ついに、分かった。
最近、ついに分かったことがある。
ちょっと前から、あと薄皮一枚だと思っていた感覚があったのだけど、雑誌「風の旅人」編集長の佐伯さん、マキさん、ともこさん、東大救急の矢作教授含め、5人で時を忘れて話し込んだ結果、完全に分かった感覚が伴ってきた。(→本当にありがとうございます!)。
理屈だけではなく、自分の体験として『分かった』という感覚。
やはり、出会いや縁は必然なのだと、改めて思う。
■逆だった
何が分かったかいうと、今まで全てが逆だったということ。
そして、それがわかってから、本当に世界が反転して見えてきた。
今までは閉じられた表の世界だけ見ていて、それがすべてだと錯覚していたけれど、ふと裏を返すと、その裏側には開かれた無限の世界があったという感じ。
それは、基本的には『自己と他者』という問題から派生する事柄なのです。
余談ですが、昔書いたような気もするけど、個人的に自分の三大テーマというのがある。
○1:自己と他者
○2:生と死
○3:時間(過去、現在、未来)
これは、誰に頼まれたわけでも求められたわけでもなく、おそらく小学4年生くらいのころから不思議だとずっと思っていて、意識的にも無意志的にも追いかけていたテーマなのですね。
「何故自分は自分でしかないのだろう」
「何故自分は自分から出られないのだろう」
「何故人は死ぬんだろう」
「人が死んだら何になるんだろう」
「時間とは何だろう。過去には行けないのだろうか、未来とはなんだろうか。」
「過去の人は何故存在していたのだろう。時間とは何だろう。」
・・・・・・・・
あらゆる疑問が洪水のように湧いてくる。
そんな素朴な疑問を小4くらいに感じたことが、全ての入口だった気がする。
ここ最近の自分のブログを見返すと、とりつかれたように、
『1:自己と他者』のテーマを考えていたのがわかる。
【1:自己と他者に関して】
○私が私であること(2009-02-19)
○開くこと、閉じること(2009-04-09)
○他者との出会い(2009-04-04)
【2:生と死に関して】
○印象深い患者さんの死を思う(2009-03-14)
この思考プロセスこそが、「あと薄皮一枚だと思っていた」名残りなのだと、今見返して思った。
そして、何が逆だったかという最初に話に戻るのですが、「視点」が全てにおいて逆だったということに気づいたのです。
■『自己→他者』
自意識を中心に発想するとはどういうことか。
具体的には、自分の幸せ、自分が何を得るか、自分の地位や名誉、自分の財産・・・
常に他者と相対化され、常に他者と比較しないと安心できない世界。
この思考の果てには、他者に勝つ、他者を踏みにじる、他者より評価される・・・・という発想法にまみれていて、ひどく疲れる。
それは、自分の見返りを期待したり、自分が何を得るかを考えたり、そういう無駄な駆け引きばかりに時間を消費させられる。
それは、単なる自意識過剰の自作自演で、自意識の中で自分の首を絞めて窒息死しそうになっている状態。
何をやっているのか分からない。何がやりたいのか分らない。何に向かっているのか分からない。それは混乱と不安の渦。
何かが違う、何かが違う、自分が求めている世界は違う、これは違う・・・と自意識からの発想法に何かしらの違和感を感じていたのだけど、一昨日ついに薄皮を突き抜けた。
■有限の自己を捨て、無限の他者へ
それが、『自意識から自由になり、他者を中心に世界を見る』ということなのです。
たとえ話で言えば、他者との出会い(2009-04-04)でも書きましたが、南直哉さんという禅宗のお坊さんが言っていた『自分というものはドーナツの穴のようなものである』という例え話にも通じる。
ドーナツの身の部分を他者ととらえてみると、「他者」の存在があることで、その結果何かあるように錯覚するのが「穴」の存在。ただ、「穴」自体に近づけば、勿論何もない。本当の自分なんて、ポッカリ「穴」が開いていて何もない。そんな「穴」こそが「自己」であるという例え。
この発想法、実は自己と他者の関係性に留まらない。全ての視点においてこの視点は通じる。
関係性・縁・場から発想して、それぞれを考えること。
時に無意識にやっているかもしれないけど、全てにおいてそういう方向性こそが自然であり、今までは基本的な立ち位置が完全に逆だったということに気づいたのです。
■学び、生死、音楽、美、感動、自然、表現・・・
○自分というもの、それは自意識過剰に自分を作り上げることではない、他者との関係性・縁・場から見出されるもの。
○出会うこと、それは自分が会いに行こうと出会いを求めるものではない。他者から見出されるもの。
○学ぶこと、それは自分が何かを掴みに行くことではない。学ぶべき世界から自分が掴まれること。
○生死というもの、それは生者の理論で死者や死の世界を見ることではない。死者の世界から生を見ること。
○音楽というもの、それは人が楽器を弾くものではない。音楽や楽器に自分が掴まえられること。
○美というもの、それは自分が美を見出しに行くものではない。この世界にある美から自分が掴まれてしまうこと。
○感動すること、それは自分が感動しようと思って探しに行くものではない。激しい感情の渦の世界から自分が掴まれてしまうこと。
○メディアというもの、それは自分が撮影したい世界を準備して都合よく世界を作りかえることではない。ありのままの世界から自分が掴まれること。それをそのまま鏡のように反射させること。
