2010年7月3日~10月11日まで、芸大美術館で
「シャガール ロシア・アヴァンギャルドとの出会い 交錯する夢と前衛」という展覧会をやっている。
近所なので見てきた。まだ3ヶ月はやってるし、もう1回くらい観に行ってこようかな。
シャガールを観るといつも思うのは「無意識」に関して。
僕らが「無意識」を見つけたことで、抽象絵画なるものも同時に生まれた。
絵は、意識だけでなくて無意識にも広がる。
抽象絵画は、一般的にはカンディンスキーが創始者と言われている。だいたい1910年頃。
抽象絵画が生まれるには、「ドイツ表現主義」と「キュビスム」からの、大きく2つの流れがある。
ドイツ表現主義からの流れは、カンディンスキーやフランツ・マルク。パウル・クレーの一部もそう。抽象的でありつつ、何か形を持っている。
キュビスムからの流れは、パリの美術運動「オルフィスム」からはじまって、オランダのモンドリアン、ロシア・アヴァンギャルドが合流する。広い意味ではピカソもこの流れにいる。こちらは、あくまでも幾何学的な表現が特徴。
・・・・・・・・・
精神科医のフロイトは、1900年に『夢判断』を、1917年に『精神分析入門』を出して、人間が抱える「無意識」の世界を提唱した。
ユングはフロイトとも出会ったけれど、フロイトが「リビドー」を「性」と関連付けて、それこそが無意識を動かす本体だと、一元的に説明した。
そのことにユングは反抗してフロイトと決別する。
ユングは、『フロイトの言う「無意識」は個人の意識に抑圧された内容の「ごみ捨て場」のようなものだけれど、わたしの言う無意識は「人類の歴史が眠る宝庫」のようなもの』と例えている。
ゴミ捨て場と見るか、宝の山と見るか、その違いは大きい。
ユングは広大な無意識を相手にするために、その前提となる「意識」の世界も丁寧に考えた。
そのことが、性格を分類するユングの「タイプ論」を産んだ。
外的な対象を必要とする「性」が無意識を動かすと考えたフロイトは「外向的」。
自分に関心が集中する「権力」が無意識を動かすと考えたアドラーは「内向的」。
外交的、内公的という言葉は、ユングが作った言葉なのです。
ユングがそういう風に意識の世界を考えたのも、そこを支える無意識を考えるため。
『無意識という広大な海から、手のひらですくった水のようなものが意識の世界だ。』
とユングは言っていた。
・・・・・・・・・・・・・・
無意識という補助線を僕らが得たおかげで、シャガール(1887~1985年。98歳まで生きた!)の絵も、抽象絵画の世界も発見したのだと思う。
それまで、絵画は意識の世界を描いていたけれど、無意識の世界と出会うことで、絵画はさらに無限にひろがる。
無意識と意識を結ぶのは夢でありイメージであり、まさしく絵画の世界だ。
シャガールの絵は、そんな無意識と意識の架け橋だ。
その架け橋はイメージの束として意識にあがってくる。
『かなしさ、うれしさ、せつなさ、楽しさ・・・・』
僕らが名前をつけて分かった気になっている「感情」(ほんとはなんだかよく分かってない)というものをイメージで、色合いと共に表現している。
感情と色、感情と音は近い気がする。
だから、「音色」という言葉がある。
感情が耳に行くと音になる。目に行くと色になる。
・・・・・・・・・・・・・
NHKの「佐野元春 ザ・ソングライターズ」という番組があって、
そこにミスチルの櫻井さんが出ていた。
曲のつくり方に関して、佐野さんから「歌詞が先?曲が先?」と聞かれていた。
櫻井さんは
「まず最初にメロディー(曲)ができる。
自分の無意識と静かに向き合うと、
ボンヤリと無意識からメロディーが出てくるので、それをつかまえる。
そして、そのメロディーをとりあえず適当な音や声にしてみる。
その音の様子から、かなしいとかうれしいとかの感情を読み取る。
その感じた感情をもとに、そこに言葉を置いて行って歌詞に直していく」
というようなことを言っていた。
その言葉にとても深く感じ入った。
・・・・・・・・・・・・・
解説とか先入観を無視して、シャガールの絵をどこにも焦点を合わさずにボンヤリとみていて思う。
僕らは、うれしいとかかなしいとか、言葉に分割できない感情のかたまりのようなものを持っている。
ただ、そのままだと、人はすごく不安になる。
名前がないものは、正体不明の違和感のあるものとして感じられるから、その不安定さが「不安」という感情の源流になる。
だから、言葉でかなしい、うれしいという感情に名前をつけていく。
