
◆
職業柄、亡くなる方を看ることが多い。
だから、基本的に自分の心の中は持続的に喪に服している。
3.11の震災は、個人レベルではなくて集団レベルで喪に服す出来事なのだと思う。
外的な世界での死は、各個人の内的な世界での死と対応する。内的な何かが死んでしまう。
それは因果律(原因があって結果が起こる)かもしれないし共時的(意味のある偶然の一致)なものかもしれない。
人間にとって、死には喪に服す時間が必要だ。そうして初めて受け止めることができる。
外の世界にどんなに膨大な情報が流れ過ぎていようとも、静かに喪に服する。
濁流に流され、はやし立てられ、自分が饒舌になるのではなく。ごく個人的にでいいから、内的な世界で喪に服す静かな時間が必要だ。
情報過多な世界では、そういう喪に服す時間を失う。
外の世界の混乱は、内的な混乱と符号する。
内的な混乱を見たくない人や、喪に服す静かな時間を取りたくない人は、競って混乱した情報を外に探しだし、符合させて騒ぎ立てて安心しやすいものだ。
もちろん、喪に服す場所は洞窟のように暗闇の場所。決して面白おかしい場所ではないのだけれど。ただ、そんな洞窟が人間に深みを与える。
日常的に、自分の内的世界は喪に服し続けている。それを意識的にも続けている。
喪に服すと死は死として葬られ、そうして死は生とも連結され、そこで円環構造、循環構造が生まれる。
そんな円は小さいこともあれば、大きいこともある。
小さい円はいま自分の立っている場所から見えることもあるけれど、大きい円はいまの状態を続けていても見えないことが多い。視点を引く必要がある。
時には宇宙の視点にzoom outしたり、時にはバクテリアや原子(Atom)の視点にzoom inしたりする。
そうすると、円環や循環は至る所に存在していることに気づく。
それはzoom outして明確に見え始めたり、zoom inして明確に見え始めたりする違いにすぎなくて。
顕微鏡の世界はいまここにも確かにあるのだけれど、顕微鏡を通してしか肉眼で見えないのと同じことだ。
望遠鏡の世界はいまここにも確かにあるのだけれど、望遠鏡を通してしか肉眼で見えないのと同じことだ。
ただ、一度でもそういう世界を明確に見るならば、そんな世界があることを強く信じることができる。
◆
内的な世界を見たくないとき、人は外的な世界に、それと相同のものを探そうとする。
内的な世界が不安に覆われると、不安と相同のものを外の世界から懸命に探し出し、符合させる。
そんな作業は、たいてい不安を増長させるだけに終わることが多い。時には無限大まで膨張させる。
内的な世界が混迷に覆われると、混迷と相同のものを外の世界から懸命に探し出し、符合させる。
そんな作業は、たいてい混迷を深くさせるだけに終わることが多い。時には無限大まで膨張させる。
そんな不安や混迷に自分が耐えられなくなると、自分以外の人間を巻き込むことでごまかそうとしてしまう。そんなことはネットで加速される。
外の世界に内的世界と相同のものを探すことは、それが目的となってしまう事が多くて、基本的には内的世界の不安を煽り、内的世界の混迷を深めて強固にするだけで終わってしまうことが多いように見受けられる。
それはまるで、自分の家が燃えているときに外から火を探し出し、それを家に持ち帰り、火と火を符合させて安心しているようなものだと思う。
火には水を、水には火を。
陽には陰を、陰には陽を。
うらとおもては、合わさることを求めあう。
それは男性が女性求め、女性が男性求めることと同じ。
そして、それは外的な世界での作業だけではなくて、同時に個人の内的な世界での作業でもある。
男性は自分の中にある女性性を探し出し、女性は自分の中にある男性性を探し出す。
プラトンの「饗宴」にもそんなことが書いてある。
==========
アリストパネスは太古の「にんげん」について語る。
太古の人は丸い形をしていた。
頭が二つ、手足が四つずつ、陰部が二つ、あった。
男男、女女、男女。そんな3種類の人がいた。
人類は、自分たちの力を過信し、おごりたかぶり、神々をないがしろにした。
怒ったゼウスは、人間を半分ずつにした。
その傷口を塞ぐために、皮を引っ張り寄せ、真ん中で結んだ。それが臍になった。