○自然というもの、それは人間が自然を支配してコントロールするものではない。自然の無限の流動の層に自分を委ねること。そこから勝手に浮き上がってくるもの。
○表現というもの、それは自分が表現しようとしにいくことではない。世界に捕まえられ、表現せざるにはいれない状態になること。
・・・・・・・・・・
あらゆる例が無限にある。
つまり、初めの『自己と他者』に戻れば、自意識をなくして他者や向こう側の世界に全てを委ねること。
その結果、他者から見た世界として、自分というものがおのづから勝手にいつのまにか立ち上がってくるだけ。
■軸
そこで軸とすべき概念は、
『他者を大切にすること、他者を思うこと、他者が得た感情(喜び、楽しみ、悲しみ・・)こそが結果として自己の感情であるということ、思いやり、まごころ、気配り、・・・』
すごく単純なことだと気付いた。
幼稚園で教わった、「相手の立場に立ちなさい」ということの本質が、今、ついに分かった。
本当の自分、そんなものは錯覚だったのかもしれない。
赤ん坊から少年、青年、成人へと至る成長のプロセスで、自我にまみれた自意識過剰の渦の輪っかを潜り抜ける。そこを突きぬけた先に見出すものは、他者であり世界であり、他者との縁であり、他者との場であり・・・そういうものが実はもっと強固に存在していて、そこから勝手に受け身で見出されるものこそが、自己である。
だから、自己の見返りとか、自己が何を得るか・・・そんなのは考える必要もないし、意味もない。
矢印が放射状に出ているとすると、その矢印のお尻部分で勝手に形作られる輪郭こそが自分であるということ。
無限の他者に身を委ねた結果の、絶対的な受け身の姿勢である。
■主客逆転し、主客一致する。
何を「いまさら」と思うかもしれない。
でも、これを深く実感した時、世界は完全に反転したのが分かった。
なぜなら、全ての思考方法や視点が全て逆転するから。
確かに、なんとなくそういう感じを得たりする事もあった事に気づく。
本当に感動したり学んでいるときは、とり付かれたり、憑依している感覚に近い。
それは、自意識をなくして自意識から自由になっているということだし、自分とその対象はどんどん一体化してきて、境界線自体もあいまいになる。
没入するとき、
漫画の世界が自分であり、自分が漫画の世界である。
本の世界が自分であり、自分が本の世界である。
絵の世界が自分であり、自分が絵の世界である。
本当に没入すると、まず主客逆転する。そのあと主客一致するプロセスを感じることがある。
その瞬間は本当に気持ちいいし、完全に自分から自由になっている。
更に言えば時間が経つのを忘れ、時間からも自由になっている。
それでいて、世界や他者を本当に大切に愛しく思っていて、深い深い感動を伴うものだ。誰も傷つけないし、相互が相互で呼応しあい、深め合う。
■まとめ
30年間の人生というのは、自意識を固めるプロセスだった。
色んな経験を経て、世界がどんどんほつれてきていたのが分かった。
自意識から世界や他者を捉えるのは限界がある。そこは閉じられている。
自己を無くし、世界や他者を全ての中心とすればいいと気づいた。そこは開かれている。
その最果てには、境界線がなくなり、主客一致になる状態があるんだと気付いた。
実は、太古や原始の世界ではそういう状況こそが普通で自然だったのではないか。
文明化・都市化されたここ数百年・数千年のプロセスで、色んな境界線が生まれ、元々は一つだったものが二つに分離したように錯覚されてきたのではないかと思う。
人間と自然、人間と動物、人間と神、自己と他者、生と死・・・・
あらゆる例を挙げることができると思う。
「分かった!」という感覚は自分にとって大きい。
絶対的に一回性の体験だ。
考えて考え抜いたからこそ、突き抜けた。
自意識とか自分の存在は、構造的に閉じられている。だから、発想自体も全て閉じる構造になる。
他者や世界を中心に発想すると、そこは無限に開かれている。だから、発想自体も全て開かれる構造になる。
そして、他者や世界を中心にする発想法の軸となるものは、『他者を大切にすること、気配り、真心、思いやり、優しさ・・・』のような、至ってシンプルなものが軸になる。単にそれだけである。自意識はそこに必要ない。
有限な自己は、無限の他者から、おのずから勝手に見出される。
たとえば、百万人の人間がいれば、百万通りに合わせて発想していくことになるので、全て百万通りの方法論が異なる。年を取れば取るほど経験は増えるし、必然的に年上やお年寄りを敬う世界になる。これは、集団の論理構造としてもすごく自然である。そういう発想法は、集団を生命体として考えても、その生命体は最も長寿なんだと思う。そういう意味でも理にかなっている。
しかも、自意識とか自己を全く考えなくていいので、ストレスも全く感じない。現に、今すごく軽くなって自由な気がする。禅の『人間本来、無一物』という感覚が分かる(→裸で生まれ、裸で死んでいく)。
・・・・・・・・
拙い文章で、少しは伝わったでしょうか。
まだうまく言語化できないんですけど、上に書いたような感覚が、強烈に感じられ、「分かった!」という瞬間がありました。
新しい世界を赤ん坊のような心境で踏み出している感覚で、とても気持ち良く清々しいんですよねー。
いやー嬉しい!
