日常

ガルシア・マルケス「百年の孤独」

2013-05-23 00:59:00 | 
ガブリエル ガルシア=マルケスの「百年の孤独(1967)」新潮社;改訳版(2006/12)を読みました。

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<内容(「BOOK」データベースより)>
蜃気楼の村マコンド。
その草創、隆盛、衰退、ついには廃墟と化すまでのめくるめく百年を通じて、
村の開拓者一族ブエンディア家の、一人からまた一人へと受け継がれる運命にあった底なしの孤独は、
絶望と野望、苦悶と悦楽、現実と幻想、死と生、すなわち人間であることの葛藤をことごとく呑み尽しながら…。
20世紀が生んだ、物語の豊潤な奇蹟。
<内容(「MARC」データベースより)>
マコンド村の創設から100年、はじめて愛によって生を授かった者が出現したとき、
メルキアデスの羊皮紙の謎が解読され、ブエンディア一族の波瀾に満ちた歴史が終わる…。
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有名な本ですが初読でした。
この本が話題に出るとき、「いなばくん、読書好きだからさすがに読んでるよね。」という空気がほのかに流れ、その度に読んでないのがばれないかドキドキしていましたが、これでやっと胸を張って読んだことある!と言えます。もちろん、完全には理解できてませんが。


友人と輪読会をするきっかけがあったからこそ読み切れた。

「すべての時を忘れて読みふけった!」と言えると、まるで文学青年のようで素敵だと思うのですが、果てしなく果てしなく続く謎や呪文のような世界観に、何度も完読を挫折しようとしました。
ただ、「プルーストの「失われた時を求めて」(こちらもまだ未読。漫画版では読んだ。)に比べれば短いじゃないか!」と自分で自分を励まし、なんとか完読。
確かに、読後は爽快な達成感が広がりました。
はー、読みつかれた。





こういう、どうでもいいことを読んでもらうのも気が引けるので、とりあえず感じたことを2点。

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1.土地の視点
2.人間の物語(神話)産生機能
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1.土地の視点
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読書中は、常に「マコンド」という土地から観察したような定点を感じた。
土地自体が見ている風景や夢のようなものとしての文学。

そうして、アボリジニーの「ドリームタイム(Dreamtime)」「ドリーミング(Dreaming)」を思い出した。

アボリジニーは、ありとあらゆるものにすべてが祖先の精霊と繋がっていると考えている。
この世界も、地球や土地が見ている「夢」(ドリームタイム)としている。
だから、僕らは何かの「夢」の中を生きている。
「はっ!」と気付けば、誰かの夢なのかもしれない。
24時間のうち、8時間は夢の中で過ごす。3分の1は夢。
人生90年自体を「一つの夢」とすると、逆算して3倍の270年こそが「何かの人生」で、その「何か」の夢の舞台の主役級を演じるのが、自分。

ただ、その270年も「誰かの夢の中」とすると、その3倍の810年こそが一つの人生で。。。
それを繰り返していけば、宇宙の歴史にもつながりそう。宇宙の夢の夢の夢の、、、夢の入れ子構造の中に人間は生きている。まさにドリームタイム。


宇宙が創造されたはるか古代、全能の神や精霊たちが活躍する時代は「Dreamtime」(夢の時代)。
それは通常の時間感覚と違う。
現在・過去・未来の境界はあいまいで、「神話」を語ることで「夢の時代」を生きる。


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「百年の孤独」も、マコンドという土地のドリームタイムのよう読めた。
ある人間の一族が舞台に登場する。愛や優しさもあるけれど、大部分は争い、憎む。結果として滅びていく一族。そんな一連のプロセスを黙って見る夢の時間(ドリームタイム)。


土地の感覚に波長が合うと、読書行為自体が人間の行為を感情なく黙って静観する「観察者」の意識になる。
「意識」のチューニングが行われ、人類の争いには、やれやれ、としか言いようがなくなる。


