■仕事の幅というもの
今、実家の熊本に帰っております(5月7日まで)。
せっかくの休みなので、親に旅行に行ってもらって(ウィーンとプラハ)、わしが熊本の小さい開業医の仕事を受け継いでいます。
久々に朝8時30分くらいから普通の仕事生活をしておるわけですが、田舎の小さい病院なので、基本的に高度で専門的なことは求められず、近所のオジイチャン、オバアチャンとの世間話&風邪のような軽症を診ている感じです。
こういうのもすごく新鮮!
今までは高度に専門家された、心臓の専門医の中でもさらに専門的なことをメインに朝から晩までやっていたので、同じ医者って言ってもかなりの幅があることを痛感します。
専門化された仕事は閉じられているので、部外者の意見を封じる構造になっている。だから、僕らが準備した診断・治療というものに患者さんが合わせる。
地域医療は、生活者である患者さんの生活や年齢や仕事や立場に合わせて、患者さんに合わせる。
これは、どの仕事でも高度に専門化していくと同じでしょうね。
仕事は、局所的に専門分化された閉じられた領域でもできるし、少し視点をずらすだけで世界や社会に開かれた領域でも仕事はできる。
それは自分の立ち位置や視点に過ぎなくて、優劣ではないのです。
単にどちら側からどちら側を見るか。
ここ最近は、『自己と他者』の観点から散々考えて、大きな壁を突き抜けた気がしたけど、今後はこれを医学の領域にも応用しつつ実践しないといけない。
理論だけだと頭でっかちになるし、絵に描いた餅にならないように、現場の風雨で晒されて野性味が出てくる。
■他者の不在
そういえば、クサナギくんが逮捕されちゃいましたが、昔住んでいた場所のすぐ近くで驚いたー。ミッドタウンに住んでたのね。
クサナギくんも大人だから、「自業自得」というのもあるかもしれないけど、本音を言わせてもらえば、周りもいけないと思う。
よき他者に恵まれていれば絶対にああいう風にはならない。
ああいうことをしでかす背景には、遠かれ、近かれ、きっと何らかのサインがあるはず。
自意識が肥大して、他者の縁から外れていくと、自我は暴走しちゃう。しかも、お酒っていうのは一時的に自我から自由にするので、そこでの命綱は他者になるわけです。
公園で裸になってたのも、『私が私であれない』タレント業で苦しんでいたのかもしれない。自分の周りに色んな虚構を作り、イイ人と思われないといけないし、もう全ての装飾を外したい!っていう衝動なのかもしれない。そこは周りが事前に気づかないといけない。
■酒での失態と、「無礼講」という日本文化
ふと酒の失態で思い出したことがある。
仏教で五戒っていう在家信者(どちらかと言えば小乗仏教の戒律)が守るべき五つの戒があるんですが、
============================
仏教 五戒
============================
1:不殺生戒(ふせっしょうかい) - 生き物を殺してはいけない。
2:不偸盗戒(ふちゅうとうかい) - 他人のものを盗んではいけない。
3:不邪淫戒(ふじゃいんかい) - 自分の妻(または夫)以外と交わってはいけない。
4:不妄語戒(ふもうごかい) - うそをついてはいけない。
5:不飲酒戒(ふおんじゅかい) - 酒を飲んではいけない。
============================
お酒の戒めがあるんですよね。
それと比べ、旧約聖書の出エジプト記にあるモーセの十戒は少し違う(旧約聖書だからユダヤ教もイスラム教もキリスト教も、モーセの十戒は大切にしている概念のはずだけど)。
キリスト教のカトリック教会での訳だと
============================
モーセの十戒
============================
1:わたしのほかに神があってはならない。
2:あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3:主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4:あなたの父母を敬え。
5:殺してはならない。
6:姦淫してはならない。
7:盗んではならない。
8:隣人に関して偽証してはならない。
9:隣人の妻を欲してはならない。
10:隣人の財産を欲してはならない。
============================
という感じで、比較すると仏教だけがお酒を飲んで暴走すことを戒めているんですよね。キリスト教と比較して、面白いなーと思った。