最近、ついに分かったことがある。
ちょっと前から、あと薄皮一枚だと思っていた感覚があったのだけど、雑誌「風の旅人」編集長の佐伯さん、マキさん、ともこさん、東大救急の矢作教授含め、5人で時を忘れて話し込んだ結果、完全に分かった感覚が伴ってきた。(→本当にありがとうございます!)。
理屈だけではなく、自分の体験として『分かった』という感覚。
やはり、出会いや縁は必然なのだと、改めて思う。
■逆だった
何が分かったかいうと、今まで全てが逆だったということ。
そして、それがわかってから、本当に世界が反転して見えてきた。
今までは閉じられた表の世界だけ見ていて、それがすべてだと錯覚していたけれど、ふと裏を返すと、その裏側には開かれた無限の世界があったという感じ。
それは、基本的には『自己と他者』という問題から派生する事柄なのです。
余談ですが、昔書いたような気もするけど、個人的に自分の三大テーマというのがある。
○1:自己と他者
○2:生と死
○3:時間(過去、現在、未来)
これは、誰に頼まれたわけでも求められたわけでもなく、おそらく小学4年生くらいのころから不思議だとずっと思っていて、意識的にも無意志的にも追いかけていたテーマなのですね。
「何故自分は自分でしかないのだろう」
「何故自分は自分から出られないのだろう」
「何故人は死ぬんだろう」
「人が死んだら何になるんだろう」
「時間とは何だろう。過去には行けないのだろうか、未来とはなんだろうか。」
「過去の人は何故存在していたのだろう。時間とは何だろう。」
・・・・・・・・
あらゆる疑問が洪水のように湧いてくる。
そんな素朴な疑問を小4くらいに感じたことが、全ての入口だった気がする。
ここ最近の自分のブログを見返すと、とりつかれたように、
『1:自己と他者』のテーマを考えていたのがわかる。
【1:自己と他者に関して】
○私が私であること(2009-02-19)
○開くこと、閉じること(2009-04-09)
○他者との出会い(2009-04-04)
【2:生と死に関して】
○印象深い患者さんの死を思う(2009-03-14)
この思考プロセスこそが、「あと薄皮一枚だと思っていた」名残りなのだと、今見返して思った。
そして、何が逆だったかという最初に話に戻るのですが、「視点」が全てにおいて逆だったということに気づいたのです。
■『自己→他者』
自意識を中心に発想するとはどういうことか。
具体的には、自分の幸せ、自分が何を得るか、自分の地位や名誉、自分の財産・・・
常に他者と相対化され、常に他者と比較しないと安心できない世界。
この思考の果てには、他者に勝つ、他者を踏みにじる、他者より評価される・・・・という発想法にまみれていて、ひどく疲れる。
それは、自分の見返りを期待したり、自分が何を得るかを考えたり、そういう無駄な駆け引きばかりに時間を消費させられる。
それは、単なる自意識過剰の自作自演で、自意識の中で自分の首を絞めて窒息死しそうになっている状態。
何をやっているのか分からない。何がやりたいのか分らない。何に向かっているのか分からない。それは混乱と不安の渦。
何かが違う、何かが違う、自分が求めている世界は違う、これは違う・・・と自意識からの発想法に何かしらの違和感を感じていたのだけど、一昨日ついに薄皮を突き抜けた。
■有限の自己を捨て、無限の他者へ
それが、『自意識から自由になり、他者を中心に世界を見る』ということなのです。
たとえ話で言えば、他者との出会い(2009-04-04)でも書きましたが、南直哉さんという禅宗のお坊さんが言っていた『自分というものはドーナツの穴のようなものである』という例え話にも通じる。
ドーナツの身の部分を他者ととらえてみると、「他者」の存在があることで、その結果何かあるように錯覚するのが「穴」の存在。ただ、「穴」自体に近づけば、勿論何もない。本当の自分なんて、ポッカリ「穴」が開いていて何もない。そんな「穴」こそが「自己」であるという例え。
この発想法、実は自己と他者の関係性に留まらない。全ての視点においてこの視点は通じる。
関係性・縁・場から発想して、それぞれを考えること。
時に無意識にやっているかもしれないけど、全てにおいてそういう方向性こそが自然であり、今までは基本的な立ち位置が完全に逆だったということに気づいたのです。
■学び、生死、音楽、美、感動、自然、表現・・・
○自分というもの、それは自意識過剰に自分を作り上げることではない、他者との関係性・縁・場から見出されるもの。
○出会うこと、それは自分が会いに行こうと出会いを求めるものではない。他者から見出されるもの。
○学ぶこと、それは自分が何かを掴みに行くことではない。学ぶべき世界から自分が掴まれること。
○生死というもの、それは生者の理論で死者や死の世界を見ることではない。死者の世界から生を見ること。
○音楽というもの、それは人が楽器を弾くものではない。音楽や楽器に自分が掴まえられること。
○美というもの、それは自分が美を見出しに行くものではない。この世界にある美から自分が掴まれてしまうこと。
○感動すること、それは自分が感動しようと思って探しに行くものではない。激しい感情の渦の世界から自分が掴まれてしまうこと。
○メディアというもの、それは自分が撮影したい世界を準備して都合よく世界を作りかえることではない。ありのままの世界から自分が掴まれること。それをそのまま鏡のように反射させること。
○自然というもの、それは人間が自然を支配してコントロールするものではない。自然の無限の流動の層に自分を委ねること。そこから勝手に浮き上がってくるもの。
○表現というもの、それは自分が表現しようとしにいくことではない。世界に捕まえられ、表現せざるにはいれない状態になること。
・・・・・・・・・・
あらゆる例が無限にある。
つまり、初めの『自己と他者』に戻れば、自意識をなくして他者や向こう側の世界に全てを委ねること。
その結果、他者から見た世界として、自分というものがおのづから勝手にいつのまにか立ち上がってくるだけ。
■軸
そこで軸とすべき概念は、
『他者を大切にすること、他者を思うこと、他者が得た感情(喜び、楽しみ、悲しみ・・)こそが結果として自己の感情であるということ、思いやり、まごころ、気配り、・・・』
すごく単純なことだと気付いた。
幼稚園で教わった、「相手の立場に立ちなさい」ということの本質が、今、ついに分かった。
本当の自分、そんなものは錯覚だったのかもしれない。
