■医師としての先輩・後輩
大学病院に戻り、医者になりたての研修医を「教える」立場になって半年くらいが経った。
まだまだ自分は「学ぶ」立場でもあるが、年齢や立場からも後輩に「教える」ことを要請される年齢になってきた。
それもあり、ここ半年は「教える」とはどういうことか、経験と知識のない若い後輩の医師に何をどのように「教える」か、そのことをいつも考えていた。
単に知識を教えることは簡単である。
立場上、自分のほうが知識と経験は上なので、その知識で圧倒して「すごい」と思わせるのは簡単。
そうして後輩に「すごい」と思われるのは「敬意」と錯覚しやすいけれど、きっとそうではない。
単に、知らないことを知っているという年齢の差に過ぎない。
自分は、そんなにすごくない。
自分も「学ぶ」立場であり、それは後輩の医師とも同じ立場である。
■「学び」と「分かったつもり」
何かを学ぶとき、その人が本気で、切実さを帯びていないと、結局は何もつかめないのではなかろうか。
学んだ気になっただけ、勉強した気になっただけ、そんな「分かったふり」や「分かったつもり」を積み重ねていくと、世界をつぎはぎだらけのパッチワークの知識で埋め合わせただけで、歪んだ世界を分かった気になるだけである。
それは大いなる錯覚であるし、傲慢さへともつながる。
知識はすぐに忘れる。
体験は単なる思い出へと美化され風化される。
■「学び」の自動プログラムへ
だからこそ、「学ぶ」ことや、何かを「教える」ということ自体を掘り下げて考えていた。
どうすれば、この研修医が「学び」の自動プログラムにへと入っていくか。
「学び」が「学び」を連鎖的に生んでいく自動プログラムに入ることこそが、「学び」の真髄であり、そういう忘我の状態へ移行することこそを、上の立場は教えないといけないのではなかろうか。
■位相がずれていく
「学ぶ」とはどういうことか。
何かを学ぶということは、もう学ばざるをえない状態に自分が位相転換を起こすことである。
その世界を掴みに行くことではなく、その世界に掴まれてしまうことである。
「学び」に行くというより、学ぶべき世界からわしづかみにされてしまうことである。
そういう風に自分の「学び」モードが位相転換していくと、全ての無意味に思えた出来事や他者の行動、そんな無意味に思えたモノクロの画像が「学び」の光でカラーへと着色されていく。
そんな位相転換により、自分の主観にとって全てが有意味に思えてくる瞬間が訪れる。
高潔なものは高潔なものとして、邪悪なるものは邪悪なるものとして。
全てのものはそのものとして学びの対象へと位相がずれ始める。
あらゆる無意味さが、自分にとっての有意味へと反転し始める。
そこで、僕らは出会えなかった多様な世界と新たに出会うのだ。
■引き算や輪としての「自分」
その場合に根底にある考え方として、
「自分=自分」
と、エンドレスな等式で考えてはいけない。
自分をそういう有限の輪の中で閉じると、学ぶ対象は「自分」で切り取った有限で人工的な世界の中に閉じ始める。自分で自分の世界を閉じることになる。
その捉え方では、自分が想像していなかったもの、認識できなかったもの、価値を認めることができなかったもの・・・そういった自分から少しはみ出たものに対して価値を見出すことはできない。
せいぜい自分の脳みそで考えた程度のことしかできないし、この世界ではその程度のことしか起きていないと、錯覚して世界を見下げる。
そうではなくて、
「自分=全て-自分以外の全て」
と、自分を「差」「引き算」で考える。
そうすると、自分以外のあらゆる全てが絡まりあい、結果的に「自分」を成立させていると気付く。
それは、以前も書いたドーナツの穴のように、他者の輪郭の結果として、そこには何もない「穴」としての自分が立ち現れてくる現象と同じようなものだ。
ある対象を「学ぶ」ためには、その対象そのもの自体を学ぶというよりも、その対象を成立させている境界、辺縁、縁取り、土台・・・・のようなものを学ぶことが大事だ。
その縁取りや輪郭を学ぶことで、その対象は、鋳型のように、穴のように、実態がない差分として理解できてくる。それこそが、差分としての世界の捉え方につながる。
そういう風に対象の輪郭や縁取りから「穴」のように対象へと近づくのは、それぞれの対象を存在せしめているもの、つまり存在の根拠を学ぶということに近い。
■全てを遥か高く見上げる視線
学ぶということは、知識を天高く積み上げて、その高みから見下ろすような営みではない。
知識あるものが知識ないものを見下す構造は、学びの構造ではない。それは単なる自意識過剰の構造である。
むしろ、学ぶということは、それぞれの存在や成立基盤の根拠を掘り起こすことなので、土深く潜ること、海深く潜ること、そんな場所から全てを見上げる営みなのだと思う。
学びの構造は、この世に存在する全てを見上げること。
全ての存在の根拠に隠されている途方もない積み重ねを感じること。
