日常

映画「クロッシング」

2010-06-06 21:46:00 | 映画
映画「クロッシング」を観た。


ここ数年で一番衝撃を受けた映画かもしれない。
観終わったあと、しばし呆然とした。



この映画「クロッシング」は北朝鮮の脱北者の話。 

政治的なことはあまり知識がなく分からない。
自分なりに少しずつ勉強してみないといけない。

でも、そういう政治的なプロパガンダやドキュメンタリーの告発映画というよりも、人間の深い孤独や、深い絶望、先行きが見えない未来や日々・・・。

そして、極限状況での人間の救い。 
魂のような場所での救済。 
そういうものを深く感じた。 


・・・・・・
村上春樹さんも、人間の存在そのものが持つ不安感や孤独感を書いている方だと思うが、1Q84のbook3で現在の春樹さんの暫定的な解答のようなものを感じた。それを何故か思い出した。

 

全ての人との絆を失い、すべてから断絶した孤立した個。
そんな深い孤独。


深い場所を、大きいものが通過し、わしづかみにし、自分を通り抜けていった感じだ。
「クロッシング」のタイトルのように、自分を何かが通過した。

国境の「クロッシング」、生から死への「クロッシング」。




映画「クロッシング」では、人が死ぬ。
人間の尊厳を踏みにじられ、虫けらやゴミのようにヒトは殺される。

目の前から大切な人が失われていく。自分を残して消えていく。


そんな状況の中で、転落した人生と共に、大きく損なわれて死んでいく美しい少女が出てくる。

ただ、映画の中で、彼女の魂は、死ぬ直前に救済されたと思った。
その救済は、ちょっとした少年の気遣いのようなもの。
それを愛と呼ぶと、その言葉は使い古され擦り減っているから、あえて「気づかい」と呼びたい。

その少年の「気づかい」により、彼女は死ぬ前に魂を救済され、生から死へと浄化されていく。
そして、生から死へと横断していく。

人との関係において大事なものは「気づかい」のようなものだ。 
Careも、元々は大切に思うとか、気づかうとか、そういう意味だ。 
医も看護もそこに原点がある。  

絶望の淵の人を救う可能性があるもの。
何もできないし何も変わらないかもしれないけれど、ただ「気づかい続ける」こと。
そして、それを信じること。 


・・・・・・・・・

脱北を試みる人は、ことごとく死んでいく。
虫けらのように蹴られ、踏まれ、殺され、捨てられる。

そこに理由はない。そんな過酷な場所に生まれた理由なんて、何もない。
物事は、必ずしも因果律では説明できない。
大きな運命のようなものが、なぜか人を包んでいる。


人がどんどん死んでいき、自分とつながりがある人が死んでいく時、人間は深い孤独を感じる。
この世の中で、何ともつながっていない、断絶、不安、孤独・・。



人が絶望的な状況になるとき、人は何によって救われるのか。

先行きがない未来を自分が待っているとき、後は虫けらのように踏みにじられ、殺されていく運命であることを悟ったとき、人は何に希望を見出し、何をもってその人は救われるのか。


そういう人間の存在を支える、人間の尊厳のような深い場所の救いを感じた。


砂漠に輝く星。
自然に吹き荒れる雨。
人は束の間の生を通り過ぎ、生物から無生物となる。
そこで、悪も善も、全てを静かに包み込む、巨大な自然そのものとなる。



見ていて、自分の深い場所を激しく揺り動かされ、名前のつけられない複雑な感情の塊が動き、自分の何かを切り替え、入れ替えているようだった。


この現実を見ろ、こういう人類の影の歴史を見ろと。直視しろと。
村上春樹さんの「ねじまき鳥クロニクル」で出てきた、ノモンハンの皮ハギの光景が頭をよぎった。



医学や医療に携わっている者として、日々人の生や死と接する者として、
今何ができるのか、何をすべきなのか、どこへ行くべきなのか、何を軸に患者さんと接していくべきなのか・・・

そんないろんなことを考えた。



ひとびとの生と死のありさま。 
いまだに網膜の残像から消えないほど、自分の深い場所をわしづかみにした。


あまりに深い場所を通過したものだから、深い場所にその人たちが「記憶」として埋め込まれ、自分の一部となった気がした。


生者は、死者の思いを運ぶ船だ。

だから、こういう映画を見ている。
そんな思いを強く感じた。