赤ん坊から少年、青年、成人へと至る成長のプロセスで、自我にまみれた自意識過剰の渦の輪っかを潜り抜ける。そこを突きぬけた先に見出すものは、他者であり世界であり、他者との縁であり、他者との場であり・・・そういうものが実はもっと強固に存在していて、そこから勝手に受け身で見出されるものこそが、自己である。
だから、自己の見返りとか、自己が何を得るか・・・そんなのは考える必要もないし、意味もない。
矢印が放射状に出ているとすると、その矢印のお尻部分で勝手に形作られる輪郭こそが自分であるということ。
無限の他者に身を委ねた結果の、絶対的な受け身の姿勢である。
■主客逆転し、主客一致する。
何を「いまさら」と思うかもしれない。
でも、これを深く実感した時、世界は完全に反転したのが分かった。
なぜなら、全ての思考方法や視点が全て逆転するから。
確かに、なんとなくそういう感じを得たりする事もあった事に気づく。
本当に感動したり学んでいるときは、とり付かれたり、憑依している感覚に近い。
それは、自意識をなくして自意識から自由になっているということだし、自分とその対象はどんどん一体化してきて、境界線自体もあいまいになる。
没入するとき、
漫画の世界が自分であり、自分が漫画の世界である。
本の世界が自分であり、自分が本の世界である。
絵の世界が自分であり、自分が絵の世界である。
本当に没入すると、まず主客逆転する。そのあと主客一致するプロセスを感じることがある。
その瞬間は本当に気持ちいいし、完全に自分から自由になっている。
更に言えば時間が経つのを忘れ、時間からも自由になっている。
それでいて、世界や他者を本当に大切に愛しく思っていて、深い深い感動を伴うものだ。誰も傷つけないし、相互が相互で呼応しあい、深め合う。
■まとめ
30年間の人生というのは、自意識を固めるプロセスだった。
色んな経験を経て、世界がどんどんほつれてきていたのが分かった。
自意識から世界や他者を捉えるのは限界がある。そこは閉じられている。
自己を無くし、世界や他者を全ての中心とすればいいと気づいた。そこは開かれている。
その最果てには、境界線がなくなり、主客一致になる状態があるんだと気付いた。
実は、太古や原始の世界ではそういう状況こそが普通で自然だったのではないか。
文明化・都市化されたここ数百年・数千年のプロセスで、色んな境界線が生まれ、元々は一つだったものが二つに分離したように錯覚されてきたのではないかと思う。
人間と自然、人間と動物、人間と神、自己と他者、生と死・・・・
あらゆる例を挙げることができると思う。
「分かった!」という感覚は自分にとって大きい。
絶対的に一回性の体験だ。
考えて考え抜いたからこそ、突き抜けた。
自意識とか自分の存在は、構造的に閉じられている。だから、発想自体も全て閉じる構造になる。
他者や世界を中心に発想すると、そこは無限に開かれている。だから、発想自体も全て開かれる構造になる。
そして、他者や世界を中心にする発想法の軸となるものは、『他者を大切にすること、気配り、真心、思いやり、優しさ・・・』のような、至ってシンプルなものが軸になる。単にそれだけである。自意識はそこに必要ない。
有限な自己は、無限の他者から、おのずから勝手に見出される。
たとえば、百万人の人間がいれば、百万通りに合わせて発想していくことになるので、全て百万通りの方法論が異なる。年を取れば取るほど経験は増えるし、必然的に年上やお年寄りを敬う世界になる。これは、集団の論理構造としてもすごく自然である。そういう発想法は、集団を生命体として考えても、その生命体は最も長寿なんだと思う。そういう意味でも理にかなっている。
しかも、自意識とか自己を全く考えなくていいので、ストレスも全く感じない。現に、今すごく軽くなって自由な気がする。禅の『人間本来、無一物』という感覚が分かる(→裸で生まれ、裸で死んでいく)。
・・・・・・・・
拙い文章で、少しは伝わったでしょうか。
まだうまく言語化できないんですけど、上に書いたような感覚が、強烈に感じられ、「分かった!」という瞬間がありました。
新しい世界を赤ん坊のような心境で踏み出している感覚で、とても気持ち良く清々しいんですよねー。
いやー嬉しい!
すごい!なんか、最近のテーマが一点に収束して、そこから四方八方に飛び出てる感じだね!(その瞬間にいられず無念っ!)
「例」に関わるところで言うと、
佐伯胖さんの「学び」観は、まさに同じようなことを言っていた。生徒と先生の状態で良いものとして、「先生→生徒」っていうのではなくて、学びの、まさに〈世界〉という名の対象に先生と生徒が同じ目線で魅了されている状態。共に分かるとくすぐったい感じなんだろうね、嬉しくて。
見田の芸術社会学の講義でも、最高の芸術は「つくられるようにつくる」って言ってた。
あと、BSマンガ夜話で、『自虐の詩』をいしかわじゅんが、奇跡的な作品だと評し、こういうものは、あたかも至高の彫刻が木の中に最初からその像が埋まっていたものを掘り出す作業に近いように、この作品も”発掘”した感じがするって言ってた。
ぐるっと回って、〈いまさら〉、〈単純=Simple&Pure〉な結論ってところが更に説得的!
やっぱり、大切なことは「幼稚園の砂場」で教わってたんだね(笑)。
「他人の立場に立つ」ってのは、その方が、いろんな視点が得られて面白いよってことなのかも。ある種のリアル・ロールプレイングゲームだよね。
…ぼくも、おかげさまで、最近、まったく実生活的には関係ない「医学」のことを考えさせていただく機会を得て、…多分、将来的にも直接役に立つ機会はないと思うけど、でも、何か人生が豊かになる感じはしてます。
「自意識とか…考えないので…ストレスも全く感じない」ってところ、かつてAV監督の代々木忠さんが『プラトニック・アニマル』(幻冬舎文庫)と言う本の中で、面接する女の子の話を聴くときに、「絶対に否定しない」ってルールを決めてやってるってことを言っていて、そのルールに則って話を聞いていると、はじめは「そんなのオマエが悪いんだろ!」とかって、男としてだとか、年長者としてだとか、客観的に考えればとかして、まともに話が聞けず…ゆえに、まともに面接にならないんだけど、次第に、その相手に同化できるようになり、そうすると、本当に怒りや悲しみを共感できるようになったと…そして、一通り話が出来ると、女の子も、「私にも悪いところあったよね」…みたいな(笑)。
これは似たようなことを村上春樹もサリンの被害者のインタビューで言ってた気がする。鷲田さんじゃないけど〈聴く〉力なのかな?
