■
集中していると、妄想とか雑念が消える。
逆に言えば、普通の脳の状態は妄想とか雑念が多い。
黙って目をつぶって静かにしていると分かる。
脳の中に、想念が浮かんでは消え、浮かんでは消える。それはまるで永久の泡のように。
誰もが、こどもからおとなになる。
その過程で、脳の中の雑念や想念が急激に増えてくるように思う。
ただ、いろんなことを経験してほんとうの意味でおとなになるということは、そういう雑念が消えてくいくことのようにも思える。
雑念や想念という実体のない影を追いかけるよりも、考えるべきものを考え、悩むべきものを悩み、歩くべき道を歩く。
当たり前のことを言葉で表現してしまうと、常に同語反復で、同じ言葉の繰り返しになってしまう。それが言葉の限界。
言葉は濃密な意味を含むマントラであるとともに、音波としての「響き」にすぎない、そんな両面性がある。
■
中学生のころ、脳の中に浮かんでは消えていく「想念」や「雑念」に初めて気づいた。
その時、その事実を「怖い!」と思った。
なぜならば
「自分は多重人格?!この自分の脳の中に浮かんでは消える独り言のようなものは何!?」と思ったから。
後になり、これは誰にでもあり、むしろ、そういう想念や雑念が浮かばない大人の方が珍しいのだ、と気づく。
そうそう。それは確か。
ダニエル キイス「24人のビリー・ミリガン―ある多重人格者の記録」(1992/9)
っていう本が売れてた時だった。
みんなで回し読みしてたんだっけ。
話は変わりますが、お酒の席にて大酒飲んで人格が変わる人見ると(自分がお酒は飲めないだけに)、この本のことを思い出す。
「この人の無意識にはどんな人格が抑圧されて隠されていたんだろう」と、思う。
お酒で解放される人格。日常で封印されている人格。 その人格は、誰なのだろう。
■
いつのころからか。
「むかつく」「怒る」・・のような否定的な感情が自分の中に湧き起こるとき、
「むかつくという感情が起きている」
「怒るという感情が起きている」
というように、「感情そのもの」を観察するようになるようになった。支配されないように、なった。
これって、どうやら仏教での瞑想とかにも近い状態みたい。本を読んでて気づいた。
誤解しないでほしいのは、それは感情を分離させているわけではない、ということ。
感情の分離は、暴力的な切断機能だから、その悲しい断片は無意識の下、深いところにに抑圧されるだけだと思う。
心の中は基本的には逃げ場がないような場所なのだから。
分離ではなく、包含。
わけて隠すのではなく、つつみこむ。
見ないのではなく、見る。観る。
自分の感情は、自分という全体の要素の一つであると、包み込み包含するように、鳥が空から地面を見下ろすような視点で見る(観る)。
それは、感情と「わたし」を同一化させないようにする智慧。
なぜなら、「わたし」は感情そのものではなく、感情は駆動エネルギーであり、受信形態のひとつであって、それは同一化されるものではないから。
「わたし」>「感情」であり、「わたし」=「感情」ではなく、更には「わたし」<「感情」でもない。
「わたし」<「感情」の人を見かけることがある。
そのとき、「わたし」という容器は完全に乗っ取られている。
そのときに話しかけても、ほとんど意識喪失状態だ。対話不能に陥っているし、そんな状態にいることに気づくこともできない、危うげな状態だ。
そういうときは、その人に話しかけるというよりも、「感情くん」「感情さん」とひそかに名前をつけて人格化してあげて、その「感情くん」「感情さん」との対話を試みる。
その「感情くん」や「感情さん」を相手の中にある一つの人格として尊重すると、その「感情くん」や「感情さん」はそそくさと奥に引っ込んでいくことがある。
もちろん、調子に乗らせてはいけません。丁重に退室願うわけのです。
■
人間の精神活動。
思うこと、怒ること、いらつくこと、葛藤すること・・・、あらゆること。
きっと1日の中で何万パターンもの曼荼羅模様が繰り広げられていると察する。