そんな無意識の中にある感情のかたまりのようなもの。
シャガールは、それを言語化される手前の段階でつかまえてきて、そこと「記憶」のようなものを連合させながら、イメージの束として意識の世界に丁寧にすくい取ってくる。
そこに、丁寧に色を添えている気がした。
僕らは意識の浅い層をつかって日常生活を営む。
このことは、『深いところ』(2010-05-23)として色々考えたこともある。
そんな意識の浅い層は、僕らが生きている以上すごく大事な場所だ。
ただ、それと同時に、水辺に月の影が映るように、意識の深い層では夢とか無意識とか、過去や未来とか記憶とか、影とか存在とか死とか、空間とか時間とか・・いろんなものがスヤスヤと静かに眠っているんだと思う。それは深いところ。
そんな浅いとこも深いとこも、行ったり来たり、自由に行き来したのがシャガールのような画家であり、素晴しい音楽家やダンサーや表現者であり、偉大な芸術家と呼ばれる人たちなんだろう。
意識も無意識も、浅いとこも深いとこも、どちらも相補的なものだ。
そして、常に同時にしかあり得ないものだ。
絵を見に来ながらも、なぜかシャガールの絵を罵倒しつつ観ている人がいた。
曰く、「意味不明だ」、「頭がおかしい」、「ただの子供の絵だ」「わけがわからない」・・
その人は意識と無意識が、脳とからだが割れてると思った。
きっとからだや無意識は栄養を求めているけど、それを脳と意識が拒否する。
そんな自己矛盾の瞬間を、ふと垣間見た。
でも、現代的な生活は、こういう状況が起こりやすい素地をつくっているとも思う。
意識と無意識が、脳とからだが割れやすいような世界なのだと思う。
無意識よりも意識を。
闇よりも光を。
曖昧さよりも明解さを。
わけのわからないものは、全てデタラメで、頭がおかしくて、意味不明で。
そんなものはこの世に必要ないものとされて、排除される。
意識と無意識が、脳とからだが一時的に割れるだけならいいけれど、離れたまま一生つながらないのならば、自分の脳は、からだを失ったままひとりさまようことになる。
永遠に自分探しをする、永遠の旅人のように。
・・・・・・・・・
シャガールの絵を静かにみてみる。
そうすると、勝ち負けとか、誰かより上とか下とか、そんな世界は壮大な幻想だと思えてくる。
シャガールの絵は、誰からも支配されず自由だ。
勝つとか負けるとか、そんな原理はどこにもない。
というか、もともとそんなものはこの世にないんだと思う。
それは壮大な幻想のようなもの。
シャガールの絵を幻想と言うのならば、そんなものも幻想の世界だ。
シャガールは、人との愛情を大切にした。
人と人の間で静かにやりとりされている感情やエネルギーのようなもの。
きっとそれこそが大切。
そんなやりとりこそが、人を静かに、そして人を丁寧に、育てているんだと思う。
「シャガール ロシア・アヴァンギャルドとの出会い 交錯する夢と前衛」という展覧会をやっている。
近所なので見てきた。まだ3ヶ月はやってるし、もう1回くらい観に行ってこようかな。
シャガールを観るといつも思うのは「無意識」に関して。
僕らが「無意識」を見つけたことで、抽象絵画なるものも同時に生まれた。
絵は、意識だけでなくて無意識にも広がる。
抽象絵画は、一般的にはカンディンスキーが創始者と言われている。だいたい1910年頃。
抽象絵画が生まれるには、「ドイツ表現主義」と「キュビスム」からの、大きく2つの流れがある。
ドイツ表現主義からの流れは、カンディンスキーやフランツ・マルク。パウル・クレーの一部もそう。抽象的でありつつ、何か形を持っている。
キュビスムからの流れは、パリの美術運動「オルフィスム」からはじまって、オランダのモンドリアン、ロシア・アヴァンギャルドが合流する。広い意味ではピカソもこの流れにいる。こちらは、あくまでも幾何学的な表現が特徴。
・・・・・・・・・
精神科医のフロイトは、1900年に『夢判断』を、1917年に『精神分析入門』を出して、人間が抱える「無意識」の世界を提唱した。
ユングはフロイトとも出会ったけれど、フロイトが「リビドー」を「性」と関連付けて、それこそが無意識を動かす本体だと、一元的に説明した。
そのことにユングは反抗してフロイトと決別する。
ユングは、『フロイトの言う「無意識」は個人の意識に抑圧された内容の「ごみ捨て場」のようなものだけれど、わたしの言う無意識は「人類の歴史が眠る宝庫」のようなもの』と例えている。
ゴミ捨て場と見るか、宝の山と見るか、その違いは大きい。