結局、現代のせちがない自我の鎧化した社会だと、みんな反論する準備でスタンバっていて、全然話し前に進まない、国民総「朝生(テレビ)」化だね。
基本的に、98%賛成なんだけど、一点だけ思ったのは、
「自己や自分…(が)錯覚(で)、本当にあるものは、他者であり世界であり…縁、場」ってとこで、この気づき、発見は、言われて、僕も、「まさに!」と思ったのだけど、
ちょっと、しばらく考えて(今回、WORDにコピペして印刷して熟読させていただきました(笑))、
それで思ったのは、
しかし、ある種の、若い人で、自分に自信がなかったりして、まわりの意見に振り回されている右顧左眄状態の段階だと、
もしかしたら、まずすべきは、自我を固めることなのかもと(そういう意味で、自我が錯覚で他者が本当と言うことではなく、…誤解を恐れず言えばどちらも錯覚であり、どちらも本当である)。
(…で、問題提起だけに留めず、ある程度、代案を提出するならば)
僕は、自我を固めるために、教育社会学の本田由紀さんのいう「専門性」って、これまた”いまさら”で使い古された概念に見えるけど、結構いいかもと思う。
若い人には、「自分探し」(←どこかに完成品の実態の〈真の自分〉というものが落ちている印象を与えるので)でもなく、
さらに、特に10代くらいの人には「自分なくし」(←みうらじゅん大先生の言うものだけど…、この段階は結構高次だと思う。まだ早い。)でもなく、
「社会に役に立つ専門性の習得(身体化)」をオススメしたい。
どんな専門性でも、徹底的にやっていくと、どこかで「これ違うんじゃねえか?」って疑問に思うときが来て、
強いて言うなら、それが〈個性〉かなと思う。…〈自我〉にまつわるすべての高尚な議論はその段階に来てから初めても遅くはないと思う。
…それで言うと、やっぱり、「コリン会」の開催は、すごい先見の明だといわざるを得ない。
ある程度評価の確定した「古典」を身につけるってのは、ここで言う「専門性の身体化」だと思う。
その過程で、最初は、「そうだそうだ、やっぱり昔のエライ人はスゴイナー」なんだけど、
どこかで、そのうち、「孔子の言ってること、違くないか?」とかってなったら、目覚めですね。(笑)
■(閑話休題。長くなってますが、もう一題だけ。)
さて、ここで得た「有限の自己を捨て、無限の他者へ」問題を、社会の問題に接続したい…。
和辻の『風土』の議論で、そもそも一神教は砂漠の宗教で、自然状況の厳しい地域で人原が生き残るための合理的思考法であり、ある意味で近代や個の発想も、そこから生まれた。
対して、自然が豊かで、個なんかたてずにも生きられるような地域は、万物に神が宿る多神教的になるってのがあったとおもうけど、
それで言うと、現代は、(もちろん、まだまだ世界から貧困は根絶されてはいないけど)しかし、物理的な条件としては、可能性までは見えている。むしろ、今は、生産(量が足りないこと)より、分配の不均衡による貧困が大きいのだと思う。
ある種、近代のテクノロジーを「きちんと」使いきれば、もはや世界中を多神教的な自然は優しいと思える(=つまり、貧困や生存の危機からは脱する)状態にもって行けるとも言える。
しかし、ある種の一神教的な宗教マインドが根本にあると(アメリカという国は、もう十分豊かになっているのに、未だに砂漠で飢えることを恐れているメンタリティーなんじゃねえかと思ってしまうことがある。もう誰も襲ってきませんから!)
なんか、「競争」とか、「自然に打ち勝つ」とか、「人間は偉い」とかってことにばかり頭が行き、「他者」とか「自己を開く」とか「自然を取り込む」とかって思えないのではないかと思う。
ぼくは、21世紀の日本の使命はこの辺を解除していくことにあるように思う。他者や自然や死との共生作法に長けたJapanese Way of Lifeを世界に向けて発信する。
近代テクノロジーをきちんと使えば、もはや世界中で物理的条件としては生存の危機からは脱せられる。
次に、もしそうした条件がハードとして整ったとして、では次に、その上に乗る基本的メンタリティー(世界像)=OSとして日本的な優しく、開かれた思考法を示せないかと思う。
話は飛ぶけど、さっき、テレビのHey!Hey!Hey!で、懐メロをやってて、
ぼくはつくづく、日本文化で(僕の大好きな)J-POP(だけ)がなぜ世界普及しないのか不思議でならない。
アニメ・ゲーム・マンガ・建築・デザインとか、いっぱい世界に通用してるものあるのに、ナゼ、音楽は!?
これで、J-POPがダメダメだから伝わらないなら納得がいくけど、J-POP、絶対スゴイと思うもん!
ミスチルやマッキーや小田和正や、宇多田などなど。彼らから受けたこの感動はウソじゃない!
…感性は文化的なものだからって説に対しては、だ・か・ら、その感性込みで発信したいんだと思う。
……と、後半、例のごとくだんだん脱線&理論的強度がドンドンなくなり…というか、自分で読み返しても、かなり強引なとこもあるのですが、
この思いを伝える方が重要なので、このままにします。たくさん、インスパイアーされました。キーボード打ち疲れてきたのでまた、また直接会って続き話しましょう!チカレタ。
追伸:もしもし『自我の起源』『気流の鳴る音』、未読であれば、ゼヒゼヒ(ゼヒ)今、ピッタシだと思う。
(僕もこれら著作にすごくインスパイアーされたけど、見田の議論では仏教の話、あまり出てこないから、もしかしたら、さらに先に行ってるかも!?)
「ドーナツの穴」、そして『他者から見た世界として、自分というものがおのづから勝手にいつのまにか立ち上がってくるだけ。』という境地にたつにいたるために、『他者』を信じられる勇気がいるんだろうと思った。そして、いなばさんにはそういう人たちが周囲にいて、そういう関係性が築かれている。(私もたぶん恵まれているけど)
自分を映し出すはずの『他者』が、信頼できる、まっすぐに正直に人生を生きよう、生きたいと望む人たちであれば、自分が認識されるときに、ある意味受け入れやすいのだと思う。right peopleを「他者」におかない限り、妙に大きく自分の存在を感じてしまったり、「他者」に圧迫されて過小評価をしてしまうかもしれない。両方とも、自己を中心とした世界で物事を見ている、そうなりがちかもしれないね。
「ドーナツの穴」を例にした時の南さんはこういうことを比喩したわけじゃないかもしれないけど、でもたぶん、自分はそういう側面の怖さも感じて、だからこそより「ドーナツの穴」について興味を思ったのかも。
最後の方にあった、「有限な自己は、無限の他者から、おのずから勝手に見出される。」あるがままに、他者から見出されるだけ。これは無私の心ですね、孤高の無私の存在。凛とした存在ですね。美しい!