やはり、一神教は強い軸があるから、飲酒もある程度寛容できるんだけど(その軸の力が強いから?)、仏教のように一神教の強い軸がない宗教では、酒の危険性を説かないといけなかった。
ここの背景には何があるんだろうか、と不思議に思ったのを思い出した。
でも、日本は良くも悪くもお酒に寛容な文化がありますよね。
「無礼講」っていうのはその象徴的な言葉かもしれない。
ただ、実際に周囲を見ていると、やはりお酒で株を下げる人って多いと思う。
酒の場という閉じられた世界では、全体的に何でもアリの雰囲気になって、それを悪いと指摘できない空気がある(一気飲み、セクハラ、失礼な言動・・・・・)、その集団催眠の中で、信じられないような失態をする人や見たくなかった面を見せる人は多い。
個人的にも、飲み癖の悪さで嫌いになったり尊敬できなくなった人は結構います。笑
■「和」のいいとこ、わるいとこ
あの集団催眠のような状態って、和を重視する日本の悪い面を見ていると思うことが多い。
「ある集団内で合意しているんだから、他の社会からいくら非常識でもいいじゃないか。(実際は他の社会のことなんて考えてもいないと思うけど)」
このような論理構造が透けて見えますが、これも和を重視して、そこで構造が閉じられ、開かれた世界には非常識とうつる日本の文化構造に近いのかも。
もちろん、それがオリジナリティーを生んで正の方向性に転がることもありますが、負の方向性に転がるのもよく見かけますな。
(戦時中の日本とかもそうかもしれない。井沢元彦さんは、日本は言霊思想があって、言った事と現実がシンクロするという非論理的のことを心の奥底で信じているから、戦時中に「日本が負けるかも。」とかそういう報道や発言ができず、それが戦争中の大きな過ちだと言っていた。だから、日本人の価値観や思想の根底を考えないといけないと。)
脱線しましたが、あのタレント泥酔事件で、最近考えていたテーマの「自己と他者」にもひきつけて考えてしまった。そして、「日本での集団の論理構造」というものもふと思った。
この辺の「和」の日本文化に関しては、山本七平さんも、井沢元彦さんも言ってるし、日本人を考える上ですごく興味深いテーマで面白い!
ただ、Shin.K氏によると、上海でも一気飲みとかお酒の異常な空間はあるらしいし、お酒っていうのは、自意識から一時的に自由になる作用があるし、そういう意味では普段の自分が世界にどういう向き合い方をしているか、それが出るんだと思いますね。
ま、そんなこんなで、熊本で楽しくやってまーす。
今、実家の熊本に帰っております(5月7日まで)。
せっかくの休みなので、親に旅行に行ってもらって(ウィーンとプラハ)、わしが熊本の小さい開業医の仕事を受け継いでいます。
久々に朝8時30分くらいから普通の仕事生活をしておるわけですが、田舎の小さい病院なので、基本的に高度で専門的なことは求められず、近所のオジイチャン、オバアチャンとの世間話&風邪のような軽症を診ている感じです。
こういうのもすごく新鮮!
今までは高度に専門家された、心臓の専門医の中でもさらに専門的なことをメインに朝から晩までやっていたので、同じ医者って言ってもかなりの幅があることを痛感します。
専門化された仕事は閉じられているので、部外者の意見を封じる構造になっている。だから、僕らが準備した診断・治療というものに患者さんが合わせる。
地域医療は、生活者である患者さんの生活や年齢や仕事や立場に合わせて、患者さんに合わせる。
これは、どの仕事でも高度に専門化していくと同じでしょうね。
仕事は、局所的に専門分化された閉じられた領域でもできるし、少し視点をずらすだけで世界や社会に開かれた領域でも仕事はできる。
それは自分の立ち位置や視点に過ぎなくて、優劣ではないのです。
単にどちら側からどちら側を見るか。
ここ最近は、『自己と他者』の観点から散々考えて、大きな壁を突き抜けた気がしたけど、今後はこれを医学の領域にも応用しつつ実践しないといけない。
理論だけだと頭でっかちになるし、絵に描いた餅にならないように、現場の風雨で晒されて野性味が出てくる。
■他者の不在
そういえば、クサナギくんが逮捕されちゃいましたが、昔住んでいた場所のすぐ近くで驚いたー。ミッドタウンに住んでたのね。
クサナギくんも大人だから、「自業自得」というのもあるかもしれないけど、本音を言わせてもらえば、周りもいけないと思う。
よき他者に恵まれていれば絶対にああいう風にはならない。
ああいうことをしでかす背景には、遠かれ、近かれ、きっと何らかのサインがあるはず。
自意識が肥大して、他者の縁から外れていくと、自我は暴走しちゃう。しかも、お酒っていうのは一時的に自我から自由にするので、そこでの命綱は他者になるわけです。