そして、そういう精神活動にも何かしらの「心的エネルギー」が費やされているはずだとも思う。
その心的エネルギーの違いが、1日中PCモニターを見て仕事したときの疲れ方や、徹夜したときの疲れ方や、人間関係での疲れ方や、すごい人ごみをうろうろしたときの疲れ方や、一日中野山をかけめぐったときの疲れ方や・・・、そんな色んな疲れ方の根本的な違いを生み出しているんだと思う。
でも、そんな「心的エネルギー」は科学的手法で数値して計測できないから、おろそかにされている。
そこにそんなものはないかのようなお粗末な扱いを受けている。
■
矛盾するふたつのものがあるとき。
その矛盾に対峙すると、心の中に葛藤が生まれる。
「行きたい」「行きたくない」
「したい」「したくない」
「好き」「嫌い」
「受け入れたい」「受け入れたくない」・・・
いろんな二項対立の葛藤。
言葉の上では矛盾する二つの概念での葛藤。
でも、そのふたつの葛藤が心の中で往復運動しながら衝突運動しながら、数千回も数万回も数億回もぶつかりあう葛藤を繰り返していると、「わたし」そのものが「器」として機能して、そんな葛藤のプロセスから新しい何かを生み出してくれる。まるで錬金術のように。
その葛藤の産物で生まれものは、対立物でもなく、矛盾するものでもない。まったく別の何かが生まれている。
矛盾していたはずなのに矛盾していないもの。
そして、そんなときは「矛盾するとかしないとか・・・」の言語自体が脱落して霧の中へと消えていくのだろう。
でも、それはむしろ普通のこと。ごく当たり前の日常に起きていることだ。
あまりに日常過ぎるから意識しないだけ。秘めやかな儀式のように無意識で四六時中起きている現象。
なぜなら、この世界には一見すると矛盾するように見える対立物に満ち溢れているから。
浅い場所では矛盾していても、深い場所では矛盾していない。
■
生と死。
生きているということは、瞬間瞬間に死んでしまう確率をも同時に含んでいるものだ。
生きているから死ぬのだ。生まれてきたという事はいづれ死んでいくということだ。
生と死は矛盾する概念のようだけど、その矛盾する概念は普段は矛盾なく同居している。
浅い場所では矛盾していても、深い場所では矛盾していない。
日常とは浅い場所。そういう場所では生や死を思うことは、あまりない。
そういうことを意識するときは、「生」の方にバランスが崩れた時や、「死」の方にバランスが崩れたとき。それは深い場所。
普段の日々は、そんなことを意識したり言語化する必要がないほど、生と死は、矛盾しそうな概念の全体は、精妙なバランスで調和的に存在している。
調和は、不調和になり気づくもの。
不調和になるから調和へと向かい、調和になると意識下に沈黙し、気付くことがない。
そういう不調和な状態は、その人の内的な世界で起きている状態だ。外で起きていることではない。
内的な世界を外に投影すると、外が不調和に見える。
内側なのか外側なのか。
内側は外側へ影響を及ぼし、外側は内側へ影響を及ぼす。
融通無碍に内と外は信号を送りあっている。
■
人間の体は「調和」が基本にある。
「調和」が維持できなくなったとき、「病気」とレッテルが張られる。それが極限に達すると死んでしまう。
宇宙の基本的な仕組みは、エントロピーが増え、乱雑さが増え、バラバラになろうとする。
それに反し、人間の体や精神は基本的にエントロピーが減るように、乱雑さが減るように、ひとつのまとまった個体になるように働いている。
60兆個の細胞が寄り集まっている人体は、生きている間はバラバラの60兆個の細胞へ、とは崩れ去らない。
「生」の状態が極端な状態へと変化すると、そこで「調和」は失われる。
60兆の細胞は同期して生きることをやめる。バラバラになる。それぞれが「原子(Atom)」へと戻る。
ただ、またそこに「何か」が付与されると、宇宙の流れに抵抗するように「原子(Atom)」が果てしなく寄り集まり、ひとつの個体をつくる。