頭と臍とが逆の方向を向いているので、ゼウスはさらに頭の向きを臍と同じ方向に付け替えた。
・・・
そうして、人間はだいぶおとなしくなった。
ただ、まだ神々に背き、ゼウスの期待を裏ぎるようならば、もう一度分割されて一本足で歩くはめになるだろう、と、警告もしている。
==========
プラトンやアリストパネスの言ったことが嘘だとか本当だとかよりも、そういう話が今でもこうして残っていて、こういう話を聞くと内的な世界で何かが微かに反応している、ということが大事なことだ。
◆
内的な混迷。内的な不安。内的な悪。
そんなものを見たくないから、「自分」の外にある相同のものを探し出す。
それは、単なる投影だ。影を外に投げつけているだけだ。
悪を、内的な悪と外的な悪とで符合させて終わりなのではなく。
悪を、外的な悪と内的な悪とで符合させて終わりなのではなく。
善を、内的な善と外的な善とで符合させて終わりなのではなく。
善を、外的な善と内的な善とで符合させて終わりなのではなく。
自分の外の世界が諸行無常で変化し続けているように、自分の内的な世界が諸法無我で変化し続けているようなもの。
それは正確に対応しながら、互いが互いを投影し続けながら存在している。
内的な世界だけが膨らむと、外的な世界がおろそかになってしまう。
外的な世界だけが膨らむと、内的な世界が貧しくなってしまう。
そこはバランスが大事だ。
内的な世界が膨らめば、おなじように外的な世界を膨らませる。
外的な世界が膨らめば、おなじように内的な世界を膨らませる。
どちらも大事なのだ。
内と外の一時的なアンバランスは、かならずバランスへと向かう。
内と外の一時的な不調和は、かならず調和へと向かう。
それは信じるしかないものだ。
内と外。
多くのものには、内側と外側がある。
内側と外側がなくなったとき、はじめてそれは同じものになる。
だからこそ、ひとは絵を見たり音楽を聞いたり本を読んだり映画を見たりおいしいものを食べたり友達と話したり・・そうして内的な世界に滋養を与えながら、外的な世界を生きて行くのだと思う。
どちらか、ではなく、どちらも、大事なことだ。
そうして、違うものは同じものになる。
職業柄、亡くなる方を看ることが多い。
だから、基本的に自分の心の中は持続的に喪に服している。
3.11の震災は、個人レベルではなくて集団レベルで喪に服す出来事なのだと思う。
外的な世界での死は、各個人の内的な世界での死と対応する。内的な何かが死んでしまう。
それは因果律(原因があって結果が起こる)かもしれないし共時的(意味のある偶然の一致)なものかもしれない。
人間にとって、死には喪に服す時間が必要だ。そうして初めて受け止めることができる。
外の世界にどんなに膨大な情報が流れ過ぎていようとも、静かに喪に服する。
濁流に流され、はやし立てられ、自分が饒舌になるのではなく。ごく個人的にでいいから、内的な世界で喪に服す静かな時間が必要だ。
情報過多な世界では、そういう喪に服す時間を失う。
外の世界の混乱は、内的な混乱と符号する。
内的な混乱を見たくない人や、喪に服す静かな時間を取りたくない人は、競って混乱した情報を外に探しだし、符合させて騒ぎ立てて安心しやすいものだ。
もちろん、喪に服す場所は洞窟のように暗闇の場所。決して面白おかしい場所ではないのだけれど。ただ、そんな洞窟が人間に深みを与える。
日常的に、自分の内的世界は喪に服し続けている。それを意識的にも続けている。
喪に服すと死は死として葬られ、そうして死は生とも連結され、そこで円環構造、循環構造が生まれる。
そんな円は小さいこともあれば、大きいこともある。
小さい円はいま自分の立っている場所から見えることもあるけれど、大きい円はいまの状態を続けていても見えないことが多い。視点を引く必要がある。
時には宇宙の視点にzoom outしたり、時にはバクテリアや原子(Atom)の視点にzoom inしたりする。
そうすると、円環や循環は至る所に存在していることに気づく。
それはzoom outして明確に見え始めたり、zoom inして明確に見え始めたりする違いにすぎなくて。
顕微鏡の世界はいまここにも確かにあるのだけれど、顕微鏡を通してしか肉眼で見えないのと同じことだ。
望遠鏡の世界はいまここにも確かにあるのだけれど、望遠鏡を通してしか肉眼で見えないのと同じことだ。
