中国の道教から来た健康長寿を願う庚申信仰がある。
庚申信仰のようなものは平安時代からあって(枕草子にも出てくる)、江戸時代では民間信仰のように広まった。
仏教(密教)・神道・修験道・呪術的な医学・・と、日本の民間信仰・習俗が複雑にからみあった複合信仰。
田舎の道端で<庚申塔>って書いてある古い石像を見ることあるけど、それはこの民間信仰らしい。
庚申信仰の世界観では、人の身体の中には三尸(さんし)九虫という虫が宿っている。
人間の頭と腹と足に三尸(さんし)の虫(→彭侯子・彭常子・命児子)がいて、いつもその人の悪事を監視している。
三尸の虫は60日に1日の庚申の日に、寝ている間に天に登って天帝(「閻魔大王」とも言う)に日頃の行いを報告する。
虫の報告内容では寿命が縮められたり、地獄に落ちたりもするから、
三尸の虫が天に登れないようにするため、この夜は村中の人達が集まって神々を祀り、寝ずに酒盛りなどをしていたとのこと。
(なんとなく「虫が良すぎる」ところも面白い)
こういう飲み会が庚申待(こうしんまち)と言って、庚申待を3年間に18回続けた記念に庚申塔というのが建つらしい。
確かにそんなよくわからん石づくりのものを時々見る気がする。
人の中に虫が住んでるっていう発想自体が面白い。
もう一人の自分としての虫。
確かに、腸の中には数億の細菌が共生してるわけで。
・・・・・・・・・・・
日本語でも、そういう「自分の中に住んでいる虫」に関する慣用句がいっぱいある。
『虫の居所が悪い』、『腹の虫が収まらない』、『虫が好かない』、『虫酸が走る』、
『虫の知らせ』、『虫がよすぎる』、『虫の息』、
『泣き虫』、『弱虫』、『本の虫』・・・・
(きっと他にもいろいろある)
今のような西洋医学も脳科学も心理学もないときに、
こころの問題、複雑で言語化できない感情、人間が抱える無意識のようなもの・・・
そんなものを説明するために、自分の体内に住む「虫」を仮定したってのは、おもしろいと思う。
「あの人は虫が好かない!」って言って、なんとなく理由もなく嫌いな人を、自分の中に住んでる虫のせいにしてたりしている。
自分が死にそうでも、「虫の息」のおかげでギリギリ生き延びている。
なんとなく予感がきたものは、「虫の知らせ」があったからだ。
・・・・・・・・・・・・・
仕事の後輩から
「あの人、なんであんな怒ってイライラしてるんですか。すごく感じ悪いんですけど!」
とプリプリしながら愚痴を聞いた。
だから、「ああいう人は『虫の居所が悪い』って言って、自分の虫を大切にしないから、虫がギャーギャー騒いでるのよ。
虫を無視すると(少しかかってる)、反逆受けるのよー。」
って説明したら、フムフムとなぜだか納得していた。
自分の中の「虫」という表現。
それは、「自然」とか「無意識」という目に見えないものの象徴(シンボル)のような言葉なんだと思う。
「自然」は自分の脳ではとうてい予測・制御できない世界であって、時に人間に猛威をふるってくる。
「無意識」も意識を普段は裏から支えているけど、時に自分の意識に反逆することもある。深い森。
意識とか脳で想像できる世界なんて、たかがしれてる。
自然とか無意識を無視していると、この世界のほんの表面をチラリと覗いただけで一生が終わっちゃうんだろう。
人の背後には、無意識や影っていうのが必ず存在している。
そこは、抑圧して抑え込んだ、その人の死角のような場所。
そこから反逆を受けると、影に自分がのっとられてしまう人がいる。
そんな巨大な影を見るとムカムカすることがあるかもしれないけど、
その人の見えない無意識の部分を「虫」としてイメージすれば、少し滑稽だ。
その人が知らずに飼っている「虫」を想像すれば、「虫の居所」が悪すぎて、なんだか「虫が好かない」「虫酸が走る」人へも、自分の「腹の虫」が収まって、なんだか許せる気もする。
これは「虫がいい」話?