それは時に石になり、植物になり、虫になり、獣になり、ごく稀に「にんげん」になる。「にんげん」になると「わたし」というものが生まれる。
「わたし」は、赤ん坊の時も「わたし」だったし、「わたし」が傲慢でも、成功しても、病んでも、不幸でも、幸福でも、年老いても、属性が変わろうともつねに「わたし」だ。
「わたし」の中にはいろんなエゴが乱立している。そのエゴも日々成長している。
そこでは少数派のエゴと多数派のエゴとが日々戦っているようなもの。
あるエゴが多数派を占めると、その支配政党のエゴが「わたし」を牛耳る。
ときには冷酷な「わたし」になり、親切な「わたし」になり、利己的な「わたし」になり、善なる「わたし」になる。
その乱立する「わたし」も、天空に浮かぶ星座のように一つの布置が出来上がると最高の「わたし」へと変質する。さなぎが蝶になるように。
それはまるで奇跡のような現象。
楳図かずお先生の「わたしは真悟」という漫画史に残る大傑作漫画の中で、
『奇跡は 誰にでも
一度おきる
だが
おきたことには
誰も気がつかない』
という謎めいたメッセージがある。
そんなことをふと思い出した。
■
「わたし」という概念は謎だ。
それは自明のようでもあるが、同時に謎だ。
「わたし」を観察する「わたし」という存在。
そして、そんな「わたし」がこの地球上には60億以上も存在している。
地球レベルでも見ても、60億人の「わたし」は不調和を起こすことがあるかもしれない。
ひとりの個人レベルで見ても、複数いるエゴで構成される「わたし」は不調和を起こすことがあるかもしれない。
でも、基本となるものは調和だ。
調和が基本であり、基本が調和である。
それが「わたし」である。
「わたし」がこの世界の概念そのものをつくりだし、この世界を生きてゆく。
良い世界、楽しい世界、つらい世界、ひどい世界、とんでもない世界・・・
いろんな概念化したレッテル張りをした世界を作り出す。
それを「幻」や「夢」だと言い切ってしまう自信もないけれど、そういう幻惑的な要素があるのも一面では正しい。
内的世界と外的世界がある。ユメとリアルがある。
そうしてまた、ここに相対する矛盾が生まれる。
一見矛盾するような概念。対立するような概念。
でも、それは「わたし」という容器の中で複雑な衝突運動を数億回繰り返すと、錬金術のようにあたらしい「わたし」が生まれる。まるでふたつの粘土がひとつになるように。
だから、対立物はあるようでない。ないようである。あると言えばあるし、ないと言えばない。
対立するものがあるのは、「わたし」の容器に入る前の段階だ。
ちゃんと「わたし」の容器の中に漏らさずに入れば、何億回もの葛藤を我慢して気長に待っていると、「わたし」の容器にあったはずの対立物は、もうそこには何もなくなっている。
それが生きること。生きてゆくこと。
葛藤というプロセスを錬金術のプロセスとして、いろんなものを創造していく。
だから、日々を懸命に生きてゆけばいい。
葛藤を抱え、矛盾し対立するものを「わたし」の中に抱えながら。
「わたし」に果たされた役目が終われば、きっと寿命がくる。
寿命が来たとき、それは「わたし」の役割が何らかの形で終わったということ。
それは、あらがえないものだ。
だからこそ、それまでは懸命に生きる。
妄想や雑念を捨てて、懸命に生きる。
善をなすこと、人に優しくあること、親切であること、思いやること・・・
大切なことは幼稚園ですでにすべて学んでいる。あとは思い出すだけ。記憶をなぞる。 ほんとうに実行するだけ。現実世界に応用する。
それは易しいようで難しく、難しいようで易しい。
そうして再度、矛盾し対立するものが生まれる。
「易しい」「難しい」
「易しい」>「難しい」
「易しい」<「難しい」
「易しい」→「難しい」
「易しい」←「難しい」
「易しい」→「難しい」
「易しい」←「難しい」
「易しい」=「難しい」
「易しい+難しい」
「易しい‐難しい」
「易しい×難しい」
