
次号の風の旅人が、「この世の際」「極限の可能性への欲求」をテーマにしているということで、昔から考えていた「理性の限界」というテーマを、ふと空想した。
(アロウの不可能性定理、ハイゼンベルグの不確定性原理、ゲーデルの不完全性定理・・)
人間に、理性と感情の<あわい>の側面があるとすれば、理性は科学を生んだ。
科学は、全体を部分に細分化して、「分ける」ことを「分かる」こととした。
砂浜の研究をするために砂を研究したが、いつのまにか砂浜を忘れた。
理性には限界があり、科学には限界があるが、そんな有限性を超えたところで、その背後にある無限の存在の匂いを嗅ぐ。
インド生まれのノーベル経済学賞受賞者(1998年)であるアマルティア・セン(1933年~)は、理性の限界を認識せずに、目先の合理性ばかり求めている人を「合理的な愚か者(rational fool)」と呼んで批判した。
近代的な利己的で自意識中心の経済活動だけでは、社会的な「善」は達成できないと考えた。その利己的な遺伝子の生存競争は、争いや闘争により自分の利益を追求するだけである。
アマルティア・センは、経済学と倫理学の<あいだ>を<あわい>として近づけることで、新しい領域を考えた。
フランス生まれの数学者、物理学者、哲学者、思想家、宗教家であるブレーズ・パスカル(Blaise Pascal:1623~1662年)は、「パンセ」にこう書いた。
『理性の最後の一歩は、理性を超える事物が無限にあるということを認めることである。』
パスカルもアマルティア・センも、理性や人間の有限性を否定して、あちらの向こう側を語っているのではない。
理性や知性を安易に否定し、放棄し、拒否する姿勢は、オカルトや神秘主義というあちら側の世界へ安易に飛躍し、この現実世界の錨を失って漂流する。この世界から遊離していく。
パスカルもアマルティア・センも、理性と知性の追求の果てに、その総体が裏返った広く広大な部屋を見たのだ。
そこは、偉大な探究者たちが自然の産物である人間の理性や知性の奥深い根源を探ろうとして、その理性や知性の「守・破・離」の運動で、おのずから到達した無限に開かれた広い部屋である。
・・・・・・・・・・・・・
科学は、全体を部分に細分化して、「分ける」ことを「分かる」こととした。
砂浜の研究をするために砂を研究したが、いつのまにか砂浜を忘れた。
『あなた方は研究室で虫を拷問にかけ、細切れにしておられるが、私は青空の下で、セミの声を聞きながら観察しています。
あなた方は薬品を使って細胞や原形質を調べておられるが、私は本能の、もっとも高度な現れ方を研究しています。
あなた方は死を詮索しておられるが、私は生を探っているのです。』
ジャン=アンリ・ファーブル 「ファーブル昆虫記」
(アロウの不可能性定理、ハイゼンベルグの不確定性原理、ゲーデルの不完全性定理・・)
人間に、理性と感情の<あわい>の側面があるとすれば、理性は科学を生んだ。
科学は、全体を部分に細分化して、「分ける」ことを「分かる」こととした。
砂浜の研究をするために砂を研究したが、いつのまにか砂浜を忘れた。
理性には限界があり、科学には限界があるが、そんな有限性を超えたところで、その背後にある無限の存在の匂いを嗅ぐ。
インド生まれのノーベル経済学賞受賞者(1998年)であるアマルティア・セン(1933年~)は、理性の限界を認識せずに、目先の合理性ばかり求めている人を「合理的な愚か者(rational fool)」と呼んで批判した。
近代的な利己的で自意識中心の経済活動だけでは、社会的な「善」は達成できないと考えた。その利己的な遺伝子の生存競争は、争いや闘争により自分の利益を追求するだけである。
アマルティア・センは、経済学と倫理学の<あいだ>を<あわい>として近づけることで、新しい領域を考えた。
フランス生まれの数学者、物理学者、哲学者、思想家、宗教家であるブレーズ・パスカル(Blaise Pascal:1623~1662年)は、「パンセ」にこう書いた。
『理性の最後の一歩は、理性を超える事物が無限にあるということを認めることである。』
パスカルもアマルティア・センも、理性や人間の有限性を否定して、あちらの向こう側を語っているのではない。
理性や知性を安易に否定し、放棄し、拒否する姿勢は、オカルトや神秘主義というあちら側の世界へ安易に飛躍し、この現実世界の錨を失って漂流する。この世界から遊離していく。
パスカルもアマルティア・センも、理性と知性の追求の果てに、その総体が裏返った広く広大な部屋を見たのだ。
そこは、偉大な探究者たちが自然の産物である人間の理性や知性の奥深い根源を探ろうとして、その理性や知性の「守・破・離」の運動で、おのずから到達した無限に開かれた広い部屋である。
・・・・・・・・・・・・・
科学は、全体を部分に細分化して、「分ける」ことを「分かる」こととした。
砂浜の研究をするために砂を研究したが、いつのまにか砂浜を忘れた。
『あなた方は研究室で虫を拷問にかけ、細切れにしておられるが、私は青空の下で、セミの声を聞きながら観察しています。
あなた方は薬品を使って細胞や原形質を調べておられるが、私は本能の、もっとも高度な現れ方を研究しています。
あなた方は死を詮索しておられるが、私は生を探っているのです。』
ジャン=アンリ・ファーブル 「ファーブル昆虫記」
文章に書かれている先人とは比べ物にならないくらい拙いそんな分ける力と経験ではありますが。
でも、少し前から、数値を分けることに少しずつ興味を失い、感じてわかることに意識がシフトしているのに気がつきます。