いやいや。大事なことは、常に「虫の知らせ」でやってくる。
庚申信仰のようなものは平安時代からあって(枕草子にも出てくる)、江戸時代では民間信仰のように広まった。
仏教(密教)・神道・修験道・呪術的な医学・・と、日本の民間信仰・習俗が複雑にからみあった複合信仰。
田舎の道端で<庚申塔>って書いてある古い石像を見ることあるけど、それはこの民間信仰らしい。
庚申信仰の世界観では、人の身体の中には三尸(さんし)九虫という虫が宿っている。
人間の頭と腹と足に三尸(さんし)の虫(→彭侯子・彭常子・命児子)がいて、いつもその人の悪事を監視している。
三尸の虫は60日に1日の庚申の日に、寝ている間に天に登って天帝(「閻魔大王」とも言う)に日頃の行いを報告する。
虫の報告内容では寿命が縮められたり、地獄に落ちたりもするから、
三尸の虫が天に登れないようにするため、この夜は村中の人達が集まって神々を祀り、寝ずに酒盛りなどをしていたとのこと。
(なんとなく「虫が良すぎる」ところも面白い)
こういう飲み会が庚申待(こうしんまち)と言って、庚申待を3年間に18回続けた記念に庚申塔というのが建つらしい。
確かにそんなよくわからん石づくりのものを時々見る気がする。
人の中に虫が住んでるっていう発想自体が面白い。
もう一人の自分としての虫。
確かに、腸の中には数億の細菌が共生してるわけで。
・・・・・・・・・・・
日本語でも、そういう「自分の中に住んでいる虫」に関する慣用句がいっぱいある。
『虫の居所が悪い』、『腹の虫が収まらない』、『虫が好かない』、『虫酸が走る』、
『虫の知らせ』、『虫がよすぎる』、『虫の息』、
『泣き虫』、『弱虫』、『本の虫』・・・・
(きっと他にもいろいろある)
今のような西洋医学も脳科学も心理学もないときに、
こころの問題、複雑で言語化できない感情、人間が抱える無意識のようなもの・・・
そんなものを説明するために、自分の体内に住む「虫」を仮定したってのは、おもしろいと思う。
「あの人は虫が好かない!」って言って、なんとなく理由もなく嫌いな人を、自分の中に住んでる虫のせいにしてたりしている。
自分が死にそうでも、「虫の息」のおかげでギリギリ生き延びている。
なんとなく予感がきたものは、「虫の知らせ」があったからだ。
・・・・・・・・・・・・・
仕事の後輩から
「あの人、なんであんな怒ってイライラしてるんですか。すごく感じ悪いんですけど!」
とプリプリしながら愚痴を聞いた。
だから、「ああいう人は『虫の居所が悪い』って言って、自分の虫を大切にしないから、虫がギャーギャー騒いでるのよ。
虫を無視すると(少しかかってる)、反逆受けるのよー。」
って説明したら、フムフムとなぜだか納得していた。
自分の中の「虫」という表現。
それは、「自然」とか「無意識」という目に見えないものの象徴(シンボル)のような言葉なんだと思う。
「自然」は自分の脳ではとうてい予測・制御できない世界であって、時に人間に猛威をふるってくる。
「無意識」も意識を普段は裏から支えているけど、時に自分の意識に反逆することもある。深い森。
意識とか脳で想像できる世界なんて、たかがしれてる。
自然とか無意識を無視していると、この世界のほんの表面をチラリと覗いただけで一生が終わっちゃうんだろう。
人の背後には、無意識や影っていうのが必ず存在している。
そこは、抑圧して抑え込んだ、その人の死角のような場所。
そこから反逆を受けると、影に自分がのっとられてしまう人がいる。
そんな巨大な影を見るとムカムカすることがあるかもしれないけど、
その人の見えない無意識の部分を「虫」としてイメージすれば、少し滑稽だ。
その人が知らずに飼っている「虫」を想像すれば、「虫の居所」が悪すぎて、なんだか「虫が好かない」「虫酸が走る」人へも、自分の「腹の虫」が収まって、なんだか許せる気もする。
これは「虫がいい」話?
いやいや。大事なことは、常に「虫の知らせ」でやってくる。
小さいころ、うちの家族がみんな苦手で、悪いもののように決め付けて話してたのが一番の原因かと思います。
なので、自分の子供には、ほんとは虫苦手なのに、全然普通だよーって教えてたら、クモも手で触れるようになってました。やっぱ教育は洗脳みたいなもんだなぁと思いました。
あと、虫って結構英語で知らないなぁと思ってます。受験にも日常英会話にもビジネス英語にも重ならないところだなぁと思いました。
この前、熊本帰った時に、人生で初めて、カブトムシ取りに熊本空港の方に行ったのですが、一緒に行ったおばさんに、「空港沿いのラブホの壁には、ネオンの光でカブトムシが寄ってくる」と教えてもらったのが、めちゃめちゃ面白かったです。これこそ生活の知恵 笑
なんだかわけわかんないし。笑
でも、虫の視点を持つってのはすごく面白いと思うのよね。アリエッティとか小人とかも、同じような視線。僕らから見たミクロは、虫から見たマクロだし、それは入れ子構造で同じだよね。宇宙から見たら地球なんてミクロだし。
虫を無意識の象徴のようにたとえる日本語ってほんと面白い。
『虫が好かない』ってさえ言っちゃえば理屈とか理由とか、ほんとスルーパスになってみんなナルホドーって納得しちゃうし。笑