「易しい÷難しい」
「易しい・難しい」
「易しい難しい」
「やさしいむずかしい」
「!!!!!!!!!」
「!!!!」
「!」
「 」
生まれては消えていき、消えては生まれる。
色即是空、空即是色。しきそくぜくう、くうそくぜしき。かたちあるものはかたちなく、かたちなきものはかたちある。
内界では、常に何かが生まれている。
矛盾し、対立し、葛藤し、創造され、消えてゆく。
そうしていろんなものが複雑に同居し存在している。
それは天空に浮かぶ星のようなもの。流れ星のように日々生まれては消えてゆく。超新星爆発のように日々きらめきと共に消えてゆく。そして、同じように生まれる。
消えながら生まれ、生まれながら消えていく。
それはきらめく炎のよう。炎をよく見ると、大きさや規模が異なる無数の火が、同時に生まれたり消えたりしながら、炎を形作る。
それは流れる水のよう。水をよく見ると、大きさや規模が異なる無数の水滴が、同時に生まれたり消えたりしながら、水流を形作る。
夜空に、星があるコンステレーション(布置)を起こすと、そこに星座が生まれる。
それは外界に起きているようで、日々内界に起きているようなこと。
それが「わたし」の日常なのだ、
と、思う「わたし」です。
・・・・・・・・・・
今日は3月11日。
そんなのは誰かが指摘するまでもないこと。
だから、関係あるようで関係なく、関係ないようで関係あることを、書きました。
集中していると、妄想とか雑念が消える。
逆に言えば、普通の脳の状態は妄想とか雑念が多い。
黙って目をつぶって静かにしていると分かる。
脳の中に、想念が浮かんでは消え、浮かんでは消える。それはまるで永久の泡のように。
誰もが、こどもからおとなになる。
その過程で、脳の中の雑念や想念が急激に増えてくるように思う。
ただ、いろんなことを経験してほんとうの意味でおとなになるということは、そういう雑念が消えてくいくことのようにも思える。
雑念や想念という実体のない影を追いかけるよりも、考えるべきものを考え、悩むべきものを悩み、歩くべき道を歩く。
当たり前のことを言葉で表現してしまうと、常に同語反復で、同じ言葉の繰り返しになってしまう。それが言葉の限界。
言葉は濃密な意味を含むマントラであるとともに、音波としての「響き」にすぎない、そんな両面性がある。
■
中学生のころ、脳の中に浮かんでは消えていく「想念」や「雑念」に初めて気づいた。
その時、その事実を「怖い!」と思った。
なぜならば
「自分は多重人格?!この自分の脳の中に浮かんでは消える独り言のようなものは何!?」と思ったから。
後になり、これは誰にでもあり、むしろ、そういう想念や雑念が浮かばない大人の方が珍しいのだ、と気づく。
そうそう。それは確か。
ダニエル キイス「24人のビリー・ミリガン―ある多重人格者の記録」(1992/9)
っていう本が売れてた時だった。
みんなで回し読みしてたんだっけ。
話は変わりますが、お酒の席にて大酒飲んで人格が変わる人見ると(自分がお酒は飲めないだけに)、この本のことを思い出す。
「この人の無意識にはどんな人格が抑圧されて隠されていたんだろう」と、思う。
お酒で解放される人格。日常で封印されている人格。 その人格は、誰なのだろう。
■
いつのころからか。
「むかつく」「怒る」・・のような否定的な感情が自分の中に湧き起こるとき、
「むかつくという感情が起きている」
「怒るという感情が起きている」
というように、「感情そのもの」を観察するようになるようになった。支配されないように、なった。
これって、どうやら仏教での瞑想とかにも近い状態みたい。本を読んでて気づいた。
誤解しないでほしいのは、それは感情を分離させているわけではない、ということ。
感情の分離は、暴力的な切断機能だから、その悲しい断片は無意識の下、深いところにに抑圧されるだけだと思う。
心の中は基本的には逃げ場がないような場所なのだから。
分離ではなく、包含。