なんだか、すとんって音がしたみたいに。
新たに見えてくる世界というのはどれだけ衝撃的なのだろう。どれだけ輝かしいのだろう。
このあふれ出る感動のおすそわけ、素直にとても心地よいです。
他者の存在により自分が縁取られるように浮き上がってくる、ということが完全にわかったと明言してくれたけれども、思えば俊くんの行動すべての背景にこれまでだって、あったのだと私は感じているよ。
それを「意識」して「実感」したのが、まさにこの瞬間だったのかもしれないけれども。
とにかく、いつかこの熱い思いを、直接聞ける日が来ることを願ってます。
Is様
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
Is君も、エネルギー全開って感じ!
メラメラと炎が見える感じだよー。不動明王?笑
佐伯胖さんの「学び」観、見田の芸術論、『自虐の詩』の発掘説・・・・
確かにその通りだよね!!
俺も、ふと考えると、そういう奇跡的な一瞬って言うのは、自意識が消えて、自己と対象が逆転して一致しているような感覚があるなーと思うのよね。
しかも、時間からも自由になっている!
ここに、また時間の謎の問題とも関わってくるような気がしてるんだけど、まだ本気で考えてないから、その辺もいづれ考えてみたいなぁー。
脱線するけど、業田義家の『自虐の詩』、下巻で過去がフラッシュバックしてきて、熊本さんっていう特異なキャラクターが出てきてから、あの話は作者の意図を超えて、漫画の登場人物が勝手に動き出しているような気がするよねー!!あれこそ、漫画家が漫画を書くという領域をはるかにこえて、漫画の世界により漫画家が勝手に書かされているという感覚なんだろうと思う。それは読んでいるだけでも感じるし。
ちなみに、『自虐の詩』は、東大の総合図書館で国家試験の勉強中に、ふと気分転換として漫画読み出したら、もう止まらなくなって、しかも図書館内で号泣してしまったのを思い出します。
大切なことは「幼稚園の砂場」で教わってたんだよー!(笑)
『相手の立場になって考えなさい』なんて、すごく当たり前なんだけど、当たり前すぎて実践は難しい類の言葉。でも、そこにかなり深いことが秘められていた気がして、やっぱり真実は幼稚園~小学生でも分かることじゃないと本物じゃないんだろうなー。
自意識から自由になるってのは、確かに鷲田さんの〈聴く〉力にも通じるね。
聞き上手は話し上手とも言うし、聞くってのは、相手の世界観が憑依した状態だろうし、視点が自意識から他者に移ることだし。聞いて、話す、そして聞く・・・本当に楽しい人と楽しい会話をしているときの、あの気持ちいいキャッチボールをしているような呼応している感覚にも、すごく大事な感覚が詰まっているんだろうね。そういう意味で、単純な会話の中にこそ、色んなヒントが隠れているとも言えるし。
なのかな?
結局、現代のせちがない自我の鎧化した社会だと、みんな反論する準備でスタンバっていて、全然話し前に進まない、国民総「朝生(テレビ)」化だね。
Is君が指摘してくれた
『若い人で・・・まずすべきは、自我を固めることなのかもと』
というのは、正しくそうだよねー!俺も読み返して、誤解与えそうな表現だったことに気づいた。
ほんと流石だなー。鋭いとこついてくるよねー。言うよね~(はるな愛)。
ということで、
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本当の自分、そんなものは錯覚だったのかもしれない。
赤ん坊から少年、青年、成人へと至る成長のプロセスで、自我にまみれた自意識過剰の渦の輪っかを潜り抜ける。そこを突きぬけた先に見出すものは、他者であり世界であり、他者との縁であり、他者との場であり・・・そういうものが実はもっと強固に存在していて、そこから勝手に受け身で見出されるものこそが、自己である。
だから、自己の見返りとか、自己が何を得るか・・・そんなのは考える必要もないし、意味もない。
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という風に少し改変させてもらいました。
一度は、自意識のヘドロを泳がないといけないんだろうねー。
その自意識過剰のプロセスを突き抜けると、そこで自意識が消えてしまって、無限の他者から自己を見出すようになるのかもね。
この辺は、さらに詳細に深めていけそうだなー。
「専門性」っていう太く閉じられた軸をつくる。
そこが閉じられていることに気づいたとき、そこから開かれた世界を求める。
そこで、本当の意味で、他者に出会う。
「自分探し」を経て、「自分なくし」なのかもね。
「コリン会」、次回は徒然草だし、楽しみだねー。
でも、なんか妙に現代とシンクロしている気もする。
あくせく弱肉強食で働きまくるバブル期を経て、次の時代の価値観は?っていう時期に、兼好法師の徒然草の世界観って言うのは、かなり僕らの世代の方向性に、大きな意味を持つと思うな。
和洋中の繰り返しできてるけど、徒然草の次は何になるかなー。ワクワク。
僕らがやっているコリン会、20年くらい続けば、少しは誰かに誉められるかもね。笑
ところで、
和辻哲郎!一神教の議論!
この辺も話は無限に広がるなー。
わしも、実は今宗教全般を本格的に勉強していて、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教を少しずつ勉強してる。この前のNHKの『爆笑問題のニッポンの教養』も、イスラム教研究の山内昌之先生だったよねー。学生のとき、この先生の講義聞いてもまったく興味持てなかったけど、今はすごく面白く聞けるなー。
http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20090414.html
今は旧約聖書と新約聖書を個人的に研究中。そこから、また世界史を一から紐解いている。理系だから、この辺あまり真面目にやってこなかったってのもあって、10年越しで楽しい勉強!
歴史の勉強が楽しくてしょうがなくなってきたー。この辺はまた会ったときに。
『他者や自然や死との共生作法に長けたJapanese Way of Lifeを世界に向けて発信する。』
これは同感ですな。
そのために、日本のいいとこ、悪いとこをきちんと交通整理しないといかんよね。
日本が島国ゆえに自然の要塞に守られていて、防衛意識も極端に低いから、色んな問題は確かにあるんだけど(憲法9条、自衛隊問題、日米安保、米軍基地・・)、そのあたりをきちんと交通整理して、そんな日本だからこそ伝える価値観をきちんと伝えたいよね。
だって、そんな日本から、漫画もアニメもファッションも茶道も能も日本食もJ-POPも・・・全部出てきたんだからね!