この意識は、必ずしも科学的な思考を否定するものではなく、ドットとドットがつながって導かれた一つの段階なのだろうなあと思ってます。
人のライフスタイル、価値観、意思決定のあたりに関心を持ってインタビューや調査をして分析するわけですが、今、一番やってみたいことは、広い世界を自由に歩き回って話をして、ただただ「世界」を感じたいことですね。
いやはや、学生時代、最初にShinくんのプレゼントか聞いた時は感動しましたよ。
<いやー科学的だ~>とか思って。ちゃんと調査のサンプルとか統計とか、いろんなとこに気が配られていて、本当にすごいなーと思ったのを覚えています。
科学の方法論は、やはりオカルトや魔術から脱していこうとする延長戦上に生まれたものですしね。なんとかお互いをだましあわず正しく分かり合おうとした結果というか、まあそういう長い長い果てしない営みの上で、今の科学があるわけですしね。
物理学も数学も、簡単に理解できないからって、いきなりオカルトやインチキに走っていくのは、やはり好きではないですし。
僕も、Shinくんと同じく、科学的な思考を否定するものではないんですよね。科学が目指す先なんですよね。分割して明晰に理解し、今から統合していく場が必要とされていて。それはブログもTwitterも小さいな勉強会でも、そういう鼓動が少しずつ生まれているんだと思う。そこに、学問だけではなく芸術や音楽や絵画や・・・そういうものが科学の細分化を連結させていくために、何か一役買うものとして働くと思いますねー。
『広い世界を自由に歩き回って話をして、ただただ「世界」を感じたい』
これ、まさしくデカルトが旅に出た時の心境ですね!
方法序説にも、「これからは、わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探究しようと決心し」旅に出たって書いてありますしね。
先月、父が不整脈で救急車で運ばれる事態となり、今月入院してカテーテル治療というものをすることになりました。その時も歩いて帰ってきたし、普段の生活は問題無いのですが。そういえば、いなばさんは心臓のお医者さんだったのではないかと思い出しました。
今回のテーマはカント流に言えば、理性が把握できるのは現象であって物自体ではないということですね。まあ脳みそという物質が、この世に属さない無限で永遠のものを理解する方法が無いのは、ある意味当たり前かもしれませんね。
不整脈ですか。きっと、カテーテルアブレーション治療ですね。
すぐそういう治療の話になるということは、発作性上室性頻拍症(略称:PSVT)の治療か、心房粗動(略称:AFL)かと思います。
いづれも、ちゃんとした病院ならば成功率98~99%の治療なので、まず問題ないかと思いますよ。
ちなみに、僕は不整脈よりも、心筋梗塞とか狭心症とかのカテーテル治療が専門なのです。
同じ循環器内科でも、大きく虚血性心疾患といわれる心臓の血管を治療する僕らのグループと、不整脈の治療をするグループに大きく分かれます。どちらも専門性が高すぎて、療法出来る人がすくなってしまったのですよね。
これも専門化の弊害です。もちろん、普通の治療はできますが、カテーテル治療のような繊細な治療は、畑違いだとどんどん壁が高くなってしまうのです。
どの科もそんな調子なので、医学全体を見渡そうとする人がいなくなってしまい、医学も分けて、分けて、分けて・・の果てに今があります。
そろそろ、本当の意味で人間を全体に見ていく動きが必要なんですよね。まあ、それは僕らの世代の大仕事だと思っていますが・・・。
そうですね。カントのいうところの<物自体>はわからん。ってことと同じです。
これは養老先生が唯脳論で言ってることでもあり、古くは仏教で唯識といわれてもいますが、僕らが脳や五感という手段で外界を認識している限り、その有限性が前提となっているってことですね。
そんな有限性を持つ人間が、無限の存在と思われる自然とどうバランスをとっていくか。都市・人工・人間と自然の問題でもありますが、これも僕らの世代の課題ですね。今は環境問題という枠で語られていますが、基本的には都市・人工・人間と自然の問題でしょうねぇ。
この辺は永遠のテーマで、常に「問いながら」考える運動を続ける必要があるのでしょう。これが答えだ!って形で解答を固定化してしまうと、過去の歴史から学ぶと正しかったことが一度もありませんし。それは歴史から学べる気がします。
科学も医療も高度になると細分化される宿命であること、これは仕事として競争の中でやっているので変えようがないかもしれません。理想を言えば科学者や医師が趣味として他の分野を学ぶ暇を持てること……。そういう時代は来るのでしょうか。
そうですね。ネットも含めてバーチャルな意識だけの世界で生きていくことが多くなってしまった昨今で、肉体とか身体って、異常に生々しいし、異常にリアルなんですよね。現実よりもさらにリアル感があるというか。
そんな人体への意識は、ほとんどの人が無意識にあって、あまり意識上に潜在化することが少ないかと思いますが、日々人体の不具合に関与している身としては、そんな生々しい身体や肉体をいやおうなしに考えさせられてしまいます。
時間は作るものとは言え、今の医療体制ではお互いがお互いの足をひっぱりあっているところはありますよね。ほんとは、お互いがお互いのプライベートな時間を尊重しあいながらチームプレイで連携していくべきなんでしょうが、今はチーム医療が悪用されて、無責任体制の温床として使われているんじゃないかと心配しています。
まあ、そんな中でも、自分は時間を作って読書や絵画や音楽や芸術に足を延ばそうと常々思っているところではあります。