わけて隠すのではなく、つつみこむ。
見ないのではなく、見る。観る。
自分の感情は、自分という全体の要素の一つであると、包み込み包含するように、鳥が空から地面を見下ろすような視点で見る(観る)。
それは、感情と「わたし」を同一化させないようにする智慧。
なぜなら、「わたし」は感情そのものではなく、感情は駆動エネルギーであり、受信形態のひとつであって、それは同一化されるものではないから。
「わたし」>「感情」であり、「わたし」=「感情」ではなく、更には「わたし」<「感情」でもない。
「わたし」<「感情」の人を見かけることがある。
そのとき、「わたし」という容器は完全に乗っ取られている。
そのときに話しかけても、ほとんど意識喪失状態だ。対話不能に陥っているし、そんな状態にいることに気づくこともできない、危うげな状態だ。
そういうときは、その人に話しかけるというよりも、「感情くん」「感情さん」とひそかに名前をつけて人格化してあげて、その「感情くん」「感情さん」との対話を試みる。
その「感情くん」や「感情さん」を相手の中にある一つの人格として尊重すると、その「感情くん」や「感情さん」はそそくさと奥に引っ込んでいくことがある。
もちろん、調子に乗らせてはいけません。丁重に退室願うわけのです。
■
人間の精神活動。
思うこと、怒ること、いらつくこと、葛藤すること・・・、あらゆること。
きっと1日の中で何万パターンもの曼荼羅模様が繰り広げられていると察する。
そして、そういう精神活動にも何かしらの「心的エネルギー」が費やされているはずだとも思う。
その心的エネルギーの違いが、1日中PCモニターを見て仕事したときの疲れ方や、徹夜したときの疲れ方や、人間関係での疲れ方や、すごい人ごみをうろうろしたときの疲れ方や、一日中野山をかけめぐったときの疲れ方や・・・、そんな色んな疲れ方の根本的な違いを生み出しているんだと思う。
でも、そんな「心的エネルギー」は科学的手法で数値して計測できないから、おろそかにされている。
そこにそんなものはないかのようなお粗末な扱いを受けている。
■
矛盾するふたつのものがあるとき。
その矛盾に対峙すると、心の中に葛藤が生まれる。
「行きたい」「行きたくない」
「したい」「したくない」
「好き」「嫌い」
「受け入れたい」「受け入れたくない」・・・
いろんな二項対立の葛藤。
言葉の上では矛盾する二つの概念での葛藤。
でも、そのふたつの葛藤が心の中で往復運動しながら衝突運動しながら、数千回も数万回も数億回もぶつかりあう葛藤を繰り返していると、「わたし」そのものが「器」として機能して、そんな葛藤のプロセスから新しい何かを生み出してくれる。まるで錬金術のように。
その葛藤の産物で生まれものは、対立物でもなく、矛盾するものでもない。まったく別の何かが生まれている。
矛盾していたはずなのに矛盾していないもの。
そして、そんなときは「矛盾するとかしないとか・・・」の言語自体が脱落して霧の中へと消えていくのだろう。
でも、それはむしろ普通のこと。ごく当たり前の日常に起きていることだ。
あまりに日常過ぎるから意識しないだけ。秘めやかな儀式のように無意識で四六時中起きている現象。
なぜなら、この世界には一見すると矛盾するように見える対立物に満ち溢れているから。
浅い場所では矛盾していても、深い場所では矛盾していない。
■
生と死。
生きているということは、瞬間瞬間に死んでしまう確率をも同時に含んでいるものだ。
生きているから死ぬのだ。生まれてきたという事はいづれ死んでいくということだ。
生と死は矛盾する概念のようだけど、その矛盾する概念は普段は矛盾なく同居している。
浅い場所では矛盾していても、深い場所では矛盾していない。
日常とは浅い場所。そういう場所では生や死を思うことは、あまりない。
そういうことを意識するときは、「生」の方にバランスが崩れた時や、「死」の方にバランスが崩れたとき。それは深い場所。