そこでは全てが壮大なスケールで連鎖している。
見上げる視線こそが学びである。
そこでは敬意や畏怖の念が自然に生まれてくる。
■存在と時間/音楽
存在の根源にある途方もない積み重ねを感じることは、それぞれがもつ「時間」を感じること。
「時間」は、僕ら人間が持つ感覚器官では「音楽」や「メロディー」のようなものとして感じ取れるものである。
「耳」にある蝸牛という螺旋構造の器官を通して、そのものが持つ「時間」を「音楽」として聴く。
そんな風にして、そのものにある「時間」や「音楽」を「学び」始めると、「学び」の螺旋構造に突入する。
そこでは万物が学びの対象となる。
■無限の全てを環(輪)に
食わず嫌いは、「自分=自分」と考えていた「自分」回路のグルグル閉じられた枠内に過ぎなかったことを思い知る。
「自分=全て-自分以外の全て」が示しているように、自分を知ることは全てを知ることと、裏表の構造になっていることに気づく。
全てを知ろうとすることが自分を知ることとなり、自分を知ろうとすることが全てを知ることとなる。それは同じことである。右から読むか、左から読むかに過ぎない。
そんな風に全てを対象にした環(輪)は、無限の全てで構成された、壮大で計り知れない環(輪)である。
その果てしない環(輪)と、「自分」回路で閉じられた環(輪)とは、比較にすらならない。
■他者との連鎖
僕らが生きている時間は有限である。
その中で、無限の全ての裏返しとして自分を発見していくプロセスは、あまりに途方もなく、どこから始めていいのか眩暈を起こしそうになる。
そこを緩やかに連結して、連続性を起こし始めるのは、人との縁であり、他者との出会いである。
『他者との出会いは偶然であり必然である』というのは、詩的な空想表現でも何でもなく、本当にそうだと僕は思うのです。
それは、ブログでも書いた。
・『他者との出会い(2009-04-04)』
・『「出会い」の偶然と必然(2009-11-18)』
「自分=全て-自分以外の全て」という引き算で考えられる「自分」は、他者との縁や出会いにより、少しずつ無限の彼方へと誘われる。
そこで自分は全てに掴まれてしまう。
螺旋構造を描いた気流のような「学び」世界への無限の歩みを始めていく。
こういう営みが、僕は「学ぶ」ことだと思う。
そういう果てしない「学び」の姿勢を少しでも教えることができればと、自分も日々「学ぶ」立場として考えています。
大学病院に戻り、医者になりたての研修医を「教える」立場になって半年くらいが経った。
まだまだ自分は「学ぶ」立場でもあるが、年齢や立場からも後輩に「教える」ことを要請される年齢になってきた。
それもあり、ここ半年は「教える」とはどういうことか、経験と知識のない若い後輩の医師に何をどのように「教える」か、そのことをいつも考えていた。
単に知識を教えることは簡単である。
立場上、自分のほうが知識と経験は上なので、その知識で圧倒して「すごい」と思わせるのは簡単。
そうして後輩に「すごい」と思われるのは「敬意」と錯覚しやすいけれど、きっとそうではない。
単に、知らないことを知っているという年齢の差に過ぎない。
自分は、そんなにすごくない。
自分も「学ぶ」立場であり、それは後輩の医師とも同じ立場である。
■「学び」と「分かったつもり」
何かを学ぶとき、その人が本気で、切実さを帯びていないと、結局は何もつかめないのではなかろうか。
学んだ気になっただけ、勉強した気になっただけ、そんな「分かったふり」や「分かったつもり」を積み重ねていくと、世界をつぎはぎだらけのパッチワークの知識で埋め合わせただけで、歪んだ世界を分かった気になるだけである。
それは大いなる錯覚であるし、傲慢さへともつながる。
知識はすぐに忘れる。
体験は単なる思い出へと美化され風化される。
■「学び」の自動プログラムへ
だからこそ、「学ぶ」ことや、何かを「教える」ということ自体を掘り下げて考えていた。
どうすれば、この研修医が「学び」の自動プログラムにへと入っていくか。
「学び」が「学び」を連鎖的に生んでいく自動プログラムに入ることこそが、「学び」の真髄であり、そういう忘我の状態へ移行することこそを、上の立場は教えないといけないのではなかろうか。
■位相がずれていく
「学ぶ」とはどういうことか。
何かを学ぶということは、もう学ばざるをえない状態に自分が位相転換を起こすことである。
その世界を掴みに行くことではなく、その世界に掴まれてしまうことである。
「学び」に行くというより、学ぶべき世界からわしづかみにされてしまうことである。
そういう風に自分の「学び」モードが位相転換していくと、全ての無意味に思えた出来事や他者の行動、そんな無意味に思えたモノクロの画像が「学び」の光でカラーへと着色されていく。
そんな位相転換により、自分の主観にとって全てが有意味に思えてくる瞬間が訪れる。
