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日常

『からだ』と『こころ』のあわい

2009-08-07 19:39:40 | 考え
■覚醒

最近、覚醒剤や麻薬の事件を耳にする。
それについて考えていることを書きたい。

覚醒剤とは、その名のとおり、覚醒させる薬である。
覚醒とは起きているということであり、意識が保たれた状態を無理やり保ち続けるということ。


『寝ること』(2009-06-25)というタイトルで書いたけど、
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・僕らが寝ているとき、起きているときと同じ程度のエネルギーを脳は消費しているらしい。
・起きて頭を使って考えると脳の中が「無秩序」になる。だから眠ることで積極的に脳に「秩序」を作る。
・意識(起床時)と無意識(睡眠時)は相互に補完関係にあり、相互に助け合っている。
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この点に関して同意することが多いので、こういうことを基礎にして考えてみたい。


■「こころ」と「からだ」

「こころ」は精神であり、人間の意識の産物であり、起きているときに前面に出てくる「わたし」である。
寝ているとき、人は「こころ」を意識しない。「こころ」は意識することでしか意識できない。

「からだ」は肉体であり、人間が無意識状態(寝ているときや意識障害のとき)にも厳然とそこにある「わたし」であり、起きているときも寝ているときも他者に対しての「わたし」である。
「からだ」は意識する/しないに関係なく、常に自分と共にある。



麻薬を使うとはどういうことか。
医者としての医学知識と上に書いたような思考から行けば、「意識」だけの住人になり、「こころ」と「からだ」のあわいを忘れ、「こころ」が「からだ」から遊離させる。
その上で、「こころ」である脳みそや意識を単なる快楽原則漬けの状態にすることである。


たとえば、脳細胞が快楽を感知する場所に電極を付き刺して、ペースメーカで常に一定の刺激を与え続けている状態と実質的に同じである。
その間、「からだ」が朽ち果てて腐らないように、誰かが胃か腸にでも穴をあけて、そこから1日に必要なカロリーだけを与え続けて生存させればいい。


そんな世界は自分を成立させている「からだ」から目をそむけ、「こころ」や「意識」や「覚醒」だけにしかピントがあっていない。


ただ、そんな状態は既に人間や生命体とは言えないんじゃないかと思える。
単なるバーチャルで擬似的な偽りの状態である。
生命として持続性がなく、死ぬ一歩手前だ。



■一度裏返して、再度表に返す

最近、「一度裏に返して、再度表に返す」という思考プロセスが有効だと実感している。


上に書いたような世界を一度裏返してみるとどういう風に見えるか。

それは、「脳死議論」そのままだと思える。


■「脳死」

人間を「臓器」という「部分」で構成された集合体と考え、人間を「部分」に分割すれば「人間全体」が分かるはずだという世界観において、「臓器移植」という文化は成立する。

その世界では、「脳死を人の死」とすることで、脳死の人体から心臓や腎臓を摘出することが合法となりうるし、善だとされる。


「脳が死ねば人の死」という考えは、「脳さえ生きていれば人間は生きている」という考えの裏と表である。



脳さえ生きていればいいというのはどういうことか。

それは「意識さえ存在していれば生きている」とすること。
「意識の世界が生きている世界であり、生命の世界である」ということ。

それは、「意識状態において快楽と錯覚していれば、人生や人間は幸福である」という世界観に通じる。
だから、安易に覚醒剤や麻薬に走る。そうして、生命体としの人間を放棄した世界へと突入してしまう。もう後には戻れない。


覚せい剤の世界は「意識だけのバーチャルな世界で快楽漬けであれば幸福である」という考えに基づくし、それは「脳や意識さえ生きていれば人間は生きている」ということと相似形であるし、その考えを裏返すと、そのまま「脳死は人の死」の議論へと直結していく。



上に書いたような世界観で、この現実世界と解離して抜けてしまっている点が一つある。

それは、自分の「からだ」という存在が完全に抜けていることだ。
意識漬けの発想では、「無意識の世界」は簡単にこぼれ落ちる。


・・・・・・・・・

大女優のOさんが最近亡くなった。
乳癌とギランバレー症候群の持病があった。
死後2週間で見つかったとのことだった。


死後2週間たつと、体内の水は腐敗する。肉体も腐敗する。
腐敗とは、ウジ虫などの生命体が有機物を分解するということ。
腐敗すると骨は残る。骨の周りに虫などの人間以外の生命体が、代わりに残る。

もう、「からだ」はそこにない。
ひとつの生命が死んで、別の生命へと変換されたことを、誰もが納得できる。

僕は、これは「人の死」と思える。

「こころ」が先になくなり、「からだ」が後になくなっていく、数日から数週間の時間がかかる過程である。



■暴走・意識しやすい「こころ」

「こころ」は暴走しやすい。だから、死ぬときも「こころ」の死が先行する。
その後で、「からだ」は黙ってついてくる。何も言わず、徐々に時間をかけて変質・変容していく。