普段の日々は、そんなことを意識したり言語化する必要がないほど、生と死は、矛盾しそうな概念の全体は、精妙なバランスで調和的に存在している。
調和は、不調和になり気づくもの。
不調和になるから調和へと向かい、調和になると意識下に沈黙し、気付くことがない。
そういう不調和な状態は、その人の内的な世界で起きている状態だ。外で起きていることではない。
内的な世界を外に投影すると、外が不調和に見える。
内側なのか外側なのか。
内側は外側へ影響を及ぼし、外側は内側へ影響を及ぼす。
融通無碍に内と外は信号を送りあっている。
■
人間の体は「調和」が基本にある。
「調和」が維持できなくなったとき、「病気」とレッテルが張られる。それが極限に達すると死んでしまう。
宇宙の基本的な仕組みは、エントロピーが増え、乱雑さが増え、バラバラになろうとする。
それに反し、人間の体や精神は基本的にエントロピーが減るように、乱雑さが減るように、ひとつのまとまった個体になるように働いている。
60兆個の細胞が寄り集まっている人体は、生きている間はバラバラの60兆個の細胞へ、とは崩れ去らない。
「生」の状態が極端な状態へと変化すると、そこで「調和」は失われる。
60兆の細胞は同期して生きることをやめる。バラバラになる。それぞれが「原子(Atom)」へと戻る。
ただ、またそこに「何か」が付与されると、宇宙の流れに抵抗するように「原子(Atom)」が果てしなく寄り集まり、ひとつの個体をつくる。
それは時に石になり、植物になり、虫になり、獣になり、ごく稀に「にんげん」になる。「にんげん」になると「わたし」というものが生まれる。
「わたし」は、赤ん坊の時も「わたし」だったし、「わたし」が傲慢でも、成功しても、病んでも、不幸でも、幸福でも、年老いても、属性が変わろうともつねに「わたし」だ。
「わたし」の中にはいろんなエゴが乱立している。そのエゴも日々成長している。
そこでは少数派のエゴと多数派のエゴとが日々戦っているようなもの。
あるエゴが多数派を占めると、その支配政党のエゴが「わたし」を牛耳る。
ときには冷酷な「わたし」になり、親切な「わたし」になり、利己的な「わたし」になり、善なる「わたし」になる。
その乱立する「わたし」も、天空に浮かぶ星座のように一つの布置が出来上がると最高の「わたし」へと変質する。さなぎが蝶になるように。
それはまるで奇跡のような現象。
楳図かずお先生の「わたしは真悟」という漫画史に残る大傑作漫画の中で、
『奇跡は 誰にでも
一度おきる
だが
おきたことには
誰も気がつかない』
という謎めいたメッセージがある。
そんなことをふと思い出した。
■
「わたし」という概念は謎だ。
それは自明のようでもあるが、同時に謎だ。
「わたし」を観察する「わたし」という存在。
そして、そんな「わたし」がこの地球上には60億以上も存在している。
地球レベルでも見ても、60億人の「わたし」は不調和を起こすことがあるかもしれない。
ひとりの個人レベルで見ても、複数いるエゴで構成される「わたし」は不調和を起こすことがあるかもしれない。
でも、基本となるものは調和だ。
調和が基本であり、基本が調和である。
それが「わたし」である。
「わたし」がこの世界の概念そのものをつくりだし、この世界を生きてゆく。
良い世界、楽しい世界、つらい世界、ひどい世界、とんでもない世界・・・
いろんな概念化したレッテル張りをした世界を作り出す。
それを「幻」や「夢」だと言い切ってしまう自信もないけれど、そういう幻惑的な要素があるのも一面では正しい。
内的世界と外的世界がある。ユメとリアルがある。
そうしてまた、ここに相対する矛盾が生まれる。
一見矛盾するような概念。対立するような概念。
でも、それは「わたし」という容器の中で複雑な衝突運動を数億回繰り返すと、錬金術のようにあたらしい「わたし」が生まれる。まるでふたつの粘土がひとつになるように。
だから、対立物はあるようでない。ないようである。あると言えばあるし、ないと言えばない。