人類の歴史を俯瞰してみてみると、確かに争いばかりしているように思える。
それは、学生時代に世界史を勉強して驚いた事でもあった。
ハッピーな歴史を学ぼうと考えていた若き自分は、そういうネガティブすぎる争いの歴史の授業に驚いたものだ。
(日本神話の古事記で、大国主命の国譲りは争わない選択をしたので、賢いなーと子供ながらに思った。)


植民地支配の原則は「分割して、統治せよ!(Divide and conquer)」だったけれど、この思想はいまだに続いているように思える。人間が持つ自我(Ego)の働きなのかなぁ。悲しき哉、人類。



土地の意識にチューニングすると、人間の感情を越えて、やれやれ、としか思えないのだけど、人類(特に男!)は争いばかりしている。偶然に生き延びればその一族は生き残る。偶然に相討ちになると、滅亡する。最初から何もなかったかのように、歴史から消えてなくなる。



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松尾芭蕉
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
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「百年の孤独」で出てくる「マコンド」という土地になりきって、土地の視点(ひいては地球や宇宙の視点)から人類を客観的にみて、感情を抜く。

「感情」というのは、人間を駆動するエネルギー体として機能すると同時に、人間の意識界と無意識界の間に浮かぶ大きなブロック(障害物)としても働いている。
感情を抜くと、無意識の深い場所にメッセージは届きやすい。
そういう意味で、争いの空虚さやデタラメさを、深く強く実感させてもらった。もう、うんざりだ、と。

正しい読み方かどうかよくわからないが(そもそも、読書に正しいも間違いもあるのだろうか)、自分はマルケスから勝手にそういうメッセージを受け取ったのでした。





マコンドという土地からみると、人間が登場して滅びていく「百年」というのは、たしかにとても孤独な百年。

もし、人類が核戦争をしたり、原子力エネルギーを間違って使用して滅亡してしまった場合、宇宙や地球からみると、それも「二十万年の孤独」になる気もする。
(人類を、46億年前の生命発生をその起源とするか、猿人(アウストラロピテクス)、原人(北京原人・ジャワ原人) 、旧人(ネアンデルタール人)、新人(クロマニョン人・上洞人)を起源にするかで長さが変わるけれど、新人を起源にすると20万年前くらいらしい。)


「人類って争ってばかりだけど、それは単に孤独でさびしいだけでは?」
と感じた。
「孤独」で、「つながりたい」から、その究極の姿が争いや暴力になってしまう。ただ、それは「孤独」をさらに補強させてしまう。


ただ、ブッダが喝破したように、全て森羅万象は縁という網目で相互につながりあっているから、その網目の層にさえ気づきさえすれば、「孤独」なんていうものは幻想だと気付くと思う。

Alone(ひとり)は、All+ONE、だと思う。




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2.人間が持つ物語産生機能、神話産生機能
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人間は意識しようとも無意識でも、物語や神話を生み出す機能を持つのだな、と強く感じた。

河合隼雄先生は、そういう人間の無意識が持つ「神話産生機能」を折に触れて述べられれています。


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河合隼雄「神話の心理学」(大和書房)

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この世に「私」という人間が存在している、というのは考えてみると不思議極まりないことである。
誰も、自分の希望や意思によって、この世に生まれてきた者はいない。
気がついてみると「私がこの世にいた」ということになる。

生まれてくる国にしろ家にしろ、兄弟との関係にしろ、すべてが選べないことは既成の事実なのだ。
それでも、子どもたちはそれらを自明のこととして受け入れて生きている。

しかし、子どもたたいは四歳くらいになると、自分が「死ぬ」存在であることを知るようになる。

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考えてみると、人間が生きていくということは大変なことである。
自分という唯一の存在はいったい何によって支えられているのか、しかも必ず死ぬとなると、死んでからはいったいどうなるのか。
人間の一人ひとりがこのような根元的な問いをかかけて生きている。

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未来への希望がなかなか見いだせないままに、この方と私は面接を続けていたが、あるとき、晴れやかな顔をしてこられ、近くの公園の林のなかを散歩しているとき、「私の木」を見つけたのだと言う。