公園で裸になってたのも、『私が私であれない』タレント業で苦しんでいたのかもしれない。自分の周りに色んな虚構を作り、イイ人と思われないといけないし、もう全ての装飾を外したい!っていう衝動なのかもしれない。そこは周りが事前に気づかないといけない。
■酒での失態と、「無礼講」という日本文化
ふと酒の失態で思い出したことがある。
仏教で五戒っていう在家信者(どちらかと言えば小乗仏教の戒律)が守るべき五つの戒があるんですが、
============================
仏教 五戒
============================
1:不殺生戒(ふせっしょうかい) - 生き物を殺してはいけない。
2:不偸盗戒(ふちゅうとうかい) - 他人のものを盗んではいけない。
3:不邪淫戒(ふじゃいんかい) - 自分の妻(または夫)以外と交わってはいけない。
4:不妄語戒(ふもうごかい) - うそをついてはいけない。
5:不飲酒戒(ふおんじゅかい) - 酒を飲んではいけない。
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お酒の戒めがあるんですよね。
それと比べ、旧約聖書の出エジプト記にあるモーセの十戒は少し違う(旧約聖書だからユダヤ教もイスラム教もキリスト教も、モーセの十戒は大切にしている概念のはずだけど)。
キリスト教のカトリック教会での訳だと
============================
モーセの十戒
============================
1:わたしのほかに神があってはならない。
2:あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3:主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4:あなたの父母を敬え。
5:殺してはならない。
6:姦淫してはならない。
7:盗んではならない。
8:隣人に関して偽証してはならない。
9:隣人の妻を欲してはならない。
10:隣人の財産を欲してはならない。
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という感じで、比較すると仏教だけがお酒を飲んで暴走すことを戒めているんですよね。キリスト教と比較して、面白いなーと思った。
やはり、一神教は強い軸があるから、飲酒もある程度寛容できるんだけど(その軸の力が強いから?)、仏教のように一神教の強い軸がない宗教では、酒の危険性を説かないといけなかった。
ここの背景には何があるんだろうか、と不思議に思ったのを思い出した。
でも、日本は良くも悪くもお酒に寛容な文化がありますよね。
「無礼講」っていうのはその象徴的な言葉かもしれない。
ただ、実際に周囲を見ていると、やはりお酒で株を下げる人って多いと思う。
酒の場という閉じられた世界では、全体的に何でもアリの雰囲気になって、それを悪いと指摘できない空気がある(一気飲み、セクハラ、失礼な言動・・・・・)、その集団催眠の中で、信じられないような失態をする人や見たくなかった面を見せる人は多い。
個人的にも、飲み癖の悪さで嫌いになったり尊敬できなくなった人は結構います。笑
■「和」のいいとこ、わるいとこ
あの集団催眠のような状態って、和を重視する日本の悪い面を見ていると思うことが多い。
「ある集団内で合意しているんだから、他の社会からいくら非常識でもいいじゃないか。(実際は他の社会のことなんて考えてもいないと思うけど)」
このような論理構造が透けて見えますが、これも和を重視して、そこで構造が閉じられ、開かれた世界には非常識とうつる日本の文化構造に近いのかも。
もちろん、それがオリジナリティーを生んで正の方向性に転がることもありますが、負の方向性に転がるのもよく見かけますな。
(戦時中の日本とかもそうかもしれない。井沢元彦さんは、日本は言霊思想があって、言った事と現実がシンクロするという非論理的のことを心の奥底で信じているから、戦時中に「日本が負けるかも。」とかそういう報道や発言ができず、それが戦争中の大きな過ちだと言っていた。だから、日本人の価値観や思想の根底を考えないといけないと。)
脱線しましたが、あのタレント泥酔事件で、最近考えていたテーマの「自己と他者」にもひきつけて考えてしまった。そして、「日本での集団の論理構造」というものもふと思った。
この辺の「和」の日本文化に関しては、山本七平さんも、井沢元彦さんも言ってるし、日本人を考える上ですごく興味深いテーマで面白い!