高潔なものは高潔なものとして、邪悪なるものは邪悪なるものとして。
全てのものはそのものとして学びの対象へと位相がずれ始める。
あらゆる無意味さが、自分にとっての有意味へと反転し始める。
そこで、僕らは出会えなかった多様な世界と新たに出会うのだ。
■引き算や輪としての「自分」
その場合に根底にある考え方として、
「自分=自分」
と、エンドレスな等式で考えてはいけない。
自分をそういう有限の輪の中で閉じると、学ぶ対象は「自分」で切り取った有限で人工的な世界の中に閉じ始める。自分で自分の世界を閉じることになる。
その捉え方では、自分が想像していなかったもの、認識できなかったもの、価値を認めることができなかったもの・・・そういった自分から少しはみ出たものに対して価値を見出すことはできない。
せいぜい自分の脳みそで考えた程度のことしかできないし、この世界ではその程度のことしか起きていないと、錯覚して世界を見下げる。
そうではなくて、
「自分=全て-自分以外の全て」
と、自分を「差」「引き算」で考える。
そうすると、自分以外のあらゆる全てが絡まりあい、結果的に「自分」を成立させていると気付く。
それは、以前も書いたドーナツの穴のように、他者の輪郭の結果として、そこには何もない「穴」としての自分が立ち現れてくる現象と同じようなものだ。
ある対象を「学ぶ」ためには、その対象そのもの自体を学ぶというよりも、その対象を成立させている境界、辺縁、縁取り、土台・・・・のようなものを学ぶことが大事だ。
その縁取りや輪郭を学ぶことで、その対象は、鋳型のように、穴のように、実態がない差分として理解できてくる。それこそが、差分としての世界の捉え方につながる。
そういう風に対象の輪郭や縁取りから「穴」のように対象へと近づくのは、それぞれの対象を存在せしめているもの、つまり存在の根拠を学ぶということに近い。
■全てを遥か高く見上げる視線
学ぶということは、知識を天高く積み上げて、その高みから見下ろすような営みではない。
知識あるものが知識ないものを見下す構造は、学びの構造ではない。それは単なる自意識過剰の構造である。
むしろ、学ぶということは、それぞれの存在や成立基盤の根拠を掘り起こすことなので、土深く潜ること、海深く潜ること、そんな場所から全てを見上げる営みなのだと思う。
学びの構造は、この世に存在する全てを見上げること。
全ての存在の根拠に隠されている途方もない積み重ねを感じること。
そこでは全てが壮大なスケールで連鎖している。
見上げる視線こそが学びである。
そこでは敬意や畏怖の念が自然に生まれてくる。
■存在と時間/音楽
存在の根源にある途方もない積み重ねを感じることは、それぞれがもつ「時間」を感じること。
「時間」は、僕ら人間が持つ感覚器官では「音楽」や「メロディー」のようなものとして感じ取れるものである。
「耳」にある蝸牛という螺旋構造の器官を通して、そのものが持つ「時間」を「音楽」として聴く。
そんな風にして、そのものにある「時間」や「音楽」を「学び」始めると、「学び」の螺旋構造に突入する。
そこでは万物が学びの対象となる。
■無限の全てを環(輪)に
食わず嫌いは、「自分=自分」と考えていた「自分」回路のグルグル閉じられた枠内に過ぎなかったことを思い知る。
「自分=全て-自分以外の全て」が示しているように、自分を知ることは全てを知ることと、裏表の構造になっていることに気づく。
全てを知ろうとすることが自分を知ることとなり、自分を知ろうとすることが全てを知ることとなる。それは同じことである。右から読むか、左から読むかに過ぎない。
そんな風に全てを対象にした環(輪)は、無限の全てで構成された、壮大で計り知れない環(輪)である。
その果てしない環(輪)と、「自分」回路で閉じられた環(輪)とは、比較にすらならない。
■他者との連鎖
僕らが生きている時間は有限である。
その中で、無限の全ての裏返しとして自分を発見していくプロセスは、あまりに途方もなく、どこから始めていいのか眩暈を起こしそうになる。
そこを緩やかに連結して、連続性を起こし始めるのは、人との縁であり、他者との出会いである。
『他者との出会いは偶然であり必然である』というのは、詩的な空想表現でも何でもなく、本当にそうだと僕は思うのです。
それは、ブログでも書いた。
・『他者との出会い(2009-04-04)』
・『「出会い」の偶然と必然(2009-11-18)』
「自分=全て-自分以外の全て」という引き算で考えられる「自分」は、他者との縁や出会いにより、少しずつ無限の彼方へと誘われる。
そこで自分は全てに掴まれてしまう。
螺旋構造を描いた気流のような「学び」世界への無限の歩みを始めていく。
こういう営みが、僕は「学ぶ」ことだと思う。
そういう果てしない「学び」の姿勢を少しでも教えることができればと、自分も日々「学ぶ」立場として考えています。