「こころ」は意識しやすい。なぜなら、「意識」の産物そのものが「こころ」だから。
「からだ」は意識しにくい。なぜなら、現代社会では「意識」や「こころ」や「覚醒している時間」がもてはやされていて、「からだ」は無意識でも常に存在しているものであるからこそ、無意識の層に押しやられやすい。



自分は、覚醒剤や麻薬は絶対にダメだと思っている。
その世界に行かない確固とした自信がある。


その理由は、法律が・・・道徳が・・・が基準ではない。

そこに、自分の「からだ」の発想が抜けているからだ。

人間は「こころ」と「からだ」のアワイで生きているのに、意識しやすい「こころ」に引きずれているからだ。

そして、現代社会はそれを助長する方向に変化してきてしまった。
テレビ、インターネット、パソコン・・・・


『「こころ」や「思いやり」が現代から欠けてきている』という言説を巷で聞くことがあるが、僕は少し違うと思う。
むしろ、現代は「からだ」の感覚がなくなって、「からだ」と「こころ」のアワイがなくなってきている。
だから、意識されやすい「こころ」がなくなっていると表現されることになるだけだと思う。
そこでも、「こころ」・「意識」に引きずられていることすら自覚的ではない。


「からだ」を強烈に意識する性風俗が大きい勢力を占めているのは、無意識に「からだ」への欠如を感じている証拠だと思う。
「暴力」が無くならないのは、無意識に「からだ」への欠如を感じている証拠だと思う。
美容や健康やグルメ番組も「からだ」への渇望である。


生命は、性行為というナマの「からだ」を介した行為を、種の維持の行為に位置づけた。
その仕組みは、確かにすごい。

脳細胞に電極やペースメーカーを挿入して、常に快楽を感じる電気刺激を送るような、意識だけの世界では、「からだ」への感覚は欠如する。
そのなれの果てでは、生物としてのヒト科は絶滅するのではないか。
種は維持できない。


人間が「こころ」と「からだ」のアワイでしか存在できないからこそ、「こころ」だけではなく「からだ」を介した行為によりヒト科の種を維持している。



現代医学は、生殖医療をも試験管内だけで成立させようとしている。
「からだ」を介さずに種を維持し、世代をつなぐような領域に行こうとしている。

これは、「意識」や「こころ」だけを重視して、「からだ」を切り離した世界と地続きであるし、「脳死は人の死」とも地続きであるし、覚醒剤や麻薬が増えてくる世界とも地続きである。



■「からだ」と「こころ」のアワイへ

僕は、「意識」や「こころ」だけに偏重した方向性に反旗を翻したい。


「こころ」は勿論大事だけど、それに加えて「からだ」を重視したい。
意識されにくい「からだ」を意識したい。
意識されない「無意識」を意識したい。
意識と無意識でこの世界が成立しているのだから、そんな世界の全体性を感じたい。

表があれば裏があるのだから、意識があるから無意識がある。「こころ」があるから「からだ」がある。
一度裏に返して表に戻すと、その全体像がよく分かる。
一度あっちに行って、こっちに戻ってくると、その全体像がよく分かる。

登山も、登るだけじゃなくて降りてくる。
全身の血液も、動脈で全身に行ったら静脈を介して心臓に戻ってくる。

一度ばらしたら、また元に戻す。
分解したら、また組み立てる。
分解して組み立てられないなら、それは分解したらいけない。
生命を殺したら元に戻せないから、生命を殺してはいけない。

「色即是空」で「全てのものは形や実態がない」と言い放つだけじゃなくて、「空即是色」で「全てのものは形や実態がないからこそ存在している」と元に戻す。



自分の「からだ」へ敬意を持ちたい。
自分の「からだ」を大切にしたい。
新鮮な食べ物を好き嫌いなく何でも食べたい。
体を動かして自分の「からだ」を大事にしたい。
無秩序に対して秩序を作るよう、よく寝たい。
「からだ」を呼び起こしてくれる自然の中に行きたい。

「こころ」が大事なのは勿論だけど、「こころ」と「からだ」とのアワイの面積が大きくなるようにしたい。


上に書いたことができていないと、人間は無秩序になる。荒廃する。荒れる。すさむ。自意識過剰で自意識中心で自分勝手で自分のことしか考えなくなる。


人間は、「こころ」と「からだ」が相補的になっているし、相乗効果を生むような仕組みになっている。
心身一元。
身心一元。
心身不二。
身心不二。
無理やり分離するとどこかにしわ寄せが来る。


上に長々と書いた理論的な背景でもそうだし、「直観」でもそう感じている。



だから、自分は山に登りたい。
自然を愛したい。
ちゃんとした食事をしたい。
よく寝たい。
生活というものを送りたい。


自意識だけの世界に逃げ込まないように、人への配慮を持って、気配りや心配りをしたい。
自よりも他を優先させたい。
そして、自意識で閉じずに、みんなと遊びたい。


これは道徳ではないし倫理でもない。


人間という生命体は、そういうものなのだと思う。

色々考えた結果もそう思ったし、直観的にもそう思ったのです。

『からだ』と『こころ』のあわいを、『理論』と『直観』のあわいでも感じています。