ただ、Shin.K氏によると、上海でも一気飲みとかお酒の異常な空間はあるらしいし、お酒っていうのは、自意識から一時的に自由になる作用があるし、そういう意味では普段の自分が世界にどういう向き合い方をしているか、それが出るんだと思いますね。
ま、そんなこんなで、熊本で楽しくやってまーす。
なにか、いろいろ思うことがあるけど。
「有名税」みたいな言い方するけど、有名人のストレスってどんなもんなのでしょうね?匿名になれないストレスって(まぁ、日本のタレントであれば、海外行っちゃえば匿名になれるのだろうけど…マイケルジャクソンとかは文明圏ではもはや匿名になれませんね)
別に悪いことしてるわけじゃないのに、顔隠して街を歩かなきゃいけないってのは。
…こういう現象って、「マス」文化後の現象なんだろう。とすれば、もしかしたら、趣味の細分化とかして、100年後とかには国民的な有名人ってなくなるのかな?
まあ、なんにせよ、教訓は「火と酒と金とオンナはほどほどに」ですね。
(生きてくためにいくらかは必要なけど、距離感が取れなくなると身を滅ぼします)
(どうでもいいP.S.…いきなりひとつ屋根の下が再放送してた。やっぱり面白い。まだバブルの残り香がする。)
(←意外と、テレビっこ!)
ちなみに宮台真司氏の新刊で『日本の難点』久々の単著全編書き下ろしで、けっこう面白かったけど、中で、テレビについてボロクソに言ってますね。
熊本も今度あそび行きたいな-。
最近、もっぱら九州流行。
ちなみに、僕も明日、お仕事の打ち合わせで、ちょっとだけ福岡にいますよー。(地理的に近し)
確かに、周りの人の見守りももっとあってもよかったと思う反面、やはり大人である以上責任はとらなくてはならないんだろう。
でも、今回は「すみませんでした」で、いいんじゃないかと個人的には思うけどね。誰かを傷つけたというより、自分自身を傷つけてしまった感じ。
さて、ぼくのまわりでも飲み会はなかなかすごいものがあります。激しすぎて、介抱役にまわっています。。。
めちゃめちゃ飲んでぶっ倒れる人を見ると、ほんと死んじゃうんじゃないかって心配になります。
こっちの夜の文化も正直、苦手ですな。
集団が形成する雰囲気、これは何となく上に立つ人の形成する雰囲気に依存するのではないかと思います。
そういう意味では、いなば君やみんなと過ごす時間は、ぼくには至福のときなのです。
有名人のストレスってすごいだろうねー。得ることより失うことの方が多い気がする。
ほどほど売れる、ほどほど有名になるって形で、本当はセルフプロデュースしないといけないんだろうね。
ユダヤ教でもイスラム教でもそうだけど、偶像崇拝を禁じるっていうのはそこと通じるのかもしれない。アイドル(idol)って、元々は偶像の意味だし、メディアも何かしらの偶像を作り出すのは長けているよね。確かに分かりやすいし、情報としては伝えやすい。
内容や本質がどうかというより、そのアイドル(偶像)自体が持つ正のイメージだけを利用するものだよね。
それを言い出すと、全てのCMってそういう要素がふんだんに盛り込まれていることにも気付く。
ある会社のCMに、タレントを起用するとき、本当は志を同一にした人を起用するのなら分かるんだけど、その人の人間性とかは無視して、単純なイメージだけでタレントを採用する。
だから、わしはしょこたんが消費者金融のCMしているの、嫌いなのよ。しょこたんみたいな天真爛漫で無邪気な人にああいうCMもさせるってのは、やはり周りがダメなんだと思っちゃう。もちろん、タレント本人も気付かないといけないんだろうけどね。
でも、そういうCMの構造っていうのは、実はメディア全体が持っている構造の縮図ですよね。
企業に企画書を渡し、とにかくお金をもらう。その企業にスポンサーになってもらい、そのお金で番組を作る。視聴率を気にしながら、スポンサーの顔色を伺いながら薬にも毒にもならない番組を作る。
このシステムを考えた人は確かに天才だと思う。だって、テレビがタダで見れるんだもん。
でも、やはり民放のこの構造は一度考え直さないといけないよね。それは新聞も雑誌もそうかもしれない。