林のなかを歩いているうちに直覚的に「私の木」が見つかり、それ以後は、一日に一度はそれに会いにいくことにしているし、そこから自分の人生も変わったように思うとのことであった。

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一本の木が一人の人の存在を支え、その木をめぐって、一人の人の人生が展開する。
ある人を支える物語というものは、不思議な普遍性をもっているものなのだ。
だからこそ、荒唐無稽とも思われる神話や昔話、伝説などが時代を超えて多くの人に共有されるのである。

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上で言う「一本の木」は、「百年の孤独」での「マコンド」という土地のようなものだと思った。




延々と脈絡のない「物語」を時系列を無視して聞いていると、まるで、喫茶店の中で数十人の会話や独り言を、延々と同時に聞かされているような錯覚に陥る。


マルケスは偉大な小説家であり、ひとつひとつのエピソードはとても面白い。

奇怪な登場人物が奇怪な物語をかたる。最後に奇怪な結末を迎えるけれど、それぞれの小さい物語は何も回収されない。物語は、別の物語に飛び火するように延々と移り続ける。

各々の語りに関連性があるとすれば、一族の話であり、血のつながりがある人がたくさん出てくる点。マコンドという虚ろな土地が、円空構造の中心として据えられている点、くらいだろうか。


そのおかげで、読者はかろうじて少しばかりの持続性を感じながら読むことができる。
その儚い持続性を頼りに、読者は読み進めていく必要がある。



まるで「虚数の世界」を旅しているような不安な気持ちになってくる。

自分には何の縁もゆかりもない他人の血族にまつわる話を聞かされているようで。
全体としては自分に興味がなくても、ディテールに登場する奇怪なエピソードは面白く、思わず聞き続けてしまうような。
ただ、全体として考え直してみると特にオチもなければ意味もないお喋りを聞かされているような。
そういう不可思議で奇妙な感覚が残る。これが語りの本質なのだろうか。


やはり、人間は物語を作り出す働きがあるのだ、と感じる。
「物語を作る」ことで、この現実世界に意味を与え、その意味世界を空中遊泳していく。


あまりに現実世界と離れすぎて、非時間的で非倫理的で非空間的な世界になると、神話(神の話)世界に近づく。そんな感覚を覚えた。




「百年孤独」を読んでいて、渡辺哲夫さんの「知覚の呪縛」というとんでもないインパクトを持つ本を思い出して、頭から離れなくなった。思い出して再読したので、この本の感想もいづれ続けて書きたい。



人間は、誰もが物語をつくる働きを持つ。
多くの人間に共有されると、それはベストセラーにもなるし、社会の常識にもなるけれど、誰からも理解されないと、狂気の烙印を押される。

でも、それはあくまでも言葉だけで閉鎖された世界ではなく、あくまでも人間が関与した世界。読み手や聞き手が理解しようと努めると、そこに意味が立ちあがり、生命が創発するような気がする。


医学の臨床家が普段やっているのは、おそらくそういうことだろう。

それぞれの語りに耳をすまし、その中に自分がダイブする。その中では自分そのものが否応なく変容する。物語や神話は、自分が変容するための器だ。




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ということで、かなり分厚い本で、読みごたえも読みにくさも抜群です。
途中で、修行のような気持ちで読み進めました。

延々と繰り返される「語り」のディテールの集積。
「百年の孤独」の世界でパッチワーク化された情報をなんとか脳の中で構築しようとして、何度も挫折しながら読み進めた。そういう意味で、自分の脳は活性化すると同時に、睡眠・お休みモードとを右往左往した。

だから、大した感想も書けない。
というものの、まるでマルケスの「語り」世界のように、こうして意味もなくダラダラと書き続けてしまった。困ったものだ。



文学史では、必ず語られる本の一冊。一度挑戦してみることをお薦めします。跳ね返されたら、また気が向いたときに再挑戦してみてください。

読む人に応じて、受ける感想が多様であればあるほど、いい作品なのかもしれない、とも思う。
単一なメッセージしか受け取れない作品の場合、それは文学の名を借りた洗脳である可能性があるから。多様性に開かれているものこそ、読み手を「開く」働きがあるのかもしれない。