対立するものがあるのは、「わたし」の容器に入る前の段階だ。
ちゃんと「わたし」の容器の中に漏らさずに入れば、何億回もの葛藤を我慢して気長に待っていると、「わたし」の容器にあったはずの対立物は、もうそこには何もなくなっている。
それが生きること。生きてゆくこと。
葛藤というプロセスを錬金術のプロセスとして、いろんなものを創造していく。
だから、日々を懸命に生きてゆけばいい。
葛藤を抱え、矛盾し対立するものを「わたし」の中に抱えながら。
「わたし」に果たされた役目が終われば、きっと寿命がくる。
寿命が来たとき、それは「わたし」の役割が何らかの形で終わったということ。
それは、あらがえないものだ。
だからこそ、それまでは懸命に生きる。
妄想や雑念を捨てて、懸命に生きる。
善をなすこと、人に優しくあること、親切であること、思いやること・・・
大切なことは幼稚園ですでにすべて学んでいる。あとは思い出すだけ。記憶をなぞる。 ほんとうに実行するだけ。現実世界に応用する。
それは易しいようで難しく、難しいようで易しい。
そうして再度、矛盾し対立するものが生まれる。
「易しい」「難しい」
「易しい」>「難しい」
「易しい」<「難しい」
「易しい」→「難しい」
「易しい」←「難しい」
「易しい」→「難しい」
「易しい」←「難しい」
「易しい」=「難しい」
「易しい+難しい」
「易しい‐難しい」
「易しい×難しい」
「易しい÷難しい」
「易しい・難しい」
「易しい難しい」
「やさしいむずかしい」
「!!!!!!!!!」
「!!!!」
「!」
「 」
生まれては消えていき、消えては生まれる。
色即是空、空即是色。しきそくぜくう、くうそくぜしき。かたちあるものはかたちなく、かたちなきものはかたちある。
内界では、常に何かが生まれている。
矛盾し、対立し、葛藤し、創造され、消えてゆく。
そうしていろんなものが複雑に同居し存在している。
それは天空に浮かぶ星のようなもの。流れ星のように日々生まれては消えてゆく。超新星爆発のように日々きらめきと共に消えてゆく。そして、同じように生まれる。
消えながら生まれ、生まれながら消えていく。
それはきらめく炎のよう。炎をよく見ると、大きさや規模が異なる無数の火が、同時に生まれたり消えたりしながら、炎を形作る。
それは流れる水のよう。水をよく見ると、大きさや規模が異なる無数の水滴が、同時に生まれたり消えたりしながら、水流を形作る。
夜空に、星があるコンステレーション(布置)を起こすと、そこに星座が生まれる。
それは外界に起きているようで、日々内界に起きているようなこと。
それが「わたし」の日常なのだ、
と、思う「わたし」です。
・・・・・・・・・・
今日は3月11日。
そんなのは誰かが指摘するまでもないこと。
だから、関係あるようで関係なく、関係ないようで関係あることを、書きました。
そうですね。
感情や情動というものは、あくまでも主観的なものなので、客観的に定義された【怒り】や【悲しみ】というコトバと、自分の中に流れている「それ」とが果たして本当に同じものなのか、類似なだけではないのかを丁寧に腑分けすることは大事だと思いますね。
フロイトは、まさに自分の中にある「それ」としか言いようがないものをドイツ語でエス(es)=『それ』と決めたわけですしね。ただ、語源はニーチェらしいですが・・・。ニーチェは、エスを人間を人間たらしめている基盤として使っていますね。フロイトは精神性(こころ)から、ニーチェは身体性(からだ)から、別の方向から同じ対象へアプローチしていたようで。。。
もちろん、フロイトはエスは身体的な快を求める本能的なものと、一元論的に説明しているので、僕らにはあまりしっくりこないところもあるわけですが・・・。
それはともかく、自分を深い場所から動かそうとしている「それ」としか呼べないいろんなものと、個々人が対話していくことは大事なことだと思いますね。それは、常に個々人の仕事ですし・・・