僕も、Is氏と同様にJ-POP、大好き!だよ。
あれは、日本の儚さへの美意識とか繊細な美意識とか、その辺もドッキングしないと理解できないと思うなー。70年代のフォークブームのときの歌とか、今聞いてもすごく新しいもの!
『自我の起源』は勝ってまだ読んでないから、今度読んでみようっと。
わしは、宗教とか思想とか哲学をうまく絡めながら、自我や他者の問題を深めていきたいのよねー。できれば、ん本の美意識もね。色々勉強しないといかんこと多いなー。
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ともこ様
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そうそう。つきぬけた先は、すごく穏やかな感じです。
深い深い海の底にいる感じ!色んな地下巨大水脈の合流部位にとりあえずいる感じね。
これは、LaStradaさんの『穴を掘ることと地下水。』のイメージを重ねています。
→(http://sachiolin.exblog.jp/11347713/)
そうそう。
この気づきの瞬間、ともこさん、マキさんも、佐伯先生や矢作先生と共に同じ場にいたし、二人ともかなりのことを感じてたと思いますね。二人とも、なんか眼がランランと輝いてたし。笑
確かに、完全に『他者』の無限の縁に身を委ねるには、それなりの勇気がいりますね。それは徹底的に自意識過剰に自分を追及した過去がその基礎工事になっているのかもしれませんね。
このブログも、同じようなもので、ほかのみなさんがブログで書いていることに強烈に影響を受けながら、その結果として書きたくなる内容がおのずから方向付けられて、思わず書いてしまうことが多々あります。
このブログも、みなさんのブログとの合作という感じがしますね。5-7個のブログと僕のブログ合わせて一個というかね。
そういう縁や場から、見出されるもの、それが自分であり自分のブログでもありますね。無私の心の意味が、実感を伴ってよく分かります。
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maki様
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突き抜けました。はっきり分かりましたよ。
世界が反転したのがはっきり分かりました。
この前も、患者さんの外来をやったのだけど、『病者の立場に立つ』『お年寄りの立場に立つ』という感覚が、明確に分かりました。すごくうれしかったですね。自分の仕事に結果として生きてくるなんて夢にも思わなかったしね。
『自己と他者』のような根本的な問題に対して、あるひとつの方向性が自分に感じられると、ドミノ倒しのように色んな事柄に応用できちゃうんだよねー。これがまた嬉しいのよー。
正しく急がば回れ。
また、今度会うときでも話そう!智子さん含め、詩の朗読も含めて、同じ場を共有しているしね!
歌で伝えますんで、またカラオケ行きましょう!(って、無理だけど(笑))
いやはや、こうして磨かれていくのね。
なんか、さらに深化してる感じ。
そ、それで、ちなみに思ったのが、
以前、いろいろ入ってるマル秘HDの中で
橋爪大三郎の宗教社会学の東京MXテレビでやってた番組が実は入ってたんだけど、それって見た?
僕もとるだけとって、あとで寝かしてたら、実は、小室直樹や町田宗鳳やビックネームがばんばん出てて、後からその価値が分かった。もし必要になるときあれば、今度でも、持って行きます~。
この学際感がたまらないね!
Is
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そうそう。お互いで呼応しながら磨かれる。
それは、人より高い位置に立って人を見下ろす心理構造よりは、果てしなく深い穴を掘っていって、巨大な地下水脈と通じていく感覚のほうが近い。
これは、LaStradaさんが名文を書いているので、一読をお奨めします。
→『穴を掘ることと地下水。』(2009-04-17)
http://sachiolin.exblog.jp/11347713/
橋爪大三郎さんの、今度東京戻ったら探してみるよ。
縦糸を自我・自己とすると、横糸が他者や世界。
学生から社会人初期にかけて、気合入れて果てしなく縦糸の世界を突き進むと、そこを突き抜けて見えてくるのは横糸で開かれた無限の他者の世界。
それを学際的などと命名してあるんだけど、必要に迫られ、切実に考えれば考えるほど、学際性は当たり前すぎることだよね。
人間自体が複雑な縦糸を同時並行的に横糸でつむぎながら生きているんだから。
医学に必要なのは医学ではなく、医学以外の全て。
それは自己と他者の関係性とまったく同じですな。
医学以外の全ての世界から求められ、必要とされるもの、それが結果的には自動的に医学として見出されるに過ぎない。今までの医学は、自意識過剰だった!
この辺、また色々話しましょー・
ずっと前に、自分にとって苦しい時期があり、いろいろ考え、混乱して、悲しく思っていた頃がありました。考えることにも疲れてきたころ、ある日ふと、強く感じたことがあります。
「私は私に、こんなにも信用されている」
だから何も不安に思ったり悲しくなったりする必要はない、と。
私という存在からの私に対する信頼を心から感じたことが、私にとって本当に癒しになりました。温かいものに包まれたような。
理屈ではなく体験だったので、そんなに深く分析してなかったけど、いなばさんの文章を読みながら思いました。
私という存在は私にとって一番身近で一番大きな他者なのだなと。
私が他者によってふちどられているとしたら、その形が私であり、同時に他者だと感じるのなら、私のあの体験はとても腑に落ちます。心から安心したわけがわかる。
もう一つ。
「矢印が放射状に出ているとすると、その矢印のお尻部分で勝手に形作られる輪郭こそが自分であるということ。」
私もきっとそうなんじゃないかと思います。
そして矢印とは「好き」という単純な感情でできているんだろうなと。
人が何かに対して思う感情にはいろんな呼び名があると思うけど、余計なものを削ぎ落とすと、とどのつまりは「好き」「いとおしい」ということだけなのだと思います。
「かわいそう」という言葉にずっと違和感を感じてました。「好き」だから「悲しんでほしくない」ということだろうに、偽善チックに聞こえるまわりくどい表現だなあと思ってました。
全ての感情・行動は「好き」というシンプルな愛情のベクトルのなせる技だと考えれば、なんだか幸せな気持ちになりません?