そこを打破したのが、やはりInternetであり、Youtubeであるんでしょうな。そういう意味では時代の流れは必然というか、壊れるべきものは壊れちゃう。壊れちゃうものっていうのは、やはり短期的な視点しか持てないものですね。短期的な視点や利益を求めると、寿命も短く、突然死するんでしょう。
メディア畑にいる人と、本格的にこのあたりの話はしたいなー。未来のメディア像を作っていかないと。時代が変化するから、現存のものはもちろん壊れるし、僕らの世代が新しく作り上げるものもきっと壊れてなくなるでしょう。それが時代と呼応していくってことだと思うし、『色即是空、空即是色』の感覚でいいんだと思う。
メディア論に関しては、『風の旅人』編集長の佐伯さんなんて、絶対すごい考えもってそうだし、いつか佐伯さんを囲んで話してみたいなー。
・・・・・・・・・・・
いつもどおり、おそろしく脱線した。笑
Is君が言うように「火と酒と金とオンナはほどほどに」は同感。
特に、物欲や性欲。これは大人になって、この化け物の欲に取り付かれている人がいかに多いかと痛感するよ。
性欲に取り付かれる男が多くて、それを責任転嫁して古代は男尊女卑をしていたんだろうと思うね。女性を暴力で封じ込める構造のようなもの。そういう考えが根底にある人間が唱える男女平等という概念ほど嘘くさい偽ものはないね。
わしは女性が持つ、柔らかさとかしなやかさとか包容力とか受け皿の大きさとか、能動ではなく受動。攻めではなく守り。というようなものにすごく魅力を感じていて、それこそ未来に向けて必要な要素だと思います。
>>>>>>>>>>>>>>>Shin.K
そうそう。
心は不安定で流されやすい。
基本的には自我で縛り付けているけど、お酒とかで一時的に自我から離れるとき、強い他者の網の目が必要になる。芸能人だと、それこそ虚構が多い世界だから、自分でも虚と実が何がなんだかわからなくなるのかもしれない。
これが夢なのか現実なのかという感じで。
あれも、本当にマスコミの悪い体質が出てるよね。
有名な人を手のひら返しに晒して叩きまくるっていうのはマスコミは大好きだし、『それで視聴率が取れるんじゃい!それは視聴者が見たいってことだろ!報道の自由だ!』っていう開き直りで、どんどん批判めいた方向性を持って報道する。
クサナギくんの報道は日本だと連日やっているようだけど、有名税とは言えあまりに行き過ぎてかわいそう。
だって、家宅捜索までしたよね?
あれで覚せい剤とか麻薬が出てくれば、警察のお手柄だったのかもしれんけど、あれで家宅捜索っていうのは度が過ぎてると思ったんですけど・・・
そういうのを当たり前に風が吹くように報道しているけど・・・・
『めちゃめちゃ飲んでぶっ倒れる人を見ると、ほんと死んじゃうんじゃないかって心配になります。』
これは、正しい!正しい!それが正常!
非常識な空間にいると、常識こそマイノリティーにされる。
これは本当に怖いよね。戦争とか暴動も、同じような心理状況で起きるんだろうなぁと冷静に思うことがある。
イイものはイイ、ワルイものはワルイ
この基本に忠実に行きたいね。
だから、僕もそんな基本原則、そして自分自身を信じてやっていこうと思う。
他者から見出されるっていう自己論は、飲み会の閉じられた構造での他者の流れに身を任せるってことではないからね。
広く開かれた世界における他者であって、そういう閉塞されて閉じられた世界での常識は、本当に非常識なことが多いね。異様な飲み会の場は閉じているから、ほとんど腐りかけているんだと思うし。
というのは、我が熊本高校の1つ下の後輩が、熊大医学部に入った直後、新入生一気飲みで死亡した事件が起きたのですよ。僕は、あの事件は絶対に忘れないし、二度と起こしちゃならんと思ってるのです。
その男子学生のお母さんからも、何かの縁で会ったときにも涙ながらに二度と起こさないようにしてほしいって頼まれたのです。
そうやって、あまり知らない母親から、僕が東大の医学部に行ってたって縁だけで涙ながらに頼まれたのも、自分がやるべき役割の1つだと思っています。尊く若い人の死を無駄にしちゃいかんですよね。そう思ってます。
→【参考】熊本大学医学部漕艇部の新入生イッキ飲ませ死亡事件
http://www.ask.or.jp/ikkialhara_kumamoto3.html