ユングは広大な無意識を相手にするために、その前提となる「意識」の世界も丁寧に考えた。
そのことが、性格を分類するユングの「タイプ論」を産んだ。
外的な対象を必要とする「性」が無意識を動かすと考えたフロイトは「外向的」。
自分に関心が集中する「権力」が無意識を動かすと考えたアドラーは「内向的」。
外交的、内公的という言葉は、ユングが作った言葉なのです。
ユングがそういう風に意識の世界を考えたのも、そこを支える無意識を考えるため。
『無意識という広大な海から、手のひらですくった水のようなものが意識の世界だ。』
とユングは言っていた。
・・・・・・・・・・・・・・
無意識という補助線を僕らが得たおかげで、シャガール(1887~1985年。98歳まで生きた!)の絵も、抽象絵画の世界も発見したのだと思う。
それまで、絵画は意識の世界を描いていたけれど、無意識の世界と出会うことで、絵画はさらに無限にひろがる。
無意識と意識を結ぶのは夢でありイメージであり、まさしく絵画の世界だ。
シャガールの絵は、そんな無意識と意識の架け橋だ。
その架け橋はイメージの束として意識にあがってくる。
『かなしさ、うれしさ、せつなさ、楽しさ・・・・』
僕らが名前をつけて分かった気になっている「感情」(ほんとはなんだかよく分かってない)というものをイメージで、色合いと共に表現している。
感情と色、感情と音は近い気がする。
だから、「音色」という言葉がある。
感情が耳に行くと音になる。目に行くと色になる。
・・・・・・・・・・・・・
NHKの「佐野元春 ザ・ソングライターズ」という番組があって、
そこにミスチルの櫻井さんが出ていた。
曲のつくり方に関して、佐野さんから「歌詞が先?曲が先?」と聞かれていた。
櫻井さんは
「まず最初にメロディー(曲)ができる。
自分の無意識と静かに向き合うと、
ボンヤリと無意識からメロディーが出てくるので、それをつかまえる。
そして、そのメロディーをとりあえず適当な音や声にしてみる。
その音の様子から、かなしいとかうれしいとかの感情を読み取る。
その感じた感情をもとに、そこに言葉を置いて行って歌詞に直していく」
というようなことを言っていた。
その言葉にとても深く感じ入った。
・・・・・・・・・・・・・
解説とか先入観を無視して、シャガールの絵をどこにも焦点を合わさずにボンヤリとみていて思う。
僕らは、うれしいとかかなしいとか、言葉に分割できない感情のかたまりのようなものを持っている。
ただ、そのままだと、人はすごく不安になる。
名前がないものは、正体不明の違和感のあるものとして感じられるから、その不安定さが「不安」という感情の源流になる。
だから、言葉でかなしい、うれしいという感情に名前をつけていく。
そんな無意識の中にある感情のかたまりのようなもの。
シャガールは、それを言語化される手前の段階でつかまえてきて、そこと「記憶」のようなものを連合させながら、イメージの束として意識の世界に丁寧にすくい取ってくる。
そこに、丁寧に色を添えている気がした。
僕らは意識の浅い層をつかって日常生活を営む。
このことは、『深いところ』(2010-05-23)として色々考えたこともある。
そんな意識の浅い層は、僕らが生きている以上すごく大事な場所だ。
ただ、それと同時に、水辺に月の影が映るように、意識の深い層では夢とか無意識とか、過去や未来とか記憶とか、影とか存在とか死とか、空間とか時間とか・・いろんなものがスヤスヤと静かに眠っているんだと思う。それは深いところ。
そんな浅いとこも深いとこも、行ったり来たり、自由に行き来したのがシャガールのような画家であり、素晴しい音楽家やダンサーや表現者であり、偉大な芸術家と呼ばれる人たちなんだろう。
意識も無意識も、浅いとこも深いとこも、どちらも相補的なものだ。
そして、常に同時にしかあり得ないものだ。
絵を見に来ながらも、なぜかシャガールの絵を罵倒しつつ観ている人がいた。
曰く、「意味不明だ」、「頭がおかしい」、「ただの子供の絵だ」「わけがわからない」・・
その人は意識と無意識が、脳とからだが割れてると思った。
きっとからだや無意識は栄養を求めているけど、それを脳と意識が拒否する。
そんな自己矛盾の瞬間を、ふと垣間見た。
でも、現代的な生活は、こういう状況が起こりやすい素地をつくっているとも思う。
意識と無意識が、脳とからだが割れやすいような世界なのだと思う。
無意識よりも意識を。
闇よりも光を。
曖昧さよりも明解さを。
わけのわからないものは、全てデタラメで、頭がおかしくて、意味不明で。