うまく言えませんが、いなばさんはじめ皆さんの熱に乗せられ、書きたくなりました。
れいこ様
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れいこさんみたいに陽で明るい人でもそんな時期があったのね。だからこそ、そんな暗闇を歩いたからこそ、そうやって人に優しくあれるんだろうね!
『私という存在からの私に対する信頼を心から感じたことが、私にとって本当に癒しになりました。温かいものに包まれたような。』
これ!ずばりこの前LaStradaさんとメールで話していたこととシンクロする。
よしもとばななさんの、2008.12.30の日記を読んでほしい。
http://www.yoshimotobanana.com/diary/2008/12/
ここに、よしもとばなな流の『プロ作家論』みたいなのが書いてあって、いたく感動したのよね。
・大事なのは、集中力と客観性そして自分を信じる心だと思う。この、最後のやつがいちばんくせもので、永遠に終わることのない厳しい戦いとなる。
・コンスタントに同じクオリティのものを打ち出さなくてはいけないプロではない場合が多いから、だと思う。
よしもとばななさんも言ってるけど、れいこさんが言うような『自分を信じること。自分が自分に信頼される感覚。』これは究極的に大事!
自分を愛せない人に他者は愛せないし、他者を愛せない人に自分はは愛せない。
どちらか一方だとダメ。
そこが両立して、境界もなくなったとき、何か閉じられたところから開かれたところへ行く感じがするのよね。
その体感した感覚で、この文章を書いたのです。
自分中心の世界で29年間から、30歳は他者中心の世界へと。
今まではこれが混在して混沌として、何が何だか分からなかったんだけど、今ははっきり自覚できて、医学の道でも、生活面でも、確かな一歩を踏み出せた感覚があります。
ま、れいこさんはわしより数歳年下だけど、そういう意味で、年取るのもいいもんなんですよ!分からないものが分かる、見えなかったものが見えるからねー・。
『私という存在は私にとって一番身近で一番大きな他者なのだなと。』
そうですね。そこがピタリと一致して、自他の境界がなくなること、それが生きるプロセスだと思う。
その辺の思いをこめて書いたのが
『私が私であること』(2009/02/19)
です。
『そして矢印とは「好き」という単純な感情でできているんだろうなと。』
矢印が一方通行なのがミソなのよね。自分には返ってこない。
それを見返りとか、人は呼ぶ。
愛のような感情は、一方通行に放てばいいんです。
典型的な例は親から子供への愛情。
そこで注意しないといけないのは、親と子で閉じられないこと。
親と子で閉じずに開かれた関係性で、その上で愛は一方的に放てばいいと思う。
キリスト教では愛、仏教では慈悲。
同じ感覚を、違う視点から違う言葉で記述しているに過ぎないと思うのです。
『全ての感情・行動は「好き」というシンプルな愛情のベクトルのなせる技だと考えれば、なんだか幸せな気持ちになりません?』
なるなる!
僕はそういう幸せな感情や、希望など、そういう方向性へもって行きたいと常々思っている。
れいこさんが言うのは、わしにとっての
『イイものをイイ!』と言うことに近いね。
そうなのです。
『イイものをイイ』『好きなものを好き』といい続けること。
そういう風に他者を思うこと。それで、自分は形作られる。
その真髄が、『有限の自己を捨て、無限の他者へ。』を書いたときに感じていた感覚です。
自分が考えた軌跡が、ブログの中に残るから面白いね。
少しずつ、階段を一歩一歩上るように、自分の中で消化してたんだなー。
こういうのを、今後は実践して、後輩に生き様で示していかないと。
わしも、みなさんの熱にいつも刺激を受けています。
その熱の伝播で、文章を書くことが常であります。
だから何も不安に思ったり悲しくなったりする必要はない、と。
私という存在からの私に対する信頼を心から感じたことが、私にとって本当に癒しになりました。温かいものに包まれたような。
私という存在は私にとって一番身近で一番大きな他者なのだなと。」
これはこれはまた、表裏一体というか、世界が反転するというか、なるほどーと色々なことを考え感じました。すごい人ほど、自分自身と冷静に対話し深く掘り進んでいて、たとえばイチローのこの言葉などを思い出しました。
「自分のやり方を貫くためには、自己評価が一番厳しいものでないといけないでしょうね。誰の評価よりも自分の評価、自分に対する客観的な評価が一番厳しいものでないといけない、これはもう絶対です。さらには、結果を示さなくてはいけない。それを示した上で、周囲に対して自分のやり方をしっかりと言葉でも説明できること。自分の可能性を広げるには、自分で自分を教育していくしかないと僕は思っているんですよ。現段階の僕が出来たこともあるし、まったく出来ないこともあるし、その繰り返しなんですよね」
「自分自身に信用されている」という感覚は、逃げずに、うねうねと曲がりくねった道や森を通り抜けて、はじめて得られるものなのだろうなぁ。「自信」と呼べるものを持てたことは、今までに何回かしかないけれど、今思い返すと、それは目の前にどーんとある大きなものではなくて、ソコハカトナイ感覚、自分という存在を作っている細胞と細胞の間からそれが滲み出るような、根拠のない丸い温かさだったなぁ。実はあさって久しぶりに一つオーディションを受けるので、色々なコトを整理して一点に集めている作業中で、この日記もコメント欄も、非常に栄養になりました。どうもありがとうございます。
コメントへのコメント、ありがとうございます!
いなばさんちのブログですが、ご挨拶を。はじめまして、れいこです。お噂はかねがねうかがっています。いなばさんとこから、ブログもこっそり拝見させていただいていました。
「自分という存在を作っている細胞と細胞の間からそれが滲み出るような、根拠のない丸い温かさだったなぁ」
ピッタリ!素敵な表現ですね。
存在への自信ってなにも力強かったりキッパリとしたものだったりではなく、そんな風に静かで温かなもののような気がします。
オーディション、頑張ってください。
うまくいきますように。