙草でも、旨くなくなったら、そこで止めればいいのです。
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私が治療というものから手を引いたのもそのためなのです。
治療するということは他人の不養生の後始末をやっているようなもので、私の治療手技が上手になればなるほど、安心して不摂生して体を壊している。あそこへ行けば簡単に治してくれるなどと横着な考えを起こして、安心して体を壊している。
治療するということは、他人に依りかかることを奨励しているみたいなものです。
そこで、大勢の人の身体を丈夫にするには、それぞれの体に適した使い方を指導するようになりました。人間の体には、自分の体を無意識に調整する自然の働きがある。それを開発し、ひろげていこうとして、活元運動の普及になったのです。
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活元運動は本能の裡にある体を保全する働きなのです。生きる要求とでも言ったらいいでしょうか。
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本当に同感です。依存心を生むのがよくないですよね。
医療も生死も宗教もスピリチュアルも精神世界も神秘体験も哲学も恋愛も・・・・・・
人間のスピリットに関わるあらゆるものは、そのこと自体が目的となり、依存してしまってはいけません。
あくまでも自立して強く生きるための手段に過ぎないんだと思います。
この世に手段は無数にあります。それをどう使うか。
それは出会いや巡り合わせなどの偶然性に左右されることもありますが、その偶然性を引きよせ、自分にとっての必然にしているのも、ほかならぬ自分自身なわけですし。
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質疑
体も心もなくなって気だけが感じられる。
生活自体が気の動きそのものになる。
その気も、ただ一個人の気だけではなく、もっと大きな(宇宙的な)気と感応しあい、それと溶け合いながら動くと、世界は一つになる。
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頭の中で何か鬱滞している時は夢で鬱散をはかりますから。
夢も一種の活元運動だと見てよい面があります。
頭をごく素直に使っていれば、頭の中に鬱滞が生じないように頭をつかっていれば、深く眠って夢を見ないようになります。
夢は眠って見ないで、昼間見た方がいいようです。
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呼吸は鼻でするものと決めてしまっていますが、最も大切なことは背骨で呼吸する事です。
気を背骨に集中して、腰髄まで息を吸い込むという方法は、一切の健康問題を解決する力を持っています。
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どんな観念を凝らしても、心を無にするよりほかに、呼吸を静かに保つ状態はあり得ないのです。
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どんな道でも、息ということを無視してその神髄はつかめません。
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呼吸や息は奥が深いですね。
人間の無意識を調節している自律神経の働きに対して、意識的に働き掛けることのできるただひとつのものだとのことですから・・。
もちろん、そいうのはもろ刃の剣なので、呼吸法自体が目的となってしまっては本も子もないわけですが。
いづれにせよ、深く長い呼吸をしているときは心は安定しているし、心を安定させるためには深く長い呼吸が必要なようです。
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示唆に富む本で素晴らしかった。
野口晴哉先生は素晴らしいですね。
西洋医学に従事している人間にこそ、読んでほしい本です。
自分の中でモヤモヤしているいろんなものが、キレイに解きほぐされていくと思います。
野口晴哉先生は64歳で永眠されましたが(1911ー1976)、17歳で「健康に生くることが自然順応の姿である」とする『全生訓』を発表し(全文はココや、HPからも読めます。17歳の文章とは・・・!)、以後、一貫して「活き活きと生を全うする」ことを指針に据えられたとのこと。一貫してぶれていない。見習わないといけないです。