そんなものはこの世に必要ないものとされて、排除される。
意識と無意識が、脳とからだが一時的に割れるだけならいいけれど、離れたまま一生つながらないのならば、自分の脳は、からだを失ったままひとりさまようことになる。
永遠に自分探しをする、永遠の旅人のように。
・・・・・・・・・
シャガールの絵を静かにみてみる。
そうすると、勝ち負けとか、誰かより上とか下とか、そんな世界は壮大な幻想だと思えてくる。
シャガールの絵は、誰からも支配されず自由だ。
勝つとか負けるとか、そんな原理はどこにもない。
というか、もともとそんなものはこの世にないんだと思う。
それは壮大な幻想のようなもの。
シャガールの絵を幻想と言うのならば、そんなものも幻想の世界だ。
シャガールは、人との愛情を大切にした。
人と人の間で静かにやりとりされている感情やエネルギーのようなもの。
きっとそれこそが大切。
そんなやりとりこそが、人を静かに、そして人を丁寧に、育てているんだと思う。
彼の描いた「色」というのは、紙の上でももちろん美しいけれど、教会という「祈り」の場で、光の束になり、空間に広がることで、より一層深いものになる気がします。光というのは掴めないしさわれない。音にも似たものを感じます。
ニースの美術館で買った画集に書かれていたこの言葉が、心にがつんと響いたことを思い出しました。チェリストのカザルスは、チェロの神様と言われていたけれど、彼の著書(「カザルスとの対話」などお勧めです)を読んでも、本当に素晴らしい芸術家の、深いところでのつながりを感じます。シャガール自身、ユダヤ人であったから、ものすごい痛みや苦しみが、彼の中を突き抜けていったのだろうとも、想像します。
【われわれはみな、善人はろくな芸術家になれないことを知っている。しかし、偉大な人間であって、したがって善人でなければ、だれも決して本物の芸術家にはなれないだろう】
最近、松岡正剛さんが「遊学Ⅰ」で書かれていた、「意識の舟」という言葉から、川と舟のイメージが膨らんでいます。皆それぞれ、意識の舟に乗り込んでいて、眠りにつくと、川に落ちる。川の中では無力に流される。またふと目が覚めて、舟に乗る。舟に乗っている間は、どこへ向っているか一応分かって(見えて)いるけれど、川に落ちている間は、抗えない、ゆだねるしかない。そうやって舟に乗ったり、川に落ちたりしながら、時が流れ、人生が流れていく。 共時性を感じる、同時代を生きているというのは、「同じ川」に身をゆだねているということなのだろうな、と。 きっと、私たちは、深い川の底では、たくさんのものが混在していて、たくさんのものを共有しているんでしょうね。
【無意識という広大な海から、手のひらですくった水のようなものが意識の世界だ。とユングは言っていた】 これは深いことば。。
シャガール、いいよね。
ステンドグラスは、あんまり見たことないなぁ。
シャガールは色んな仕事やってるんだよね。
絵だけじゃなくてどんどん世界を広げるのはすごい。
養老先生?だったかが言っていた
「中華料理、日本料理・・・っていうのを学ぶんじゃなくて、包丁の使い方を学べばいんだ。
そうすれば、なんでもできる。」
ってのを思い出す。
自分の中にちゃんとした方法論さえあれば、それは全てに応用可能なんだよね。
確かに、ステンドグラスは光そのものを色にしているわけで、絵よりもシャガールの独特の色合いがよくわかるのかもしれないね。
【われわれはみな、善人はろくな芸術家になれないことを知っている。しかし、偉大な人間であって、したがって善人でなければ、だれも決して本物の芸術家にはなれないだろう】
って言葉もいいよね。
わしも、性格悪い天才より、性格いい普通の人が好きだし。笑
独創的な人は異常で変でなければいけないってのは、単なるイメージ操作だなぁと思いますね。
西欧近代の自意識過剰に自我が発達した人たちの自己正当化のようで。
それこそ、芸術っていうのは自分自身を高めて深めていく手段であるし、そのことと人格とか性格とか人間性とかが反比例していく人っていうのは、どうも影が肥大しているだけで好きになれないものなのです。
「意識の舟」、いい言葉。
そういう船のイメージっていいよね。下に流れるおのずからの力、無意識とか、そういうのを想起させてくれて。
ある程度みずから制御しないといけないけれど、基本的には自然にゆだねるものであって。
誰かが本でかいていた(ような気がする)「生者は、死者の思いを運ぶ船」っていうのも好きな言葉なのです。(出典不明)