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安部公房「都市への回路」より

『遅ればせながらでちょっと恥ずかしいけれど、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』を最近読んで、非常に驚嘆すると同時に、やはり、今世紀の傑作の一つではないかと思った。
あの小説の場合、マルケスは意識してか、意識しなかったか、非常に素朴なスタイルを取っているように見える。
しかし、それでいて、書くということがなぜ作者の中で成り立ったのか、成り立たせているのかという依りどころを失わずに、しかも非常に構造的に、「なぜ読むのか」という問いに対する答えを出していると思う。
「昔あるところに」と言ってしまうと、作者が神様になってしまうけれど、あの作品はそうじゃない。
年代記風になっているけれど、作者は超越した存在ではなくて、書かれている世界と同じ次元に自分を埋め込んでいる。
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ガルシア・マルケス「物語の作り方―ガルシア=マルケスのシナリオ教室」より

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『百年の孤独』は最初の一ページから最後の一ページまですべてフィクションなんだ。
だけど、何年も前から文学の先生やツーリスト、それにかなりの数の読者がわたしの生まれた町であるアラカタカへ行って、マコンドがどういうところか自分の目で確かめようとするようになった。
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膨大な数の挿話と、それらを束ねる一貫したプロット。
物語のダイナミクスをこれでもかというほど前面に押し出しているこの大作は、その曼荼羅のごとき世界観ゆえ、さて読みやすいかと問われれば、首をひねらざるを得ない部分も持っている。

 しかし少なくとも日本人にとっては、このような大作はある馴染みぶかさを喚起するかもしれない。
日本文学は、同様の傾向にある数多くの文学を、その歴史の中に抱えているのだから。

 部分を切り抜いて、そのテイストを紹介することが、この物語に対してはあらすじを示すより有効な読書案内となりうるように思うので、愉快な断片を並べ立ててみたい。


○記憶喪失を伴う伝染性不眠症の蔓延

「彼が牝牛の首にぶら下げた次のような札は、マコンドの住民たちがどのように物忘れと戦おうとしたかを、もっともよく示すものだ。
〈コレハ牝牛デアル。乳ヲ出サセルタメニハ毎朝シボラナケレバナラナイ。乳ハ煮沸シテこーひーニマゼ、みるくこーひーヲツクル〉。
こうして彼らは、言葉によってつかの間つなぎとめられはしたが、書かれた文章の意味が忘れられてしまえば消えうせて手のほどこしようのない、はかない現実のなかで生きつづけることになった」


○子どもを引き取るに際して

『籠に入れられて川に浮いていた、ということにでもしましょう』と、微笑さえふくんで言った。
『そんな話、信じるでしょうか』尼僧がそう言うと、フェルナンダは答えた。
『聖書を信じるくらいですもの。わたしの話だって信じるはずだわ』
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ガルシア・マルケス「百年の孤独」より

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「人間は死すべきときに死なず、ただ、その時機が来たら死ぬんだとね」(アウレリャノ・ブエンディア大佐)
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「心に一点のやましさもない人間は、疲れてこれ以上は、という状態になるまで休みなく物を食べることができる」(象おんな)
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「なんの愛着も野心もなく、ウルスラ系の迷い星のひとつとして宇宙を漂流していたのだ」(ホセ・アルカディオ・セグンド)
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「<この一族の最初の者は樹につながれ、最後の者は蟻のむさぼるところとなる>」(ジプシーのメルキアデスの遺した羊皮紙の題辞)
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「また、百年の孤独を運命づけられた家系は二度と地上に出現する機会を持ちえないため、羊皮紙に記されている事柄のいっさいは、過去と未来を問わず、反復の可能性のないことが予想されたからである。」(最後の文)
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どの土地に住もうと、過去はすべてまやかしであること、記憶には帰路がないこと、春は呼び戻すすべのないこと、恋はいかに激しく強くとも、しょせんつかの間のものであることなどを、絶対に忘れぬようにともすすめた。
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