ただ、一度でもそういう世界を明確に見るならば、そんな世界があることを強く信じることができる。
◆
内的な世界を見たくないとき、人は外的な世界に、それと相同のものを探そうとする。
内的な世界が不安に覆われると、不安と相同のものを外の世界から懸命に探し出し、符合させる。
そんな作業は、たいてい不安を増長させるだけに終わることが多い。時には無限大まで膨張させる。
内的な世界が混迷に覆われると、混迷と相同のものを外の世界から懸命に探し出し、符合させる。
そんな作業は、たいてい混迷を深くさせるだけに終わることが多い。時には無限大まで膨張させる。
そんな不安や混迷に自分が耐えられなくなると、自分以外の人間を巻き込むことでごまかそうとしてしまう。そんなことはネットで加速される。
外の世界に内的世界と相同のものを探すことは、それが目的となってしまう事が多くて、基本的には内的世界の不安を煽り、内的世界の混迷を深めて強固にするだけで終わってしまうことが多いように見受けられる。
それはまるで、自分の家が燃えているときに外から火を探し出し、それを家に持ち帰り、火と火を符合させて安心しているようなものだと思う。
火には水を、水には火を。
陽には陰を、陰には陽を。
うらとおもては、合わさることを求めあう。
それは男性が女性求め、女性が男性求めることと同じ。
そして、それは外的な世界での作業だけではなくて、同時に個人の内的な世界での作業でもある。
男性は自分の中にある女性性を探し出し、女性は自分の中にある男性性を探し出す。
プラトンの「饗宴」にもそんなことが書いてある。
==========
アリストパネスは太古の「にんげん」について語る。
太古の人は丸い形をしていた。
頭が二つ、手足が四つずつ、陰部が二つ、あった。
男男、女女、男女。そんな3種類の人がいた。
人類は、自分たちの力を過信し、おごりたかぶり、神々をないがしろにした。
怒ったゼウスは、人間を半分ずつにした。
その傷口を塞ぐために、皮を引っ張り寄せ、真ん中で結んだ。それが臍になった。
頭と臍とが逆の方向を向いているので、ゼウスはさらに頭の向きを臍と同じ方向に付け替えた。
・・・
そうして、人間はだいぶおとなしくなった。
ただ、まだ神々に背き、ゼウスの期待を裏ぎるようならば、もう一度分割されて一本足で歩くはめになるだろう、と、警告もしている。
==========
プラトンやアリストパネスの言ったことが嘘だとか本当だとかよりも、そういう話が今でもこうして残っていて、こういう話を聞くと内的な世界で何かが微かに反応している、ということが大事なことだ。
◆
内的な混迷。内的な不安。内的な悪。
そんなものを見たくないから、「自分」の外にある相同のものを探し出す。
それは、単なる投影だ。影を外に投げつけているだけだ。
悪を、内的な悪と外的な悪とで符合させて終わりなのではなく。
悪を、外的な悪と内的な悪とで符合させて終わりなのではなく。
善を、内的な善と外的な善とで符合させて終わりなのではなく。
善を、外的な善と内的な善とで符合させて終わりなのではなく。
自分の外の世界が諸行無常で変化し続けているように、自分の内的な世界が諸法無我で変化し続けているようなもの。
それは正確に対応しながら、互いが互いを投影し続けながら存在している。
内的な世界だけが膨らむと、外的な世界がおろそかになってしまう。
外的な世界だけが膨らむと、内的な世界が貧しくなってしまう。
そこはバランスが大事だ。
内的な世界が膨らめば、おなじように外的な世界を膨らませる。
外的な世界が膨らめば、おなじように内的な世界を膨らませる。
どちらも大事なのだ。
内と外の一時的なアンバランスは、かならずバランスへと向かう。
内と外の一時的な不調和は、かならず調和へと向かう。
それは信じるしかないものだ。
内と外。
多くのものには、内側と外側がある。
内側と外側がなくなったとき、はじめてそれは同じものになる。
だからこそ、ひとは絵を見たり音楽を聞いたり本を読んだり映画を見たりおいしいものを食べたり友達と話したり・・そうして内的な世界に滋養を与えながら、外的な世界を生きて行くのだと思う。
どちらか、ではなく、どちらも、大事なことだ。
そうして、違うものは同じものになる。